概 要 |
鋳物師戻峠は豊岡市の竹野町と城崎町を結ぶ「鋳物師戻の道」にある峠です。
往時は多くの武士や文人も行き交った幹道でしたが、今では鉄道や車道が出来て、すっかり忘れ去られた道になっています。
峠付近には名前の由来になったという奇岩があります。
今回は、竹野側から鋳物師戻峠までを往復するルートを歩きます。
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起 点 |
豊岡市竹野町 竹野駅
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終 点 |
豊岡市竹野町 竹野駅
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竹野駅…小守神社…金亀院…両界院…観音寺…愛宕さん…176m峰…山頂休憩舎…切通し…展望地…鋳物師戻峠…切通し…羽入地区…竹野駅
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所要時間 |
2時間30分
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歩いて... |
観音寺から176m峰までは綺麗な道になっていましたが、その先は笹竹などが目だつようになりました。
鋳物師戻の道には石や倒木・枯れ枝などが散在していましたが、広くて緩やかに続いていて、往時を偲ぶことが出来ました。
峠付近にあるという奇岩は確認できませんでしたが、後刻に竹野健康福祉センターの辺りから遠望することができました。
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関連メモ |
鋳物師戻の道,
阿故の森,
鋳物師戻峠大岩,
竹野370m峰,
鋳物師戻峠大岩,
鋳物師戻峠
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竹野駅
竹野駅(JR山陰本線)から歩いていきます。
駅のホームには「竹野浜(日本渚100選選定)と猫崎半島」と「北前船と北前館」と題した案内板がありました。
駅を出た右側に「」と題した大きな案内板があって、
今回歩く鋳物師戻峠の登り口がある金亀院までのイラスト風の地図が載っていました。
駅前の横断歩道を渡った所には「仲田光成書碑」と解説文を刻んだ碑がありました。
竹野浜(日本渚100選選定)と猫崎半島
竹野浜は白い砂浜と猫崎の緑、海の青さが調和し、大変美しく日本渚100選に選ばれた山陰随一の海水浴場です。
猫崎半島は参院海岸国立公園の特別保護地区に指定され、
モチノキ、ヤブニッケイ、ツバキなど暖地性の植物がみられ、学術的に貴重なものになっています。
遊歩道を登り展望台からは海から登る朝日と海に沈む夕日を見ることができます。
JR山陰本線竹野駅下車 徒歩20分、バス5分
北前船と北前館
竹野は北前船の交易で栄えた町。
長い航海で疲れた海の男たちが、白砂青松の竹野の浜にどれだけ心をなごませたことか。
海風に吹かれ、潮の香りを胸いっぱいに吸い込むと男たちが宝と夢を求めて旅立った往時が偲ばれます。
北前館(竹野温泉、北前資料館、レストラン)JR参院本線竹野駅下車
仲田光成書碑
春風や堤ながうして家遠し 与謝野蕪村
(豊岡竹野かな書碑街道づくり実行委員会)
仲田光成先生書碑
仲田光成(本名幹一)先生は、明治三十二年(1899)、兵庫県城崎郡中竹野村(現豊岡市竹野町)に生まれ、
平成十五年(2003)に百四歳で死去されるまで明治・大正・昭和・平成の四代を生き抜かれた。
大正十年(1921)に上京して学習院に奉職、尾上紫舟師に就いて近代かな書道の創成に多大の功績を残された。
特に第二次世界大戦後の大字かなにおける「仲田様式」の確立は他の追随を許さぬ独歩の仕事であった。
ここに故郷竹野の白砂青松の海景から想を得たと言われる「はる風や堤ながうして家遠し」の与謝野蕪村句による書を碑に刻し
その偉大な業績を永遠に伝えんとするものである。
平成十九年十一月二十五日 豊岡竹野かな書碑街道づくり実行委員会
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駅前の予告信号を右折し、線路沿いに続く車道を進んでいきます。
バスの臨時のりばを過ぎた先にあるT字路を左折していきます。
豊岡市消防本部 豊岡消防署 城崎分署 竹野出張所を過ぎていくと、
左側に広がる田んぼの奥にはが見えていました。
右側の奥には雪が残る山が見えていましたがでしょうか。
少し登り坂になってくると、竹野川に松本橋が架かっています。
橋の両側には錨のモニュメントがありました。
正面にはこれから向かう山並みが見えていましたが、逆光のため綺麗には写せませんでした。
川の左岸にはが続き、平成13年に植樹された八重桜の幼木が並木を作っていました。
いきいき県土づくりモデル事業
アドプトプログラム マイリバーTAKENO Since 2001
私たちの手で竹野川を美しく!
恵み多い竹野川は私たちの大事な財産です。
私たちの手で竹野川を守り・育てましょう。
あなたも竹野川とアドプトしてみませんか。
〜私たちがアドプトしています!〜
松本区 松本橋左岸
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小守神社
松本橋を渡っていくと、左右に通る車道に出ます。
そこを右折したすぐの所にがあり、
その角にがあります。
「小守神社」と「道水路改良工事」の石柱の先に立つ鳥居をくぐっていくと、向こう側を向いた社殿がありました。
小祠もありましたが、いずれも由緒などを記したものは見かけませんでした。
境内には松本公民館もありました。
神社の向こう側に出ると、車道から分かれてきた道を指すが立っていて、
「荊木山」「アメニティロード」「金亀院・両界院」となっていました。
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道標に従って民家が点在する集落の中に続く道を進んでいきます。
1分半ほど進んでいくと、道が右へ分かれていくがあります。
角に立つ電柱には「ハマタケノ139E1S2」「キョクマエ15L1E」の標識が取り付けられていました。
そこを右折して小川に架かるを渡っていきます。
集落の間を真っ直ぐに進んでいくとに突き当たります。
そこを左折して登り坂が始まる所の家の塀に
「但馬西国三十三霊場 第三十二場 荊木山観音寺 これより100m」のが取り付けられていました。
そこを過ぎて坂道を登っていくと石段が現れます。
ここから金亀院・両界院へ登っていきます。
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手摺付きの急傾斜の20数段の石段を登り切ると、その先には傾斜が緩んで苔生したが更に続きます。
墓地への石段を左へ分けて緩やかになった道を進んでいくと、
「但馬六十六地蔵尊 南無地蔵大菩薩」の幟が立つ小祠がありました。
石段を登り始めて2分半ほどの所になります。
脇には「但馬六十六地蔵尊 第十三番御詠歌」や「第拾三番 當國地蔵尊霊所」と刻まれた石碑がありました。
但馬六十六地蔵尊 第十三番御詠歌
いばら木をふみわけ めぐるそのひとわ みだのじょうどえ ゆくぞうれしき
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小祠を過ぎていくと、苔生したが再び現れます。
上の方には建物が見えていました。
少し右へ曲がりながら石段を登っていくと、石垣や塀のある所に登り着きました。
石段を登り始めてから4分ほどで着きました。
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金亀院
登り着いた右側の石段の上には「金亀院」の表札が掛かるがありました。
山門の先にある建物が金亀院のようですが、この時には板で囲われていて、あまり使われていない様子でした。
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両界院
登り着いた左側には「高野山真言宗 荊木山両界院」「但馬西国第三十三番 納経所」の表札が掛かる山門がありました。
山門から中に入っていくと、両界院の真新しい本堂と、庫裡と思われる建物や修行大師像などがありましたが、
お寺の謂れなどを記したものは見かけませんでした。
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登り着いた所から正面に続く道を進んだ所にある駐車場には「」がありました。
ここから愛宕さんまで約0.3km、山頂休憩舎まで約1.0km、奇岩まで約1.6kmとのことです。
今回はここから愛宕さんへ登り、山頂休憩舎を経て鋳物師戻峠へ向かっていきます。
荊木山アメニティロード案内図
面積約51haを有するこの森林は、アカマツ林、スギ林、ヒノキ林、スダジイ林、コナラ林、竹林など、
古くより薪炭林や植林地として人々に利用されてきた「里山林」が広くみられます。
一方、金亀院、愛宕さん、石原神社といった社寺の周辺を中心にスダジイ林が残されているなど、
多様な植生を観察することが出来ます。
また、この森林は最高標高が325mであり、場所によっては日本海や羽入の街並みが一望でき、豊かな景観を楽しめます。
竹林では、まっすぐに生長した竹の神秘的な美しさを鑑賞するとともに、
春にはたけのこ刈りを楽しむこともできます。
また、金亀院までの車道沿いには、ヤマザクラ、ヤマボウシが植栽されており、
春から夏にかけて美しい花を観賞することができます。
この森林周辺には7本の遊歩道が整備されていて、このように多様な自然を身近に感じていただくことができます。
【”ひょうご豊かな森づくり構想”に基づく里山林整備事業】
この区域は、地域の皆さん方のご協力のもと、景観や多様な動植物を保全し、保健や森林学習の場に活用するため、
県内の林地を開発した方々の協力金により、森林の整備や歩道の開設などを行いました。
(平成11年3月 兵庫県・竹野町・兵庫県森と緑の公社)
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観音寺
駐車場から少し戻って、ブロック製の祠に安置された石仏の脇から広い石段を登っていくと、
「但馬西国第丗三番 荊木山観音寺」の表札が掛かる観音寺があります。
金亀院・両界院・観音寺と寄り添うように建っていますが、謂れを記したものは見かけなかったので、
別々の寺院なのか、ひとつの寺院なのかは分かりませんでした。
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観音寺の左側から石段を登っての前に出ると、
小屋の左側から登っていく山道があります。
入口には道標「愛宕さん」が立っていて、その道を指しています。
ここが愛宕さんへの登り口になります。
観音寺のからも道(*)が分かれいます。
案内図によると石原神社から登ってくる道の途中に続いているようですが、
愛宕さんへ登るには遠回りになりそうなので、今回はここから登っていきます。
入口の両側に生える樹木の間には注連縄が張られていました。
*後日に 観音寺の右側に続く道を歩きました。(「 阿故の森」を参照)
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尾根に続く道を右・左と曲がりながら、所々石段の設置されたを登っていきます。
石がなくなったのか、土だけが階段状になっている所もありました。
7分ほど登って傾斜が緩やかになると鳥居が立っています。
鳥居の左側にはが建っていて、
竹野の街並みや日本海などを見下ろすが広がっていました。
鳥居の手前から右へ分かれていく道があります。
角には道標が立っていて、右の道は「石原神社」、正面の道は「山頂あずまや・奇岩・鋳物師戻の道」、
今来た道は「金亀院・両界院」となっています。
右の道は先ほどの案内図に載っている石原神社から登ってくる道(*)のようでした。
道標の袂には解説板が倒れていました。
*後日に 石原神社から登ってくる道を歩きました。(「 阿故の森」を参照)
このあたりは、植物社会学的にはスダジイ−トキワイカリソウ群集、スダジイ林に区分されます。
スダジイは葉の裏が灰褐色の常緑の高木で、果実は秋頃に成熟し生で食べることができます。
また、草本植物のトキワイカリソウは春なるとその名の由来にもなっている船のいかりに似た、
紅紫色もしくは白色のかわいらしい花をつけます。
(里山林整備事業)
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愛宕さん
右の道を見送って鳥居をくぐっていくと、愛宕さんの社殿があります。
登り口から9分ほどで登って来られました。
由緒などを記したものは見かけませんでした。
ここで社殿の左右から奥へ続く道が分かれています。
には「鋳物師戻の道」、
には「山頂あずまや・奇岩・鋳物師戻の道」の道標が立っています。
ここは山頂休憩舎を目指して、右側の小尾根に続く道を登っていきます。
後日に左側の道を歩きました。
鋳物師戻の道の途中に降りていけました。
(ルート図に緑色の線で表示)
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176m峰
間隔の広いを登っていきます。
段差はそれ程高くなく下草も生えておらず、歩き易くなっていました。
4分半ほど登っていくと高みに着きます。
地形図に載っている176m峰になるようですが、周囲には樹木が茂っていて展望は得られません。
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高みを過ぎて少し降り始めると、次第に笹竹などが茂るようになり、これまでよりも歩き難くなってきます。
程なくすると解説板が立っていて、脇にはベンチがひとつ設置されていました。
このあたりは、植物社会学的にはアカマツ−ユキグニミツバツツジ群集、アカマツ林に区分されますが、
スギ−ヒノキ群落(植林地)に隣接しており、アカマツの下にスギやヒノキが植林されているのが特徴です。
他のアカマツ林に比べ、スギやヒノキの生育により林内が暗いため、落葉広葉樹が少なくなっています。
(里山林整備事業)
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笹竹などが少なくなって歩き易い尾根道を進んでいきます。
軽く登っていくと僅かなに着きます。
地形図によると、標高170mほどの小さな高みになるようです。
高みを越えて降っていくと、正面の樹間から山の頂きが見えてきました。
あれが鋳物師戻峠の傍にある高みなのだろうかと思いながら、横木の階段を降っていきました。
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鞍部に着いて登り始めると、岩が剥き出した先にが設置されていました。
その先に続く横木の階段を曲がりながら登っていきます。
2分半ほど登っていくと、笹竹や細木などが茂るに着きました。
地形図によると、標高190mほどの楕円形の高みになるようです。
周囲は樹木が茂っていて展望は良くありませんが、左にはや日本海が少し見えていました。
緩やかになった高みの先へ進んでいくと、先ほども見えていた高い山が正面に現れます。
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山頂休憩舎
降り坂になった尾根道を進んでいくと、程なくして東屋が建っていました。
案内図に載っていた山頂休憩舎になるようです。
愛宕さんから18分ほどで到着しました。
周囲には樹木が茂っていて、展望はあまり良くありませんでしたが、
先ほども見えていたが正面に聳えていました。
東屋のすぐ先に設置されている解説板によると、
かつて竹里城があった所ではないかと云われている標高312mの城山がここから見えるようですが、
どの山がその「城山」なのかはよく分かりませんでした。
竹野町では、23の山城がみつかっています。
眼の前にそびえる城山には、標高312mの頂上に城跡があります。
南北朝のころ、「竹里城」で戦いがあったと、古文書に記されていますが、
その城がここではなかったかともいわれています。
今も、堀切や土塁など、その頃をしのばせる要害が残っています。
南に眼を移せば、ワンジャ城・西谷城・丑引城・俵谷城などの須谷城砦群が、
さらに青葉城(轟城)も望むことができます。
(里山林整備事業)
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高い山を正面に眺めながら降っていくと、すぐの所にテーブル・ベンチが設置されていました。
今では周囲に萱などが茂っていますが、「アメニティロード」として整備された頃には小綺麗になっていたのでしょう。
右側にはが見えていました。
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切通し
尾根の右肩に続く坂道を降っていくと、東屋から3分ほどで、切通しを過ぎていく広い道に出ました。
角には道標が倒れていて、は「奇岩」、は「鋳物師戻の道」、
今降ってきた道は「山頂あずまや・愛宕さん・石原神社」となっています。
左右に通る広い道が鋳物師戻の道で、かつては竹野町と城崎町を結ぶ湯島街道として、
多くの藩士や文人なども行き交った幹道だったようです。
今ではJR山陰本線が開通し、トンネル経由の県道9号も出来て、すっかり忘れ去れた道になりました。
ここから、この右の先にある鋳物師戻峠まで往復してきます。
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展望地
広くて緩やかなを進んでいきます。
今ではほとんど歩かれていないので、道には石や倒木・枯れ枝などが散在していますが、
歩いていく分にはそれほど支障はありませんでした。
6分ほど進んで左へ曲がる所まで来ると、正面から右側にかけて山並みが広がる展望地になっていました。
振り返ると、先ほどのの赤茶色の屋根も見えていました。
後日に確認したところ、ここから南西へ延びる尾根を10mほど降った所からが見えました。
鋳物師戻トンネルの傍の 阿金谷地区からここへ登って来られます。
(「 鋳物師戻峠大岩」,
「 鋳物師戻峠大岩」,
「 鋳物師戻峠」を参照)
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眺めを楽しんだら、その先へ進んでいきます。
小さな崩壊地もありましたが問題なく通過できました。
そのすぐ先に解説板た立っていました。
展望地から4分半ほどの所になります。
この辺りから案内図に載っていた奇岩が見えるようですが、この時には何処にあるのか分かりませんでした。
下山してからの辺りに行って眺めると、
背の高いの下に、南側を向いたを遠望することができました。
後日に巨岩まで行きました。
鋳物師戻峠の北側に延びる尾根を100mほど登って、左側に広がる植林地の斜面を横切るようにして進んでいきます。
明瞭な道はありませんが、下草は生えていないので、何とか歩いていけました。
峠から10分ほどでに辿り着きました。
場所は、この解説板の立つ所の丁度真上に位置していました。
参考までに巨岩の周辺のを載せておきます。
このあたりは、植物社会学的にはスギ−ヒノキ群落典型下位単位に区分されます。
山側を見上げてみてください。
木々の間から、今にも崩れ落ちてきそうな大きな岩が見えると思います。
この巨岩は、全長19m、重さ100〜140tもあります。
この岩の先には「鋳物師戻峠」とよばれる峠があり、その名の由来は、
昔、鋳物師が岩の上で大地震に出合い、
頭上にある大岩が揺れるのを見て恐ろしくなって後戻りしたという話によると伝えられています。
(里山林整備事業)
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鋳物師戻峠
解説板を過ぎていくと、道にが倒れ掛かっていました。
その袂を抜けて少し左へ曲がっていくと切通しがありました。
標識などは見かけませんでしたが、ここが鋳物師戻峠になるようです。
先ほどの切通しから15分ほどで到着しました。
右側も左側も尾根を切り崩した絶壁になっていました。
ここは竹野町と城崎町の町境になっていて、
に近い所にが佇んでいました。
刻まれた文字によると、江戸時代後期の寛政4年(1792)3月に建立されたようでした。
峠を越えて城崎側へも道が続いていましたが、これまでよりも狭まっているようでした。
地形図によると、来日岳へ続く林道の入口付近に降りて行かれるようですが、
今回はここで引き返すことにしました。
ここから南へ延びる尾根を10mほど登った所から 巨岩が見えます。(「 鋳物師戻の道」を参照)
後日に城崎側の「 鋳物師戻の道」を歩きました。(「 鋳物師戻の道」を参照)
後日に南へ延びる尾根を歩きました。(「 鋳物師戻峠」を参照)
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鋳物師戻峠から引き返す前に、北側にある370.9m峰まで歩いてみました。
詳細は省略しますが、明瞭な道ではなくて獣道が細々と続いていました。
尾根の背を5分ほど登っていくと、雪を頂いたを見渡せる所がありました。
そこを過ぎてかなり傾斜のある坂道を登っていきます。
緩やかになった植林地を進んでいくと、峠から13分ほどでに着きました。
地形図によると、標高320mほどの尾根の南端の辺りになるようです。
先ほどの東屋の辺りから見えていた山でしょうか。
モニュメントのような枯れた小木がある左前方へ進んでいきます。
緩やかで快適になった尾根を進んでいくと、峠から26分ほどでに着きました。
冬枯れの樹間から、四方の山並みを見渡すことができました。
そこから更に北側へ続く尾根を進んでいきます。
緩やかに降ってから登り返していくと、
峠から40分ほどでのある370.9m峰に着きました。
ここからも、冬枯れの樹間から四方の山並みを見渡すことができました。
尾根はこの先へも続いているようでしたが、ここで引き返すことにしました。
20分ほどでまで引き返してきましたが、
そこで道を間違えて、西の尾根を降ってしまいました。
途中で気が付いて進路を南にして急斜面を探りながら降っていくと、
左右に通る広めの道(鋳物師戻の道の旧道になるようです)に降り立ちました。
斜面を横切るようにして続く緩やかな道を進んでいくと、
下側に並行するが見えてきて安心したのでした。
かなり荒れた所もありましたが何とか進んでいくと、
370.9m峰から55分ほどで鋳物師戻峠に戻って来られました。
(往復に要した1時間40分は所要時間に含めず)
後日に 370.9m峰の先へ続く尾根を歩きました。(「 竹野370m峰」を参照)
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切通し
鋳物師戻の道を5分ほど引き返してに着いて、再度眺めを楽しんでいきました。
その先へ進んでいくと、鋳物師戻峠から13分ほどで東屋から降りてきた切通しに戻って来られました。
切通しを過ぎて右へ曲がっていくと、樹間からは竹野町の方面が見えていました。
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堅くて細い笹竹や草などの茂る所もありますが、総じて広くて歩き易い道が続きます。
周囲には樹木が茂って展望は広がりませんが、幹道であった頃を想いながら、緩やかな道を淡々と降っていきました。
5分ほど降っていくと、道は大きく左へ曲がっていきます。
その先を右から左へと大きく曲がって谷筋に差し掛かると、解説板が倒れていました。
切通しから12分ほどの所になります。
このあたりは、植物社会学的にはスギ−ヒノキ群落ヤマアジサイ下位単位に区分されます。
沢地形を中心に広範囲にみられ、ヤマアジサイ、ウワバミソウ、フユイチゴ、ミゾシダ、ジュウモンジシダ、
アカショウマ、ドクダミ、ゼンマイなど、湿地を好む種が多いことが特徴です。
(里山林整備事業)
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解説板を過ぎていくと、次第に道に水が流れるようになってぬかるんできました。
丸太を束ねて板状にした小橋が架かる小さな谷筋を幾つか過ぎていきます。
ぬかるみもなくなった快適な道を緩やかに降っていくと、左側から降ってくる道が合流してきました。
切通しから22分ほど降った所になります。
角には道標が立っていて、左の道は「愛宕さん」、今来た道は「山頂あずまや・奇岩」となっています。
左の道は愛宕さんの社殿の左側から降ってきた道のようですが、確かめた訳ではありません。
後日に左側の道を歩きました。
愛宕さんの社殿の左側から降ってきた道になります。
(ルート図に緑色の線で表示)
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羽入地区
細い草木などが茂る所を過ぎて降っていくと、羽入地区の谷筋が見えてきます。
次第に眺めが開けてくると、谷筋に広がる田んぼ脇に通る道に降り立ちました。
切通しから27分ほど、鋳物師戻峠から41分ほどで降りて来られました。
脇には道標が立っていて、今降ってきた道は「鋳物師戻の道・奇岩」となっていました。
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谷筋に続く道を左側へ1分ほど進んで舗装路に変わる所まで来ると、左へ登っていく道が分かれています。
角には道標が立っていて、左の道は「金亀院・両界院」となっています。
両界院の脇の駐車場へ登っていく道になりますが、このまま正面に続く道路を進んでいきます。
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すぐの所に「覚」と刻まれたがありました。
この付近の道の竣工時期が刻まれているようでした。
左右に分かれていく道を見送っていくと、民家が点在するようになります。
金亀院へ向かっていった分岐を見送って進んでいくと、
谷筋に降り立った所から7分ほどで竹野川沿いの車道に出ました。
脇には最初に訪ねた小守神社があります。
車道の右側には、と無人野菜売場が並んでいました。
覚
一、羽入谷林道 | 昭和四十八年 |
一、荊木山参道 | 昭和五十七年 |
一、圃場整備 | 昭和五十九年 |
一、新宮林道 | 昭和六十三年 |
(町長 山本雅康書)
仲田光成書碑
むかし我が泳ぎし川に来て見れば 流れは今も澄みぬれど あたりに人の影さへもなし 自詠
(豊岡竹野かな書碑街道づくり実行委員会)
無人野菜売場
神様ハ見ている 私ハ知っている あなたの其の出来心を 老人を泣かさないで下さい
(老人の店)
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竹野駅
竹野川に架かる松本橋を渡って、元来た道を竹野駅(JR山陰本線)へと引き返していきます。
丁度昼時になったので、駅前にある喫茶ぱんぷきんで食事をしていきました。
ドリンクや甘味類の他に、モーニングセット・ランチセット・日替わり定食などのメニューがありました。
桃の節句の季節とあって、店内には小振りのが飾られていました。
(営業時間8:00〜16:00、木曜日は定休)
交通安全宣言の町
安全は ゆっくり走る ゆとりから
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