概 要 |
堂山は豊岡市の田結地区にある標高230.9m(点名:田結)の山です。
山頂までの道は「八十八ヶ所の森ハイキングコース」になっていて、
八十八ヶ所霊場巡りの多くの石仏が出迎えてくれます。
山頂からは丹後半島の山々や海辺を見渡せる眺めが広がっています。
山頂の少し下の辺りからは、来日岳や気比の浜を始め、竜宮城なども望むことが出来ます。
|
起 点 |
豊岡市 田結地区
|
終 点 |
豊岡市 田結地区
|
|
田結地区…上の山入口…小井戸浜古墳…作業小屋…展望地…谷筋…鞍部…堂山…コナラ林…展望デッキ…西光寺入口…地蔵堂…西光寺…田結地区
|
所要時間 |
1時間50分
|
歩いて... |
この時には中腹から山頂にかけて残雪があって、道が分かり難くなっている所もありましたが、
何とか山頂まで登って降りてくることが出来ました。
青空が僅かに覗く曇天とあって、山頂からの眺めが少し霞んでいたのが残念でした。
|
関連メモ |
捨ヶ鼻,
堂山,
堂山,
堂山
|
|
田結地区
城崎温泉から円山川の左岸に続く道路を北上し、河口付近に架かる港大橋を渡っていきます。
気比地区に入って気比川を渡り、津居山湾沿いの道を進んでいくと、田結地区に着きます。
集落の手前にある海辺の広場に車を止めさせてもらい、その先へ進んでいきます。
広場の道路向かいの小山の上には、田結地区の鎮守の八坂神社があります。
社の周囲には秋葉神社・神水神社・愛宕神社・久西神社の祠もあります。
|
|
上の山入口
右側へ分かれていく道は見送って、白ペンキの上に色々な動植物が描かれた沿いに進んでいきます。
振り返ると、漁港の向こう側にはが聳えていました。
田結橋を渡っていくと、山際に墓地があります。
墓地へ登っていくの脇に「」と題した案内板があり、
「上の山登り口」の標柱も立っています。
この先にはイクリ林道が続いていますが、今回はここから堂山へ登っていきます。
豊岡市田結 八十八ヶ所の森ハイキングコース
八十八ヶ所の森の多くは、一度、伐採された後に成立する二次林であると推測されます。
この森の多くはヒノキ林やコナラ林が占めていますが、特徴的な植生としてはスダジイ林やケヤキ林が見られます。
また、尾根筋にササ草地がみられますが、これはシカによる食害により樹木が生育しにくいためです。
尾根の散策道を歩くと、遠くは京都の海岸線まで見渡すことができます。
田結の集会所横の一番札所から小井戸浜古墳の横を上に登り、
ミタノ、茶園、笹山口、堂山を経て西光寺に至る弘法大師ゆかりの八十八ヶ所霊場巡り。
大正6年に当時の西光寺の名倉実城住職の発願により、地区内外の多くの寄進を得て建造された。
石仏は当時の青年団が一体ずつ背負子で運んだという。
当初の巡路はイクリ林道を通り観音ヶ鼻、神水浜を回っていたが、北但大震災により石仏が海中に転落したため、
昭和4年に現在の巡路に改められた。
田結では春の彼岸に巡礼登山があり、それに先駆けて地区総日役の道直しが行われている。
上の山入口
|
→1200m,45分→
←1200m,35分←
|
林間広場(山頂)
|
→1100m,35分→
←1100m,45分←
|
西光寺入口 |
ふるさとの魅力を後世に 『豊岡・港地区かるた』
ふるさとの魅力を再認識するとともに、後世に継承しようと豊岡市港地区の住民は、
地元の歴史や産業などを題材にした「港かるた」を約2年間かけ作成しました。
ここに記載しているかるたは、この八十八ヶ所の森について書かれたもので、
古くから地域住民に親しまれてきた森であることが伺えます。
(平成22年度里山ふれあい森づくり(ミニ里山公園型)事業、兵庫県)
豊岡市指定津波避難場所 上の山登り口 この地点の海抜は3.2m
|
|
小井戸浜古墳
上の山入口の横には「小井戸浜古墳」の看板が立っています。
その袂にある輪切りの丸太の階段を登っていくと、すぐに小井戸浜古墳があります。
大きな石で囲われた四角いがありますが、中には特に何も入っていないようでした。
看板に記されているは、集落の奥の谷筋にあります。
そこで見かけた解説板の内容も載せておきます。
(「 堂山」を参照)
小井戸浜古墳
6世紀末から7世紀初頭の古墳時代後半に築造された円墳で、
漁業・海上交通など海に関係の深い豪族の墓と推定される。
この周辺には4基の古墳が確認されたが(港村誌による)、現存するものは、
平成3年に豊岡市の文化財に指定された「風谷古墳」とこの「小井戸浜古墳」の2基のみである。
玄室部の大きさは、奥行き約4.30m・巾約1.5m・高さ約1.8mであり、
玄室にいたる羨道部分の長さは約1.1mとされているが、その境界ははっきりしていない。
なお、天井は約1.8m四方の巨岩2枚で構成されている。
風谷古墳(1号墳)
津居山湾に面した谷あいに立地し、南向きの山裾斜面に築造されている。
かつてはもう1基が付近に所在していたらしいが、現状では浜辺近くの小井戸浜古墳とあわせて2基が残っている。
墳丘は推定の直径15m、高さ3m程度の円墳で、内部に南開口の横穴式石室を有している。
石室の全長は推定で約11mとなる長大なものである。
奥側の玄室(げんしつ)部分は、長さ5.4m、幅2.6m、高さは約2.7mをはかる。
玄室にいたるまでの羨道(せんどう)部は、現状の長さ3.66mで、高さは1.4mほどある。
羨道と玄室の境には、内部から見て右側に幅50cmの袖部を有している。
全体に大型の石を用い、とくに玄室天井は巨石一枚で架構されるなど、高度の築造技術がしのばれる。
出土品は現存しないが、石室のつくりからみて、6世紀末葉から7世紀初頭ころの築造らしい。
おそらく勢力の基盤が漁業や海上交通など、海とのかかわりの深かった豪族の墓であろう。
市内の横穴式石室では最大規模をはかり、古墳時代後期の地域史を知るうえで重要な古墳である。
(平成3年12月 豊岡市教育委員会)
|
|
小井戸浜古墳から引き返して墓地にある石段を登り始めると、
脇に「第二番」と刻まれたが佇んでいました。
第一番の石仏を見落としたのかと思って周囲を見回してみましたが、それらしいものは見かけませんでした。
墓地を過ぎて山際へ行くと道標が立っていて、この先に続く道は「山頂を経由して公民館まで2,300m」となっていました。
すぐ傍に佇む第三番の石仏を過ぎて、横木の階段混じりの道を登っていきます。
すぐの所には「海抜10m」の標柱が立っています。
後で分かるのですが、第一番の石仏は、堂山から降りて来た所の西光寺入口にあります。
第八十八番の石仏は西光寺にあるので、
八十八ヶ所霊場巡りの起終点は西光寺になるようです。
|
|
右・左と曲がりながら、雑木林の斜面に続くかなり傾斜のある道を登っていきます。
1分ほど登っていくと、「海抜20m」の標柱が立っています。
点々と佇む採番された石仏を確認しながら、残雪もなくて歩き易い道を6分ほど登っていくと、
第二十九番の石仏を過ぎた所に生える樹木に「」と書かれた標識が取り付けられていて、
その先に続く道を指していました。
その標識を過ぎていくと傾斜が少し緩んで、切り開かれた尾根が暫く続くようになります。
振り返ると、雪が残るなどの山並みを見渡すことが出来ました。
尾根の奥の方にはベンチも設置されていて、ひと休みしていくのに良さそうな所でした。
|
|
作業小屋
樹木が茂る所まで進んでいくと道標が立っていて、今歩いている道は「堂山・上の山散策ルート」となっていました。
道標に従って3分ほど進んでいくと、植林地に入る所に再び同様の道標「堂山・上の山散策ルート」が立っていました。
脇には第五十二番の石仏が佇んでいました。
植林地を出て左側を登っていくと、残雪が目立つようになりました。
雪を踏みしめながら進んでいくと作業小屋(*)が建っていました。
上の山入口から21分ほどの所になります。
この辺りは傾斜が緩やかで、周囲は開墾された様子になっていましたが、
その昔には畑地として利用されていたのでしょうか。
今回歩いた道の各所で見かけた道標には一貫して「堂山・上の山」と表記されていました。
「堂山」と「上の山」との関係はよく分かりませんでしたが、同じ山の別名なのでしょうか。
*後日に訪ねてみると、小屋は壊れていました。(「 堂山」を参照)
|
|
展望地
作業小屋を過ぎて植林地へ入っていくと残雪はなくなりました。
僅かな尾根が二筋に分かれる所まで来ると、落ち葉が積もっているためか、道が不明瞭になりました。
どちらへ進んだものかと思案していると、左側の尾根の方に石仏が見えたので、そちらへ進んでいきました。
第五十九番の石仏を過ぎて再び残雪が見られるようになった道を進んでいくと、
テーブル・ベンチがひと組設置されている所に出ました。
作業小屋から3分ほどの所になります。
左側の樹木が切り開かれていて、
円山川の対岸にあるや海などを見渡せる展望地になっていました。
景色を眺めながらひと休みしていきました。
海にはが浮かび、「竜宮城」とされている建物も見えていました。
|
|
谷筋
展望地の先へ進んでいくと残雪はなくなってきました。
植林地の縁を進んでいくと、1分もしない所の樹木に「」の標識が取り付けられていました。
そこを過ぎていくと、「堂山・上の山散策ルート」のが立っていました。
左へも道が分かれているようでしたが、道標に従って斜面を横切るように右へ曲がっていきます。
第六十三番の石仏を過ぎて苔生した土手沿いに進んでいくと、小さな谷筋に出ました。
展望地から6分ほどの所になります。
谷には残雪があって道が分かり難くなっていましたが、
所々に頭を出している横木の階段を辿って降っていくと道標が立っていて、
谷筋の上へ続く道は「公民館まで1,200m」、今来た道は「上の山入口へ1,100m」となっていました。
傍には第六十六番の石仏も佇んでいました。
上の方には峠らしき所が見えているので、それほど長い坂ではなかろうと思いながら、
残雪で分かり難くなっている谷筋の道を登っていきました。
|
|
鞍部
かなり積もった雪に足を取られながらも、頭を出す横木の階段を捜しながら5分ほど登っていくと、
僅かな鞍部に着きました。
鞍部には道標が立っていて、右へ曲がっていく道は「公民館まで1,100m」、
今登ってきた道は「上の山入口へ1,200m」となっています。
左側の高みへ続く道(*)もあるようでしたが、道標に従って右側の高みへ続く道を登っていきます。
|
|
堂山 (標高230.9m)
雪が積もった道を登っていくと、すぐに開けた所に出ました。
道は積雪で分からなくなっていましたが、道標「堂山・上の山散策ルート」の指す所に続いているようでした。
緩やかになった所を登っていくと、のある堂山に着きました。
上の山入口から42分ほどで登って来られました。
かなり広くなっているにはテーブル・ベンチが幾つか設置されていて、
「」の標識と「堂山の森の眺望」と題した解説板もありました。
中ほどに生える二本のの袂には第七十番の石仏もありました。
堂山の森の眺望
標高約230mのこの地点から、遠くは京丹後市の海岸線まで見ることができます。
堂山の森を含むこの辺りの海岸線は「山陰海岸ジオパーク」に指定されており、
山陰海岸国立公園を中心とする京都府京丹後市の経ヶ岬から鳥取県鳥取市の白兎海岸までは、
日本列島がアジア大陸の一部であった時代の岩石から、
今日に至るまでの経過が確認できる貴重な海岸です。
これら地質遺産が連続する京都府(京丹後市)、兵庫県(豊岡市・香美町・新温泉町)、
鳥取県(岩美町・鳥取市)が、山陰海岸ジオパークの対象海岸となっています。
|
|
東側には京丹後市の海岸線や山並みが広がっていました。
遠くにはと思われる山並みが連なっていました。
近くには長いが見えますが、
海水浴場になっている小天橋から箱石浜にかけての浜辺でしょうか。
西側には海に突き出した半島が見えますが、でしょうか。
冬枯れの樹木に邪魔されながらも、先ほどの展望地から眺めた後ヶ島のも見えていました。
寒い日でしたが、ベンチに腰かけて軽い食事を摂りながら、ここでひと休みしていきました。
|
|
山頂部の先へ続く道を緩やかに降っていくと正面の眺めが開けてきて、
を始めとする山々が見えるようになりました。
これまでにも見かけた道標「堂山・上の山散策ルート」を過ぎていくと、
道が左右に分かれているように見えましたが、雪が積もっていて、どちらへ進めばいいのか分かりませんでした。
とりあえず右へ進んでみましたがどうも違うようなので左へ進んでいくと、
樹木の傍から右へ曲がる辺りに横木の階段がありました。
階段を降った所に第七十四番の石仏が佇んでいて、こちらで良かったのだと分かってひと安心しました。
|
|
コナラ林
広い尾根の左側に続く雪が積もった道を緩やかに降っていきます。
植林地を過ぎていくと、また道標「堂山・上の山散策ルート」が立っています。
雑木林に入って尾根の右側を進んでいくと、再び樹木が切り払われた広い尾根になります。
尾根の左側に続く道を降っていくと、尾根の中ほどに「コナラ林」と題した解説板がありました。
堂山から14分ほど降った所になります。
ベンチも設置されていて、ひと休みしていくのに良さそうな所でした。
切り開かれた広い尾根は少し先まで続いていて、先の方まで行くとが良くなってきました。
眼下には、来る時に渡ってきた円山川に架かるがよく見えていました。
コナラ林
ドングリのできるコナラの林です。
落葉広葉樹林または夏緑広葉樹林とも呼ばれ、里山を代表する林です。
秋には紅葉していろどりゆたかな林へと変わります。
春にはコバノミツバツツジが咲きみだれ、山全体が紫色に染まります。
コナラ林は人々が材や枝葉を利用することによって守られてきた林です。
これからも人の手を加えることによって、明るいコナラ林とそこに暮らす生きものを守ることができます。
|
|
展望デッキ
尾根を横切って、右側に続くようになった道を降っていきます。
道標「堂山・上の山散策ルート」を過ぎていくと、残雪がなくなって歩き易くなってきました。
少し傾斜の増した横木の階段混じりの道を降っていきます。
僅かな林を抜けていくと、道から少し左へ入った所に木組みの展望デッキがありました。
堂山から19分ほど降った所になります。
どんな眺めなのかと思って立ち寄ってみると、
海水浴場にもなっているを一望できる眺めが広がっていました。
デッキの真ん中にはテーブル・ベンチがひと組設置されていて、眺めを楽しみながらひと休みしていくのに良さそうな所でした。
|
|
展望デッキから元の道に戻って、傾斜が更に増してきた横木の階段混じりの坂道を降っていきます。
1分ほど降っていくと、道標「堂山・上の山散策ルート」が立っています。
第七十九番の石仏を過ぎていくと、尾根にベンチがひとつ設置された開けた所がありましたが、
尾根の左側に続く道を更に降っていきました。
|
|
やがて傾斜の急な雑木林を右・左と折れ曲がりながら降るようになると、樹間から田結地区の集落が見えてきます。
「海抜20m」の標柱を過ぎていくと、を間近に見下ろせるようになります。
|
|
西光寺入口
墓地の脇まで来ると道標が立っていて、今降ってきた道は「山頂を経由し上の山入口へ2,300m」となっていました。
墓地の横から左へ続く石段を降っていきます。
すぐにコンクリート崖沿いの道になって、金網柵沿いに降っていきます。
左折して石段を降っていくと、空地のような所に降り立ちました。
堂山から31分ほどで降りて来られました。
これで山道は終わりになります。
山際には上の山入口にあったのと同様の「八十八ヶ所の森ハイキングコース」と題した案内板がありました。
豊岡市指定津波避難場所 堂山地先 登り口 海抜3.1m
|
|
地蔵堂
花柄の前掛けをした六地蔵を祀る地蔵堂と小祠との間には、
「震災記念碑」と刻まれた石碑がありました。
その碑文によると、この田結地区は大正14年に但馬地方を襲った北但大震災の震源地だったようです。
地蔵堂の左側には「第一番」と刻まれたが佇んでいました。
上の山入口には第二番の石仏しかなかったので見落としたのかと思いながら歩いてきましたが、
ここに来てやっと第一番を見つけることが出来てスッキリしました。
震災記念碑(北但大震災)
大正十四年(1925年)五月二十三日午前十一時十一分未曾有ノ強震但馬地方ヲ震フ
当区震源地トシテ被害近郷ニ比ナシ
死者七人 傷人四十六人 全戸八十三ノ内全壊六十七 半壊十五 破損一也
時恰カモ春蚕期トテ各所ニ出火セシモ区民一致防火ニ努メ未然ニ止メル
然レドモ部落一円戦場ノ如キ惨状ニテ手ノ施シヤウナク取敢ヘズ小井戸浜 仲田 犬坂の三カ所ヘ各自避難ス
間モナク時難収拾ノ為 復興委員長磯崎為造氏外六名ノ委員ヲ選任シテ陣容ヲ整ヘ共同作業ヲ行ヒ震災復興ニ立チ上ガル
調査団ニヨル精査ノ結果当地ヲ震源地ト断定セリ
昭和十五年(1940年)十月建立
兵庫県城崎郡港村田結(現豊岡市田結)
|
|
降り立った所の正面に架かる橋を渡っていくと海沿いの道に出られますが、
その前に左のすぐ先にある西光寺へ立ち寄っていくことにしました。
田結研修集会所を過ぎていくと、「華蔵山 西光寺」と刻まれた石柱が立っています。
脇には「豊岡市指定文化財 春日曼荼羅」「絵画一幅」と書かれた標柱も立っていました。
右側の「相互禮拝」と左側の「相互供養」の門柱から入っていくと、
山際には綺麗な前掛けをした二体のお地蔵さんが安置されていました。
と云って、トウガラシをお供えしてお願いすれば願いが叶うのだそうです。
願いを書いた絵馬が幾つかお供えされていました。
隣には第八十五番の石仏も佇んでいました。
|
|
西光寺
第八十六番と第八十七番の石仏を確認しながら、庫裡と思われる建物に沿って続く山際の道を進んでいきます。
「」を過ぎていくと、正面に西光寺の本堂がありました。
修理中なのか雪除けなのか、周囲には簾網が張り巡らされていました。
手前には「」と呼ばれる大きな石があり、解説文を刻んだ石碑もありました。
お寺の謂れなどを記したものは見かけませんでしたが、高野山真言宗のお寺のようです。
山際には「三界萬霊」と刻まれた石碑があり、傍には第八十八番のが佇んでいました。
お大師様の足跡
西光寺は文明十八年(1486)までは堂山の登り口の処にあり、
この石はその近くの道筋か山手の崖にあったと思われ、
弘法大師が諸国を巡りこの地に来られた時に残した足跡であり、
これを踏むか触ると御利益が頂かれる当時の僧が解いたと思われます。
同年に寺が現在の地に移った後、道路の改修があり、その時この石は取り払われ、
川の石垣に使われていたのを、平成八年(1996)河川改修工事の際に掘り出し
三十二世住職眞応師の手により本堂前に据えられました。
昔のようにこの足跡に触れて御利益をいただくことをお勧めする次第です。
平成十五年西光寺三十一世 高野山奥之印維那眞定撰文 敬白
|
|
田結地区
西光寺から地蔵堂のある所まで引き返して、小川に架かる橋を渡っていきます。
民家の間を道なりに進んでいくと、海辺に続く防波堤沿いの道に出ます。
そこを左折して最初に来た道を引き返していくと、愛車の待つ広場に戻ってきました。
|
|