有子山
概 要 有子山は豊岡市出石町にある標高321.3m(点名:出石)の山で、かつては山頂に有子山城がありました。 広くなった山頂の北側が開けていて、山並みや出石の街並みなどを見渡せる素晴らしい眺めが広がります。 今回は南側の小人地区から城山遊歩道まで登って山頂へ向かい、北側の出石城跡へ降るルートを歩きます。
起 点 豊岡市出石町 大手前
終 点 豊岡市出石町 大手前
大手前駐車場…登山口…小峠…大樹…小峰…鞍部…遊歩道出合…有子山…中間地点…登山口…稲荷神社…有子橋…大手前駐車場
所要時間 4時間40分
歩いて... 地形図には小人地区から城山遊歩道へ続く破線の道が描かれていますが、現地には明瞭な道を見掛けませんでした。 下草などは生えておらず藪漕ぎも必要ないので歩くのに支障はありませんが、 あまりの蒸し暑さで熱中症気味になり、何度も小休止しながらの牛歩戦術のような登りとなりました。 山頂からの眺めは残念ながら霞んでいました。 下山時になっても症状が改善せず、小休止を繰り返しながら時間をかけて降ることになりました。
関連メモ 有子山, 有子山, 鰺山峠
コース紹介
大手前
豊岡市役所の出石庁舎の傍にある大手前駐車場(有料)に車を止めて歩き始めます。
脇には「」があって、 今回登る有子山も載っていますが、山頂までの道は描かれていません。 駐車場の道路向かいにはがあって、背後にはこれから登る有子山が聳えています。 山頂にあるも見えます。
大手前駐車場の北側の「八木通り」と南側の「内町通り」は一方通行になっているので、車で来る時は注意が必要です。
城下町 出石
出石町は但馬文化発祥の地として古事記、日本書紀にもその名が見え、 中世には山名宗全一族の本拠地として二百年間繁栄を誇り、 近世は小出、松平、仙石氏ら五万八千石の城下町として但馬に並びなき繁華を極めました。 二千年の歴史に薫る文化遺産の数かず、井然とした街路、美しい山河のたたずまいなど、 出石が但馬の小京都といわれるゆえんです。
”見どころ”
出石城跡  旧役場の背後に聳える有子山(321m)の山頂には天正二年(1574)に山名氏政が築城した高城跡があり、 山麓には慶長九年(1604)に小出吉英が築いた平山城が明治まで存続しました。 現在、城跡には昭和四十三年に再興した東西隅櫓や三丹一の初午祭で知られる有子山稲荷神社、 仙石氏の藩祖で石川五右衛門を捕えた豪傑、仙石権兵衛秀久を祭る感応殿、 粛軍演説で勇名を馳せた斎藤隆夫代議士の顕彰碑などがあります。
宗鏡寺(沢庵寺)  出石が生んだ名僧 沢庵の再興した臨済禅の古刹で、沢庵の墓、投渕軒、不識園、夢見せの鏡など、 和尚ゆかりの遺跡、遺品が多く残っています。
出石神社  市街地から約二キロ北方、但馬一の宮で、但馬開発の祖神、天日槍命を奉斎し、土木の神として崇敬されています。
家老屋敷  役場西五十メートル、藩の大老食で仙石騒動の中心人物、仙石左京の旧邸。 西隅の石垣は城中西門の遺構です。
辰鼓楼  出石のシンボル辰鼓楼は辰(時)を告げた鼓楼で、明治以降は時計台。 往時はやや南寄りに大手門がありました。
その他  桂小五郎の潜伏遺跡、東京大学初総長 加藤弘之の生家、藁葺きの武家長屋など、 史跡や城下町の名残りが町内のそこかしこに散在しています。 特産には出石焼とちりめんが古くから有名です。
出石ライオンズクラブ
内町通りを進んで交差点まで行くと、角に出石そばを商う店「」があって、 「出石皿蕎麦由来」と題した立て看板が出ています。 左折したすぐ先の水天宮前交差点を過ぎていくと、 谷山川橋を渡った所にがあります。 脇に設置された近畿自然歩道の案内板に付近のが載っていて、 今回登る有子山城址の名前が見られます。 今回歩くコースに関連がある解説文を抜粋して載せておきます。 小人地区に入って更に南下していくと、谷山川放水路に御蔵橋が架かっています。 橋の手前からが続いていて、 「」と題した解説板があります。
本場手打ち 出石皿蕎麦由来
恵まれた風土、出石を代表する味覚”手打皿蕎麦”は宝永3年(1706)に信州上田から国替えになった仙石氏により伝来したといわれる。 在来のそばに信州の手法を加え出石焼の小皿を使い特色ある”出石の手打皿そば”の様式が生まれた歴史は古い。 そばの実を丸引した自然な色と香、練達した手づくりの佳品は、出石の里の恵まれた水によってこそ生まれる、 淡泊、素朴で風雅な味は他に求められない絶品である。 それは三タテの合言葉”挽きたて”,”打ちたて”,”茹きたて”で一層生かされている。
「伝統・本場の技と味」五満石
近畿自然歩道
城下町出石を訪ねるみち(森尾口バス停〜出石営業所バス停)11.7km
出石遠望 鯵山峠越えのみち(出石営業所バス停〜下寺坂バス停)5.1km
近畿自然歩道は、私たちの生活が近代化する中で、自然の残っている地域や名所・旧跡を帯状に結び、 身近にレキしや自然とふれあえるよう整備したものです。 コースには道しるべがありますのでそれにしたがってお歩きください。
城下町出石を訪ねるみち
城山公園(出石城跡)  157段の石段を登り、37の朱の鳥居をくぐって稲荷神社から城下を眺めれば、 まるで江戸時代を思わせるような町並みが望めます。 本城は昭和43年、本丸跡に隅櫓が復元され、その後、登城門や登城橋も造られています。
此隅山と有子山  出石町の北部と中央部に位置するこれらの山の頂上部には、山名氏の居城跡があります。 此隅山城は石垣などを用いない中世初期の山城の様相を残し、 有子山城は石垣で築かれた主郭やくるわ跡が残されています。 ともに史跡として国の重要文化財に指定されています。
環境省・兵庫県
谷山川トンネル放水路
(1)目的
一級河川円山川水系谷山川は、流域面積6.33kuの河川であり、出石町の市街地を流れ出石川に合流している。 現河道は、河床勾配が緩くまた周辺市街地の地盤が低いことから、 出石川の背水の影響と合わせて谷山川の出水により、過去に幾度かの浸水被害を生じている。 一方、出石町は旧城下町で史跡・文化財が数多く、谷山川沿いには多数の古寺等が並び、 ”清流谷山河”の環境要素としての役割も大きく、それ自体が観光資源と考えられている。 このため、多義重なる水害に対し、抜本的な治水対策が要請されてきたが、 街並みの保存を考えれば、堤防の嵩上げ・河道拡幅といった河川改修は非常に困難な状況にある。 従って、本事業ではより効果的で、地域に調和した洪水処理対策として、 市街地上流地点にて、全量カット方式で分流し、トンネル河川による出石川への放水路を計画し整備するものである。
(2)事業の概要
事業名抽象河川改修事業
事業箇所出石郡出石町伊木〜小人地内
事業期間昭和58年度〜平成5年度(工事着手は昭和63年度より)
総事業費約28億円
施工規模全体施工延長 906.8m
兵庫県豊岡土木事務所
御蔵橋を渡って更に南下していくと、「出石警部派出所」の道路標識が立つがあります。 左折して出石警部派出所(*)の前を過ぎていくと、少しズレたがあります。 正面の車止め鎖を過ぎて、地形図に実線で描かれている左前方へ続くを登っていきます。 右へのまで来ると、右上に建物があります。 左側には広い空き地があります。 右へ曲がって、になった広い道を進んでいきます。 少し進んだ先を左へ曲がると、先ほどの建物があります。 玄関は南京錠で閉ざされていて使われている様子はありませんが、かつては何の施設だったのでしょうか。
*後日に来てみると、豊岡南警察署出石警部派出所は豊岡警察署出石分庁舎に改名されていました。
登山口
建物を後にした先を右へ曲がると、を真っ直ぐ登るようになります。 右側にはが何箇所か見られますが、宅地か耕作地の跡でしょうか。 思いのほか傾斜が急な坂道を登って右へ曲がると、地道になったに出ます。 正面の地道と左へ戻るように登っていくコンクリート道との(*)になっていますが、左の道を登っていきます。 坂道を登っていくと、頑丈な鉄格子柵の先に砂防ダムが現れます。 ここが今回の登山口になります。 大手前駐車場から33分ほどの所になります。
*地形図で実線で描かれている正面の道は、この先にある小峠の先まで続いています。 少し先を左へ曲がって次の右への曲がり角まで行くと、脇へ入った所に半開きになった鉄格子柵の扉があって、 そこからも入ることが出来ます。
小峠
鉄格子柵の扉(*1)を開けて、右にある段差の高いを登っていきます。 階段はすぐに終わって、へ入っていきます。 植林地にはが見られますが、分岐・合流していたり不明瞭になったりします。 右下に続く広い道に並行するからあまり離れないようにしながら、斜面を横切るように進んでいきます。 近づいてくるに向かって、植林地を横切っていきます。 少し降るようになると小峠(*2)に着きます。 登山口から5分ほどの所になります。
*1 柵が傾いているのか、扉は完全には閉まらず半開きになっています。
*2 鉄格子柵の曲がり角に扉があります。 施錠はされていませんが、柵が傾いているのか押しても引いても開きません。 地形図に描かれている実線の道はこの辺りまでですが、広い道はこの先にも続いていて、 送電線の鉄塔の脇を過ぎて先の方まで伸びています。
左へ曲がって、植林地のを登っていきます。 地形図に破線の道が描かれているので期待していたのですが、残念ながら明瞭な道は見掛けません。 僅かなが左右に分かれていたりもしますが、構わずに正面に向かって登っていきます。 には下草は生えておらず藪漕ぎの必要もなくて歩くのに問題はありませんが、 蒸し暑くて止め処もなく汗が噴き出てくるので、何度も立ち止まって汗を拭きながらゆっくりと登っていきます。 踊り場のような緩やかな所に着いて、水分補給をしながらひと息入れていきます。 小峠から9分ほどの所になります。
大樹
更に続くの尾根を登っていきます。 時折僅かなも見られる尾根を登っていきます。 少し右へ曲がっていくとになってくるので、 脇の樹木に掴まりながら登っていきます。 少しも現れますが、歩き難そうなのでその脇を登っていきます。 次第に雑木が混じるようになると大樹があります。 小峠から33分ほどの所になります。 根元付近に開いたを眺めたりしながら、小休止していきます。
小峰
休んでも疲れは取れませんが、を更に登っていきます。 折からの蒸し暑さでになり、 何度も立ち止まって小休止しながらの牛歩戦術のような登りとなります。 10mほど登っては立ち止まることを繰り返しながら、超低速で登っていきます。 途中でリュックを降ろして水分補給しながら呼吸を整えていきます。 次第に雑木林になって、が少し見られる尾根を登っていきます。 小休止を繰り返しながら更に登っていくと、次第に傾斜がになってきます。 歩き易くなった尾根を呼吸を整えながら進んでいくと、標高260mほどのなだらかな小峰に着きます。 小峠から1時間ほどの所になります。
鞍部
小峰で尾根が二股に分かれていますが、を降っていきます。 再びになる尾根を降っていきます。 次第に傾斜が緩やかになると、標高250mほどの鞍部に着きます。 小峰から4分ほどの所になります。 これからの急登に備えて、リュックを降ろして水分補給をしながら休憩していきます。
遊歩道出合
15分ほど休憩してもあまり楽になりませんが先へ進み始めると、 雑木林のが始まります。 左右の樹木に掴まりながらゆっくり登っていきます。 何度も小休止を繰り返しながら、を超低速で登っていきます。 やがて左右に通るが見えてきて、力が湧いてきます。 気を取り直して登っていくと、「鳥獣保護区」の赤い標識が倒れる樹木の袂から、左右に通る城山遊歩道に出ます。 鞍部から20分ほど、登山口から1時間45分ほどで登って来られました。 振り返って、を確認していきます。 とても疲れたので、何はともあれ道端に腰を降ろし、水分補給をしながら休憩していきます。
今回は熱中症気味になって、小休止を繰り返しながら超低速で登ってきたので、所要時間はあまり参考になりません。 涼しい季節ならもう少し短い時間で登れるだろうと思います。
少々休んだ程度では疲れはとれませんが、左へ続く(*1)を進んでいきます。 僅かなになる道を右へ曲がりながら進んでいきます。 軽いになる道を進んでいきます。 程なくして、右側に鞍部が現れます。 城山遊歩道に出た所から4分ほどの所になります。 (*2)へ登っていく小径と、へ登っていく小径との分岐になっています。 左の小径は有子山に出られるように記憶していますが、左へ曲がっていく遊歩道を進んでいきます。
*1 右へ続く城山遊歩道は「有子山」,「鰺山峠」を参照。
*2 右の高みと正面の鞍部の先へ続く道は「有子山」を参照。
植林地に続くを進んでいきます。 程なくして道端に幾つも剥き出すを過ぎてきます。 僅かな降り坂になると、の下を進んでいきます。 緩やかになった道を石垣に沿うように右へ曲がっていくと分岐があります。 城山遊歩道に出た所から8分ほどの所になります。 脇にはが立っていて、 右の道は「主郭(本丸)321mへ」、今来た道は「千畳敷へ」となっています。 左の道は何も示されていませんが、出石城跡から登ってくる道になります。
右に続くを登っていきます。 左にはが広がりますが、景色を愛でるのは山頂に着いてからにします。 右側にあるを見送っていきます。 が垂らされた石段混じりの急坂を登っていきます。 石段を登っていくと、石垣の手前にあるなだらかな所に出ます。
有子山 (標高321.3m)
右側にある幅の広いを登っていきます。 石段を登り切ると、右側に「八丁」のが佇んでいます。 石仏の先にはなだらかな有子山の山頂が広がります。 中ほどには東屋が建っています。 傍には「史跡 山名氏城跡(有子山城跡)」と題した解説板が設置されていて、が載っています。 脇には「出石」があるので、地形図に載っている321.3峰になるようです。
史跡 山名氏城跡(有子山城跡)
指定年月日 平成8年11月13日
指定理由
基準 特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準(昭和26年文化財保護委員会告示第2号)史跡の部二(城跡)による。
説明 有子山城跡は、室町幕府の四職家で最大級の大名であった山名氏が、根拠地である但馬国に築いた山城跡である。 同じく山名氏の居城であった此隅山城跡とともに、我が国の中世の政治史と城郭史を示す重要な遺跡であるので、 山名氏城跡として一括して史跡に指定し、その保存を図るものである。
但馬山名氏 山名氏は新田氏の流れをくむ関東上野国の武士で、足利尊氏にしたがって南北朝時代の騒乱で活躍。 室町幕府成立後は四職家で最大級の大名として、全国66ヶ国のうち、 但馬、因幡、丹波、美作など11ヶ国の守護職となり「六分の一殿」と呼ばれた。 応仁元年(1467)の応仁の乱では山名宗全(持豊)が西軍の総帥となった。 しかし戦国時代になると山名氏はその勢力を失う。 永禄12年(1569)に織田軍の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の但馬侵攻により、 当時居城であった北方約2.5kmにある此隅山城が落城。 その後、天正2年(1574)に山名祐豊がこの有子城を築く。 その名は「子盗」(此隅)の名を嫌って「有子」と命名されたものという。 しかし天正8年(1580)ふたたび織田軍の羽柴秀長の但馬侵攻によって有子山城は落城。 室町幕府成立後、一貫して守護大名であった山名氏の但馬支配はここで終焉する。 このあと秀長が入城し、のち天正13年(1585)には前野長康が5万石で入城するが、 豊臣秀次事件に連座して改易され、播州龍野から小出吉政が入城。 江戸時代に入りその子吉英の出石城築城により廃城となった。
城郭遺構 有子山城跡は最上部に石垣によって築かれた主郭とその西方に階段状に続く曲輪があり、 また、主郭の東南に千畳敷と呼ばれる曲輪が残っている。 豊臣時代のいずれかの城主によって改築されたものと思われる。 山腹にも小規模な曲輪や堀切などの空堀を見ることができ、中世山城の特徴を今によく伝えている。 さらに周辺には石垣に用いられている石と良く似た石が露出しており、石垣の石が山中から採取されていたことを思わせる。
(2013年に来た時と比べると、解説文が少し変更されています)
有子山の北側が開けていて、山並みや出石の街並みを見渡せますが、 残念ながらこの時は少し霞んでいて、遠くの山はよく見えませんでした。
眼下にはが広がり、 車を止めてきたも見えます。 丁度昼時になったので、にある円形テーブルの周りに並ぶ切り株状の椅子に腰掛けて昼食タイムにしました。
山頂には30分ほど居ましたが、熱中症気味の症状は治りませんでした。
八丁」の石仏の所から幅の広いを降っていきます。 に降りてその先へ進んでいきます。 が垂らされた石段まじりの急坂を降っていきます。 に沿って進んでいきます。 少し左へ曲がりながら降っていくと、「主郭(本丸)へ」「千畳敷へ」の標識が立つ分岐に戻ってきます。
標識に書かれていないを降っていきます。 緩やかで小広い所に出て、曲がって降っていきます。 幅の広いを降っていきます。 階段混じりの道を曲がりながら降っていきます。 合わせて6回ほど曲がりながら降っていくと、 次の右への曲がり角に「遊歩道」のが立っていて、「本丸まで230m」の標柱もあります。 傍には「七丁」の石仏も佇んでいます。 山頂から10分ほどの所になります。
中間地点
右へ曲がって、広めのを進んでいきます。 僅かな起伏で続く緩やかな道を進んでいくと、樹木が減ってに出ます。 左側の樹間に僅かにが見える所を過ぎていきます。 道端に立つ「井戸曲輪(水の手)」のを過ぎていきます。 僅かな起伏の道を更に進んでいくと、「遊歩道」のが立っていて、「中間地点」の板が取り付けられています。 山頂から17分ほどの所になります。 傍には「六丁」の石仏が佇んでいます。 ここから急な尾根を降るのですが、熱中症気味の症状がまだ治まらないので、脇の枯れ木に腰掛けて小休止していきます。
中間地点(500m)
ここより先、なだらかな道です。 景色や、有子山城跡の歴史的遺構をお楽しみください。
豊岡市商工会青年部出石支部
石仏の先に続くトラロープが張られた急なを降っていきます。 段差が高くて歩き難い階段が終わるとになります。 再び傾斜が増し始める所まで来ると、「遊歩道」のが立っていて「本丸まで500m」の標柱もあります。 先ほどの「中間地点」の板にも「500m」と書かれていますが、どちらが正しいのでしょうか。 トラロープが張られた急なを曲がりながら降っていきます。 階段の木はまだ新しくて、近年に再整備されたようです。 堀切のような窪んだ所を過ぎたすぐの所に、「四丁」の石仏が佇んでいます。 中間地点から12分ほどの所になります。 先ほど見掛けた石仏は「六丁」でしたが、「五丁」の石仏は見落としたようです。
傾斜が少し緩んできますがは更に続きます。 再び降り傾斜が増してくると、「遊歩道」のが立っていて「本丸まで720m」の標柱もあります。 中間地点から16分ほどの所になります。 急傾斜の木の階段を降っていくと、「三丁」のが佇んでいます。 曲がりながら続く木の階段を更に降っていきます。
が剥き出す所もある尾根を降っていきます。 覆い被さる曲がった木の袂に佇む「二丁」のを過ぎていきます。 少し先にある「遊歩道」のと「本丸まで850m」の標柱を過ぎていきます。 傾斜が増した所を過ぎていくと「一丁」の石仏が佇んでいます。 中間地点から30分ほどの所になります。 ここに来ても熱中症気味の症状はまだ治らないので、脇に腰を降ろして水分補給をしながらまた小休止していきます。
気を取り直して、更に続くを降っていきます。 傾斜が増してくる階段を降っていくと、剥き出すを曲がりながら降っていきます。 階段が途切れると、道は尾根の背を外れて左へ曲がっていきます。 「一丁」の石仏から4分ほどの所になります。 脇には「遊歩道」のと「本丸まで980m」の標柱が立っています。 曲がり角には「城山展望台」のも立っています。 2013年に来た時には壊れかけた東屋が建っていたのですが、この時にはなくなっていました。 以前には眺めが広がったのかも知れませんが、今では樹木に邪魔をされてほとんど見えません。
登山口
左へ曲がって谷筋へ降っていくと、丸太を何本も積んだ形のがあります。 手前には丸い頭のお地蔵さんが佇んでいます。 その先には「遊歩道」のが立っています。 右へ曲がって赤い鳥居が見えてくると、標識類が幾つか立つ登山口に降り立ちます。 「一丁」の石仏から7分ほど、有子山から1時間15分ほどで降りて来られました。 「登山における注意事項」のには有子山へのが載っています。 小祠の脇には「有子山登山口」の標識や「見所」の看板が出ています。
熱中症気味の症状が治らないまま小休止を繰り返しながら時間をかけて降ってきたので、所要時間はあまり参考になりません。 涼しい季節ならもう少し短い時間で降れるだろうと思います。
登山における注意事項
自分の体力(体調)・装備・知識を再確認してください。 1つでも欠けていると思ったら勇気をもって登山を中止しましょう。
天候を把握して、早めの出発、早めの下山を心がけてください。
山頂は通過点 下山こそ細心の注意をしましょう。
自生する植物や野鳥は共有の財産です。 採取等は絶対しないでください。
(法律により罰せられる場合があります)
登山道には急勾配の山道や道幅が狭い所、岩場を登る所などがあります。 危険だと思う場所には近づかないでください。 ケガや事故については自己責任。 安全にトレッキングをしてください。
登山道では携帯電話の通じない場所(圏外)があります。
危険な野生生物(スズメバチ・マムシ・ツキノワグマ・イノシシ・シカ等)に遭遇する場合があります。 危険なものには手を出さないでください。
足元の草花や木の根などに思いやりを! ゴミは必ず持ち帰りましょう。
豊岡市・但馬國出石観光協会
有子山登山口(全長約1km)の見所
一、 山頂付近の有子山城の遺構
主郭付近には当時の石垣や但馬地方最大級の大堀切が現存している。
二、 千畳敷
但馬地方最大級の曲輪。 築地堀跡や庭園跡が見られる。
三、 山頂付近からの眺望
出石の町全域が見渡せ、季節などの条件が合えば、雲海を見ることも出来る。
登山所要時間は1時間程度です。
豊岡市商工会青年部出石支部
登山お助け杖
ご自由にお使い下さい。 ご使用後は必ずご返却下さい。
豊岡市商工会青年部出石支部
稲荷神社
左側にがあるので立ち寄っていきます。 鳥居をくぐっていくと、石灯籠の先に稲荷神社の社殿があります。 左側にはがあります。 右側には杉の大木が生えるがあります。 広場からは出石の出石城本丸跡を見下ろせます。 ここに来ても熱中症気味の症状は治らないので、景色を眺めながら最後の休憩をしていきます。
スギ ヒノキ科 倭木
長寿の木として神社にはなくてはならぬ木で、厳かな雰囲気を作る。 かって、ほらがあった大杉には神の使者といわれる白キtネが住んでいたそうだ。 幹周り4.2m
ムクノキ アサ科 撲樹
高さ20m以上、幹周り3m以上の巨木になる。 葉はざらつき「紙やすり」と代わりに使われた。 球形の実は熟すと黒紫色になり甘くて美味しい。
モtノキ モチノキ科 餅木
御神木と植えられることがあり、杉木立が目立つ有子山稲荷神社境内東側に植えられている。 樹皮からとりもちを作る。
弘道コミュニティ協議会
まで引き返してきます。 左へ曲がって、赤い鳥居が立ち並ぶを降っていきます。 左にある出石城を過ぎていきます。 更に参道を降って、左にあるを過ぎていきます。 最後の赤い鳥を過ぎて石段を降っていくと、左側に「出石城跡」と題した解説板があります。
出石城跡
出石城は慶長九年(1604)に小出吉英によって山頂の城を廃して築かれたもので、一国一城制による但馬唯一の城です。 平山城に分類され梯郭式といわれるように 有子山の麓に上から稲荷郭、本丸、二の丸、二の丸下の郭、三の丸と梯子を立てかけたように城を築いています。 また東には山里郭を設けて有事に備え、三の丸の周圍には山から掘り切りで水を引き、内堀をめぐらせ、 北に大手門、東西にもそれぞれ東門、西門を設け、天守閣は築きませんでしたが、 隅やぐらや多門を設けて要害としました。 城主は小出氏が九代(百年)、松平氏一代(十年)、仙石氏七代(百六十年余)と続き、 明治の版籍奉還まで二百七十年間、五萬八千石の本城として、また但馬第一の雄藩として威容を誇りました。 最上段の稲荷郭には城の鎮守稲荷神社を祀り、本丸、二の丸には宏壮な御殿を建て、渡り廊下で連結させていました。 また本丸には仙石公の藩祖、仙石権兵衛秀久の祀る感応殿や、昭和四十三年に復元した東西隅やぐらがあり、 往時の面影を偲ばせてくれます。
出石町観光協会
有子橋
すぐにある朱色の欄干の有子橋を渡っていきます。 川に渡されたロープにが幾つも吊されていて、涼やかな音を響かせていました。 有子橋を渡ると、左側にがあります。 その先には「山名氏城跡(有子山城跡)」と題したが設置されていて、 も載っています。 背後には今回登った有子山が聳えています。
国指定文化財 山名氏城跡(有子山城跡)
城史  この城は天正2年(1574)、山名祐豊がそれまで本城であった此隅山城にかわって築城しました。 その名は落城した「子盗」(此隅)の名を嫌って「有子」と命名したといわれています。 しかし、わずか6年後の天正8年(1580)、天下統一をねらう織田軍によって城は落城、 城主は因幡へと逃亡し山名氏による但馬支配は終わります。 その後、織田系の大名が城主となりますが、江戸時代にじゃふもとに出石城が築かれ廃城となりました。
現状  標高321mの有子山山頂に主郭があり、その西側には5段の曲輪が階段状に築かれています。 また主郭の東南には千畳敷と呼ばれる広い曲輪があります。 石垣は織田系の大名により作られたもので、中世城郭が近世城郭に移行するまでの過渡期の形態をよく残しています。
山名氏  山名氏は室町幕府において侍所の長官に任ぜられた、有力な大名の一人です。 最盛期には全国66か国のうち11国を守護して領国支配をしていたことから「六分の一衆」と呼ばれ、 後の応仁の乱では西軍の総大将として参戦しました。 但馬は、南北朝時代から戦国時代までの約200年間、一貫して山名氏が守護の地位にありました。 この山名氏の最後の本城が有子山城です。
豊岡市教育委員会
(2013年に来た時と比べると、解説文が少し変更されています)
大手前
旧出石町役場の「」の傍を過ぎていきます。 少しズレた十字路に出ると、向かい側の角に車を止めておいた大手前駐車場があります。 稲荷神社から7分ほどで到着しました。
カーエアコンと自販機で買った冷たい飲み物で、外側と内側から体をクールダウンし、少し楽になってから家路につきました。
旧出石町役場玄関車寄せ
旧役場は、昭和13年に当町宵田出身の実業家竹内慶吉氏の寄贈により完成した建築物です。 以後60余年の間、町政の中心として町内外の方々に馴れ親しまれ、多くの思い出が残されています。 更に、その重厚な様式は昭和初期の洋風建築として高く評価されてきました。 ここに、旧役場車寄せを保存することにより、町内外の方々に永く旧役場の思い出が語り継がれると共に、 当町の歴史の深さと、時の流れを身をもって実感されることを期待します。
1997年 出石町