金剛童子山
概 要 金剛童子山は京丹後市弥栄町にある標高613.5mの山です。 役小角が「業場」として開いたとされ、往時には七堂伽藍があったようです。 山頂や展望地からは、丹後の山並みを見渡せる眺めが広がります。 今回は味土野地区の登山口から山頂へ登り、南の作業道を降るルートを歩きます。 下山後は、集落の奥にある「細川ガラシャ夫人隠棲地」を訪ねます。
起 点 京丹後市弥栄町 味土野地区
終 点 京丹後市弥栄町 味土野地区
味土野地区…登山口…木橋…小沼…小祠…金剛童子山頂上避難小屋…金剛童子山…金剛童子山頂上避難小屋…展望地…金剛童子山登山道入口…真言寺院古跡…堂山・七堂伽藍之跡…聖神社跡…ふるさと味土野之跡…細川ガラシャ夫人隠棲地…味土野ガラシャ荘…味土野地区
所要時間 2時間20分
歩いて... 味土野地区からの登山道は最初は広めですが、木橋を渡っていくと普通の山道になりました。 少し泥濘んだり水が流れる所もありましたが、夏草が茂ることもなく、分かり易い道が続いていました。 山頂から南へ続く道は広くて歩きやすくなっていました。 かなり分岐がありましたが、各所に標識が立っていて、迷うことなく降りていけました。
関連メモ 金剛童子山, ガラシャの里, 金剛童子山
コース紹介
味土野地区
京丹後市弥栄町野中地区に続く府道75号を南下していきます。 府道57号を分けて、右側を流れる宇川に架かる野中橋を渡っていきます。 「野間宮川橋」の標識の出る分岐を左折して、来見谷川に架かる宮川橋を渡って南下していきます。 「小杉」の標識が立つを見送って府道655号を南下していきます。 味土野の集落が見えてきた所に架かる短いコンクリート橋(*)を渡っていくと、 路肩が広がって車数台分の駐車スペースになっていたので、ここに車を止めました。
*短いコンクリート橋の手前から男城跡へ続く道が分かれています。 (「ガラシャの里」を参照)
野間川
野間川(宇川の上流域)は、丹後半島の脊梁山地をなす金剛童子山・高尾山・夕霧山・角突山・太鼓山などを源流に谷々の水を集め、 渓谷をなす野間山地を蛇行し、碇高原と依遅ヶ尾山麓の中央を流れて、丹後町・平の海岸にたどり突く。 標高600mの源流域から河口の平海岸までの全長は約20kmと短い川である。 川の上流から下流まで川床が礫であるため、水が清澄で渓流魚が生息するのに適しており、 かつては100万尾の天然鮎が遡上していたという…。
野間川の生物
【魚類】
アユ・アマゴ・ヤマメ・うなぎ・ウグイ・ハヤ・カワムツ・カジカ・シマドジョウなど
【底生動物】
カワカゲロウ・カワトンボ・カワゲラ・トビケラ・ドロムシ・ガガンボ・ユスリカ・ミズミミズ・マキガイ・カワニナ・サワガニなど、 きれいな水に棲む底生動物が多く見られます。
 (京丹後市弥栄町商工会、京丹後市丹後町商工会)
登山口
駐車スペースのすぐ先から、右へ戻るようにして続く山道があります。 入口には「金剛童子山登山道」のが立っていて、右の道を指しています。 傍には「役小角と金剛童子山」と題した解説板もありました。 今回はここから金剛童子山へ登っていきます。
役小角と金剛童子山
役小角は7〜8世紀に大和国葛城山にいた実在の人物であるが、 後世修験道の祖として信仰を集め、役行者とも呼ばれている。 全国各地には役小角が登ったと伝えられている山がたくさんあり、 高下駄を履き鬼神を従え、独特の風貌をした像も多数残されている。 『丹哥府志』によると、役小角が金剛童子山を「業場」として開いたとされている。 また金剛童子山への道筋に「休堂」「かねかけの業場」「御手洗の池」「行者堂」「西の業場」等があるとしている。 現在それらの全てを確認することはできないが、金剛童子山周辺が、修行の場であったことは確かである。 地元では金剛童子山を熊野山、行者山とも呼んでおり、往時は七堂伽藍が存在していたと伝えられている。 上山寺(京丹後市丹後町上山)は、明法上人開基を伝えるが、 『丹哥府志』には役小角が金剛童子山を開いた際に、庵を結んだところといわれている。
木橋
山道を登り始めると、すぐに左へ小さくZ字形に折れ曲がっていきます。 少し泥濘んだ広めの道を進んでいくと、小さな沢筋にが架かっています。 山側にはがあって、流れ落ちる水が心地よい音を響かせていました。 橋を渡って、次第に狭まってくる谷筋に続くを進んでいきます。 Z字形の所や少し泥濘んでいる所もあって車は通れそうにもありませんが、 登山道にしては広すぎるし、何の目的の道なのだろうと思いながら進んでいきました。 登山口から6分ほど進んでいくと、沢に木橋が架かっています。
木橋を渡って進んでいくと、次第に道幅が狭まってきて、普通の山道のようになってきます。 傾斜が増してきた道を登っていくと、少しが流れて沢のようになっている所がありました。 そこを登っていくと、左側が開けてきて、谷向かいの稜線が眺められるようになります。
樹間から谷向かいのを眺めながら登っていくと、道は曲がっていきます。 道端には平らで小広くなった所がありました。 尾根のに続く緩やかで快適になった道を進んでいきます。 少し傾斜が増してきた道を登っていくと、左右に延びる尾根に出ました。 登山口から19分ほどの所になります。 登り着いた所には「金剛童子山登山道」のが立っていて、左へ曲がっていく道を指しています。 正面にも踏み跡があるようでしたが、標識の指す左へ続くを進んでいきます。
小沼
両側に熊笹が茂る広めのを進んでいきます。 僅かに降っていくと、尾根のを進むようになります。 尾根の背に出て僅かなを進んでいくと、右側に水が少し溜まった小沼がありました。 先ほどの標識から3分ほどの所になります。
小沼を過ぎて登り坂になったきた尾根道を進んでいきます。 が茂る所を過ぎて、傾斜が緩んできた右斜面を進んでいきます。 少し登り坂になってきた道を進んでいきます。 浅くU字形にを登っていくと、緩やかな道になってきます。
少しになってきた道を進んでいきます。 緩やかな所を過ぎてになってくると、右側から尾根が近づいてきます。 そこへ向かって左へ曲がりながら登っていくとに出ます。 登り坂の広めの尾根道を更に登っていきます。
小祠
広くて快適なを登っていきます。 少し曲がりながら登っていくと、樹間からが僅かに見えます。 傾斜が緩やかになった道を進んでいくと、が建つ小広い所に着きます。 登山口から35分ほどの所になります。 祠の中にはが安置されていますが、この先で見かけた標識によると不動明王のようでした。 道端には「金剛童子山登山道」のが立っていて、正面の道は「山頂(行者堂)」、 左の道は「作業道線・高原線近道」、今来た道は「味土野方面」となっています。 左の方を覗ってみましたが、熊笹が茂るばかりで、それらしい道は分かりませんでした。
金剛童子山頂上避難小屋
小祠の右から奥へ続くを3分ほど進んでいくと、 の建つ小広くなった所に着きます。 周囲が1.5mほど高くなった窪地で、かつて行者堂があった所でしょうか。 小屋には真新しい「金剛童子山頂上避難小屋」の板が取り付けられていました。 「金剛童子山613m」の標識も取り付けられていて、ここが金剛童子山の山頂部になるようです。 登山口から40分ほどで登って来られました。 「役小角と金剛童子山」の解説板も取り付けられてましたが、登山口で見かけたのと同じ内容でした。 小屋のには石像が安置された祠もありました。 丸太を輪切りにした椅子も沢山置かれていて、ひと休みするのに良い場所になっていました。 脇には「金剛童子山登山道」のが立っていて、左へ降っていく道は「高原線・作業道線方面」、 今来た道は「味土野方面」となっています。
窪地の右側へ登ってみると、樹木が伐採されて、東側には山並みを見渡せる眺めが広がっていました。 これまでほとんど展望の開けない道を登ってきたので、しばらく眺めを楽しんでいきました。 奥の方にはが見えていましたが、名前は分かりませんでした。
金剛童子山 (標高613.5m)
窪地のすぐ先には金剛山」があるので、 地形図に載っている613.5m峰になるようです。 三角点を過ぎた所には、がひとつ設置されていました。 その先にはが広がっていて、奥の方にはも見えました。
まで引き返して、 窪地の周囲の高みを越えて、「高原線・作業道線方面」のが指す道を降っていきます。 登ってきた道よりも広くて傾斜も緩く、になっていました。 金剛童子山頂上避難小屋から3分ほど降っていくと、道は右へ曲がっていきます。 その角には「金剛童子山登山道」のが立っていて、 左の道は「味土野線近道・不動明王石像」、今来た道は「山頂(行者堂)」となっています。 熊笹などが茂っていて明瞭ではありませんでしたが、左側に道があるようでした。 山頂手前にあった小祠へ続く巻き道のようですが、確かめた訳ではありません。
展望地
左の道は見送って、右へ曲がっていきます。 緩やかになってきた広いを進んでいくと、程なくしてになります。 坂道を登っていくと開けたに着きます。 金剛童子山頂上避難小屋から7分ほどの所になります。 ベンチが幾つか設置された展望地になっていて、山並みや街並みなどを見渡せる眺めが広がっていました。 双眼鏡も設置されていました。 眺めを楽しみながら、しばらく休憩していきました。 北の方角にはもよく見えました。
後日に来てみると、木製デッキや案内板が設置されていました。 (「金剛童子山」を参照)
展望を楽しんだら、登り着いた所に立つ「金剛童子山登山道」の標識「高原線・作業道線」の指す南南東へ続くを降っていきます。 広いを1分ほど降っていくと分岐があります。 脇には「金剛童子山登山道」の標識が立っていて、右の道は「高原・等楽寺方面」、 正面の道は「作業道線方面」、今来た道は「山頂方面」となっています。 熊笹が茂る左にも踏み跡があるようでしたが、標識には何も示されてはいません。 は広くて明瞭で、高原登山口へ降りられるようですが、入口にはトラロープが張られていました。 ここは正面に続く道を進んでいきました。
後日に右の道を歩きました。(「金剛童子山」を参照)
広くて緩やかなを進んでいきます。 少し降り傾斜が増してくると、が道を塞いでいました。 行き止まりなのかと思っていると、道はその手前から左へ曲がっていきました。 道なりに左から右へ曲がって降っていくと、右側から草が茂る道がしてきました。 トラロープから続く道のようでしたが、特に崩落している様子もなく、何故道が付け替えられたのかは分かりませんでした。 その少し先でも再びトラロープが張られていましたが、その手前を右へ曲がって降っていくと、左右に通る道に降り立ちました。 展望地から5分ほどの所になります。 道の中ほどには「金剛童子山登山道」の標識が立っていて、今降ってきた道を指しているようでした。 その袂には「」の紙が落ちていました。 右の道は通行止めという意味だと解釈しました。 ここは左へ曲がって降っていきます。
傾斜が緩んで歩きやすくなった道を降っていくと、1分もしない所にがあります。 角には「金剛童子山登山道」の標識が立っていて、右へ曲がっていく道を指しているようでした。 正面へ続く道もしっかりとしていましたが、標識に従って右へ曲がっていきます。 道なりに降っていくと再び分岐があります。 角には「金剛童子山登山道」のが立っていて、左へ戻るように曲がっていく道を指しているようでした。 正面の道も広くて歩きやすそうでしたが、標識に従って左へ曲がっていきます。
金剛童子山登山道入口
植林地の斜面に続くを降っていきます。 樹間から僅かにを眺めながら降っていきます。 少し右へ曲がりながら降っていくとがあります。 角には「金剛童子山登山道」の標識が立っています。 左へ登っていく道は見送って正面の道を降っていくと、左右に通る道に降り立ちました。 角には「金剛童子山登山道入口」のや「金剛童子山登山道」の標識が立っていて、今降ってきた道を指していました。 展望地から13分ほどの所になります。 右の道もしっかりとしていましたが、ここは左へ降っていきます。 振り返っての様子を確認していきました。
緩やかでを進んでいきます。 道の下に土管が埋設されたを過ぎていくと、 樹間から僅かにが見える所がありました。 道なりに少し左へ曲がっていくと分岐があります。 入口に立つ「金剛童子山登山道」のに従って、正面の道を進んでいきます。
真言寺院古跡
程なくして、正面にが見えてきます。 緩やかな尾根のようで、すぐそこに見えているまで簡単に登れそうに思えましたが、 尾根の上には手前の分岐から分かれた道が通っているのでしょうか。 今歩いている道は、尾根の手前で右へ曲がっていきます。 樹間から見えるを眺めながら進んでいくと、 山際に「真言寺院古跡」のが立っていました。 金剛童子山登山道入口から11分ほどの所になります。 その上に生える樹木には「入口より700米地点」の板が取り付けられていました。 標識を過ぎた少し先から山側を見上げてみるとが広がっていて、 かつて建物が建っていたことをうかがわせる様子でした。
この上、稜線から味土野側へ約50m下った地点を堂山の真言寺院古跡と伝える。
植林地の斜面に続く広い道を降っていくと、左から降ってくる道がしてきます。 角には「金剛童子山登山道」の標識が立っていて、正面の道を指しています。 左から来る道は、手前にあった分岐から真言寺院古跡だとされる標高500mほどの緩やかな尾根を越えて降ってきた道でしょうか。 少し右へ曲がっていくとに出て、緩やかでを進んでいきます。 尾根の右斜面を進むようになると、右側が開けて山並みを見渡せる所がありました。
堂山・七堂伽藍之跡
植林地へ入っていくと左右に通る舗装路に出ました。 金剛童子山登山道入口から21分ほどの所になります。 左脇には「堂山・七堂伽藍之跡」のが立っていました。 碑文からすると、堂山・七堂伽藍は先ほどの「真言寺院古跡」のある高みの少し東側にあったようです。 「役小角と金剛童子山」の解説板もありますが、これまでに見かけたのと同じ内容でした。 正面にはが立っていて、右の道は「等楽寺方面」、左の道は「味土野方面」となっています。 解説板の傍には「金剛童子山登山道」のが立っていて、今来た道は「作業道線」となっています。 には「通行禁止」の看板が出ていますが、自動車が対象のようでした。 「(社)京都府森と緑の公社 高原事業地」の標柱もありました。 舗装路は右へも続いていますが、味土野地区へ向かって左へ進んでいきます。
堂山・七堂伽藍之跡
七百米先奥 味土野側へ百米下リル
平成十八年建之
通行禁止
これから先は、造林公社の作業道です。 一般車の通行を禁止します。
 (社団法人 京都府造林公社 北部事務所)
聖神社跡
快適な舗装路を2分ほど降っていくと、右へ曲がっていくヘアピンカーブがあります。 その曲がり角から左の熊笹が茂る中へ5mほど入った所にが立っていたので近づいてみると、 「聖神社跡」と刻まれていました。 かつて神社があった所のようですが、遺構のようなものは見かけませんでした。
ヘアピンカーブを過ぎていくと、左側が開けてが少し見えるようになります。 その先へ進んでいくと、を大きく左へ曲がっていきます。 谷向かいにを眺めながら降っていきます。 次第に左側のが開けてくる道を進んでいくと畑地が広がってきます。 舗装路に出た所から10分ほどの所になります。
畑地の先にあるを過ぎ、その先のを過ぎていくと、 右側に山並みや畑地が広がってきます。 下の方にはへ続く道路も見えました。
ふるさと味土野之跡
大きく左へ曲がって僅かな竹林を過ぎていくと、右側にと民家がありました。 そこを過ぎて大きく右へ曲がっていくと、の集落になってきます。 民家が点在するようになり、畑仕事をしている方も見かけました。 そんな中を緩やかに降っていくと、「ふるさと味土野之跡」と刻まれた石碑がありました。 かつて公民館があった所のようです。 傍には赤い前掛けと帽子の石仏が沢山ありました。 表側には碑文が刻まれていました。 一部読めない文字があったり誤読している所もあるかも知れませんが載せておきます。 「集落機能喪失」となっていますが、現在でも3戸が暮らしておられるようです。 裏側には「建立者名標」と題して、在住の3人と各地へ移っていった方々の名前が刻まれていました。
ふるさと味土野之跡
古代から山岳間道の要処で中世に七堂伽藍を完備した真言 宗の山寺があり近世の始め宗門の__為廃寺となり住民は 改宗して曹洞宗洞養寺の檀徒となった。山寺の御本尊は洞慶 寺に安置され奥の院の金剛童子と__の蔵王権現は集落 の守護神として継承し阿弥陀堂跡附近には真言時代の名残 を留めている。女城は細川忠興夫人の隠棲地であり男城は地頭 支配時代の城塞跡に忠興夫人の家来が駐在した所とある。 端郷小杉は慶安元年に拓け昭和三十八年に廃村となった。天明の 飢饉に味土野小杉合せて六十余人死亡している。又日華事変から 太平洋戦争の戦死者も多く其の末帰還遺骨多数外地外洋 に眠る。六十余りあった戸数は明治の後半から減少し昭和三 十八年の豪雪後離村者急増遂に集落機能喪失。荒廃は 続き尚変遷急速な時勢なり。古代から住民の相互扶助と 悲嘆歓喜共に労苦の滲む墳墓の地であり出身者の終 生忘却出来ない処である。
碑文 木下英司  書 木下弘一
昭和五十九年四月吉日 住民一同建之
石碑を過ぎていくと府道655号に降り立ちました。 舗装路に出た所から21分ほど、展望地から56分ほどで降りて来られました。 ガードレールには「金剛童子山登山道入口」のが取り付けられていて、今降ってきた道を指していました。 車を止めてきた駐車スペースへは左へ降っていくのですが、 右のすぐ先に細川ガラシャ夫人隠棲地があるので、立ち寄っていくことにしました。
細川ガラシャ夫人隠棲地
左へ曲がりながら坂道を登っていくと、すぐに解説板などが立つに着きます。 正面には近畿自然歩道「須川渓流と太鼓山をめぐるみち」の道標が立っていて、 右側にあるの脇から続く道は「小町公園7.8km」、今来た道は「スイス村9.5km」となっています。 近畿自然歩道のも設置されていました。 左側にはがあり、その奥に僅かな高みがあります。 高みの手前には「細川ガラシャ夫人隠棲地」と題した案内板が設置されていて、 「男城女城跡図」と「女城跡付近図」と題したや 「昭和11年当時の味土野」と題したが載っていました。 左側から回り込むようにして高みへ登っていくと、 「細川忠興夫人隠棲地」と刻まれた石碑、「細川ガラシャ略伝」と題した解説板、石仏を安置した小祠などがありました。
近畿自然歩道(味土野〜内山)
近年、地球温暖化問題など環境問題が世界的な課題となっています。 私たちは、山、川、海の自然環境が私たちに及ぼす恩恵や影響などを体験学習で学び このかけがえのない丹後の自然を守る事業に取り組んでいます。
丹後・小規模企業広域活性化事業
 (弥栄町商工会、丹後町商工会)
京丹後市指定史跡「細川ガラシャ夫人隠棲地」
この場所は「御殿屋敷」ともいわれ、天正10年(1582)の本能寺の変の後に、 2年間、細川ガラシャが隠棲した時の居城があったと伝えられています。 周囲には、ガラシャが信仰したと伝えられている観音跡や古井戸、蓮池跡などがあります。
 (京丹後市教育委員会)
細川ガラシャ略伝
細川忠興の妻、玉子(玉)。 永禄6年(1563)明智光秀の三女として生まれる。 天正6年、16才の時織田信長の命により後に丹後田辺城(現舞鶴市)の城主となる細川幽斎の嫡子忠興に嫁いだ。 天正10年6月本能寺の変により、父光秀が信長に謀反を起こした。 光秀は忠興を味方に誘ったが、忠興はこれを聞かず玉子を離別幽閉し自分は羽柴秀吉軍として出陣し、光秀と山崎で戦った。 玉子の実父光秀の死後、家臣は自害をすすめたが「私は忠興の妻、主人の命を聞かずして事を決することは婦道にそむくことです」とこれを聞き入れず、 愁思のうちに2年の月日をこの地で過ごすこととなった。 秀吉はこれを憐み忠興は再び妻として玉子を迎えた。 その後キリスト教に入信し、「ガラシャ」の洗礼名を受けた玉子は、忠隆・忠秋他三子を授かった。 しかし、平穏な日々も束の間、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、徳川家康に従い東征についた夫忠興の留守に大阪細川邸にあった玉子は 石田三成の軍勢に囲まれ、人質として大阪城へ入城を迫られたが 「私が人質として入場すれば堅武士の夫忠興の足手まといとなります」と自ら邸宅に火を放ち壮烈な最期をとげた。 享年38才夏のことである。 辞世の句は有名である。
散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ
数奇な運命に彩られ、夫忠興のために殉じて果てた玉子の生涯は戦国の世に咲いた一輪の花として現在に語り伝えられている。
身をかくす里は吉野の奥ながら 花なき峰に呼子鳥啼く 玉子
 (京丹後市教育委員会)
味土野ガラシャ荘
細川ガラシャ夫人隠棲地から府道655号を引き返してきます。 金剛童子山から降ってきた舗装路へのを過ぎていくと、 右前方に建つ空色の屋根のが近づいてきます。 道端には、石垣から出た管から流れ落ちるがありました。 手で受けてみると冷たい水でしたが、飲用かどうか分からなかったので飲みませんでした。 そこを過ぎていくと、先ほどから見えている建物の敷地に着きます。 建物の傍まで行くと「味土野ガラシャ荘」の板が取り付けられていました。 入口の引き戸が半開きになっていたので中を覗ってみると、靴を脱いで上がるようでした。 中からは人の声が聞こえてきましたが、建物の説明を書いたものは見かけず、 どのような趣旨の建物で、一般人が入っていいのかも分からなかったので、中に入るのは止めておきました。
後で調べてみると、明治41年(1908)に野間村立野間小学校味土野分校として発足した所のようです。 昭和46年(1971)に閉校して町の宿泊施設「ガラシャ荘」として再出発し、平成25年(2013)に建て直しされたようです。 現在は宿泊出来ないようですが、防災の避難所として使われているそうです。
味土野地区
味土野ガラシャ荘を後にして1分半ほど降っていくと、 金剛童子山へ登っていった登山口に戻ってきました。 そのすぐ先に、車を止めておいたがあります。
季節柄、愛車の屋根や窓ガラスには沢山の落葉が付いていました。 これも何かの縁と思って取り除かずに走り出しましたが、そのうちにすべて吹き飛んでいきました。