概 要 |
有子山は豊岡市出石町にある標高321.3m(点名:出石)の山で、かつては山頂に有子山城がありました。
広くなった山頂の北側が開けていて、山並みや出石の街並みなどを見渡せる素晴らしい眺めが広がります。
今回は大手前から出石城跡を経て有子山と千畳敷へ登り、間にある鞍部から北へ延びる尾根を降るルートを半周回します。
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起 点 |
豊岡市出石町 大手前
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終 点 |
豊岡市出石町 大手前
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大手前…出石城跡…登山口…中間地点…有子山…千畳敷…中間地点…登山口…稲荷神社…大手前
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所要時間 |
2時間20分
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歩いて... |
大手前から続く「遊歩道」の途中までは、横木の階段やトラロープが続く急傾斜の山道になっています。
中間地点からは傾斜が緩やかになって「遊歩道」の雰囲気がしてきます。
千畳敷から中間地点へ降るルートは一般的ではないようで標識類は見かけませんが、
トラロープが張られていてルートを示しています。
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関連メモ |
有子山,
有子山
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大手前
豊岡市役所の出石庁舎の傍にある大手前駐車場(有料)に車を止めて歩き始めます。
脇には「」があって、
今回登る有子山も載っていますが、山頂までの道は描かれていません。
大手前駐車場の北側の「八木通り」と南側の「内町通り」は一方通行になっているので、車で来る時は注意が必要です。
城下町 出石
出石町は但馬文化発祥の地として古事記、日本書紀にもその名が見え、
中世には山名宗全一族の本拠地として二百年間繁栄を誇り、
近世は小出、松平、仙石氏ら五万八千石の城下町として但馬に並びなき繁華を極めました。
二千年の歴史に薫る文化遺産の数かず、井然とした街路、美しい山河のたたずまいなど、
出石が但馬の小京都といわれるゆえんです。
”見どころ”
出石城跡
旧役場の背後に聳える有子山(321m)の山頂には天正二年(1574)に山名氏政が築城した高城跡があり、
山麓には慶長九年(1604)に小出吉英が築いた平山城が明治まで存続しました。
現在、城跡には昭和四十三年に再興した東西隅櫓や三丹一の初午祭で知られる有子山稲荷神社、
仙石氏の藩祖で石川五右衛門を捕えた豪傑、仙石権兵衛秀久を祭る感応殿、
粛軍演説で勇名を馳せた斎藤隆夫代議士の顕彰碑などがあります。
宗鏡寺(沢庵寺)
出石が生んだ名僧 沢庵の再興した臨済禅の古刹で、沢庵の墓、投渕軒、不識園、夢見せの鏡など、
和尚ゆかりの遺跡、遺品が多く残っています。
出石神社
市街地から約二キロ北方、但馬一の宮で、但馬開発の祖神、天日槍命を奉斎し、土木の神として崇敬されています。
家老屋敷
役場西五十メートル、藩の大老食で仙石騒動の中心人物、仙石左京の旧邸。
西隅の石垣は城中西門の遺構です。
辰鼓楼
出石のシンボル辰鼓楼は辰(時)を告げた鼓楼で、明治以降は時計台。
往時はやや南寄りに大手門がありました。
その他
桂小五郎の潜伏遺跡、東京大学初総長 加藤弘之の生家、藁葺きの武家長屋など、
史跡や城下町の名残りが町内のそこかしこに散在しています。
特産には出石焼とちりめんが古くから有名です。
出石ライオンズクラブ
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駐車場の道路向かいにがあって、
背後にはこれから登る有子山が聳え、山頂にある東屋も見えます。
「城下町出石」の案内板があって、有子山城跡が紹介されています。
正面にあるを渡り、その先の出石城登城門をくぐっていきます。
天守のようにも見える隅櫓へ向って、広いを登っていきます。
左へ分れていく石段の先にはがあります。
二の丸跡は見送って、正面に続く石垣沿いの石段を更に登っていきます。
城下町出石
出石城跡
1604年に小出吉英により有子山の麓に築かれ、一国一城令以降は但馬国唯一の城郭として、近年まで使用されてきました。
出石川・谷山川から成る外堀は城下町全体を囲い込むように配置され、出石の町並みの基礎となっています。
建物は明治元年に全て取り壊されましたが、現在では隅櫓や登城橋、登城門が建築されています。
宗鏡寺
山名氏の菩提寺として創建された宗鏡寺は、1616年に沢庵和尚によって再興されました。
通称「沢庵寺」とも呼ばれ、沢庵和尚作と伝えられる本堂庭園は県指定文化財にもなっています。
出石家老屋敷
江戸後期の上流武士の居宅で、市の指定文化財となっている、大名行列の諸道具が展示されています。
出石永楽館
近畿最古の芝居小屋で、平成20年に44年ぶりに蘇りました。
歌舞伎など興行の無い日は一般公開され、廻り舞台や奈落などの舞台裏も見学できます。
有子山城跡
1574年に但馬守護 山名祐豊が有子山山頂(標高321m)に築いた堅固な山城です。
東西約740m、南北約780mもある大城郭で、1615年まで使用されました。
出石城から1時間ほど登ると、素晴らしい眺望と、石垣や井戸曲輪等の城跡を見ることができます。
出石資料館
明治時代の豪商福冨家の旧邸を資料館として改築し、出石城下町の商業地として繁栄を今に伝えています。
また出石藩主が使用した鎧・兜や調度品が展示されています。
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出石城跡
突き当たりまで登ると、左側の平坦地にがあります。
振り返って、感応殿と隅櫓を眺めていきます。
感応殿の前には「感応殿」の解説板と「出石そば発祥の由来」の石碑があります。
正面へ進んでいくと、隅櫓の脇に「出石城」「本丸跡」のがあるので、
ここに出石城の本丸があったようです。
感応殿
この社殿は、感応殿といい、出石藩主仙石氏の祖権兵衛秀久公を祀っています。
公は美濃(岐阜県)の人で、豊臣秀吉に仕えて功があり洲本、高松の城主となり一時勘気を受けて浪人しましたが、
小田原攻めで奮戦し小諸城主に返り咲きました。
その豪勇のほどは大盗賊石川五右衛門を捕らえた豪傑として伝説化されています。
仙石氏は、公のあと子の忠政が新種上田に移り玄孫政明が宝永3年(1706)に出石に移封されて5万8千石を領し以来廃藩まで7代163年間続きました。
明治に入って旧家臣らによって本丸跡に公を祀る感応殿が建立され今日に至っています。
以後町の人々は本丸を権兵衛さんと愛称をもって呼び、例祭は5月の祥月命日に行われています。
仙石科野大宮社御神木奉賛会
出石そば発祥の由来
ここは旧出石城本丸跡で祠は感応殿といい城主千石氏の藩祖権兵衛秀久公(信州小諸城主)を祀り、
その為権兵衛さんと市民から親しまれている場所です。
四代政明公上田城主の時、尊崇されていた古社・科野(信濃)大宮社御神木の大欅が枯死したのを大層憂い、
切株に覆い屋を施し大切に保存され現在も、在りし日の面影を偲ばせて遺されています。
政明公は大変そば好きで宝永3年(1706)出石の松平忠徳公(のち忠周=老中)とお国替えで出石に入部の際、
信州一の蕎麦打ち名人を伴われ入国しそばを当地に広められました。
後永年に亘り改良と技術研鑽を重ね、出石焼の小皿に盛り付ける独特の「出石皿そば」を創出し今日に受け継いできました。
本年そば伝来300年を迎え、科野大宮社三柱の御祭神の依代として、大欅の一部を譲り請け「出石皿そば」の守護神とし、
政明公への報恩の念を込め、当祠に奉齋しました。
ここに関係社一堂末代迄のお祀りを誓い合い、「出石皿そば」の品質向上と発展を期し、碑文を刻み由来を記しました。
平成18年11月3日 仙石科野大宮社御神木奉賛会
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登山口
正面の石橋を渡って右へ曲がり、朱塗りの鳥居が続くを登っていきます。
突き当たりまで登ると、正面にがあり、
傍には「登山お助け杖」が置かれ、「有子山登山道の見所」の看板が出ています。
左側には「有子山登山口」の標識が出ていて、ここが今回の登山口になります。
駐車場から11分ほどの所になります。
石段を数段登って右へ曲がった所に「史跡 有子山城跡」のが立っています。
傍には「登山における注意事項」の看板があって、「」と題した案内図が載っています。
登山お助け杖
ご自由にお使い下さい
ご使用後は必ずご返却下さい
豊岡市商工会青年部出石支部
有子山登山道(全長約1km)の見所
一、 |
山頂付近の有子山城の遺構
主郭付近には当時の石垣や但馬地方最大級の大切岸が現存している。
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二、 |
千畳敷
但馬地方最大級の曲輪。築地堀跡や庭園跡が見られる。
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三、 |
山頂付近からの眺望
出石の町全体が見渡せ、季節などの条件が合えば雲海を見ることも出来る。
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登山所要時間は1時間程度です。
豊岡市商工会青年部出石支部
有子山(標高321m)登山口
入山されるみなさんへ 熊の出没にご注意ください
・鈴やラジオなどを携帯し音で人の存在を知らせること
・食べ残しや食べ物の容器等は野外に捨てないこと
・単独で入山しないこと
・夕暮れや明け方は熊が活発に行動するので特に注意すること
・熊の痕跡があった場合はすみやかに下山すること
豊岡市役所
登山における注意事項
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自分の体力(体調)・装備・知識を再確認してください。
1つでも欠けていると思ったら勇気をもって登山を中止しましょう。
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● |
天候を把握して、早めの出発、早めの下山を心がけてください。
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● |
山頂は通過点 下山こそ細心の注意をしましょう。
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● |
自生する植物や野鳥は共有の財産です。
採取等は絶対しないでください。
(法律により罰せられる場合があります)
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登山道には急勾配の山道や道幅が狭い所、岩場を登る所などがあります。
危険だと思う場所には近づかないでください。
ケガや事故については自己責任。
安全にトレッキングをしてください。
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登山道では携帯電話の通じない場所(圏外)があります。
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危険な野生生物(スズメバチ・マムシ・ツキノワグマ・イノシシ・シカ等)に遭遇する場合があります。
危険なものには手を出さないでください。
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足元の草花や木の根などに思いやりを!
ゴミは必ず持ち帰りましょう。
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豊岡市・但馬國出石観光協会
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広い道を登り始めると、すぐに大きながあります。
横木の階段を左へ曲がりながら登り始めると「遊歩道」のが立っていて、甲冑姿の武士のイラストが載っています。
標識を過ぎていくと、可愛らしいが佇んでいます。
左へ曲がりながら軽く登っていくと、「城山展望台」と刻まれた石柱が立っています。
登山口から2分ほどの所になります。
以前に来た時には東屋が建っていましたが、既に無くなっています。
周囲には樹木が育っていて、展望は良くありません。
右へ曲がって、岩が剥き出すを登っていきます。
登り口には「遊歩道」の標識が立っていて、「本丸まで980メートル」のもあります。
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尾根にはまだ新しい様子のが続きます。
「遊歩道」とは云っても公園内の道ではなくて単なる山道ですが、横木の階段が途切れながら続いて明瞭な道になっています。
傾斜が急な尾根を息を弾ませながら登っていくと、「一丁」のが佇んでいます。
石仏を過ぎるとが続くようになりますが、掴まる必要はありません。
小さく曲がりながら続く階段を登っていくと、「遊歩道」の標識が立っていて、「本丸まで850メートル」のもあります。
標柱を過ぎて登っていくと、「二丁」の石仏が佇んでいます。
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横木の階段が続く急な尾根を更に登っていくと、「三丁」のが佇んでいます。
少し傾斜が弛んだ所に着くと、「遊歩道」の標識が立っていて、「本丸まで720メートル」のもあります。
すぐに傾斜が増してくるを登っていきます。
急な階段を登っていくと、踊り場のような所に着きます。
登山口から18分ほどの所になります。
脇には「四丁」のが佇み、「土橋・堀切」の標識が立っています。
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すぐに急になるを登っていきます。
左右にトラロープが見られる尾根を登っていくと、「五丁」のが佇んでいます。
息を弾ませながら登っていくと、が見えてきます。
傾斜が緩やかな所に着くと、「遊歩道」の標識が立っていて、
「本丸まで500メートル」の標柱や「北第六曲輪 伝侍ヤシキ」の標識もあります。
左前方にはベンチが置かれたがありますが、ここに曲輪があったようです。
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中間地点
少し右へ曲がって、を進んでいきます。
程なくして傾斜が急になると、またを登るようになります。
頑張って階段を登っていくと平坦地に着きます。
登山口から29分ほどの所になります。
正面には「遊歩道」のがあって、「中間地点(500m)」の板が取り付けられています。
手前には「六丁」のが佇み、「北第五曲輪 伝侍ヤシキ」の標識もあります。
左側のには曲輪があったようです。
かなり汗を掻いて疲れたので、水分補給をしながらひと息入れていきます。
中間地点(500m)
ここより先、なだらかな道です。
景色や、有子山城跡の歴史的遺構をお楽しみください。
豊岡市商工会青年部出石支部
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落ち着いたところで、右へ続くを進んでいきます。
これまで続いてきた横木の階段とトラロープは終って、この先は「遊歩道」と呼べそうな道になります。
僅かな起伏のある緩やかな道を進んでいくと、「井戸曲輪(水の手)」のがあります。
樹間から僅かにが広がる所を過ぎていきます。
軽く登っていくと、「遊歩道」は左へ折れ曲がっていきます。
右側には「七丁」の石仏が佇んでいます。
左側には「遊歩道」の標識が立っていて、「本丸まで240メートル」のもあります。
正面にはが続き、右側には尾根が降っています。
左右には、正面を指す「石切場へ 矢穴あと(有)110m」と、
右の尾根を指す「北西尾根 第七曲輪・第八曲輪・第九曲輪・第十曲輪 伝侍ヤシキ・堀切」の標識が立っています。
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「遊歩道」の標識が指す折れ曲がっていく道を登っていきます。
少し先を曲がりながら登っていきます。
石垣の下を少し右へ曲がりながら登っていくと、「第六曲輪 伝侍ヤシキ」のが立っています。
標識の過ぎて右へ曲がって登っていくと、「第五曲輪 伝侍ヤシキ・土手」の標識が立つ平坦地に着きます。
右側には出石の街並みなや山並みどを見渡せるが広がります。
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左へ曲がって、を更に登っていきます。
程なくして石垣の前に出ます。
中間地点から12分ほどの所になります。
正面にはが立っていて、
左の道は「主郭(本丸)321mへ」、右の道は「千畳敷へ」となっています。
右にはがあって、
「第四曲輪 伝矢蔵丸」の標識が立っています。
右の道は千畳敷へ続いていますが、有子山の山頂へ向って、に続く道を登っていきます。
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岩が剥き出す所を少し右へ曲がりながら登っていくと、右側の平坦地に「第三曲輪 伝蔵屋敷」のが立っています。
が垂らされた所を登っていきます。
すぐにトラロープが終ると、石垣の前にある平坦地に出ます。
手前には「第二曲輪 伝矢倉2ヶ所」の標識があります。
振り返ると、西から北にかけての眺めが広がります。
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有子山 (標高321.3m)
右前方にあるを登っていきます。
20数段の石段を登り終えると、有子山の広いに着きます。
中間地点から17分ほど、登山口から47分ほどで登って来られました。
登り着いた所には「八丁」のと「主郭 伝本丸 三階やぐら跡・横矢がかり・土塁・犬走り」の標識があります。
山頂の中ほどへ進んでいくと東屋が建っています。
横には「史跡 山名氏城跡(有子山城跡)」のがあって、
も載っています。
傍には三等三角点「出石」があるので、地形図に載っている321.3m峰になるようです。
山並みや街並みなどを見渡せる素晴らしい景色を眺めながら、で休憩していきます。
が良く見えます。
も見えます。
眼下には車を止めてきたも見えますが、
私の車は樹木に隠れていて見えません。
史跡 山名氏城跡(有子山城跡)
指定年月日 |
平成8年11月13日
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指定理由 |
基準 |
特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準(昭和26年文化財保護委員会告示第2号)史跡の部二(城跡)による。
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説明 |
有子山城跡は、室町幕府の四職家で最大級の大名であった山名氏が、根拠地である但馬国に築いた山城跡である。
同じく山名氏の居城であった此隅山城跡とともに、我が国の中世の政治史と城郭史を示す重要な遺跡であるので、
山名氏城跡として一括して史跡に指定し、その保存を図るものである。
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但馬山名氏 |
山名氏は新田氏の流れをくむ関東上野国の武士で、足利尊氏にしたがって南北朝時代の騒乱で活躍。
室町幕府成立後は四職家で最大級の大名として、全国66ヶ国のうち、
但馬、因幡、丹波、美作など11ヶ国の守護職となり「六分の一殿」と呼ばれた。
応仁元年(1467)の応仁の乱では山名宗全(持豊)が西軍の総帥となった。
しかし戦国時代になると山名氏はその勢力を失う。
永禄12年(1569)に織田軍の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の但馬侵攻により、
当時居城であった北方約2.5kmにある此隅山城が落城。
その後、天正2年(1574)に山名祐豊がこの有子城を築く。
その名は「子盗」(此隅)の名を嫌って「有子」と命名されたものという。
しかし天正8年(1580)ふたたび織田軍の羽柴秀長の但馬侵攻によって有子山城は落城。
室町幕府成立後、一貫して守護大名であった山名氏の但馬支配はここで終焉する。
このあと秀長が入城し、のち天正13年(1585)には前野長康が5万石で入城するが、
豊臣秀次事件に連座して改易され、播州龍野から小出吉政が入城。
江戸時代に入りその子吉英の出石城築城により廃城となった。
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城郭遺構 |
有子山城跡は最上部に石垣によって築かれた主郭とその西方に階段状に続く曲輪があり、
また、主郭の東南に千畳敷と呼ばれる曲輪が残っている。
豊臣時代のいずれかの城主によって改築されたものと思われる。
山腹にも小規模な曲輪や堀切などの空堀を見ることができ、中世山城の特徴を今によく伝えている。
さらに周辺には石垣に用いられている石と良く似た石が露出しており、石垣の石が山中から採取されていたことを思わせる。
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(2013年に来た時と比べると、解説文が少し変更されています)
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登ってきた広い石段を引き返していくと、「」の標識が立つ平坦地に出ます。
標識が立つ所からが垂らされた岩が剥き出す所を降っていきます。
滑って転ばないよう足元に注意しながら慎重に降っていくと、「」の標識が立つ平坦地の脇に出ます。
右側にある石垣の袂を降っていくと、「主郭(本丸)へ」「千畳敷へ」「第四曲輪」の標識がある分岐に戻ってきます。
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左の平坦地を横切って左へ曲がり、に続く広い道を進んでいきます。
軽く登っていくと、が幾つか剥き出しています。
緩やかなになった道を進んでいくと鞍部に着きます。
有子山から6分ほどの所になります。
正面には「千畳敷 城主館・重臣屋敷・庭園・石畳 3区画 東西135m 南北50m」のが立っています。
(*)は正面の高みの右側に続いています。
城山遊歩道と云うようで、鯵山峠へ続いていますが、今回は歩くのを省略します。
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千畳敷
「千畳敷」の標識が指す正面の高みへ続く右前方のを登り始めると、
すぐの所の樹木に「(武家屋敷跡)東西135m×南北50m」の標識が取り付けられています。
少し左へ曲がりながら続くを登っていきます。
程なくして、樹木が少し生える広い平坦地に出ます。
標識類は見かけませんが、ここが千畳敷になるようです。
「一畳」の広さを「0.9m×1.8m=1.62u」とすると、「135m×50m÷1.62=4166」となって、計算上は四千畳ほどの広さがあるようです。
周囲を左側から時計回りに歩いてみることにします。
鞍部の傍まで来ると、有子山にあったが見えます。
少し進んでいくと、樹間からが見えてきます。
右へ曲がって進んでいくと、中ほどががあります。
注連縄が張られていますが、乙女岩とでも云うのでしょうか。
更に進んでいくと、トラロープが張られた所があって、北西の方角にが広がります。
東の端まで来ると、南西の方角に少しが少し見えます。
右へ曲がって登り着いた所へ向っていくと、低いのようなものが見られます。
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登ってきたを降っていきます。
少し右へ曲がりながら降っていくとに戻ってきます。
往復12分ほどで戻って来られました。
登ってきた「遊歩道」を引き返しても良いのですが、今回は有小山から北へ延びる尾根を降るべく、
右にあるの先へ進んでいきます。
鞍部を過ぎて、曲がっていく道を軽く降っていきます。
煩わしい倒木を跨いだりくぐったりしながら過ぎていくと、少し広くなった所に出ます。
右側の樹木にが幾つか巻かれているので、そこから林の中へ入っていきます。
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桃テープが巻かれた樹木群を過ぎていくと、尾根の右肩にが張られています。
かなり傾斜のあるをトラロープに掴まりながら降っていきます。
地形図に破線で載っている道のようですが、明瞭ではありません。
正規の「遊歩道」ではないようで、トラロープは張られていますが標識類は見かけません。
曲がりながら続くに沿って降っていきます。
少し降っていくと、曲輪跡と思われる平坦地に出ます。
道は何処かと探していると、へ続くトラロープがあるので、ここから降っていきます。
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中間地点
トラロープに沿って左斜面を降っていくと、また曲輪跡と思われるに出ます。
更に続くトラロープに沿ってを降っていきます。
も見られる尾根を降っていきます。
尾根の背を外れて、へ曲がっていくトラロープに沿って降っていきます。
左へ曲がりながら降っていくと、の端に降り立ちます。
左の方へ進んでいくと、「遊歩道」の標識があって「中間地点(500m)」の板が取り付けられている所に出ます。
鞍部から10分ほどで降りて来られました。
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ひと息入れてから、「六丁」の石仏と「北第五曲輪」の標識の先に続く、
トラロープが張られたを引き返していきます。
横木の階段が終って緩やかになると「遊歩道」のが立っていて、
「本丸まで500メートル」の標柱や「北第六曲輪」の標識もあります。
再び始まるトラロープが張られた横木の階段を降っていくと、「五丁」のを過ぎていきます。
踊り場のような緩やかな所に着くと、「四丁」の石仏と「土橋・堀切」の標識が立っています。
中間地点から8分ほどの所になります。
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傾斜が少し弛んでくると、「遊歩道」の標識が立っていて、「本丸まで720メートル」のもあります。
横木の階段を曲がりながら降っていくと、「三丁」のを過ぎていきます。
トラロープが張られた横木の階段を更に降っていくと、「二丁」のを過ぎていきます。
程なくして、「遊歩道」の標識が立っていて、「本丸まで850メートル」のもあります。
トラロープが終った横木の階段を降っていくと、「一丁」の石仏が佇んでいます。
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登山口
が剥き出す尾根を降っていきます。
少し右側から回り込むように降っていくと、
「遊歩道」の標識が立っていて、「本丸まで980メートル」の標柱もあるに出ます。
左へ曲がって、「城山展望台」のを過ぎていきます。
少し右へ曲がりながら降って砂防ダムの下まで来ると、
「遊歩道」のが立っています。
右へ曲がって降っていくと、「登山における注意事項」の看板や「有子山登山口」の標識などが立つ登山口に降り立ちます。
中間地点から26分ほどで降りて来られました。
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稲荷神社
石橋の先にあるへ立ち寄っていきます。
「稲荷神社」の扁額が掲げられた鳥居をくぐると、左側にがあります。
狐の石像が控える先に社殿があります。
扁額は掲げられていませんが、これが稲荷神社になるようです。
由緒などを記したものは見かけません。
右側にはがあります。
広場の端へ出てみると、出石のを眺められます。
広場には注連縄が張られたがありますが、御神木でしょうか。
スギ ヒノキ科 倭木
長寿の木として神社にはなくてはならぬ木で、厳かな雰囲気を作る。
かって、ほらがあった大杉には神の使者といわれる白キtネが住んでいたそうだ。
幹周り4.2m
ムクノキ アサ科 撲樹
高さ20m以上、幹周り3m以上の巨木になる。
葉はざらつき「紙やすり」と代わりに使われた。
球形の実は熟すと黒紫色になり甘くて美味しい。
モtノキ モチノキ科 餅木
御神木と植えられることがあり、杉木立が目立つ有子山稲荷神社境内東側に植えられている。
樹皮からとりもちを作る。
弘道コミュニティ協議会
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往復5分ほどで石橋まで引き返してきて、朱塗りの鳥居が続くを降っていきます。
出石城のへの入口を過ぎていきます。
への入口を過ぎていきます。
左にあるを見送っていきます。
諸杉神社への道を右に分けて左へ曲がると、大きな石灯籠の先に鳥居が立っています。
手前には「出石城跡」と題した解説板があります。
出石城跡
出石城は慶長九年(1604)に小出吉英によって山頂の城を廃して築かれたもので、一国一城制による但馬唯一の城です。
平山城に分類され梯郭式といわれるように
有子山の麓に上から稲荷郭、本丸、二の丸、二の丸下の郭、三の丸と梯子を立てかけたように城を築いています。
また東には山里郭を設けて有事に備え、三の丸の周圍には山から掘り切りで水を引き、内堀をめぐらせ、
北に大手門、東西にもそれぞれ東門、西門を設け、天守閣は築きませんでしたが、
隅やぐらや多門を設けて要害としました。
城主は小出氏が九代(百年)、松平氏一代(十年)、仙石氏七代(百六十年余)と続き、
明治の版籍奉還まで二百七十年間、五萬八千石の本城として、また但馬第一の雄藩として威容を誇りました。
最上段の稲荷郭には城の鎮守稲荷神社を祀り、本丸、二の丸には宏壮な御殿を建て、渡り廊下で連結させていました。
また本丸には仙石公の藩祖、仙石権兵衛秀久の祀る感応殿や、昭和四十三年に復元した東西隅やぐらがあり、
往時の面影を偲ばせてくれます。
出石町観光協会
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大手前
すぐにある朱色の欄干のを渡っていきます。
曲がっていくと、
すぐの所にがあります。
その先には「山名氏城跡(有子山城跡)」と題したが設置されていて、も載っています。
少し先には旧出石町役場のがあります。
少しズレた十字路に出ると、向かい側の角に車を止めておいた大手前駐車場があります。
稲荷神社への立ち寄りも含めて、登山口から13分ほどで到着しました。
国指定文化財 山名氏城跡(有子山城跡)
城史
この城は天正2年(1574)、山名祐豊がそれまで本城であった此隅山城にかわって築城しました。
その名は落城した「子盗」(此隅)の名を嫌って「有子」と命名したといわれています。
しかし、わずか6年後の天正8年(1580)、天下統一をねらう織田軍によって城は落城、
城主は因幡へと逃亡し山名氏による但馬支配は終わります。
その後、織田系の大名が城主となりますが、江戸時代にじゃふもとに出石城が築かれ廃城となりました。
現状
標高321mの有子山山頂に主郭があり、その西側には5段の曲輪が階段状に築かれています。
また主郭の東南には千畳敷と呼ばれる広い曲輪があります。
石垣は織田系の大名により作られたもので、中世城郭が近世城郭に移行するまでの過渡期の形態をよく残しています。
山名氏
山名氏は室町幕府において侍所の長官に任ぜられた、有力な大名の一人です。
最盛期には全国66か国のうち11国を守護して領国支配をしていたことから「六分の一衆」と呼ばれ、
後の応仁の乱では西軍の総大将として参戦しました。
但馬は、南北朝時代から戦国時代までの約200年間、一貫して山名氏が守護の地位にありました。
この山名氏の最後の本城が有子山城です。
豊岡市教育委員会
旧出石町役場玄関車寄せ
旧役場は、昭和13年に当町宵田出身の実業家竹内慶吉氏の寄贈により完成した建築物です。
以後60余年の間、町政の中心として町内外の方々に馴れ親しまれ、多くの思い出が残されています。
更に、その重厚な様式は昭和初期の洋風建築として高く評価されてきました。
ここに、旧役場車寄せを保存することにより、町内外の方々に永く旧役場の思い出が語り継がれると共に、
当町の歴史の深さと、時の流れを身をもって実感されることを期待します。
1997年 出石町
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