概 要 |
「鋳物師戻の道」は、旧城崎町と旧竹野町を結んでいた峠越えの道です。
往時は多くの武士や文人も行き交った幹道でしたが、今では鉄道や車道が出来て、すっかり忘れ去られた道になっています。
峠付近には名前の由来になったという奇岩があります。
今回は、城崎側から鋳物師戻峠までを往復するルートを歩きます。
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起 点 |
豊岡市城崎町 元薬師バス停
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終 点 |
豊岡市城崎町 元薬師バス停
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元薬師バス停…樹魂碑…石陵大明神…桑の木…城崎側入口…展望地…鋳物師戻峠…城崎側入口…元薬師バス停
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所要時間 |
2時間30分
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歩いて... |
「鋳物師戻の道」の城崎側が少し整備され、どうにか歩ける状態になっていました。
崩れた土砂などで道が狭くなったり、傾いたり、石がゴロゴロしていたりと、竹野側よりは荒れていますが、
急傾斜の所はなくて息が切れることもなく、大八車も通れたという往時を偲びながら歩いていけました。
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関連メモ |
鋳物師戻峠,
鋳物師戻峠大岩,
竹野370m峰,
鋳物師戻峠大岩,
鋳物師戻峠
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元薬師バス停
豊岡市城崎町の湯島地区の元薬師バス停から、大谿川沿いに続く県道9号を歩いていきます。
豊岡市民憲章
わたしたちは、コウノトリ悠然と舞うふるさとを愛する豊岡の市民です。
恵まれた自然と先人の努力に感謝し、かけがえのない今を大切に生き、
幸せな未来につなぐため、この憲章を定めます。
とうとびます すべての命 おだやかに
よろこびます しごとも学びも いきいきと
おくります 笑顔にあいさつ 思いやり
かなえます 心とからだ 健やかに
しんじます 夢と希望の 明るいまち
(平成21年2月6日制定)
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樹魂碑
改修中の城崎国際アートセンターを過ぎて道なりに進んでいきます。
の先の「竹野市街6km」の道路標識や湯元配電塔を過ぎて左へ曲がっていくと、
大谿川にが架かっています。
橋を渡ったすぐ右側に石碑と小社があります。
石碑には「樹魂碑」と刻まれ、裏面に碑文が載っていました。
誤読している箇所があるかも知れませんが、参考までに碑文を載せておきます。
小社の中には白木の祠がありましたが、名前は分かりませんでした。
手前の丸い大きな石には「南無阿弥陀佛」と刻まれていました。
異常気象時 通行規制区間 起点
通行規制について
これより4.6km(竹野町阿金谷)の間は、下記の場合に通行止めをします。
1.連続雨量が概ね130ミリに達した時
2.道路が危険な時
(兵庫県、但馬県民局・豊岡土木事務所)
樹魂碑
当町植林は、明治三十七・八年日露戦争の大勝を記念して、時の町長 片岡平八郎氏の発意により、
町議会の議決を経て百町歩植林事業として発足した。
初代山林委員として、守口九左ヱ門・日生下民二郎・河原庄三郎・四角金蔵の四氏が担任し、
薪炭林売却費を以て造林費に当て、二十数年の永きに亘り鋭意植林に専念し、
兵庫県山林会等の指導により、歴代町長 西村六左ヱ門、安田貞吉、西村佐兵ヱ・片岡郁三・諸氏の施業安に従いて、
町有林六十町歩、区有林四十町歩に植樹して、町区財政の基礎が造成された。
以来町長 井上吉右ヱ門・杉本繁造・石田松太郎・久保田煩三・西村草二・三宅_七、西村六左ヱ門の諸氏は連年管理に萬金と期せられ、
又山林委員として十年以上勤続して之が管理と増植に努力さらた。
結音吉、西浦熊太郎、仲路元治の諸氏と、植林に協力された町民及九日市苗木商 河本藤一、諸氏の功績は実に偉大なるものがある。
大東亜戦争中の供木・中学校建築等教育施設の充実・浴場改築等、町区財政に寄_し、町民福祉に貢献せし事極めて大なり。
現在数億の財を成し将来町発展の有力なる財源となりたり。
茲に先覚諸氏と樹魂に感謝し植林の益々繁茂せん事を念願して是を記す。
城崎町長 伊賀市太郎 記
城崎町湯島区 建之
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石陵大明神
樹魂碑のすぐ先に近畿自然歩道のが立っていて、
この先の道は「桑の木0.6km」、今来た道は「温泉寺1.1km・極楽寺1.3km」となっています。
JR山陰本線を右下に眺めながら車道を登っていくと、
右へ曲がった所にが架かっています。
下にはJR山陰本線の芦谷トンネルが通っています。
橋を渡って左へ曲がりながら降っていくと、左側に建物があります。
手水舎「浄水」を過ぎていくと、鳥居の傍に「奉納 石陵大明神」のが立っています。
建物の前には、右側に、左側にがあり、
小銭がお供えされていました。
建物の中にも鳥居があり、天井からは多くの提灯が下がっていました。
白蛇が祀られているという情報もありますが、由緒などを記したものは見かけませんでした。
石陵大明神 御参拝の方へ
近ごろ賽銭泥棒が出没しています。
不審者を見かけられたら、110番通報お願いします。
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桑の木
石柱の脇の石段から車道に出て進み始めると、すぐに舗装路が左へ分かれていきます。
その舗装路は見送って車道が通るを過ぎていきます。
の手前まで来ると、近畿自然歩道のが立っていて、
この先の道は「大師山山頂3.6km」、今来た道は「温泉寺1.7km・極楽寺1.9km」となっています。
橋を渡っていくと左から舗装路が合流してきますが、手前で分かれてきた道になります。
車道の両側には「志賀直哉(城の崎にて)ゆかりの桑の木」の標識が立っていて右側を指しています。
どの木がその「ゆかりの桑の木」なのかは分かりませんでしたが、
解説板の脇にあるのが二代目のでしょうか。
それとも、杉の木の脇にある背の高い木がそうでしょうか。
志賀直哉(1883〜1971)
・・・・大きな桑の木が路傍にある。
彼方の、路へ差し出した桑の枝で、或一つの葉だけがヒラヒラ・ヒラヒラ。
同じリズムで動いてゐる。
風もなく流れの他は總て静寂の中にその葉だけがいつまでもヒラヒラ・ヒラヒラと忙しく動くのが見えた。
(この桑の木は二代目であります)
志賀直哉は、大正2年10月、電車にはねられた後、養生に来湯し、三週間の滞在中の体験から「城の崎にて」を生んだ。
旅館から大谿川の清流に沿ってこの辺までが、直哉の散策コースであり、名作を生んだ舞台であった。
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桑の木を過ぎて車道を更に進んでいくと、林道が左へ分かれていきます。
林道の入口には近畿自然歩道のが立っていて、
左の道は「大師山山頂3.3km・来日岳山頂4.5km」、今来た道は「桑の木(志賀直哉ゆかりの桑の木)0.3km」となっています。
左の林道を進んでいくと途中で二手に分かれていて、
左へ進むと大師山へ、右へ進むと来日岳に登って行かれますが、
この時には「通行止」の看板が設置されていました。
かなり抉れた所もあって、車での通行は無理のようです。
城崎の街中から県道9号を経て、ここから大師山へ至る道は、
近畿自然歩道の「城崎周辺円山川眺望のみち」の一部にもなっています。
山火事防止 緑を守ろう
(城崎防火協会、豊岡消防署城崎分署)
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城崎側入口
左へ分かれていく林道を見送ったすぐの所にかじか橋が架かっています。
大谿川は橋を過ぎた所で二手に分かれています。
橋の手前から左側の谷筋の植林地へ続く僅かな踏み跡があります。
標識類は見かけませんが、ここが鋳物師戻の道のになります。
元薬師バス停から24分ほどで着きました。
入口にはが佇んでいます。
判読できない部分もありましたが、真ん中に「南無妙法蓮華経みしまや__」と刻まれ、
右側には「右ハ_の_出石」、左側には「左あし谷村」と刻まれているようなので、
往時には道標の役割も果たしていたようです。
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谷筋の植林地を川沿いに2分ほど進んでいくとが架かっています。
上流にあるを眺めながら橋を渡り、右へ続くを登っていきます。
往時には大八車も通ったという道は利用されることもなくなって荒れていましたが、近年になって少し整備されたようです。
崩れた土砂などで道が狭くなったり、傾いたり、石がゴロゴロしていたりもしますが、何とか歩いていける状態になっていました。
急傾斜の所はなくて息が切れることもない道を、往時を偲びながら歩いていきました。
僅かな谷筋にさしかかると丸太橋が架かっています。
城崎側入口から8分ほどの所になります。
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丸太橋を渡って3分ほど進んでいくと、道は鋭角に左へ曲がっていきます。
斜面を1分半ほど登っていくと、道は右に鋭角に曲がっていきます。
曲がり角の2mほど手前にはが倒れていて道を塞いでいましたが、難なく脇を通っていけました。
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植林地の縁に続く道を緩やかに登っていきます。
もかなりあって、以前から放置されてきた道であることが窺えます。
尾根を回り込むようにして進んでいくと、大木をにしたものが幾つかありました。
城崎側入口から22分ほどの所になります。
腰掛けてひと休みするのに良さそうなのもありましたが、苔生しているので、雨後などにはお尻が冷たくなりそうでした。
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展望地
僅かに降ってから再び軽く登っていくと、右側が開けた所に出ました。
城崎側入口から26分ほどの所になります。
谷向かいの稜線などを眺めることができる展望地になっていました。
谷筋の底を覗いてみるとが見えました。
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展望地からの眺めを確認して、が僅かに茂る所を過ぎていきます。
倒れ掛かっているの下を過ぎていくと、
次第に樹間からが見えるようになります。
根元からが並ぶ所を進んでいくと、
小さなが沢山生えた倒木がありました。
樹木が減ってを過ぎていくと、谷向かいに続く稜線がかなり見えました。
右の奥に見えている山は、鋳物師戻峠の東1300m辺りにある351m峰でしょうか。
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鋳物師戻峠
を過ぎていくと、鞍部になった鋳物師戻峠に着きました。
城崎側入口から40分ほどで登って来られました。
脇にはが佇んでいます。
少し読み難くなっていましたが、「寛政四壬子三月」と刻まれているようでした。
他に文字らしきものもありそうでしたが判読できませんでした。
江戸時代の後期から行き交う人達を見守ってきたようです。
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振り返ると、樹木に邪魔されながらも広がるが見えました。
も見えるので、手前の樹木がなければかなり良い眺めになるように思えました。
往時はこの峠に茶屋があって賑わったとのことですが、景色を眺めながらひと休みしていったのでしょうか。
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峠を過ぎて、竹野側の道を少し歩いてみました。
を過ぎていくと、案内板が倒れていました。
この辺りの上に「鋳物師戻峠」の名前の由来になった巨岩があるようなのですが、
見上げてみても急斜面のが続くばかりで、それらしい岩は確認できませんでした。
鋳物師戻の道をこのまま進んでいくと、竹野町の羽入地区へ降りていかれますが、
今回はここで引き返すことにしました。
このあたりは、植物社会学的にはスギ−ヒノキ群落典型下位単位に区分されます。
山側を見上げてみてください。
木々の間から、今にも崩れ落ちてきそうな大きな岩が見えると思います。
この巨岩は、全長19m、重さ100〜140tもあります。
この岩の先には「鋳物師戻峠」とよばれる峠があり、その名の由来は、
昔、鋳物師が岩の上で大地震に出合い、
頭上にある大岩が揺れるのを見て恐ろしくなって後戻りしたという話によると伝えられています。
(里山林整備事業)
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鋳物師戻峠まで引き返してくると、峠の南へ延びる尾根へ登っていく僅かな踏み跡がありました。
もしかしたら巨岩が見えるかも知れないと思って、ちょいと登ってみることにしました。
後日に南へ延びる尾根を歩きました。(「 鋳物師戻峠」を参照)
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10mほど登った所にあるの辺りから振り返ると、
北側の斜面にが見えました。
手前の樹木が邪魔をしていて、綺麗に写せなかったのが残念ではありますが、
何とかその姿を見られたことで満足したのでした。
おおよその位置を確認できたので、巨岩の傍まで行ってみようかとも思いましたが、
情報によると明瞭な道はないとのことなので、傍まで行くのは止めておきました。
後日に巨岩まで行きました。
峠の北側に延びる尾根を100mほど登って、左側に広がる植林地の斜面を横切るようにして進んでいきます。
明瞭な道はありませんが、下草は生えていないので、何とか歩いていけました。
峠から10分ほどでに辿り着きました。
場所は、峠の名前の由来を記した解説板の丁度真上に位置していました。
竹野側の鋳物師戻の道にある展望地から南西に延びる尾根を10mほど降った所からもが見えました。
参考までに巨岩の周辺のを載せておきます。
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鋳物師戻峠に降りて、元来た鋳物師戻の道を引き返していきます。
歩いてきて様子が分かっているので、気持ちにも余裕がありました。
緩やかに13分ほど降っていくとに着きました。
眺めを確認してその先へ進んでいくと、大木のが幾つかある所に着きます。
を過ぎていくと、山側から水が流れ落ちる所があります。
鋳物師戻峠から23分ほど降った所になります。
ほんの僅かな流れですが、暑い夏場でも流れ落ちていると、重宝するになりそうでした。
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倒木が塞いでいる鋭角なを左へ降っていきます。
少し降ってから右へ折れ曲がって更に降り、僅かな谷筋に架かるを渡っていきます。
左下に車道を眺めながら降っていくと、の脇を過ぎていきます。
車道が間近に見えてくると、鋳物師戻の道の終わりが近づいてきます。
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城崎側入口
程なくして谷筋に降りて、川に架かるを渡っていきます。
イチョウの葉が積もったを流れる川沿いに進んでいくと、
鋳物師戻の道の城崎側入口に戻ってきました。
鋳物師戻峠から39分ほどで降りて来られました。
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県道9号に出て、緩やかに降っていきます。
まで来て、右側に分かれていく道が気になったので、歩いてみることにしました。
途中から舗装路の上に土砂が積もっていて、まるでのようになっていました。
左へ曲がりながら川沿いに進んでいくと、石陵大明神の裏手に出ました。
倒木の先ののようなものが生える所を過ぎていくと車道に出ます。
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元薬師バス停
湯島跨線橋を過ぎて降っていきます。
を過ぎて、その先のほたる橋を渡っていきます。
旅館などが建ち並ぶようになった道を大谿川沿いに進んでいきます。
改修中のを過ぎていくと、最初の元薬師バス停に戻ってきます。
鋳物師戻の道の城崎側入口から24分ほどで着きました。
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