有子山
概 要 有子山は豊岡市出石町にある標高321.3m(点名:出石)の山で、かつては山頂に有子山城がありました。 広くなった山頂の北側が開けていて、山並みや出石の街並みなどを見渡せる素晴らしい眺めが広がります。 今回は大手前から続く急坂を登って有子山へ向かいます。 山頂からは、鯵山峠へ続く広い城山遊歩道を降っていきます。
起 点 豊岡市出石町 大手前
終 点 豊岡市出石町 大手前
大手前…辰鼓楼…有子橋…諸杉神社…稲荷神社…有子山登山口…城山展望台…一丁…四丁…尾根の肩…有子山…256m峰…193m峰…97番鉄塔…鯵山峠…谷山地区…石部神社…伊木水の歌公園…天満宮…大手前
所要時間 2時間50分
歩いて... 大手前から続く「遊歩道」の途中までは急傾斜の山道になっています。 自然木の階段が設置されトラロープも張られた急登が続くので、暑い夏場では大汗をかきそうです。 山頂から鯵山峠へ続く林道は緩やかで歩き易くなっていました。
関連メモ 有子山, 有子山, 鰺山峠
コース紹介
大手前
出石総合支所の傍にある大手前駐車場(有料)に車を止めて歩き始めます。
脇には「」があって、 今回登る有子山も載っていますが、山頂までの道は描かれていません。
大手前駐車場の北側の「八木通り」と南側の「内町通り」は一方通行になっているので、車で来る時は注意が必要です。
城下町 出石
出石町は但馬文化発祥の地として古事記、日本書紀にもその名が見え、 中世には山名宗全一族の本拠地として二百年間繁栄を誇り、 近世は小出、松平、仙石氏ら五万八千石の城下町として但馬に並びなき繁華を極めました。 二千年の歴史に薫る文化遺産の数かず、井然とした街路、美しい山河のたたずまいなど、 出石が但馬の小京都といわれるゆえんです。
”見どころ”
出石城跡  旧役場の背後に聳える有子山(321m)の山頂には天正二年(1574)に山名氏政が築城した高城跡があり、 山麓には慶長九年(1604)に小出吉英が築いた平山城が明治まで存続しました。 現在、城跡には昭和四十三年に再興した東西隅櫓や三丹一の初午祭で知られる有子山稲荷神社、 仙石氏の藩祖で石川五右衛門を捕えた豪傑、仙石権兵衛秀久を祭る感応殿、 粛軍演説で勇名を馳せた斎藤隆夫代議士の顕彰碑などがあります。
宗鏡寺(沢庵寺)  出石が生んだ名僧 沢庵の再興した臨済禅の古刹で、沢庵の墓、投渕軒、不識園、夢見せの鏡など、 和尚ゆかりの遺跡、遺品が多く残っています。
出石神社  市街地から約二キロ北方、但馬一の宮で、但馬開発の祖神、天日槍命を奉斎し、土木の神として崇敬されています。
家老屋敷  役場西五十メートル、藩の大老食で仙石騒動の中心人物、仙石左京の旧邸。 西隅の石垣は城中西門の遺構です。
辰鼓楼  出石のシンボル辰鼓楼は辰(時)を告げた鼓楼で、明治以降は時計台。 往時はやや南寄りに大手門がありました。
その他  桂小五郎の潜伏遺跡、東京大学初総長 加藤弘之の生家、藁葺きの武家長屋など、 史跡や城下町の名残りが町内のそこかしこに散在しています。 特産には出石焼とちりめんが古くから有名です。
 (出石ライオンズクラブ)
辰鼓楼
有子山とは逆の方向になりますが、 すぐ傍の出石内町郵便局の道路向かいに辰鼓楼があるので、ちょいと立ち寄っていきました。 時計台にもなっていて、往時の風情を醸し出していました。
有子のしらべ
藩士が登城する辰の刻(午前八時)を告げるため太鼓を打ち鳴らしていたのにちなんで、 現在では、午前八時・午後一時に太鼓が、夕方には梵鐘がなります。 山頂に城が築かれていた”有子山”の名前をとって、これを『有子のしらべ』と呼んでいます。
 (2000年11月3日 出石町管工事協同組合、出石ライオンズクラブ)
歴史の概要
出石は「古事記」「日本書紀」にも登場する古い町です。 但馬開発の祖神「天日槍」がこの地を拓いたと伝えられています。 室町時代に山名氏が但馬を制圧し、出石に本拠を構えたことにより、但馬の中心として繁栄しました。 その後、小出氏が領主となり平山城を築城、城下町作りを行いました。 元禄10年(1697)には松平氏が移封されましたが、宝永3年(1706)に信州上田の仙石氏とお国替えになりました。 その際、信州のそば打ちの技術が伝わりました。
辰鼓楼から引き返して駐車場を過ぎていくと、登城橋河川公園があります。 正面には旧出石町役場が建っていて、 背後にはこれから登る有子山が聳えています。 手前の樹木の傍には道標「大手前」が立っていて、右の道は「家老屋敷 五十米先」、 左の道は「出石城 三十米先、経王寺 五百米先」、今来た道は「辰鼓楼 五十米先、宗鏡寺 五百米先」となっています。 右の方に登城橋が架かっていて出石城跡への入口のようですが、 今回は訪ねるのを省略して左へ進んでいきます。
旧出石町役場玄関車寄せ
旧役場は、昭和13年に当町宵田出身の実業家竹内慶吉氏の寄贈により完成した建築物です。 以後60余年の間、町政の中心として町内外の方々に馴れ親しまれ、多くの思い出が残されています。 更に、その重厚な様式は昭和初期の洋風建築として高く評価されてきました。 ここに、旧役場車寄せを保存することにより、町内外の方々に永く旧役場の思い出が語り継がれると共に、 当町の歴史の深さと、時の流れを身をもって実感されることを期待します。
 (1997年 出石町)
有子橋
谷山川沿いに出ると「斉藤隆夫顕彰碑」と題した看板が立っていましたが、 近くにはそれらしい碑は見かけませんでした。 その隣には「」と題した解説板が設置されていて、往時の地図も載っていました。 解説板を過ぎた所に、朱色の欄干の有子橋が架かっています。 傍には「稲荷神社」と刻まれた石柱やもありました。 今回はここから有子山へ登っていきます。
斉藤隆夫顕彰碑
斉藤隆夫先生は明治三年、当町中村に生まれ、苦学して早稲田大学を卒業後、米国エール大学に学びました。 大志を抱いて政界に入り、衆議院議員に当選すること十三回、つねに軍部の横暴に敢然として立ち向かいました。 昭和十一年五月の粛軍演説や同十五年二月の支那事変処理に関する質問演説は 国民大多数の声を代弁した憂国の演説として史上にさん然として輝いています。 戦後は国務大臣に任ぜられること三回、従三位勲一等に叙せられ、昭和二十四年、八十歳で世を去りました。 郷土人相はかって顕彰会を御こし、碑を建ててこの事績を顕彰しています。
 (昭和四十六年十一月 斉藤顕彰会、出石町観光協会)
国指定文化財 山名氏城跡(有子山城跡)
山名氏  山名氏は、室町幕府において侍所の長官に任ぜられる最も有力な大名の一人で、 明徳の乱、応仁の乱の中心勢力として関与した。 但馬は南北朝の初期以来山名氏の根拠地であり、南北朝期後半以降戦国期まで一貫して山名氏が守護の地位にあった。 この山名氏の本国但馬における中世末期の本城が有子山城である。
現状  標高321mの有子山山頂に主郭とその西方に6段のくるわが階段状に続き、 また主郭の東南に千畳敷と呼ばれるくるわがある。 石垣の残りはよく、中世の城郭が近世の城郭に移行するまでの過渡期の形態をよく残している。
城史  この城は天正2年(1574)、それまで山名氏の本城であった此隅山城にかわって、山名祐豊により築城された。 その名は落城した「子盗」(此隅)の名を嫌って「有子」と命名したという。 しかしわずか6年後の天正8年(1580)天下統一をねらう織田軍によって城は落城。 城主は因幡に出奔した。 その後城は織田系の城主の管理となるが、江戸時代に入り、ふもとに出石城が築城され、有子山城は廃城となった。
 (出石町教育委員会)
有子橋を渡って石段を登り始めると「出石城跡」と題した解説板がありました。 石灯籠を過ぎて石段を登っていくと、立ち並ぶ朱色の鳥居の手前から左へ道が分かれています。 有子山へはが並ぶ石段を登っていくのですが、 角には「歴史と学びの小径 諸杉神社」の道標や 「諸杉神社・径王寺・内町公園」の標識があって左の小径を指しているので、立ち寄っていくことにしました。
出石城跡
出石城は慶長九年(1604)に小出吉英によって山頂の城を廃して築かれたもので、 一国一城制による但馬唯一の城です。 平山城に分類され梯郭式といわれるように 有子山の麓に上から稲荷郭、本丸、二の丸、二の丸下の郭、三の丸と梯子を立てかけたように城を築いています。 また東には山里郭を設けて有事に備え、三の丸の周圍には山から掘り切りで水を引き、内堀をめぐらせ、 北に大手門、東西にもそれぞれ東門、西門を設け、天守閣は築きませんでしたが、 隅やぐらや多門を設けて要害としました。 城主は小出氏が九代(百年)、松平氏一代(十年)、仙石氏七代(百六十年余)と続き、 明治の版籍奉還まで二百七十年間、五萬八千石の本城として、また但馬第一の雄藩として威容を誇りました。 最上段の稲荷郭には城の鎮守稲荷神社を祀り、本丸、二の丸には宏壮な御殿を建て、渡り廊下で連結させていました。 また本丸には仙石公の藩祖、仙石権兵衛秀久の祀る感応殿や、昭和四十三年に復元した東西隅やぐらがあり、 往時の面影を偲ばせてくれます。
 (出石町観光協会)
諸杉神社
舗装された小径を緩やかに降っていくと、向こう側を向いて諸杉神社がありました。 石板が敷かれた参道の奥に社殿がありました。 拝殿の後ろにあるの屋根には3本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳え、 前に突き出た屋根にも2本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳える特徴的な形になっていました。 これからの散策の安全をお祈りしていきました。 参道の先には社務所や鳥居があって、神前橋の傍には「」の案内板もありました。
諸杉神社由緒
鎮座地 兵庫県豊岡市出石町内町
御祭神 多遅摩母呂須玖神(但馬諸助神)
多遅摩母呂須玖神は、新羅国王子天日槍命の嫡子で、母は多遅摩之俣尾の女前津見である。 古事記・日本書紀に記される清彦、田道間守の祖で、神功皇后の母、葛城高額比賣命の祖である。 創立年間は不詳であるが、延喜式内の古社で、始め出石川側の出石町水上に鎮座していたが、 当区にの守護山名氏が居城を出石町宮内の此隅山より出石有子山に移すに及び、当社を城下の現在地に移転されたという。 累代の出石城主の尊崇厚く、江戸時代小出大和守は長刀を奉献し、松平忠徳は社殿を改造し、 宝駕を具え華表を建て、治下瑞泉寺主釋大梅に諸杉大明神記を撰ばしめた。 寛保二年仙石政辰は社殿を改築し、神供料五石八斗を寄進し、宝暦二年神霊を勧進し、 且つ同僚諸侯及び有名な宗匠に俳句を求め、扁額として拝殿に奉納された。 仙石氏が出石城主のとき、在城の年は年首必ず自ら参拝し、参勤交代の時は帰城の年早々必ず自ら参拝された。 明治六年十月郷社に列せられたが、明治九年三月二十六日夜、民家より失火し、社殿は悉く類焼した。 これにより明治十五年新に工事を起し、明治十七年十月十四日に現在の本殿、拝殿が竣工した。 大正十三年四月二十一日縣社に列せられる。
本殿建物 正面三間、背面二間、側面二間、入母屋造、
正面千鳥破風付、向拝一間、軒唐破風付、銅板葺
祭 礼 例祭(秋祭) [十月中旬]
境内神社 川下神社 天神社 厳島神社 社日神社 新田神社
三柱神社 八幡神社 稲荷神社 大國神社 稲荷神社
諸杉神社から引き返して朱色の鳥居が続く石段を登り始めると、 右側の「」の扁額が掲げられた鳥居の先に社殿がありました。 社殿を確認してから石段を1分ほど登っていくと、 右側の石橋の先の広場には「本丸跡」と刻まれた石碑がありました。 そこを過ぎて更に1分ほど登っていくと石段は終わりになります。 正面には手水舎がありました。 左側には有子山の登山口がありますが、 右側すぐの所に稲荷神社が見えているので立ち寄っていきました。
稲荷神社
右側の石橋を渡った所の朱色の鳥居をくぐっていくと、「」の扁額が掲げられた石製の鳥居が立っています。 その先に続く参道を進んでいくと稲荷神社の社殿があって、 「社殿屋根替え修復竣工記念」の絵馬が幾つか納められていました。 拝殿の後ろには、朱色の渡り廊下が続くがありました。 境内には「」の扁額が掲げられた鳥居と小祠もありましたが、 いずれも由緒などを記したものは見かけませんでした。
有子山登山口
稲荷神社から引き返して手水舎の所まで来ると、 設備への石段の袂に「有子山(標高321m)登山口」の標識が出ていて、右へ続く山道を指しています。 ここが有子山へのになります。 寄り道をしていたこともあって、駐車場から19分ほどかかりました。 入口には小祠があって、中には綺麗に彩色されたが納められていました。 その脇にも「有子山登山口」の標識が立っていました。
石垣沿いの山道を登り始めると、「史跡 有子山城跡」と刻まれた石柱が立っていました。 正面にある大きなの手前まで来ると、左へ登っていく山道があります。 「遊歩道」の標識が立っていて、その道を指しています。 標識には甲冑姿の武士のも載っていました。 優しそうな表情をしていて、散策する人を見守っているように思えました。 ここから本格的な山登りが始まります。
山火事注意
 (出石郡分署、消防団)
土砂流出防備保安林
所在場所:豊岡市出石町内町字城山4-1ほか
この付近一帯の山林は、保安林に指定されています。 次の行為をしようとするときは、豊岡農林振興事務所へ相談して下さい。
1.立木竹の伐採及び損傷
2.下草、落葉、落枝の採取
3.樹根、土石の採掘、その他土地の形質の変更
山火事に注意しましょう。
 (平成20年度設置 兵庫県)
城山展望台
斜面を横切るようにして続く道を登っていくと、1分もしない所に壊れかけた東屋がありました。 傍には「城山展望台」と刻まれた石柱が立っていましたが、 周囲には樹木が茂っていて、展望は良くありませんでした。 すぐ先に「遊歩道」の標識と「本丸まで九七〇メートル」の標柱がありました。 道はここから右へ曲がって、急傾斜のを登っていきます。
一丁
大きな石が剥き出した急な所を登っていくと、少し緩やかなになってきます。 「遊歩道」とは云っても公園内の道ではなくて単なる山道ですが、 幅は広めでしっかりとした明瞭な道になっていました。 植林地と雑木林が混じったような尾根を登っていくと、 傾斜が増し始める辺りに「一丁」と刻まれたが佇んでいました。 東屋から2分ほど登った所になります。
傾斜が増した尾根道には、自然木をU字金具で止めた階段が続いていました。 程なくして益々傾斜が増してくるとが張られていましたが、 登っていく分にはそれほど必要ではありませんでした。 息を切らせながら石仏から3分ほど登っていくと、 トラロープが途切れた先に「遊歩道」の標識と「本丸まで八五〇メートル」の標柱がありました。
再びトラロープが張られるようになったを登っていきます。 暑い夏場なら疲労困憊しそうな傾斜がありますが、この時は冬とあって、息が切れるだけで済みました。 しかし、脹脛が痛くなってくるので、時々立ち止まって足を労わりながら、岩も剥き出す尾根を登っていきました。 先ほどの標識から5分ほど登っていくと、トラロープが途切れて緩やかになった所に、 「遊歩道」の標識と「本丸まで七二〇メートル」の標柱がありました。
四丁
少し傾斜が緩やかになった広めの尾根を登っていきます。 2分半ほど登って小さな肩のような所に着くと、 「四丁」と刻まれたが佇んでいました。 「一丁」の石仏から10分半ほどの所になります。
尾根の肩
僅かな馬の背のような所を過ぎると、再びトラロープが設置されている急傾斜の尾根になってきます。 は、一貫して自然木をU字金具で止めた形になっていました。 息を切らせながらゆっくり登っていくと、緩やかになった尾根の肩に出ました。 「四丁」の石仏から7分ほど、有子山登山口から24分ほどで登って来られました。 登り着いた所には、「遊歩道」の標識と「本丸まで五〇〇メートル」の標柱がありました。 これで急登は終わりになりますが、何はともあれ立ち止まって、呼吸を整えていきました。
ひと息入れたところで、標識に従って、右へ続く道を進んでいきます。 これなら「」と呼んでも良さそうだと思いながら、 これまでの道から一転して、斜面を横切るように続く緩やかで歩き易い道を進んでいきます。 右側にはトラロープが張られていますが、谷側へ落ちるのを防止するためのロープのようでした。 土が階段状に切られた所を登っていくと、「遊歩道」の標識が立っていました。 先ほどの標識から2分ほどの所で、道端には雪が少し残っていました。 地形図の破線の道が二股に分かれている所でしょうか。 正面(*)には尾根があって、広い道は右へ巻くようにして続いています。 にも道があるように思えましたが、確かめるのは省略しました。
有子橋の傍の解説板に載っていた地図では、本丸から北へ延びる尾根に曲輪群が続いています。 正面にあるのがその尾根で、そこに曲輪群に通じる小径があるように思えましたが、 今ではあまり歩かれていないのかも知れません。
後日に正面の尾根を歩きました。(「有子山を参照」)
引き続き、広くて緩やかな道を進んでいきます。 道を塞いでいる倒木を越えて進んでいくと、道端には次第にが見られるようになりました。 歩く所には残っていませんでしたが、融け出した雪のためか、少しぬかるんでいる所もありました。 3分ほど進んでいくと、右側の樹木が途切れて見晴らしの得られる所がありました。 眼下には出石のが広がり、奥の方にはも聳えていました。
少し登るようになると、道は左へ折れ曲がっていきます。 角には「遊歩道」の標識と「本丸まで二四〇メートル」の標柱がありました。 道なりに右・左と曲がりながら登っていくと、上の方にが見えてきました。 その方向に折れ曲がりながら更に登っていくと、小広くなった広場に着きました。 右側が開けていて展望地になっていました。 樹木に邪魔されながらも、出石のが見えていました。 左の奥の方には雪が残る山並みも見えましたが、方面でしょうか。
左へ曲がって更に登っていくと石垣の前に出ました。 広い道は石垣のの小広場を経てその先へ続いていますが、 地形図に二重線で載っている道で、有子山を巻いていく林道(*)になります。 頂上へ続いているのは石垣のの細い道になります。 どちらへ行けばよいのか迷う所なので道標類があっても良さそうに思いますが、付近にそれらしいものは見かけませんでした。
*この先の鯵山峠で見かけた看板によると、この林道は城山遊歩道というようです。
石垣の傍のを登っていくと小広場に出ます。 振り返ると出石のなどを望む眺めが広がっていますが、 展望は頂上に着いてから楽しむことにして、その先へ登っていきます。 トラロープが垂らされたをひと登りすると、山頂直下にある小広場に出ます。 正面に見えている石垣の上が有子山の頂上になります。
有子山 (標高321.5m)
石垣の右側にあるを登っていくと、広くなった有子山の頂上に着きました。 尾根の肩から19分ほど、麓の有子山登山口から45分ほどで登って来られました。 山頂に建つ東屋の傍には「国指定 有子山城跡」と題した解説板が設置されていて、 往時のも載っていました。 その横には三等三角点もあって、地形図に載っている321.5m峰になるようです。
国指定 有子山城跡
指定年月日 平成8年11月13日
指定理由
基準 特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準(昭和26年文化財保護委員会告示第2号)史跡の部二(城跡)による。
説明 有子山城跡は、室町幕府の四職家で最大級の大名であった山名氏が、根拠地である但馬国に築いた山城跡である。 同じく山名氏の居城であった此隅山城跡とともに、我が国の中世の政治史と城郭史を示す重要な遺跡であるので、 山名氏城跡として一括して史跡に指定し、その保存を図るものである。
但馬山名氏 山名氏は新田氏の流れをくむ関東上野国の武士で、足利尊氏にしたがって室罰幕府成立の騒乱で活躍。 室町幕府の四職家で最大級の大名となった山名氏は、 その一族が但馬、因幡、丹波、美作など日本全国66カ国中11カ国の守護職を兼帯して「六分の一殿」と呼ばれた。 明徳の乱により一族の内紛を起こし衰退したが、嘉吉の乱で勢力を回復し、 応仁の乱では宗全(持豊)が西軍の総帥となった。 但馬はこの山名氏の根拠地であり、戦国時代まで一貫して山名氏が守護大名としてこの但馬国を治めた。 しかし戦国時代に入って山名氏はその勢力を失い、 永禄12年(1569)に織田軍の木下秀吉の但馬侵攻により、当時居城であった北方約2.5kmにある此隅山城が落城。 その後に山名祐豊が築いた城がこの有子山城で、天正2年(1574)のことという。 またその名は「子盗」(此隅)の名を嫌って「有子」と命名されたものという。 しかし天正8年(1580)ふたたび織田軍の羽柴秀長の但馬侵攻によって有子山城は落城、城主は因幡に出奔した。 このあと秀長が入城し、のち天正13年(1585)には前野長康が5万石で入城するが、 豊臣秀次事件に連座して改易され、播州龍野から小出吉政が入城。 江戸時代に入りその子吉英の近世出石城築城により廃城となった。
城郭遺構 最上部に石垣によって築かれた主郭とその西方に階段状に続く曲輪があり、 また、主郭の東南に千畳敷と呼ばれる曲輪が残っている。 豊臣時代のいずれかの城主によって改築されたものと思われる。 山腹にも小規模な曲輪や堀切などの空堀を見ることができ、中世山城の特徴を今によく伝えている。 さらに周辺には石垣に用いられている石と良く似た石が露出しており、石垣の石が山中から採取されていたことを思わせる。
有子山の北側が開けていて展望が得られます。 眼下には出石のが広がり、愛車を止めてきたも見えていました。 北へ流れる出石川の先にはが聳え、 西の方には方面の稜線が続いていました。 北東にもが続き、近くにある山の奥には雪の残る山が頭を覗かせていましたが、 方角からすると法沢山高竜寺ヶ岳でしょうか。 東屋にある円いテーブル・ベンチに腰かけて、景色を眺めながらひと休みしていきました。
眺めを楽しんだら有子山から下山していきます。 登ってきた道を引き返してもいいのですが、今回は東側にある鯵山峠へ続く林道を降っていくことにしました。 東屋の先へ進んでいくと、真ん中の木を囲むようにしてがありました。 そこを過ぎて山頂の端までいくと、階段状に切られた細いが現れます。 かなり傾斜があって滑りやすくなっていましたが、張られているトラロープに掴りながら降っていきました。 足元に注意しながら左から右へ曲がりながら降っていくと、 有子山千畳敷との間にあるの端に降り立ちました。 脇には有子山を巻いてきた林道が通っています。 有子橋の傍の解説板に載っていた地図によると、谷の先へ続く曲輪群への小径(*1)もあるようです。 千畳敷へ登っていく小径(*1)もありますが、今回は右側に続く広い(*2)を緩やかに降っていきます。
*1 後日に、正面の小径と右の小径を歩きました。(「有子山」を参照)
*2 後日に、南側から林道の途中に登ってくるルートを歩きました。(「有子山」,「鰺山峠」を参照)
快適な林道を進んでいくと、程なくして右前方の奥に残雪を頂いた山が見えてきました。 良くは知らないのですが、方角からするとでしょうか。 特に分岐などはなくて、明瞭で歩き易い降り基調の道が続きます。 小型車なら通っていけるだけの道幅があって、車が通ったと思われる跡も見かけました。 樹間や梢から時折見える山並みを眺めながら淡々と降っていきます。
256m峰
やがて登り坂になってきますが、それほど傾斜は急ではないので苦労することはありません。 正面にこんもりとしたを見ながら登っていくと、緩やかなになった所に着きました。 V字形の谷に降り立ってから13分ほどの所になります。 地形図に載っている256m峰になるようですが、 周囲には樹木が茂っているし、「山頂」という雰囲気は特にありませんでした。
高みを越えて降っていきます。 緩やかになった道を進んでいくと、尾根のを進むようになります。 程なくして尾根の背に出ると、軽い登り坂になってきます。 僅かな高みを進んで降り始めると、右側に分かれていく道がありました。 V字形の谷に降り立ってから25分ほどの所になります。 鯵山峠へは正面の道を降っていくのですが、右前方へ分かれていく道も広くてしっかりとしていたので、 行く末を確かめようと思って、歩いてみることにしました。
193m峰
軽く登っていくと、道端に「火の用心No.97」「火の用心No.98」の色褪せた標識がありました。 どうやら送電線の保守路のようだと思いながら登っていくと、 少し右へ曲がってを緩やかに進むようになります。 幅はこれまでの林道よりも狭まってきますが、明瞭で歩き易い道になっていました。 軽く登るようになると僅かな高みに着きました。 地形図に載っている193m峰になるようです。
97番鉄塔
高みを越えて降っていくと、程なくして送電線の鉄塔「新綾部出石線97」が立っていました。 林道から3分ほどの所になります。 前方が開けていてを眺めることが出来ました。 林道からも見えていましたが、残雪を頂いた山はでしょうか。 道は鉄塔の所で行き止まりになっている様子だったので、引き返すことにしました。
往復8分ほどで引き返してきて、林道を更に降っていきます。 少し降り傾斜が増してくると、コンクリート打ちされた道になってきます。 「テレビ線埋設地点」の標識を過ぎて左へ曲がっていきます。 林道に戻ってから3分ほど進んでいくと、共同受信用のテレビアンテナが立っていました。
注意
この附近にテレビ用ケーブルを埋設しています。 掘削等には十分注意してください。
 (テレビ共同受信施設組合)
鯵山峠
右へ曲がって更に降っていくとがあります。 脇を抜けていくと、「火の用心No.97」の標識の隣りに看板があります。 それによると、これまで歩いてきた林道は「城山遊歩道」というようでした。 そのすぐ先で、左右に通る道に出ました。 ここが鯵山峠になります。 鉄塔から林道に戻ってから6分ほど、鉄塔への寄り道も含めて有子山から42分ほどで着きました。 脇に設置された「近畿自然歩道」の案内板には「」と題した地図が載っていて、 今回歩いた道も描かれていました。 その傍にはも佇んでいて、小銭がお供えされていました。
この道路は城山遊歩道につき、車輛の通行を禁止します。
 (出石町)
近畿自然歩道 出石遠望鯵山峠越えのみち
(下寺坂バス停〜出石営業所バス停) 5.1km
城山遊歩道の自然
ここは有子山城址まで続く城山遊歩道の入り口です。 城跡までは、コナラやソヨゴなどが生える雑木林の尾根道で、四季折々の花や野鳥と親しみながら散策できます。 また、冬にはシカの姿を見かけることがあります。
【コバノミツバツツジ】 春、4月、葉に先立ってピンクの花を咲かせます。ミツバツツジに比べて葉や花は小ぶりです。
【リョウブ】 夏、7月ごろ、白い穂状の花をつけます。花には、ハナムグリやカミキリなど多くの昆虫が集まります。
有子山城址
此隅山城が永禄12年(1569)羽柴秀吉に攻略されたのち、天正2年(1574)山名氏により移し造られた天険の山城で、 移城間もない天正8年には再び、秀吉の攻略に会って落城しました。 航空写真では、その城郭跡がよくわかります。 西の丸下の石垣は、荒々しい野面積みで高さ4〜5mに及びます。 (急峻な有子山に築かれた石垣は、当時の難工事であったことが偲ばれます
 (環境省、兵庫県)
角には近畿自然歩道の道標が立っていて、は「下寺坂バス停2.3km」、 は「茶臼山古墳1.7km・加藤弘之生家1.7km」、 は「城山遊歩道」となっています。 鯵山峠(*)はここから右へ数10m進んだ所にありますが、 出石の街へ向かって左へ続く道を進んでいきます。
*後日に鰺山峠から東へ続く道を歩きました。(「鰺山峠」を参照)
小型車なら通っていける幅のある道を進んでいきます。 雑木林の先にある太い竹が混じる植林地の斜面を緩やかに降っていくと、 左側が開けて方面の山並みを見渡せる所がありました。 程なくして、道は大きく右・左と曲がりながら、少し傾斜の増した坂を降るようになります。 傾斜が緩やかになってが目立つ所を過ぎていくと、右側の谷には集落が見えてきます。
谷山地区
山際に続く道を進んでいくと、民家の前に向こう側を向いた「県道寺坂柳線」の看板が立っていました。 そこを過ぎていくと、谷山地区の集落にあるX字路に出ました。 鯵山峠から11分ほどで降りて来られました。 左側に建つには「岩石採取標識」と題した看板が掲げられていました。 掠れていて良くは読めませんでしたが、日本陶料株式会社が採石していた所のようでした。 往時のも載っていましたが、あまり明瞭ではありませんでした。 小屋の脇からレールが山へ向かって延びていて、その先にの入口がありましたが、 鉄扉で閉ざされて「立入禁止」の札が掲げられていました。 以前は採石をトロッコで運び出していたようですが、この時には見かけませんでした。
県道寺坂柳線
この先積雪のため通行できない場合があります。
期間 12月1日から3月25日まで
 (豊岡土木事務所)
X字路の脇にはの道標が立っていて、前方の道は「茶臼山古墳0.9km」、 今来た道は「城山遊歩道入口0.8km・鯵山峠0.9km」となっています。 正面の道を進んでいくと道端にがあって、中には3体の石仏が納められていました。 右へ分かれていく道を見送って民家の前に続く道を進んで谷山川沿いに出ると、道が二手に分かれていました。 舗装路は左へ曲がっていきますが、このまま川沿いの未舗装路を進んでみました。
次第に狭くなる道を進んでいくと、谷山川に架かるに出ました。 左側からは先ほどのX字路で分かれてきた道が合流してきます。 橋を渡っていくと、山際にがありました。 その前を進んでいくと、「三界無霊寺」や「南無妙法蓮華経」などと刻まれた石柱の横に、 綺麗に彩色された7体のが納められた祠がありました。
砂防指定地
この地域内において、土地の掘さく等の行為をする場合は許可が必要です。 豊岡土木事務所にご相談下さい。
 (兵庫県)
谷山区公民館を過ぎていくと「」と題した案内図がありました。 その先にはカーブミラーの設置された十字路があり、入佐山公園登り口への道が右へ分かれていきます。 十字路を直進していくと「」がありましたが、 先ほどの案内図とは掲載範囲が少し異なっていました。 揚子谷橋を渡っていくと、左側を流れるには「ホタル捕りの里計画」の看板が出ていました。 右側に石部神社があったので、立ち寄っていきました。
「下谷 故郷の水辺作り」事業 ホタル捕りの里計画
下谷地区では、ホタルを卵から飼育し、大きく育った幼虫を放流しています。
下谷区青年部は、次世代へ伝えられる故郷の思い出作りのために、この活動を通じて子供達が環境問題を考え、 自然を慈しむ心を養って心身共に健全に成長することを願い、子供会と共に活動しています。
 (下谷区青年部)
石部神社
右側の「式内石部神社」、左側の「但馬国皇大神宮」と刻まれた石柱を過ぎていくと、 鳥居の先には天然記念物に指定されている巨大ながありました。 右側には社務所がありました。 石段を登った先に石部神社の社殿があり、 本殿の屋根には3本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 左側にある大きな社がで、 それらの間にある「学問の神」の札が掛かる祠がのようでした。 境内は苔生していて、歴史を感じさせる雰囲気になっていました。
石部神社の由緒
石部神社は御祭神を「天日方奇日方命(あめのひかたくしひかたのみこと)」と申して、 延喜式神名帳(1100年前)に記載されている由緒のある神社です。 その神前には、ご神木の大ケヤキがそびえています。 この木の樹齢は一千年といわれ、幹の周囲は八メートル、高さ三十メートルあります。 長年の風雪に堪えて幹には苔を帯びています。 「健康長寿」「幸福安全」を願って、昔から「幸の大ケヤキ」と呼ばれています。 境内には「皇大神宮」と「天満宮」がまつってあります。
 (石部神社)
出石町指定文化財(天然記念物)石部神社の大ケヤキ
 (出石町教育委員会)
私達の宝 巨木を大切に守りましょう
但馬の宝 先祖が守った自然と巨木
巨木の見学は、マナーを守り、樹の心を大切にしましょう。
自然を大切に、後世に残そう。
・柵内に入らない。 ・根元周囲を踏んで根を傷めない。
 (但馬巨木保存会、但馬緑化協会)
伊木水の歌公園
出石高等学校の前を過ぎていくと、谷山川伊木橋が架かっています。 道は右へ曲がっていきますが、橋の先に案内板が見えたので立ち寄っていくことにしました。 橋を渡っていくと東屋が建っていて、その脇に「谷山川トンネル放水路」と題したが設置されていました。 擬木の柵が設置されたが右の山際へと続いていたので、歩いてくことにしました。 この先で見かけた標識によると伊木水の歌公園というようです。 川に列をなす円筒に支えられたを眺めながら進んでいくと、 柵に代ってが続くようになって、城下町らしい風情を感じます。 東屋まで来ると、公園の出口に続く道が左へ分かれていきます。 その道を見送って白壁沿いに進んでいくと、「」の入口がよく見えていました。
谷山川トンネル放水路
(1)目的
一級河川円山川系谷山川は、流域面積6.33kuの河川であり、出石町の市街地を流れ出石川に合流している。 現河道は、河床勾配が緩くまた周辺市街地の地盤が低いことから、 出石川の背水の影響と合せて谷山川の出水により、過去に幾度かの浸水被害を生じている。 一方、出石町は旧城下町で史跡・文化財が数多く、谷山川沿いには多数の古寺等が並び、 "清流谷山川"の環境要素としての役割も大きく、それ時代が観光資源と考えられている。 このため、度重なる水害に対し、抜本的な治水対策が要請されてきたが、 街並の保存を考えれば、堤防の嵩上げ・河道拡幅といった河川改修は非常に困難な状況にある。 従って、本事業ではより効果的で、地域に調和した洪水処理対策として、市街地上流地点にて、全量カット方式で分流し、 トンネル河川による出石川への放水路を計画し整備するものである。
(2)事業の概要
・事業名 中小河川改修事業
・事業個所 出石郡出石町伊木〜小人地内
・事業期間 昭和58年度〜平成5年度(工事着手は昭和63年度より)
・総事業費 約28億円
・施工規模 全体施工延長 906.8m
 (兵庫県豊岡土木事務所)
天満宮
東屋まで引き返して公園から出ていくと左右に通る道に出ますが、 直進して緑色の金網柵沿いに続く道を進んでいきます。 谷山川に架かる中ノ橋を渡った先のT字路を左折して街中を進んでいくと、 カーブミラーの立つT字路の角に天満宮がありました。 中には絵馬が幾つも掛けられ、天満宮張幕奉納者の氏名が書かれた板もありました。 神社の背後には、登ってきた有子山が聳えていました。
天満宮由緒
当天満宮は学問の神様として有名な九州大宰府天満宮の分社で、御祭神は菅原道真公です。 明治の始め、神佛分離により藩校弘道館正門跡の現在地にまつられたものです。 弘道館は維新期に東京大学初代総長加藤弘之博士などの人材を多数輩出しています。 なお、当社の東隣には町人に儒学を教えた義倉役所もありました。 現在もこの附近には弘道館跡碑(聖堂跡)や藩儒桜井氏の屋敷跡など、 学問によかりのある文雅な遺跡が散在しています。
学業成就・家内安全祈願大祭を毎年七月二十四・二十五日に行っています。
大手前
白壁の珈琲蔵「風空路欧(ふくろう)」や金光教出石教会を過ぎていくとの横に出ます。 駐車場を左から回り込むようにして谷山川沿いを進んでいくと、 有子山へ登っていったが架かっています。 そこを過ぎていくと、愛車の待つ大手前駐車場に戻ってきました。 谷山地区のX字路から40分ほどで到着しました。
丁度昼時になったので、駐車場の脇にある「」に入って、 名物だというを食べていくことにしました。 最初の注文時は5皿ですが、食べ終わった頃を見計らって店員が追加注文を伺いに寄ってきます。 皿は小さくて5皿ではお腹が一杯にならないので、追加することしました。 1皿ずつ追加できるとのことなので、腹具合と相談の上で枚数を決めました。
大手前駐車場は入場時に料金を支払いますが、 レシートと一緒に「出石観光ガイドマップ」を貰えました。 駐車場の脇に観光センターがあるので、街中を散策する場合は立ち寄ると良さそうです。
三百年の伝統 出石皿そば
宝永三年(1706)に出石城主の松平氏と信州上田城主の仙石氏がお国替えとなりました。 その際、仙石氏と供に信州から来たそば職人の技法が在来のそば打ちの技術に加えられ出石そばが誕生しました。 その後、出石焼が始まり白地の小皿に盛る様式が確立されました。 今では、約50軒ものそば屋が並ぶ関西屈指のそば処として知られています。
挽きたて、打ちたて、茹がきたて 伝統の「三たて」製法
多彩な薬味も出石皿そばの特徴です。 わざび・ねぎはもちろん、多くのお店で卵・山芋等も定番の薬味としてそえられています。
 (出典:出石観光ガイドマップ「出石散策絵図」)