概 要 |
ガラシャの里は京丹後市弥栄町の味土野地区にある山村です。
味土野地区は現在では集落機能喪失の状態になっていますが、まだ数世帯が暮らしておられるようです。
今回は細川ガラシャ夫人にまつわる男城跡と女城跡を巡ります。
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起 点 |
京丹後市弥栄町 味土野地区
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終 点 |
京丹後市弥栄町 味土野地区
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味土野地区…登城口…展望地…男城跡…展望地…登城口…味土野ガラシャ荘…女城跡…味土野ガラシャ荘…登城口…味土野地区
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所要時間 |
1時間10分
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歩いて... |
登城口から男城跡までは明瞭な道が続いています。
途中にある展望地からは女城跡が見えるようですが、この時には青葉に隠れていたのか確認出来ませんでした。
男城跡は解説板があるばかりで樹木が茂っていました。
道路のすぐ傍にある女城跡は、石碑や解説板があって小綺麗になっていました。
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関連メモ |
金剛童子山,
金剛童子山
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味土野地区
京丹後市弥栄町の野中地区に続く府道75号を南下していきます。
丹後縦貫林道へ向かう府道57号を左に分けて野中橋を渡り、旧野間小学校を過ぎていくと、
「野間宮川橋」の標識が立つがあります。
脇には「細川ガラシャ夫人の碑5km」「味土野大滝4km」のが出ています。
標識に従って左に架かる宮川橋を渡って府道75号を進んでいくと、府道625号を左に分ける「霰橋」の標識が立つがあります。
脇には「細川ガラシャ隠棲地 味土野 直進4.5km」のがあります。
分岐を直進して狭い道を進んでいくと、「小杉」の標識が立つがあります。
左へ曲がっていく府道75号を見送って正面の府道655号を曲がりながら登っていくと駐車場があるので、ここに車を止めました。
駐車場には「味土野 ガラシャの里」のがあって、今回訪ねる男城跡と女城跡が載っています。
細川ガラシャ隠棲地 味土野 直進4.5km
この先は、車のすれ違いが困難な道路状況が続きます。
味土野 ガラシャの里 駐車場 周辺案内
現在地(駐車場)より
・ガラシャ大滝展望所まで約200m
・男城跡まで徒歩約15分
・女城跡まで徒歩約10分
・金剛童子山山頂まで徒歩約60分
※等楽寺方面、内山方面への通り抜けが可能かどうかは各自でご確認ください。
当駐車場での事故・盗難等につきましては一切の責任を負いません。
2019年4月 麒麟がくる 京丹後プロジェクト推進協議会
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登城口
駐車場の先に続くを進んでいきます。
山際に倒れている「↑500m 細川ガラシャ夫人隠棲地」のを過ぎていきます。
左の谷向かいにあるを眺めながら進んでいきます。
自動車が置かれたを過ぎていきます。
味土野の集落に入って大きく左へ曲がる所まで来ると、コンクリート橋の手前から広めの地道が正面に分かれていきます。
ここが男城跡への登城口になります。
駐車場から6分ほどの所になります。
脇には「徒歩10分 男城跡」のが立っていて、正面の地道を指しています。
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正面の地道に入っていくと、すぐにのような所をくぐっていきます。
右上にあるの下を過ぎていきます。
道なりに右へ曲がって登っていくと、またがあります。
建物を過ぎた所から左へ戻るようにして登っていくがありますが、見送っていきます。
短い夏草が茂る道を登っていくと、先ほどよりも広めの道が左へ戻るようにして登っていきますが、これも見送っていきます。
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一段高い所の手前まで来ると登っていく小径がありますが、に進んでいきます。
右に広がるを眺めながら進んでいきます。
次第に石垣が低くなると、正面に「男城跡」のが立っていて左前方を指しています。
登城口から5分ほどの所になります。
左後方にはが広がっています。
ちょいと歩いてみると、中ほどに「木下家住居跡」の石柱が立っていて、「元禄から昭和四十四年まで」と刻まれています。
離村された家が建っていた所のようですが、
離村されたすべての家に同様の石柱が立っているのか、この家は特別なのかはよく分かりませんでした。
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展望地
往復2分ほどでまで引き返して、左奥に続く道を進んでいきます。
背丈の低い夏草が生えてはいますが、明瞭で緩やかなが続きます。
少し曲がりながら軽く登っていくと、とベンチが設置されています。
登城口から10分ほどの所になります。
右側が開けていて、を眺められます。
案内板によるとが見えるようですが、青葉に隠れているのか、それらしい所は確認出来ませんでした。
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案内板に書かれている「←男城跡へはあと300m」に従って、その先に続くを進んでいきます。
道の両側に熊笹が茂っていますが、歩く部分には生えていなくて助かります。
の斜面を横切るように続く道を軽く登っていきます。
僅かに曲がりながら進んでいくと、の先に白い解説板が見えてきます。
左の尾根が次第に低くなってくると、鞍部になった峠に着きます。
登城口から14分ほどの所になります。
手前には「男城跡」の解説板があります。
左へ曲がった所にあるの先にも広めの道が続いていて、すぐ先で左右に分かれています。
何処へ続いているのか気になりますが、見送っていきます。
男城跡
天正十年(1582)宮津藩主細川忠興は妻の玉の父、光秀が本能寺の変を起こしたので、
謀反の娘となった玉を、約二年間味土野に幽閉した。
本能寺の変の後、宮津城中には豊臣方が玉を討ちにくるとの噂があった。
その噂は味土野にも伝わってきたので、谷合の道が眼下に見え、
玉と侍女が住む女城を一望できるこの男城から家臣たちは万一にそなえて見張りを続けた。
弥栄町教育委員会
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男城跡
正面に続く少しを登っていきます。
すぐに標高410mほどの小広くなった高みに着きます。
登城口から15分ほどで登って来られました。
ここが男城跡のようですが、その旨の標識などは見かけません。
今では樹木が茂るばかりですが、一段低い所にもなだらかな所があって、かつて山城があった雰囲気は感じられます。
辺りを少し歩いて様子を確認していきました。
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展望地
鞍部になったに戻って、左前方に続く広めの道を引き返していきます。
の斜面に続く道を僅かに曲がりながら進んでいきます。
道の両側にが茂る道を軽く降っていきます。
左側が開けてくると、案内板やベンチが設置された展望地に着きます。
男城跡から4分ほどの所になります。
左に広がるを再度眺めていきますが、
味土野ガラシャ荘は見えるものの、女城跡は確認出来ません。
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背丈の低い夏草が生えるを少し曲がりながら降っていきます。
を右に分けて降っていきます。
の縁を回り込むように進んでいきます。
僅かなの脇を過ぎていきます。
塩ビ管が埋設された僅かな谷筋を回り込んでいくと、「木下家住居跡」の石柱が立つなだらかな所に出ます。
男城跡から7分ほどの所になります。
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登城口
の左側を進んでいきます。
右前方へ登っていくを見送っていきます。
建物の手前から右前方へ登っていくを分けていきます。
左への曲がり角まで来ると、谷向かいに通る金剛童子山へのにあるコンクリート橋や小滝が見えます。
道なりに左へ曲がって、の下を過ぎていきます。
藤棚のような所をくぐっていくと、府道655号の曲がり角にある登城口に出ます。
男城跡から13分ほどで降りて来られました。
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右に架かるを渡っていきます。
橋を渡ったすぐの所に車数台分のがあります。
その先には「役小角と金剛童子山」と題したがあります。
脇には「金剛童子山登山道」の標識があって、「登山される方はこの駐車場をご利用下さい」となっています。
解説板の先から右へ分かれていく地道が金剛童子山への登山道(*)になります。
役小角と金剛童子山
役小角は7〜8世紀に大和国葛城山にいた実在の人物であるが、
後世修験道の祖として信仰を集め、役行者とも呼ばれている。
全国各地には役小角が登ったと伝えられている山がたくさんあり、
高下駄を履き鬼神を従え、独特の風貌をした像も多数残されている。
『丹哥府志』によると、役小角が金剛童子山を「業場」として開いたとされている。
また金剛童子山への道筋に「休堂」「かねかけの業場」「御手洗の池」「行者堂」「西の業場」等があるとしている。
現在それらの全てを確認することはできないが、金剛童子山周辺が、修行の場であったことは確かである。
地元では金剛童子山を熊野山、行者山とも呼んでおり、往時は七堂伽藍が存在していたと伝えられている。
上山寺(京丹後市丹後町上山)は、明法上人開基を伝えるが、
『丹哥府志』には役小角が金剛童子山を開いた際に、庵を結んだところといわれている。
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味土野ガラシャ荘
登山道を見送ってを登っていきます。
僅かなを回り込んでいきます。
道なりに右へ曲がっていくとが見えてきます。
府道から分かれて左前方へ軽く降っていくと建物の前に出ます。
登城口から3分ほどの所になります。
トイレには入れますが、室内への扉は施錠されていました。
情報によると、ここは明治41年(1908)に野間村立野間小学校味土野分校として発足した所のようです。
昭和46年(1971)に閉校して町の宿泊施設「ガラシャ荘」として再出発し、平成25年(2013)に建て直しされたようです。
現在は宿泊出来ないようですが、防災の避難所として使われているそうです。
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府道655号に戻ってその先へ登っていくと、パイプで引かれたがあります。
府道655号を更に登っていくと、電柱に「↑100m 細川ガラシャ夫人隠棲地」のが括り付けられています。
看板を過ぎていくと、右へ戻るようにして舗装路(*)が分かれていきます。
入口のガードレールには「金剛童子山登山道入口」のが括り付けられています。
「この先全面通行止」のも出ていますが、車が対象でしょうか。
*右の舗装路は「 金剛童子山」を参照。
少し登った所に「ふるさと味土野之跡」の石碑があります。
ふるさと味土野之跡
古代から山岳間道の要処で中世に七堂伽藍を完備した真言
宗の山寺があり近世の始め宗門の__為廃寺となり住民は
改宗して曹洞宗洞養寺の檀徒となった。山寺の御本尊は洞慶
寺に安置され奥の院の金剛童子と__の蔵王権現は集落
の守護神として継承し阿弥陀堂跡附近には真言時代の名残
を留めている。女城は細川忠興夫人の隠棲地であり男城は地頭
支配時代の城塞跡に忠興夫人の家来が駐在した所とある。
端郷小杉は慶安元年に拓け昭和三十八年に廃村となった。天明の
飢饉に味土野小杉合せて六十余人死亡している。又日華事変から
太平洋戦争の戦死者も多く其の末帰還遺骨多数外地外洋
に眠る。六十余りあった戸数は明治の後半から減少し昭和三
十八年の豪雪後離村者急増遂に集落機能喪失。荒廃は
続き尚変遷急速な時勢なり。古代から住民の相互扶助と
悲嘆歓喜共に労苦の滲む墳墓の地であり出身者の終
生忘却出来ない処である。
碑文 木下英司
書 木下弘一
昭和五十九年四月吉日 住民一同建之
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右の道は見送って府道655号を登っていくと、解説板などが立つに出ます。
正面には近畿自然歩道「須川渓流と太鼓山をめぐるみち」のが立っていて、
右に続く道は「小町公園7.8km」、今来た道は「スイス村9.5km」となっています。
近畿自然歩道のも設置されています。
解説板もありますが、図の部分は剥がれていました。
左側には広い場所があり、その奥に僅かな高みがあります。
高みの手前には「細川ガラシャ夫人隠棲地」と題したが設置されていて、
「男城女城跡図」と「女城跡付近図」と題したや
「昭和11年当時の味土野」と題したが載っています。
近畿自然歩道(味土野〜内山)
近年、地球温暖化問題など環境問題が世界的な課題となっています。
私たちは、山、川、海の自然環境が私たちに及ぼす恩恵や影響などを体験学習で学び
このかけがえのない丹後の自然を守る事業に取り組んでいます。
丹後・小規模企業広域活性化事業
弥栄町商工会、丹後町商工会
京丹後市指定史跡「細川ガラシャ夫人隠棲地」
この場所は「御殿屋敷」ともいわれ、天正10年(1582)の本能寺の変の後に、
2年間、細川ガラシャが隠棲した時の居城があったと伝えられています。
周囲には、ガラシャが信仰したと伝えられている観音跡や古井戸、蓮池跡などがあります。
京丹後市教育委員会
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女城跡
左右から高みの上へ登っていけますが、今回は時計回りにから登っていきます。
高みを巻くように右へ曲がりながら進んでいくと、高みへ登るがあります。
石段を登っていくと、標高370mほどの小広くなった高みに着きます。
ここが女城跡になるようです。
登城口から12分ほどの所になります。
高みには「細川忠興夫人隠棲地」と刻まれた石碑があり、傍には「細川ガラシャ略伝」と題した解説板があります。
石仏を安置した小祠の中には「味土野観音さん再建由来」が書かれています。
北側にはを眺められます。
先ほどの展望地にあったのと同様のが設置されています。
男城跡が見えるようですが、何処なのかはよく分かりませんでした。
案内板には「男城跡へは徒歩約20分」となっていますが、私の遅い足では難しいようです。
細川忠興夫人隠棲地
与謝郡聯合 竹野郡聯合 婦人會女子青年團
昭和十一年四月建設
細川ガラシャ略伝
細川忠興の妻、玉子(玉)。
永禄6年(1563)明智光秀の三女として生まれる。
天正6年、16才の時織田信長の命により後に丹後田辺城(現舞鶴市)の城主となる細川幽斎の嫡子忠興に嫁いだ。
天正10年6月本能寺の変により、父光秀が信長に謀反を起こした。
光秀は忠興を味方に誘ったが、忠興はこれを聞かず玉子を離別幽閉し自分は羽柴秀吉軍として出陣し、光秀と山崎で戦った。
玉子の実父光秀の死後、家臣は自害をすすめたが「私は忠興の妻、主人の命を聞かずして事を決することは婦道にそむくことです」とこれを聞き入れず、
愁思のうちに2年の月日をこの地で過ごすこととなった。
秀吉はこれを憐み忠興は再び妻として玉子を迎えた。
その後キリスト教に入信し、「ガラシャ」の洗礼名を受けた玉子は、忠隆・忠秋他三子を授かった。
しかし、平穏な日々も束の間、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、徳川家康に従い東征についた夫忠興の留守に大阪細川邸にあった玉子は
石田三成の軍勢に囲まれ、人質として大阪城へ入城を迫られたが
「私が人質として入場すれば堅武士の夫忠興の足手まといとなります」と自ら邸宅に火を放ち壮烈な最期をとげた。
享年38才夏のことである。
辞世の句は有名である。
散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ
数奇な運命に彩られ、夫忠興のために殉じて果てた玉子の生涯は戦国の世に咲いた一輪の花として現在に語り伝えられている。
身をかくす里は吉野の奥ながら 花なき峰に呼子鳥啼く 玉子
京丹後市教育委員会
味土野観音さん再建由来
当地の観音信仰は何時頃からはじまったか定かではいが、
古くから味土野には、堂と岡の二ヶ所に、観音菩薩が安置されてあったと言われている。
しかし、そのお姿を拝することが出来ずに今日に至っている。
平成三年春、味土野区長様の発起で、七名の世話人を構成、味土野・小杉の縁故者に喜捨を募り、
寄せられた浄財を充て、更に当屋敷所有の細川家の了解を得て今回再建立された。
御本尊は、四国の大島巌氏の作、厨子・台座・台石は、寿石材天主の施工。
平成四年五月四日、落慶開眼の法要を厳修。
味土野観音さんの信仰は再び盛りかえした。
青竜山洞養寺廿五世 康友代
男城跡へは徒歩約20分
当時は、護衛のための男城からすぐ駆けつけられるように真っ直ぐな道があったと言われています。
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石段を降りて、高みの下に続く道をに巡っていきます。
男城跡があるを眺めながら進んでいきます。
高みを巻き終えると、案内板があるに出ます。
広場を横切っていくと、標識や案内板が立つ府道655号の終点に出ます。
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味土野ガラシャ荘
を引き返していきます。
右へ曲がりながら降っていくと、舗装路とのがあります。
パイプで引かれたまで来ると、味土野ガラシャ荘が近づいてきます。
味土野ガラシャ荘の前を過ぎていきます。
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登城口
味土野ガラシャ荘からの道を合わせていくと、カーブミラーが立つがあります。
右側には、車を止めてきたが見えます。
道なりに左へ曲がって、を眺めながら降っていきます。
金剛童子山へのを過ぎていきます。
コンクリート橋を渡ると、男城跡への登城口があります。
女城跡から12分ほどの所になります。
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味土野地区
道なりに右へ曲がって、を進んでいきます。
右の谷向かいにあるを眺めながら降っていきます。
右下にある夏草に埋もれたを過ぎていきます。
少し曲がりながら軽く降っていくと、車を止めておいた駐車場があります。
女城跡から18分ほどで到着しました。
少し先にあるまで行き、
を眺めながら少し休憩していきました。
樹木が伐採されて以前よりも見易くなったようですが、今ひとつ樹木に隠れ気味なので、
もう少し伐採して頂けると全体の姿が良く見えるように思えます。
(所要時間に含めず)
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