丹波高原アルペンルート登山道
丹波高原アルペンルートは眺望に優れたルートであり、かっては白毫寺を軸とした産学宗教も盛んで回峰行が行われていました。
五大山頂は展望が360度開けており、鷹取山、五台山、粟鹿山、岩屋山、安全山、愛宕山、清水山、白髪山、松尾山、黒頭峰、夏栗山、三尾山、西ヶ嶽、三嶽、小金ヶ嶽、妙高山、高谷山などが良く見えます。
丹波の森協会、美和ふるさと観光協会
市指定文化財 白毫寺の太鼓橋
指定年月日 昭和54年3月19日 所有者 白毫寺
白毫寺は、寺伝によると慶雲2年(705)法道仙人の開基とされる。
鎌倉時代には七堂伽藍といわれるほど多くの堂宇が建ち並び、
南北朝時代に入って赤松貞範など地元領主の保護のもと丹波屈指の名刹として隆盛を極めたが、
織田信長の丹波攻略に伴い明智光秀率いる軍勢の兵火で焼失した。
その後、人々の厚い信仰により今日にまで復興した。
心字池に架かる太鼓橋は、人間の迷いの世界から仏の悟りの世界へ至る渡彼岸の思想を表しているとされる。
その規模は、長さ5.2m、幅2.05m、高さ1.75mで、覆い屋であるさや堂に納められている。
橋の構築時期は作風などからして江戸時代中期の元禄年間頃と推測され、
さや堂も同時期に完成したものと考えられている。
市内のみならず、全国的にも木造でこの種の橋は数少なく、優雅な姿を池に映している。
平成22年3月 丹波市教育委員会
天台宗 五大山 白毫寺
慶雲2年(705)に天竺インドの僧・法道仙人が開基。
本尊は法道仙人が伝えた薬師瑠璃光如来(秘仏)。
また、入唐求法から帰路の際に訪れた慈覚大師円仁が山号を「五台山」と命名(後に五大山と改称)し、
持ち帰った五種鈴(県指定文化財)などの密教法具を伝えた。
七堂伽藍が甍を競い最盛期には93坊を擁したが、織田信長の丹波攻略に伴い、
天正8年に明智光秀率いる軍勢によって焼き討ちに遭う。
しかし、人々の厚い信仰に支えられて立派に再興し現在に至る。
境内には彼岸の教えを表す太鼓橋が架かる心字池や枯山水の陰陽の庭などがある。
また、木々や花々は四季を通じて美しく、四月の桜、五月の藤やセッコク、秋の紅葉などが見所。
特に全長120mの藤棚に咲く”九尺藤”は圧巻である。
美和ふるさと観光協会
天台宗 五大山 白毫寺 由緒
慶雲2年(705)法道仙人により開基。
本尊は法道仙人が天竺より伝来せし閻浮壇金の薬師瑠璃光如来なり。
仙人は播州法華山一乗寺を開かれし後に丹波国に移り、
当地は正に仏法有縁の勝地なりと開山。
本尊を安置し、法燈の永照と当国の安寧を祈願するに、不思議なるかな、梵天帝釈や四天王の擁護あり。
諸天は歓喜し空中に妙音を奏で、天上より異香芬々たる花びらを舞い散らせり。
この時、本尊は眉間の白毫ゆおり光明を放ち給うが故に「白毫寺」と号すと伝う。
その後、慈覚大師円仁が入唐帰国の折りに来錫。
この山の境地、さながら唐にて修行せし五台山に似たりと、将来の曼荼羅や五種鈴など密法仏具を奉納し、
山号を「五台山」と命名(現在は五大山を使用)。
以来、四方の学徒来集し隆盛を極む。
鎌倉時代、法条時頼公巡国の折に当山に投宿し、縁起を聞いて感嘆。
諸堂再建に財を投じ、三方に下馬札を設けて崇敬を加え、更に当山護持に荘園を寄進。
こ れにより丹波屈指の名刹として隆盛し、堂塔伽藍は甍を競い、その数93坊に及ぶ。
戦国の世に到り、織田信長の丹波攻略の命により明智光秀は数萬の軍兵を率いて幾度と来襲するも、
黒井城(保月城)の城主赤井悪右衛門直政は、白毫寺や神池寺の僧兵の援護により攻防し、光秀軍は敗れて撤退。
天正7年(1579)、光秀軍三度目の丹波攻略の折、裏山の堂床より黒井城へと送水せしことを知り、
白毫寺を堂塔一字残さず焼払いて水源を断ち、遂に落城に到る。
しかしこの時、白毫寺西南に聳ゆ五軸の峯の頂に夜な夜な輝く光明の噂が光秀の耳に及ぶ。
この不思議を軍兵従えて調ぶれば、焼き討ちの猛火の中より飛び出でた本尊薬師如来が光明を放ちて鎮座せし姿に遇い、一同ひれ伏して感涙。
光秀は筆頭家老の斎藤利三を黒井城主に命じ置き、白毫寺復興に尽力したという。
爾来、明治の廃仏毀釈・戦後の農地解放により往時の寺勢や寺域を滅すと雖も、
壇信徒はじめ十方の篤き信仰により、一千三百年の法燈を今に輝かす。