中山丘陵
概 要 中山丘陵は豊岡市の加陽地区にある標高100mほどの丘陵です。 「コウノトリと中山丘陵ふれあいの森」にもなっていて、 北側の加陽城跡から南側の大師山自然公園にかけて、緩やかな尾根が続いています。 今回は、中山神社を経て尾根に登り、加陽城跡を訪ねてから、 要所に標識が設置されて分かり易い道を大師山自然公園へ向かっていきます。
起 点 豊岡市 加陽地区
終 点 豊岡市 加陽地区
加陽地区…中山神社…中山丘陵…加陽城跡…東浦湿地展望デッキ…向山休息地…向山大古墳群…清水展望台…千眼寺跡…展望地…24番鉄塔…大師山自然公園…展望台…122.2m峰…展望地…大師堂…キャンプ場…加陽地区
所要時間 2時間40分
歩いて... 曇天ながら空気が澄んでいて、所々にある展望地からは、遠くまで広がる山並みを眺めることが出来ました。 尾根道には過日の雪が少し残っていて泥濘んでいる所もありましたが、歩くのにそれほど支障はありませんでした。 大師山自然公園の周囲には、採番された石仏が佇む四国八十八ヵ所の巡礼道を模した歩道が続いていました。
関連メモ 引野城跡, 加陽城跡
コース紹介
加陽地区
豊岡の市街地から国道312号を南下して円山川に架かる円山大橋を渡り、国道426号を南下していきます。 天神橋北詰交差点を直進した先の五条大橋東詰交差点を右折して、出石川に架かる五条大橋を渡っていきます。 橋を渡った所の十字路を直進していくと、道が斜めに横切るがあります。 左の道の入口に立つ「中山遊歩道登山口」のに従って左折していきます。 山際まで来て、墓地を回り込むようにして左へ曲がっていくと、道幅が広がった駐車スペースがあります。
歩く準備をして先へ進み始めると、「コウノトリと中山丘陵ふれあいの森」と題したがあります。 今回はこの図に黄色で描かれている道を通って大師山キャンプ場へ向かっていきます。 案内板には各地点間のも載っていました。 案内板のすぐ先で、石段と坂道に分かれています。 角には「史跡 加陽大市山遺跡」のが立っています。 傍には「中山神社登山口」の石標があって右の坂道を指していますが、鳥居が立つ正面の石段を登っていきます。
豊岡市加陽 コウノトリと中山丘陵ふれあいの森
コウノトリと中山丘陵ふれあいの森では、加陽城跡や多くの古墳など様々な年代の遺跡を見ることができます。 また、展望デッキからは周囲の田畑や失言へコウノトリが飛来する様子を見ることができます。 この森を散策し、太古の昔から発展した加陽地区の歴史やコウノトリが飛来する自然を満喫してください。
この森は、「新ひょうごの森づくり」に基づく里山ふれあい森づくり事業により整備されました。
 (兵庫県)
豊岡市指定文化財 史跡 加陽大市山遺跡
奈良時代後半〜平安時代後半にわたる山林寺院跡
指定面積 約2,400u 管理者 沖加陽区 下加陽区
平成17年2月24日指定 豊岡市教育委員会
鳥居の脇には大きな自然石を利用したがありました。 鳥居を過ぎて石段を登っていくと、中ほどに再び自然石のがありました。 それらを過ぎて石段を登っていくと、御神燈のある小祠が建っています。 中を覗ってみると、開かれた扉の奥にはが安置されていました。 小振りの社ながら、両側には狛犬が控え、屋根には外削の千木が聳え5本の鰹木が乗る厳かな佇まいでした。 上部には「中山神社 下宮さん」と書かれた板が掲げられていました。 小祠の裏手には広場のような所がありますが、左上に見えている社殿に向かって、左へ曲がっていく石段を更に登っていきます。
中山神社
石段を登って右へ曲がっていくと、石灯籠の先にがありました。 神社の社殿のようには見えないしと思って左右を覗っていると、建物の背後の小広場の先に社殿がありました。 扁額などは見かけませんでしたが、これまでの情報からすると、これが中山神社になるようです。 格子戸から内部を覗ってみると、大きめの社が納められていました。 由緒などを記したものは見かけませんでしたが、情報によると旧気多郡加陽郷の村社で、祭神は金山彦命とのことです。 振り返ると、先ほどの建物の中ほどが開いていました。 両側には板の間があって、情報によるとというようです。 建物の右側の大木の傍の斜面に(*)があって尾根へ登っていけますが、 手前の「」まで引き返して、その裏側にある広場へ進んでいきました。
*切れ込みを登って右へ曲がっていくと防護柵があり、その扉を開けていくと、加陽城跡へ続く尾根に出られます。
の先にはテーブル・ベンチが2組設置されていました。 正面にあるこんもりとした所はというようでした。 その手前を右へ曲がっていくと、下の駐車スペースから登ってきたと合流します。 舗装路になった所から左へ分かれていく道へ入っていきます。 入口にはがあって、左の道は「千眼寺跡・湿地展望デッキ」、右の道は「加陽地区」となっています。 また「中山遊歩道登山口」の標識も倒れていました。
大木の脇に続くを登り始めると、 道がに分かれているようでした。 角には倒れかけた標識があって、右の階段は「大師山自然公園へ」、左の道は「東浦へ」となっています。 左の道は不明瞭だったので、右へ続く横木の階段を登っていきました。 竹林になった斜面を登っていくと防護柵があります。 上下にある回転式のを回して扉を開けてその先へ進んでいきます。
この先にかけて見かける標識には矢印などが書かれておらず、どちら側を指しているのかがよく分かりませんでした。 誤った方向を書いている可能性があることをご承知願います。
中山丘陵
の斜面に続く横木の階段を登っていくと、左右に通る中山丘陵に着きました。 駐車スペースから9分ほどで登って来られました。 中ほどにはがあって、右の道は「千眼寺跡・大師山自然公園」、左の道は「展望・休憩広場」、 今来た道は「中山神社・加陽方面」となっています。 傍にはも立っていて、右の道は「東浦大展望台へ」、左の道は「加陽城跡へ」となっています。 大師山自然公園へは右の道を進んでいくのですが、 駐車スペースの案内板に載っていた展望デッキ加陽城跡を訪ねていくべく、左の道を進んでいきました。
2組設置されたテーブル・ベンチを過ぎて植林地を進んでいくと、すぐの所に分岐があります。 尾根の中ほどにはがあって、右の道は「東浦湿地展望デッキ」となっています。 傍にはも立っていて、今来た道は「千眼寺へ」「東浦大展望台へ」となっています。 正面の尾根のすぐ先にも標識が立っていて、今来た道は「中山神社へ」となっています。 展望デッキは後で訪ねるとして、先ずは加陽城跡へ向かって正面の尾根を進んでいきました。
植林地の尾根を降っていくと鞍部に着きます。 尾根を越えていく小径が左右に通るになっていました。 中ほどにはがあって、右の道は「出石川・東浦湿地方面」、 正面の道は「展望・休憩広場」、今来た道は「千眼寺跡・大師山自然公園」となっています。 防護柵で閉ざされていて、扉が設置されていました。 確かめた訳ではありませんが、尾根に登ってくる時にあった分岐へ続いているように思えました。 は明瞭になっていました。 駐車スペースの案内板に載っていた尾根から分かれていく黄色く描かれた道のようでした。 ここは加陽城跡へ向かって正面の尾根を登っていきます。
加陽城跡
雑木林になった尾根の左肩の辺りを登っていくと、「中山丘陵散策路」のが立っています。 僅かな高みに着いて緩やかになった尾根を進んでいきます。 少し降っていくと、左右にテーブル・ベンチが設置された風の所がありました。 右側の樹間からは僅かにが見えました。 広場を過ぎて竹林になってくると「展望・休憩広場」のがあって、 「里山の歩道はここまでです」となっていました。 周囲には竹が茂っていて、展望は得られませんでした。 その先を覗ってみると、降り傾斜が増した所に「加陽城跡」と題した案内板がありました。 載っているによると、 加陽城跡(*)はこの先の尾根になるようですが、かなり深い堀切があったので、ここで引き返すことにしました。
*後日に加陽城跡を訪ねました。 (「加陽城跡」を参照)
加陽城跡
昔、この場所に加陽城がありました。 加陽城は南北朝時代(1300年代)に築城されたと推測され、室町時代や戦国時代に改修されたものと思われます。 この場所は円山川と出石川の合流点を押さえる要所として築城されたと推測され、 その大きさは東西南北方向とも約160mにわたります。 現在は、大きな堀切(深さ約10m)と曲輪・土塁の跡しかみることができませんが、 この場所は古くから交通の要所として重要な位置を占めていたと思われます。
東浦湿地展望デッキ
になったを過ぎて、 「東浦湿地展望デッキ」の石標のあるまで引き返してきます。 左に続くを降っていきます。 階段が終わって緩やかになった馬の背のようなを進んでいくと、 「コウノトリとアカマツ林」の解説板の先に東浦湿地展望デッキがあります。 眼の前には湿地や山並みが広がっていました。
右の奥に聳えているのは、方角からするとでしょうか。
コウノトリとアカマツ林
コウノトリは背の高い木に巣を作る習性があります。 また、巣の大きさは直径1.5m程度もあり、枝がほぼ真横に広がり、 葉が平面状についているアカマツはコウノトリにとって格好の営巣木となります。 しかし、近年アカマツ林は松くい虫の被害にあい、松林が少なくなってきています。 将来、野生のコウノトリが営巣できるアカマツの大木を育てるためにも森林の手入れが重要になります。
「千眼寺へ」「東浦大展望台へ」のの立つ分岐を経て、 に登り着いた所まで引き返してきます。 往復18分ほどで戻って来られました。 「千眼寺跡・大師山自然公園」の石標や「東浦大展望台へ」の標識に従って、その先に続く尾根道を進んでいきます。 すぐの所に立つ「千眼寺へ」の標識を過ぎて、の尾根に続く横木の階段を登っていきます。 竹林から植林地へ変わる尾根を登っていくと、道端に「展望台へ」のが倒れていました。 そこを過ぎて傾斜が増してきた横木の階段が続く尾根を登っていくと、正面にが見えてきます。 息を弾ませながら階段を登っていくと、小径が右へ分かれています。 角には標識が立っていて、正面の階段は「千眼寺遺跡」となっています。 右の小径へ入った所にも標識が立っていて「向山休息地へ」となっていました。
向山休息地
右に続く頼りない小径を進んでいくと、すぐに壊れたベンチのある所に出ました。 右側の樹木が伐採されていて、山並みなどを見渡せるになっていました。 この先にはらしきものがありましたが明瞭ではなかったので、 ここが先ほどの標識にあった向山休息地だということにして、手前の階段まで引き返すことにしました。
向山大古墳群
横木の階段を登っていくと、「中山神社へ」のが立っています。 「」の標識を過ぎていくと、左右に続く緩やかな尾根に着きます。 中山丘陵に登り着いた所から9分ほどの所になります。 中ほどには「加陽の遺跡」と題したが設置されていました。 には「千眼寺へ」の標識が立っています。 大師山自然公園へは左の尾根を進んでいくのですが、 を指す「清水展望台へ」の標識が立っていたので、ちょいと立ち寄っていくことにしました。
加陽の遺跡
この山の歩道を散策していると円形状に膨らんだ地形が多く見られます。 これらは大半が古墳で右の図のように古墳群や墳墓群が点在しており、 現在分かっているだけでも230基以上の古墳や墳墓があります。 また、中山神社付近の大市山遺跡があるほか、加陽城と千眼寺城2つの城跡も見られます。
清水展望台
右へ続く緩やかな植林地の尾根を進んで雑木林になると、が明るくなってきます。 そこへ向かって軽く登っていくと、テーブル・ベンチが2組設置された所に着きました。 この先は降り坂になって歩き難くもなっていたので、標識類は見かけませんが、ここが清水展望台だということにしました。 前後関係からすると、駐車スペースの案内板に載っていた「(4)展望広場」になるようです。 樹木に邪魔されながらも、には山並みなどが広がっていました。
往復4分ほどで手前のまで引き返してきて、「千眼寺へ」の標識が指す尾根を進んでいきます。 緩やかな尾根を進んでいくと、僅かな高みの前に「草山大古墳群」の標識が立っています。 歩道はどこだろうと左右を覗っていると、左側に「中山丘陵散策路」のが立っていました。 その標識に従って高みを左から巻くようにして進んでいくと、を軽く降るようになります。
緩やかな尾根の背に出て進んでいくと、「千眼寺へ」のが立っています。 尾根には僅かな高みが幾つかありましたが、それらが古墳のようでした。 倒れている「大師山自然公園へ」の標識を過ぎて、古墳と思われるを軽く登っていきます。 坂を登り切ると、樹木の袂に「千眼寺井戸跡」の標識が倒れていましたが、傍にはそれらしい所は見かけませんでした。 その右下の方にが見えていましたが、それが井戸跡でしょうか。 左側には古墳のような高みがありました。 この辺りが地形図に載っている103m峰になるようです。 「石棺」の標識も倒れていましたが、傍にそれらしいものは見かけませんでした。
千眼寺跡
降り始めて尾根の背に出た所に「中山丘陵散策路」のが立っていました。 そこを過ぎて少し右へ曲がって尾根を降っていくと、が道を塞いでいました。 手前には青い標識らしきものが倒れていましたが、文字などは確認できませんでした。 跨ぐには大きすぎるので、倒木の右側を迂回していきました。 「土屋鼻展望台へ」のを過ぎて降っていくと、右側に平らな所が続くようになります。 広い尾根を緩やかに降っていくと、テーブル・ベンチが2組設置された小広い所に着きました。 清水展望台への分岐から7分ほどの所になります。 中ほどには「千眼寺(千眼寺城)跡」と題した解説板があって、 往時の様子を描いた「」が載っていました。
千眼寺(千眼寺城)跡
千眼寺は加陽城の南の丘陵地に広がり、東西約300m、南北約300mの広い地域をもっていました。 千眼寺は天正年間(1500年代後半)に廃転し、現在の明元寺(引野)、浄教寺(加陽)、東楽寺(清冷寺)に分院したといわれています。 現在では曲輪・土塁や堀切を見ることができます。
千眼寺跡を過ぎて植林地の尾根を降っていくと、「コナラ林」のがありました。 そこを過ぎたすぐの所に鞍部があります。 手前には石標があって、この先の道は「大師山自然公園」、今来た道は「中山神社・湿地展望デッキ」となっています。 にもにも道があって、になっていました。 その昔には、東西の地区を結ぶ峠越えの道だったのでしょうか。 鞍部を過ぎて正面の尾根を進み始めると、 すぐの所にある樹木の袂に「大師山自然公園へ」のが倒れていました。
コナラ林
ドングリのできるコナラの林です。 落葉広葉樹林または夏緑広葉樹林とも呼ばれ、里山を代表する林です。 秋には紅葉していろどりゆたかな林へと変わります。 春にはコバノミツバツツジが咲きみだれ、山全体が紫色に染まります。 コナラ林は人々が材、枝や葉を利用することによって守られてきた林です。 これからも人の手を加えることによって、明るいコナラ林とそこに暮らす生きものを守ることができます。
展望地
竹林の手前まで来ると「中山丘陵散策路」のが立っています。 倒れた竹が少しある竹林を進んで登り坂になってくるとが現れます。 雑木林になった尾根に続く階段を登っていくと、テーブル・ベンチが2組設置された高みに着きます。 千眼寺跡から7分ほどの所になります。 地形図によると、103m峰の南南西350m辺りにある標高110mほどの高みになるようです。 左側の樹木が切り払われていて、を見渡せる展望地になっていました。 脇には白塗りの標識が倒れていましたが、文字は確認できませんでした。 これまでに見かけた標識が示していた東浦大展望台土屋鼻展望台になるのでしょうか。
2組のテーブル・ベンチの間を抜けて、その先へ続く尾根を少し進んでいくと、緩やかでに出ます。 左側には古墳のようなが幾つかありました。 白塗りの標識も見かけましたが、文字は確認できませんでした。 駐車スペースの案内板に載っていた宮谷古墳群でしょうか。 葉を落とした右側の樹間からは山並みが見えました。 正面へ少し進んでいくと、が見える所もありました。
正面に続くを降っていくと、白い標識が見えてきました。 その傍まで降っていくと、向こう側を向いた「火の用心」のでした。 「No.25」と書かれていて右側を指していました。 この右側の先に25番鉄塔があるようですが、そのまま尾根を降っていきました。 緩やかなに着いて登り返していくと、僅かな高みに着きます。 樹木の間を進んでいくと、「千眼寺遺跡へ」のが立っていました。
少し降り坂になってきた尾根を進んでいくと、右側の樹間から山並みが見えてきました。 先ほどよりも綺麗にが見えました。 上空には送電線が通っていました。
24番鉄塔
緩やかになったを進んでいきます。 少し登るようになると、樹木の袂に「八坂神社」の(*)がありました。 そこを過ぎて尾根の背から少し外れるように左へ曲がりながら登っていくと、送電線の鉄塔「温泉線二四」の袂に出ました。 先ほどの展望地から8分ほどの所になります。 歩道は右の高みへと曲がっていくのですが、送電線が伸びる方へ少し出て見ると、 正面にはが広がっていました。
*地形図によると、正面の高みから北北西へ延びる尾根があって、その西側に破線の道が描かれています。 その道の先には八坂神社があるようなので、 標識のある所から正面の高みを巻いて破線の道へ通じる道があるのかもしれませんが、 この時には確認するのを漏らしました。
鉄塔の傍まで引き返して、へ軽く登っていきます。 地形図に載っている標高100mほどの緩やかな高みになるようです。 ここで道が不明瞭になりましたが、左の方にが見えたので、そちらへ向かっていきました。 こんもりとした古墳のような高みの傍には、表が白、裏が青の標識が立っていました。 これまでにも同様の標識を見かけましたが、ここでも文字は確認できませんでした。 標識の先へ続くがあったので、そこを降っていきました。 歩きやすくなったを軽く降っていくと、樹木の袂に「大師山自然公園へ」の標識が倒れていました。
緩やかになってきた尾根を進んでいくと、正面に僅かなが近づいてきます。 少し左へ曲がりながら進んで軽い登り坂になってくると、「立入禁止」の標識が立つ分岐に着きます。 は地形図に載っている破線の道のようですが、 ここは右の高みへ続くを登っていきます。
立入禁止
許可なく農園敷地内に立入って山菜・花木の採取をしないで下さい。
−片間ふれあい農園−
大師山自然公園
崩れかけた横木の階段の左側を登っていきます。 歩きやすくなったに出て登っていくと、正面が開けた所に出ました。 この先で見かけた案内板によると、この前に広がる斜面がになるようです。 24番鉄塔から7分ほど、中山丘陵に登り着いた所から46分ほどで到着しました。 左側にはが佇んでいました。 分かり難くなっていましたが「廿二番」と刻まれているようでした。 左右に通る小径には採番された同様の石仏が点々と設置されていて、四国八十八ヵ所の巡礼道を模した歩道のようでした。 右側には「中山遊歩道入口」と「展望台へ」のが立っていました。 麓へ降りるには右の道の方が近いのですが、 地形図に載っている122.2m峰を経ていくべく、を進んでいきました。
展望台
右側に広がる景色を眺めながらを進んでいくと、向こう側を向いた「廿六番」の石仏が佇んでいます。 その脇には「展望台」の標識が倒れていました。 右側には先ほど来のが広がっていました。 左側にはがあって、すぐ下まで来ている舗装路へ降りて行けるようになっていました。 奥の方には東床尾山と思われる山も見えていました。 舗装路は地形図に載っている実線の道のようでしたが、このまま正面の石仏の道を進んでいきます。
122.2m峰
開けた所から雑木林の尾根へ入っていくと、程なくしてになってきます。 引き続き、採番された石仏が点々と佇む広くて快適な道を進んでいきます。 石仏を眺めながら進んでいくと、石仏が2つある小広い所が右側にありました。 大師山自然公園に出た所から8分ほどの所になります。 斜めに向き合う「四十一番」と「四十二番」の石仏の間には片間」がありました。 ここが地形図に載っている122.2m峰になるようです。 樹木に邪魔されながらもが少し見えました。
展望地
三角点を過ぎて緩やかな尾根を進んでいきます。 1分ほど進んでいくと、右へ分かれていく支尾根があります。 角には壊れかけた「中山遊歩道入口」のが立っていました。 雪が少し残る右の尾根へ出てみると、眺めが広がるになっていました。
正面にある雪が積もる平らな所はのようでした。 右の奥の方に聳えるもよく見えました。 展望地の先(*)へも降っていけそうな様子でしたが、石仏の道まで引き返しました。
*後日に展望地の先へ続く小径を歩きました。 (「引野城跡」を参照)
石仏が続く道を更に進んでいきます。 少し開けた所に出ると、右側の僅かなに、「五十一番」と「五十二番」の石仏が並んでいました。 そこを過ぎて降り坂になってきた道を進んでいきます。 傾斜が緩やかになってくると、道の中ほどに「引野城跡へ」のが立っています。 122.2m峰から9分ほどの所になります。 何故道の中ほどに立っているのだろうと思いながら辺りを見回していると、不明瞭ながら右へ戻るようにして分かれていく道がありました。 角には「五十八番」の石仏が佇んでいました。 正面の尾根(*)も歩きやすそうでしたが、標識の立つ向きから判断して、を進んでいきました。
*後日に引野城跡へ続く尾根を歩きました。 (「引野城跡」を参照)
この道で合っているのか不安になりながらも進んでいくと、すぐの所に佇む「五十九番」の石仏を見つけて安心しました。 倒れている「六十三番」のを過ぎて降り坂になってくると、 「六十四番」のの所から少し右へ曲がって、狭い急坂を降るようになります。 雪解けで滑りやすくなっている所を慎重に降っていくと、「六十五番」の石仏を過ぎた所に木橋が架かっています。 3本の丸太を束ねた上には板が敷かれていて歩きやすくなっていましたが、 濡れていて滑りやすく、少しグラグラと動くので、慎重に渡っていきました。
大師堂
板敷きの木橋を渡っていくと、続けて丸太のがありました。 そこも慎重に渡ってその先へ進んでいくと、開けたに出ました。 「七十二番」の石仏の手前を左折して広い斜面を降っていくと、大きな建物がある広い場所に降り立ちました。 122.2m峰から17分ほどで降りて来られました。 脇には「中山遊歩道登山口」のが立っていました。 左側にあるの前には「中山弘法大師…」と題して寄付者の氏名が書き出されていました。 格子戸から中を覗ってみると、弘法大師と思われる像が祀られていました。 情報によると、この建物は大師堂というようです。 石仏の道は建物の右奥から谷筋を降って終点の「八十八番」まで続いていますが、 今回は広いを進んでいきました。
キャンプ場
すぐに左右に通るに出ます。 麓へは左の道を進んでいくのですが、右側の道の先に建物が見えたので、ちょいと立ち寄っていきました。 1分ほど進んでいくと、建物が3棟並んでいました。 手前が、真ん中が、奥がのようでした。 この斜面一帯はキャンプ場になっているようでした。 右上には八角形をしたのような建物があり、キャンプ場などを見渡せる眺めが広がっていました。 春になると桜の花が綺麗に咲く所のようです。
手前の分岐まで引き返して、の傍を降っていきます。 を付けた大木を右へ回り込んでいくとがあります。 その脇を過ぎて舗装路になった道を降っていきます。 左への曲がり角まで来ると、水路が下を通っています。 脇には「」があります。 大師山自然公園に出た所から右へ進んでいくと、ここへ降りて来られます。
大師山自然公園案内図
この周辺は全国でも有数の古墳密集地である。 昭和59年9月から、公園建設に伴って合計10基が発掘調査された。 その結果、九州北部や朝鮮半島に原形をたどれる特異な石室が見つかり、一部は市の史跡に指定されている。 この貴重な郷土の歴史環境を永く後世に伝えたいものである。
 (昭和61年3月 豊岡市)
「五番」の石仏を過ぎて、擬木の柵が続くを降っていきます。 案内図から1分ちょっと降っていくと左側の柵が途切れていて、そこから左へ(*)が分かれて降っていきます。 この階段が石仏の道になりますが、その旨の標識類は見かけません。 階段を見送って舗装路を進み始めると、すぐの所にがあって、「大師山5号墳」の解説板が立っていました。 その少し先にも「8号墳」の標識の立つ古墳がありました。
*後日に左の階段を歩きました。 (「引野城跡」を参照)
大師山5号墳
14.5×12mの円墳である。 内部は全長約7mの竪穴系横口式石室で、山側(南東)に入口がある。 玄室は羽子板形の平面形をしており、室内の高さは1.1mと低い。 入口から玄室には約90cmのゆるやかな段を降りる構造である。 この種の石室が採用され始めた6世紀前半頃の築造と考えられる。
 (豊岡市教育委員会)
右から左へと大きくに曲がりながら降っていくとがあって、 「大師山2号墳」の解説板が立っていました。 そこを過ぎて舗装路を更に降っていくとまた古墳があって、「大師山1号墳」の解説板が立っていました。
大師山2号墳
自然地形を利用して築いた18×16mほどの円墳である。 山側(南東)に開口する全長8mの竪穴系横口式石室で、大師山では最大級の石室である。 玄室への通路をふさいだ閉塞施設や細かい敷石が見つかっている。 いま見えている石材は、天井石の一部を置いたものである。 6世紀中頃の築造であろう。
 (豊岡市教育委員会)
大師山1号墳
径11mの円墳で、全長約6mの竪穴系横口敷き石室が調査された。 遺体を納める玄室には敷石があり、山側(南東)に付けられた入口(横口部)から急な段を降りて入る構造になっている。 6世紀後半頃の築造と考えられる。
 (豊岡市教育委員会)
古墳を過ぎて小さな谷筋に着くと、左から降ってくる階段が合流してきます。 先ほど分かれてきた階段になります。 階段の入口には「壹番」のが佇んでいるので、ここが石仏の道の起点になるようでした。 傍には「大師山古墳群」の解説板や標柱が立っていました。
豊岡市指定文化財 大師山古墳群
有形文化財 史跡 古墳十二基
昭和61年3月29日指定
豊岡市教育委員会
豊岡市指定史跡 大師山古墳群
大師山古墳群は、養父町・大藪古墳群や日高町・楯縫古墳群などとともに、但馬でははやくから知られていた古墳群である。 今、自然公園として整備されているこのあたりの尾根や斜面には約200基もの古墳が密集し、 まさに古墳と古墳がすそを接するような群集状態がよく観察できる。 1975年から翌年にわたり、公園の整備工事にともない13基の古墳が発掘調査された。 墳丘は直径6mから18m程度の円墳である。 内部構造は、木棺葬が3基、竪穴式石室が1基、竪穴系横口式石室とよばれる特異な石室が9基あり、 個性的な石室を主体的に採用していることが判明した。 竪穴系横口式石室は、長方形の石室の片側にやや簡単な入り口(横口部)を設け石室内部に段をなして降りていく構造になっており、 通常の横穴式石室とは異なった埋葬意識がうかがえる。 このタイプの石室が集中してい見つかった本古墳群は、但馬の古墳時代を研究する上できわめて重要である。 出土遺物は、須恵器とよばれる土器が約620点、武器・馬具・農工具などの鉄器約400点、 耳環・首飾りなどの装身具が約500点あり、内容豊かである。 この古墳群は6世紀後半頃を中心に築造されたもので、中筋地区一帯の開発を進めた有力な集団が残したものであろう。
 (平成4年3月 豊岡市教育委員会)
道なりに右へ曲がりながら降って正面が開けてくると防護柵があります。 柵のこちら側と向こう側に付けられたハンドルを回してツメ状金具を動かし、 鍵棒を横にスライドさせて扉を開けるになっていましたが、 ツメの部分が少しズレているのか、ハンドルが固くてなかなか回りません。 柵の向こう側に取り付けられている鍵棒を、網の間から指を出して押してやると、何とかスライドして扉を開けることが出来ました。 柵を出た右側には、車数台を止めておける駐車スペースがあります。 大師山自然公園の案内図があった所から9分ほどで降りて来られました。 ここからは田んぼが広がる中に続くを通って、 車を止めてきた駐車スペースへ向かっていきます。
出入口 ご自由にお入り下さい
農作物を鹿等の被害から守る為防護ネットを設置しています。 出入後は門扉を締めておいて下さい。 ゴミは持ち帰りましょう。
 (大師山自然公園協力会、豊岡市)
クマ注意!
 (豊岡市)
加陽地区
駐車スペースからの道を合わせて左へ続く道を進み、最初の十字路を右折していきます。 十字路を2つ直進し、に突き当たって右折していきます。 左への道を見送り十字路を直進してまで来ると、道は左へ曲がっていきます。 小川に架かる橋を渡って十字路を直進していくと、送電線の下を過ぎていきます。 振り返ると、山の上にが2つ立っていました。 手前の方が25番鉄塔で、奥の方が今回訪ねた24番鉄塔のようでした。 十字路を更に直進していくと車道に出ます。 右折して車道を進み、小川に架かる橋を渡っていくと、 「中山遊歩道登山口」の標識の立つに着きます。 そこを右折し、山際の墓地を回り込むようにして左へ曲がっていくと、車を止めておいた駐車スペースに戻ってきました。 防護柵から30分ほどで到着しました。