概 要 |
古城山は朝来市生野町にある標高609mの山です。
かつて生野城があった所で、主郭跡の山頂まで登山道が設置されています。
今回はびわの丸公園から古城山に登り、東にある太盛山へ向かいます。
古城山や太盛山などからは山並みを見渡せる眺めが広がります。
北へ延びる尾根を進んで、釜床山の手前から東へ降るルートを歩きます。
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起 点 |
朝来市生野町 口銀谷地区
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終 点 |
朝来市生野町 口銀谷地区
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口銀谷地区…びわの丸公園…登山口…びわの丸…別郭…三の曲輪…二の曲輪…古城山…鞍部…尾根の肩…太盛山…尾根の肩…展望地…鞍部…小ピーク…28番鉄塔…29番鉄塔…国道429号…口銀谷地区
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所要時間 |
5時間10分
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歩いて... |
古城山から先には明瞭な道はありませんでしたが、夏草が茂っていなかったのは幸いでした。
標高600mほどの高みを過ぎると尾根が広がって進路が定まりませんが、北を指して進んでいきました。
少し先からは防護柵が続くようになるので、それに沿って進んでいくと、釜床山へ向かう尾根になりました。
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関連メモ |
釜床山,
釜床山
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口銀谷地区
朝来市和田山町から国道312号を南下していきます。
生野駅(JR播但線)の手前まで来ると、「大明寺14km」「銀山湖6km」「史跡生野銀山3km」の標識が立っています。
そこから左へ分かれていく道を見送って坂を降っていきます。
次の分岐を左折して陸橋を渡り、少しズレた十字路を左折していくと、
右へ曲がった所に観光駐車場があるので、ここに車を止めました。
隣には生野小学校のグラウンドが広がっています。
道路沿いには「」があります。
道は描かれていませんが、今回登る古城山や太盛山が描かれていて、
この付近のも載っていました。
「」と題した案内板もありましたが、今回登る古城山などは載っていませんでした。
拡大図に赤い点線で示した道を通ってびわの丸公園へ向かっていきます。
生野のあらまし
生野町は兵庫県のほぼ中央、播磨と但馬の境界に位置する町です。
周囲を山々に囲まれた、海抜約300mの盆地状の町であり、日本海に注ぐ円山川と瀬戸内海に注ぐ市川との分水嶺の町でもあります。
生野は古くから銀山の町として栄え、その時々の支配者にとって貴重な財源となってきました。
生野銀山の起源については、はっきりしたことは分かっていませんが、一説には大同2年(807)とされており、
かなり昔から銀が出ることが知られていたようです。
また、生野に伝わる銀山旧記の記述により、天文11年(1542)頃には、盛んに銀石を掘り出していた様子が分かります。
明治時代になると、銅や鉛などの鉱石を産出する生野鉱山として生まれ変わり、日本の近代化に貢献してきましたが、
昭和48年(1973)、資源の枯渇などによりその歴史に幕を下ろしました。
銀山の隆盛にともなって、江戸や京都、大阪との往来も頻繁に行われ、
その結果、山深いこの地に、すぐれた文化的伝統が残ることになりました。
また、各地の建築様式を取り入れた生野銀山独特の町並みを形成することにもなりました。
生野銀山は、江戸時代に銀山七か町といわれ、七つの町が銀山と密接な関係を保ちながら発展してきましたが、
明治時代になって、その中間地点に生野鉱山の近代化工場が建設されたため、
現在では大きく、口銀谷地区と奥銀谷地区の二つに分かれています。
生野鉱山が閉山してからすでに30年近くになりますが、
私たちは、この美しい自然に恵まれた里と、先人から受け継いだ文化遺産を守り、
将来に向かって「生きた美術館の町(ライブミュージアム)」として、住民参加のまちづくりに取り組んでいます。
生野城(奉行所・代官所)内堀跡
『銀山旧記』では「
山名右衛門督祐豊の居城なり 総構かき上堀にして 内堀一通り 三階の天守を上げ 角々に矢倉をつけ…中略…
一国守護の城下なれば 侍屋敷、町屋、寺社等…
」とあり、16世紀中頃には館や城下町などができたと伝えられています。
これまで行ってきた発掘調査の成果では、戦国時代末期に築かれたと考えられる平城内堀(幅約8m×深さ約7m)の石垣や、
古い時代の瓦、安南(ベトナム)産の陶器などが確認されています。
後に奉行所や代官所がこの場所に設置され、周囲を柵などで取り囲む大規模な銀山町・鉱山都市として発展していきました。
明治になり、代官所施設は生野県庁舎として使用されましたが、すぐに廃止され、
周辺住民に分割譲渡されるとともに、側溝に利用していた内堀も明治後半には埋め立てられて現在に至っています。
広場の石列は、調査で確認された平城内堀の石積みを再現したものです。
(平成25年 朝来市)
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観光駐車場を出て東へ進み始めると、
十字路の角に「生野義挙跡」と刻まれた大きながあります。
そこを左折して生野小学校のグラウンド沿いの道を進んでいきます。
左右に通るに出て、正面にある狭い路地を進んでいきます。
を右折して、
その先をすぐに左折して坂道を登っていくと、「但馬口番所跡」の解説板がありました。
生野代官所跡(生野平城跡)
天文11年(1542)山名祐豊は生野銀山経営の拠点として生野城を築城しました。
三層の天守閣、隅櫓、外堀をそなえた城で、侍屋敷、町屋、寺社も整い繁盛したと記録に遺されています。
その後、銀山の経営は太田垣、織田、豊臣と変わり、関ヶ原の戦いを経て徳川氏に帰属し、この城の本陣を代官所としました。
寛永6年(1629)には天守及び隅櫓を取り崩しましたが、270年にわたって銀山経営の中心でした。
明治維新により銀山は政府直轄となり、明治2年(1869)生野県設置とともに、代官所を県庁舎としました。
明治4年(1871)生野県が豊岡県に統合されると同時に建物は除去され、城壁と外堀のみが残りましたが、
大正末期には全部が取り壊されました。
(平成4年3月 生野町教育委員会)
生野義挙跡
文久3年(1863)10月の生野生野義挙(生野の変)の事跡を後世に伝えるために、
昭和15年(1940)、生野代官所跡に碑が建立されました。
生野の変は、勤皇の志士と但馬の農民が一緒になって行くの代官所を占拠した事件ですが、
僅か三日で破陣となり、明治の世まで生き延びた者は数名に過ぎませんでした。
生野の義挙は維新の魁という言葉が伝わっています。
(朝来市指定文化財)
但馬口番所跡
但馬口番所は、生野銀山町の裏玄関ともいうべき、但馬路の出入口にあたる要衝です。
置かれた年代は徳川時代初期で、播磨口番所などと同時に設置されました。
生野銀山産出の銀、銅などの搬出の取締り、また諸物資の運上(税金)を課徴したり、
但馬方面からの年貢米の受入事務を行っていました。
番所は門を構え、柵を結び、役人の詰小屋が両側にあって、3人の地役人が常駐し、
午前6時から午後10時まで開門しました。
但馬、播磨を往来する一般の旅人は、この番所の、西側にある但馬街道を通りました。
(平成24年3月 朝来市教育委員会)
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びわの丸公園
但馬口番所跡を過ぎていくとに出ます。
正面の電柱に「びわの丸公園」のが取り付けられていて、左右の道を指しています。
左右どちらからでも公園に行けますが、今回は右側のブロック塀と水路の間に続くを進んでいきました。
突き当たりを左折して、両側に柵が続く坂道を登っていきます。
踊り場に出て右へ続く階段を登っていくとびわの丸公園に着きました。
左側からは車道が登ってきていて、車数台分のがありました。
「史跡 生野城」と題した解説板があって、山頂付近のが載っていました。
史跡 生野城
遺構について
応永34年(1427)但馬の守護職 山名時煕(宗全の父)は、4代将軍 足利義持の命により、
播磨の守護職 赤松満祐を討伐することになり、兵を率いて生野に出陣し、
播但の国境であるこの山の頂上に城を築いて攻撃の拠点にしたのが生野山城であります。
標高601mの山頂には、36m四方の主郭(本丸)を中心に、西方の但馬街道に向けて、大規模な二の曲輪、三の曲輪がつづき、
尾根の要所には、多数の別郭や堀切りを構築して、赤松軍の攻撃に備えており、中世山城の典型的な遺構を見る事ができます。
570余年を経た山容は今も峻険、深い谷間の雑木林の中にも、土塁に囲まれた曲輪群や堀切りがよく残り、
戦国時代の城塞跡として、非常に貴重な存在といえます。
又、城跡からの眺めはすばらしく、南の方向には、赤松氏の拠点であった播州平野も遠望され、
攻撃に備えて万全の構えを示していたことがよくわかります。
(生野町教育委員会)
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登山口
正面にある広い階段を登っていきます。
右から回り込むようにして登っていくと東屋風のがあります。
その先に続く階段を登っていくと、入口を鉄格子で閉ざされたがありました。
更に階段を登っていくと、右側に「生野城 登り口」のが立っていて、右へ分かれていく山道を指しています。
ここが古城山への登山口になりますが、階段は更に上へと続いています。
ちょいと登って一番上まで行くとが設置されていました。
脇から振り返ると、などを見渡すことができました。
間歩
この旧坑は公園建設中、偶然に発見されたもので、深さは不明ですが、戦国時代の初期、銀を掘ったものと思われます。
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まで引き返して、夏草が残る山道へ入っていきます。
夏草はすぐになくなってが続いていました。
広場で見かけた案内図では「遊歩道」となっていましたが、普通の山道とあまり変わりませんでした。
右・左と何度も折れ曲がりながら雑木林の斜面を登っていきます。
紅葉は既に終盤でしたが、陽光を浴びて輝いている木もありました。
振り返ると、が見える所もありました。
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びわの丸
次第に折れ曲がる間隔が短くなってくる道を登っていくと、広くて緩やかな所に着きました。
登山口から14分ほど登った所になります。
場所を示す標識類は見かけませんでしたが、案内図に「びわの丸」と書かれていた所でしょうか。
解説文では「多数の別郭や堀切りを構築して…」となっているので、かつて砦などがあった所なのかも知れません。
振り返ると、生野のを見下ろせました。
南南東の方角にはが見えていましたが、
973m峰の白岩山やその北にある983.7m峰でしょうか。
西の方角にもが広がっていました。
景色を眺めながら、ひと息入れていきました。
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落ち着いたとこで、正面に聳えるへ向かって進んでいきます。
直径2mほどのを過ぎると、尾根の右側を進むようになります。
道の入口には「生野城 登り口」のが立っています。
再び、右・左と折れ曲がりながら尾根を登っていきます。
折れた木や枯れた木を過ぎていきます。
振り返るとが少し見える所もありますが、総じて尾根からの眺めは広がりません。
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右・左と折れ曲がりながら、更に尾根を登っていきます。
傾斜はそれほど急ではないので、息が切れるようなことはありませんでした。
びわの丸から12分ほど登っていくと、小広くなったのような所に出ました。
その先には道がなさそうなので辺りを探していると、
手前から戻るようにして登っていく道がありました。
その道に入って更に尾根を登っていくと、正面にが近づいてきます。
そこへ向かって登っていくと分岐があります。
標識類は見かけませんが、戻るようにしての先に平らな所が見えたので、立ち寄っていきました。
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別郭
枯れた夏草が残る道を進んでいくと、すぐに平らな所に着きました。
びわの丸から20分ほどで着きました。
脇には「別郭」のが立っていました。
南から西にかけて、山並みや街並みを見渡せる眺めが広がっていました。
眼下には、車を止めてきた生野小学校の脇のもよく見えました。
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三の曲輪
眺めを確認したら、から手前の分岐まで引き返してきます。
少し登った先を道なりに左へ曲がり、を斜めに登っていくと、広くなった三の曲輪に着きました。
中ほどには「生野城の遺構」と題した解説板がありました。
案内図も描かれていたようですが、退色していて見えませんでした。
振り返ると、先ほどと似たようなの眺めが広がっていました。
生野城の遺構
生野城は、古城山の山頂を中心として、そこから派生する尾根上に大小の曲輪を配置しています。
特に、山頂の主郭を中心とする大規模な曲輪群については、目を見張るものがあります。
このような大規模な曲輪群は築城時のものではなく、以後において改修されたものと思われます。
また、主郭及びその下の曲輪には部分的ではありますが、石垣が見られ、
さらに主郭から北に延びる尾根には土塁を持つ曲輪が存在しています。
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二の曲輪
三の曲輪のから一段高い所に出ると二の曲輪になります。
枯れた夏草が茂っていましたが、容易に歩いていけました。
先の方には「二の曲輪」のが谷側を向いて設置されていました。
南側には山並みが広がっていました。
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古城山 (標高609m)
二の曲輪の先の僅かなが主郭になります。
地形図に載っている609m峰で、古城山の山頂になります。
びわの丸から30分ほどで登って来られました。
山頂には大きな岩がありますが、碑文などは特に刻まれていないようでした。
城があった頃から、ここに頭を出していたのでしょうか。
右側にはこれまでと同様の眺めが広がっていました。
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古城山からは来た道を引き返しても良いのですが、もう少し北の方まで進んでみることにしました。
山頂にある大きな岩の左側の辺りから二の曲輪の端に降りていきます。
右へ曲がって、石がゴロゴロするを進んでいくと、
すぐに緩やかなに出ます。
その先へ進んでいくと、東から僅かに北寄りへ降っていく尾根がありました。
降り口の樹木には赤テープが巻かれていました。
地図と磁石で方角を確認して、その尾根を降っていきました。
参考までに、びわの丸公園で見かけた山頂付近の案内図に
今回歩いた所をで示した図を載せておきます。
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傾斜の急な尾根を降っていきます。
これまでは「遊歩道」ということで明瞭な道が続いていましたが、この先には明瞭な道はありません。
しかし、夏草は茂っていなくて藪漕ぎの必要もなく、歩くのに支障はありませんでした。
少し傾斜が緩んでくると、のような所がありました。
真っ直ぐに降りていくにはあまりにも傾斜が急なので、から回り込んで降りていきました。
明瞭で緩やかになった尾根の背を進んでいきます。
少し登り坂になってくると、次第にが広がってきます。
緩やかになって正面が開けてくるとの上に出ました。
大規模に山が切り崩されていました。
先の方の尾根にはレンガ造りのが見えましたが、何なのかは分かりませんでした。
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鞍部
右側に広がるを眺めながら、
あまり崖に近づかないよう、少し離れた尾根のを降っていきました。
ルートを示すかのように、所々に赤テープが取り付けられていました。
坂を降り切ると、少し開けた鞍部に着きました。
古城山から14分ほどの所になります。
右側の先にはと思われる尾根にある高みが見えていました。
右側の斜面は歩けそうにもないし、と思いながら辺りを見回していると、
正面の尾根に生える半分ほどにに赤テープが取り付けられていたので、
このまま尾根を真っ直ぐに登っていきました。
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傾斜のある所を登っていくと、緩やかでになってきます。
右側には引き続きの崖が続きます。
採石場から少し離れて傾斜が増してくるを登っていくと、
左側にが見える所がありました。
幅が広がった尾根を登っていくと、鞍部のようになった尾根に出ました。
正面には山並みを見渡せる眺めが広がっていましたが、手前の樹木がかなり邪魔をしていました。
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尾根の肩
赤テープが取り付けられたを登っていきます。
次第に傾斜が増してくる尾根の背を登っていくと、と思われるものが倒れていました。
そこを過ぎていくと、緩やかな尾根の肩に登り着きました。
鞍部から12分ほどで着きました。
ここで尾根が分岐しています。
今回はここからへ延びる尾根を進んでいくのですが、
その前にへ延びる尾根の先にある太盛山まで往復することにしました。
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太盛山 (標高605.5m)
尾根を歩き始めると、程なくして軽いになります。
浅い鞍部に着いて、正面のへ登り返していきます。
尾根を登り切ると太盛山に着きました。
尾根の肩から5分ほど、古城山から32分ほどで着きました。
左へ僅かに降った所に「古城山」があるので、地形図に載っている605.5m峰になるようです。
手前の樹木が少し邪魔していますが、左側には山並みを見渡せる眺めが広がっていました。
景色を眺めながら、ここでひと息入れていきました。
四等三角点
基本
No.113422
この測量標はすべての測量の基準です。
三角点を大切にしましょう。
国土地理院
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落ち着いたところで、手前のまで引き返してきて、
へ延びる尾根を降っていきます。
一旦緩やかになって、再びになる尾根を進んでいきます。
地面にのようなものが2本続くようになると、緩やかな鞍部に着きます。
尾根の肩から4分ほどの所になります。
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鞍部から少し登っていくと、再び緩やかな尾根が続くようになります。
僅かな瘤の右側を過ぎて尾根の背に出て、を進んでいきます。
アンテナの残骸のような物があるを過ぎていくと降り坂になります。
馬の背のようなに着いて登り返していくと、尾根の背から外れて、左斜面を登るようになります。
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尾根の肩
尾根の背に出て、横一列に並ぶの間を抜けていきます。
引き続き明瞭な尾根の背を進んでいきます。
少し傾斜が増してきたを登っていくと、尾根の肩のような所に着きました。
太盛山から18分ほどで着きました。
登り着いた所には赤頭黒短杭がありました。
地形図によると、太盛山の北北東500m辺りにある標高600mほどの高みの南西端になるようです
ここで尾根は少し曲がっていきます。
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展望地
少し左へ曲がりながら続くを緩やかに登っていきます。
を過ぎていくと降り坂になってきます。
傾斜が増してきた尾根を降っていくと、樹間からが見えてきました。
そこへ向かうように降っていくと、急に目の前が開けた展望地に出ました。
太盛山から22分ほどで着きました。
良くは知らないのですが、方角からすると、左手前が釜床山、右奥に聳えているのが行者岳でしょうか。
太盛山からここまでは展望の開けない尾根を歩いてきたので、
何枚も写真を撮りながら眺めを楽しんでいきました。
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急坂を降って、緩やかになったを進んでいきます。
次第に尾根が広がってきて、が右側に続くようになりますが、尾根の背を辿って北へと進んでいきます。
これまでに比べて少し樹木が茂り気味になってきますが、進路を絶たれるほどではありません。
思い出した頃にが巻かれていたりもします。
降り傾斜が増し始める所まで来ると、樹間から送電線の鉄塔が見えました。
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少し傾斜が増したを降っていくと、
ロープ製のに行く手を阻まれました。
展望地から12分ほどの所になります。
設置されてからかなり年月が経って植林も育ったためか、荒れて用をなさないような状態になっていました。
ここは、防護柵に沿って右へ曲がっていきました。
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防護柵は尾根の背を辿るようにして続いていました。
少し登ってから、植林地と雑木林を分けるを降っていきます。
軽く登るようになると、赤と白ののある僅かな高みに着きました。
防護柵が現れた所から9分ほどの所になります。
地形図によると、523m峰の南南東100m辺りにある標高530mほどの高みになるようです。
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植林地になってきたを降っていきます。
2分ほど降っていくとのある所に着きましたが、地形図に載っている523m峰なのかどうかは分かりませんでした。
そこを過ぎて、植林地の縁の尾根を降っていきます。
僅かなを越えていくと、頭上には送電線の鉄塔が間近に見えてきました。
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鞍部
鉄塔を眺めながら尾根を降っていくと鞍部に着きました。
防護柵が現れた所から17分ほど、展望地から31分ほどの所になります。
ここで、正面の尾根と左斜面に続く道にしています。
ここまで続いてきたロープ製の防護柵には赤テープが取り付けられていました。
正面の尾根を登り返していこうかとも思いましたが、
赤テープが柵の向こう側に続く明瞭な道へ誘っているように思えたので、柵をくぐって左前方に続く道を進んでいきました。
後で調べてみると、ここは 巡礼の道が右手前から来て左前方へと尾根を斜めに横切っていく所のようです。
南にある 441m峰の傍にあった 内山寺から 釜床山の北にある 鷲原寺を経て 岩屋観音へ続く道で、
道沿いには多くの 石仏が佇んでいるとのことです。
この時にはそんなこととは知らなかったので、右側から来る道には気が付きませんでした。
後日に右の 巡礼の道を歩きました(「 釜床山」を参照)
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雑木林の斜面に続くを登っていきます。
2分ほど進んでいくと、僅かな沢が流れるを横切っていきます。
谷筋を過ぎていくと、すぐの所にが佇んでいました。
2体並んでいましたが、片方の頭はなくなっていました。
その少し先にも、頭のなくなった石仏がありました。
それらを過ぎて、右・左と曲がって進んでいくと、道端に「火の用心No.28」の赤い標識が倒れかかっていました。
そこから右へ戻るようにして踏み跡が分かれていました。
鞍部から5分ほど進んだ所になります。
正面に続く巡礼の道とここで分かれて、を登っていきました。
後日に正面の 巡礼の道を歩きました(「 釜床山」を参照)
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道はすぐに緩やかになって、等高線に沿うようにしてを横切っていきます。
軽く降るようになると、のような所を横切っていきます。
その先へ軽く登っていくと、尾根の背に出ました。
鞍部から9分ほどかかりました。
正面には退色した「火の用心」の標識が立っていました。
からは歩きやすそうな尾根が登ってきていますが、鞍部から続く尾根のようでした。
ここは左へ続く硬質プラスチック製のを登っていきます。
送電線の巡視路でよく見かける階段です。
後日に右から登ってくる尾根を歩きました。(「 釜床山」を参照)
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尾根の背を蛇行するようにして続く硬質プラスチック製のを登っていきます。
直登するルートではなく、少しでも傾斜が緩やかになっていて助かりました。
そんな階段を5分ほど登っていくと、退色した「火の用心」の標識が立っていました。
その脇から右の斜面にがあるようでした。
少し歩いてみましたが、すぐに不明瞭になったので引き返してきました。
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小ピーク
次第に広がってくるを登っていくと、
のある小ピークに着きました。
鞍部から21分ほどの所になります。
地形図によると、釜床山の南300m辺りにある標高620mほどの高みになるようです。
ここで尾根が分岐しています。
このまま北へ続く尾根を進んでいくと釜床山へ着くようですが、
車を止めてきた観光駐車場が益々遠くなってしまうので、
東南東へ延びるを降ることにしました。
後日に北へ続く尾根を歩きました。
(「 釜床山」,
「 釜床山」を参照)
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28番鉄塔
1分ほど進んでいくと、少し明るくなったの尾根の背を過ぎていきます。
右前方には送電線のの頂部が見えました。
その方角へ延びるを降っていきます。
少し右へ曲がりながら降っていくと、送電線の鉄塔「大河内線28」の脇に出ました。
鞍部から29分ほどで着きました。
出た所には退色した「火の用心」の標識が立っていました。
右側からはのようなものが来ていたので、
先ほどの小ピークの手前にあった標識の所から分かれてきた踏み跡なのかも知れません。
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手前の樹木や鉄塔に邪魔されながらも、山並みを見渡せる眺めが広がっていました。
鉄塔の周囲には夏草は生えておらず、明るくて開放的な場所になっていました。
左前方にはも見えていました。
丁度昼時になったので、鉄塔のコンクリート基礎に腰掛けて、景色を愛でながら昼食タイムにしました。
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お腹も満ちたところで、鉄塔の先へ進んでいきます。
退色した「火の用心」のの脇から続く踏み跡へ入っていくと、
すぐに硬質プラスチック製のが現れます。
階段には土砂や落葉がかなり積もって、分かり難くなっていました。
雑木林の斜面に続く階段を降っていくとに出ます。
少し進んだ所の右側の樹間からはが僅かに見えました。
尾根の背を緩やかに降っていくと、赤い「火の用心」の標識が立っていました。
何故だか左を向いて立っているので、周囲の様子を覗っていると、道は標識の袂から左へ折れ曲がっていました。
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落葉などに埋もれた階段を降っていくと、すぐに右へ曲がっていきます。
の袂を過ぎていくと、再び尾根の背に出ました。
植林地になってきたを淡々と降っていきます。
途中の樹木には「足もとに注意」のが取り付けられていましたが、
その前後と比べて特に注意が必要な様子ではありませんでした。
標識を過ぎて、引き続き途切れながら続く土砂や落葉に埋もれた硬質プラスチック製の階段を辿りながら降っていきます。
次第に傾斜が緩やかになって尾根が広がってくると、退色した「火の用心」の標識が立っていました。
傍にはもありましたが、ほとんど用をなしていない様子でした。
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29番鉄塔
防護柵の右側の先にが見えたので、ちょいと立ち寄っていきました。
植林地を出て傍までいくと、送電線の鉄塔「大河内線29」でした。
28番鉄塔から19分ほどで着きました。
送電線はへと続いていて、尾根にある鉄塔も見えました。
正面には山並みなどが見えましたが、先ほどの鉄塔よりも控えめな景色でした。
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29番鉄塔から引き返してきて、その先へ降っていきます。
手前の標識の所まで引き返せば良かったようですが、そのまま沿いに降っていきました。
すぐにへ入っていきますが、
これまで隠れ気味に続いてきた硬質プレスチック製の階段は見かけなくなりました。
次第に傾斜を増してくる植林地を、右側の雑木林からそれほど離れないように降っていきました。
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国道429号
やがて下の方が明るくなってくると、正面の谷向かいに通るが見えてきました。
もうすぐ急斜面が終わると思うと心丈夫になってきました。
益々傾斜が増してくる植林地を樹木に掴まりながら滑り落ちるように降っていくと、
道路脇の僅かな谷筋に降り立ちました。
29番鉄塔から16分ほどで降りて来られました。
谷筋には岩盤を流れるがありました。
道路への出口付近には赤い「火の用心」の標識が立っていました。
29番鉄塔の手前にあった標識の辺りから谷筋へ降っていく巡視路があったように思えました。
降り立った所は、国道429号がヘアピン状に曲がっている手前でした。
振り返ってを確認してから、
車を止めてきた観光駐車場へ向かって、をひたすら歩いていきます。
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国道429号を3分ほど進んでいくと、市川に架かるを渡っていきます。
右側に見える尾根には、先ほど訪ねた2つのが聳えていました。
橋を渡って少し進んでいくと、左へ戻るようにして道が分かれていきます。
角には黒川渓谷のが立っていて、今来た道を指していました。
「鷹ノ巣ダム0.5km」の標識もあって左の道を指していますが、道なりに右へ曲がっていきます。
の祠やが祀られた祠などを過ぎていくと小野新橋が架かっています。
上流側には趣のある木製のが架かっていましたが、立入禁止になっていました。
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小野新橋を渡って道なりに左へ曲がり、市川沿いに進んでいくとがありました。
その少し先で、道が左右に分かれていきます。
国道429号に出た所から35分ほどの所になります。
左には小野大橋が架かっていて、史跡生野銀山や生野鉱物館などへ続いているようです。
ここまま正面の国道429号を進んでも趣に欠けようというものなので、右へ続く銀の馬車道を進んでいきました。
銀の馬車道は一方通行になっていて、車はこちら側から進入できませんが、歩くのは大丈夫です。
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やの民家を見かける銀の馬車道を進んでいきます。
新しそうなも見かけたので、地域ぐるみで街並みを保存されているように思えました。
銀の馬車道が終わって国道429号に出て、その先へ進んでいきます。
川向こうにあるの所を眺めながら進んでいくと、崖際に修道碑がありました。
少し先のや岩壁には石仏が佇んでいました。
下箒の修道碑
この地は、口銀谷町と奥銀谷町をつなぐ交通の要路ですが、太盛山の山裾が断崖をなして川にせまっているため、
洪水の都度道路が流失して往来に困っておりました。
明治22年(1889)8月の大洪水により道路が流失した際、当時の生野鉱山長 朝倉盛明は、町民の困難を救うため、
宮内省に請願して道路修築工事を行いました。
その結果、現在まで数度の大洪水にも耐え、決壊は全くなくなり、さしもの難所も昔語りとなりました。
この工事の由来を永遠に伝えるとともに、朝倉盛明の功績を記念するため修道碑が建てられました。
「ほうき」は「ほき」又は「ほけ」の転訛したもので、山腹の険しい所、崖を意味するものです。
(平成5年3月 生野町教育委員会)
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口銀谷地区
国道429号を更に進んでいきます。
三菱マテリアル株式会社(旧生野鉱山本部)の建物が並ぶ所を進んでいきます。
黄色い陸橋の下を過ぎていくと、太盛山へ向かう途中にあったが敷地の入口から見えました。
川向こうにある神社へ続くを見送っていくと、
道の両側に風情のあるが続くようになりました。
少しずれたを直進し、
その先のを過ぎていくと、車を止めておいた観光駐車場に着きます。
国道429号に出た所から1時間8分ほどで到着しました。
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