名草神社
概 要 名草神社は養父市八鹿町にある神社です。 妙見山の中腹の標高800m辺りにあって、但馬地方における妙見信仰の拠点として栄えた神社です。 神社までは妙見蘇武林道が通っていて車で登ることも出来ますが、 今回は東麓の日畑地区から続く旧参道を往復します。
起 点 養父市八鹿町 日畑地区
終 点 養父市八鹿町 日畑地区
日畑地区…小橋…四叉路…休憩小屋…石碑…妙見地区…名草神社…妙見地区…石碑…休憩小屋…磨崖仏…四叉路…小橋…日畑地区
所要時間 3時間00分
歩いて... 旧参道は広めに続いていますが、落葉などが積もったり窪んだりして歩き難い所もありました。 標識類は僅かしかなくて、どちらへ進もうか思案する分岐もありました。 この時は本殿と拝殿は修理工事の真っ最中でした。
関連メモ 妙見山, 妙見795m峰
コース紹介
日畑地区
養父市八鹿町を通る県道267号を西進していきます。 珍坂トンネルへ続く県道268号を分けて椿色中バス停まで来るとがあります。 路上にがあって、正面の道は「妙見山・日光院・名草神社・三重塔」、右の道は「日畑」となっています。 正面の道は妙見蘇武林道へ続いていますが、右へ続く県道267号を進んでいきます。 谷筋に続く狭い道を進んで日畑地区の集落へ入っていくとがあります。 脇にはが立っていて、 正面の道は「名草神社 登山道」「妙見登山道 但馬・八鹿 名草神社 三重塔 3.5km」、左に架かる橋の先へ続く道は「加瀬尾1.5km」となっています。 右にも道がありますが、標識には何も示されていません。 正面の道を50mほど進んでいくと、金網柵で囲まれた小屋の手前の夏草が茂る所に車2・3台分の駐車スペースがあるので、ここに車を止めさせて頂きました。
川沿いに続くを進んでいきます。 始めはコンクリート打ちされた川床ですが、少し進んでいくと岩盤が剥き出したになります。 小さな堰堤を過ぎていくとになります。 岩壁から水が流れ落ちてのようになっている所を過ぎていきます。 大きな水音が近づいてくると砂防ダムがあります。
小橋
すぐの所にあるコンクリート製の小祠に納められたを過ぎていきます。 僅かな谷筋を回り込んでいくと、半壊したを過ぎていきます。 に続くようになる道を軽く登っていきます。 シダ類が茂る所まで来ると、先の方にが見えてきます。 すぐに終わるシダ類を抜けていくと、白い手摺りが設置されたコンクリート製の小橋が架かっています。 駐車スペースから11分ほどの所になります。 手前には「←2.7km 名草神社」のが立っています。
小橋を渡って、登っていきます。 シダ類が茂るようになると、が設置されています。 道なりに左・右と曲がりながら登っていくと、はなくなります。 更に左・右と曲がりながら登っていきます。 道には小振りのが続いていますが、電線は架けられていません。 僅かな切通のようになった尾根の先端を右へ曲がって、尾根の左肩を進んでいきます。
低くなったを過ぎていきます。 道には「国土調査」の赤頭短杭や「地籍図根」「地籍多角」の黄頭短杭が点々と続いています。 道なりに右へ曲がっていくと、をくぐっていきます。 その少し先を左へ曲がって、更にある倒木を跨いでいきます。 植林地の斜面を右・左と曲がりながら登っていくと、のすぐ傍に出ます。 すぐに尾根の背を離れて左斜面を登っていくと、右へ戻るようにして登っていく(*)が分かれていきます。 駐車スペースから24分ほどの所になります。 標識類は見掛けませんが、右の小径は見送って正面の道を進んでいきます。
*右の小径を登っていくと、この先で合流します。 (ルート図に緑色で表示)
四叉路
の斜面を進んでいきます。 雑木林になってくると、左側がになってきます。 道なりに右へ曲がっていくと、右側から広めの道がしてきます。 右の道を合わせて左へ進んでいきます。 浅い谷筋には棚田か段々畑だったと思われるが何段も見られます。 石垣を眺めながら登っていくと四叉路に出ます。 駐車スペースから32分ほどの所になります。 ここでも標識類は見掛けず、どちらへ進めば良いのか悩む所です。 すぐに右へ曲がっていく正面の道の先に赤テープが括り付けられた木が見えるので、を進むことにします。
並行するように続く道を右下に眺めながら、を軽く登っていきます。 少し登っていくと、樹木が伐採されてに出ます。 道なりに左へ曲がって、を登っていきます。 少し窪んだ道を登っていくと分岐があります。 駐車スペースから38分ほどの所になります。 角には「←1.8km 名草神社」のが立っていて、正面の道を指しています。 その脇には向こう側を向いたがあって、 「右 おさたに」「左 くわんおんじ こくぶんじ」道となっています。
休憩小屋
右に降っていく道は見送って、を登っていきます。 程なくして道が二股にしています。 ここにも標識類がなくて迷う所です。 右側の窪んだ道は歩き難そうなので見送って、左の道を進んでいきます。 またすぐにに分かれていますが、先に小屋が見える右の道を登っていきます。 真っ直ぐ登っていくと、手前で分かれてきた道が左右からしてきます。 左右の道を合わせて少し左へ曲がって登っていくと、先ほどから見えていた小屋に着きます。 駐車スペースから42分ほどの所になります。 開け放たれた小屋のに荷物などは見掛けません。 日畑地区の集落から名草神社までの道程のほぼ中間地点になるようですが、休憩のための小屋でしょうか。
小屋を過ぎていくと、すぐにがあります。 ここにも標識類は見掛けませんが、左の緩やかな道を進んでいきます。 少し右・左と曲がりながら登っていくと、分かれてきた道がします。 右の尾根が次第に低くなってくると、またがあります。 休憩小屋から7分ほどの所になります。 ここにも標識類は見掛けませんが、尾根に登っていく右の道(*)は見送って、正面の道を進んでいきます。 次第に高さを増してくる右の尾根の左斜面を進んでいくと、大きな倒木が道を塞いでいます。 倒木にはが入れてあって、乗り越え易くなっていました。
*右の道はこの先の657m峰へ続いているように思えますが、確かめた訳ではありません。
倒木を過ぎて緩やかな道を進んでいくと再びがあります。 ここでも切れ込みが入れてあって乗り越え易くなっていました。 軽い登り坂になってくると、が生える明るい所を過ぎていきます。 が生える所を過ぎていきます。 次第に高低差がなくなってくるに沿って登っていきます。 尾根の背に出て窪んだ道を進み始めると、右から道がしてきます。 休憩小屋から22分ほどの所になります。 手前の657m峰を経てきた道のように思えますが、確かめた訳ではありません。
石碑
尾根の背に続くを軽く登っていきます。 程なくしてが右へ分かれますが、少し先で合流します。 右からの窪んだ道を合わせていくと、左側にが見えてきます。 近寄っていくと「故陸軍歩兵軍曹」の石碑でした。 この地区にゆかりのある方でしょうか。
故陸軍歩兵軍曹 勲七等 功六級 大森武夫之碑
元兵庫縣福良警察署勤務中北支事變ニ付昭和十三
年六月應召ヲ受出征同年八月十四日名誉之戦死ヲ
遂ゲシニ依陸軍歩兵軍曹ニ進級シ同時ニ巡査部長
ニ進級サセラレ續ヒテ勲七等功六級ヲ賜フ
昭和十五年四月建設
妙見地区
石碑を過ぎて、を更に登っていきます。 僅かに曲がりながら続くを登っていくと、先の方が明るくなってきます。 コンクリート製のの脇に続く階段状の道を登っていきます。 坂を登り切ると、建物が幾つかある広い所に出ます。 休憩小屋から31分ほど、駐車スペースから1時間14分ほどで登って来られました。 名草神社の門前町だった妙見地区の集落跡で、 往時は50数戸の家があって栄えたようですが、今では定住者はおられないようです。 ここまで続いてきた電柱は、この集落へ電気を引くためのものだったように思えます。
集落の中ほどに続くを真っ直ぐ進んでいきます。 かつて建物があったと思われる敷地や無住と思われるを眺めながら進んでいきます。 石垣に沿って登っていくとが止まっていました。 その先の建物は小綺麗になっていて、まだ使われている様子でした。 右にはがあって、奥にはNTTドコモの電波塔「八鹿日畑西」が立っています。 更に登っていくと、右側にがあります。 その先の砂利敷きの広い所には「社人之碑」や「妙見山の変遷」の石碑が並んでいます。 碑文によると、名草神社は神仏習合の時代があったようです。
但馬妙見山 社人之碑
この地は江戸時代に妙見町と呼ばれた。 五十数戸の家々が並び但馬妙見社の門前町として栄えた。 妙見の人々は「妙見社御牛玉」と書いた御札を 但馬や因幡などに配札し社人や御師として活躍した。 多くの人々が妙見参りに訪れた。 人々はこの地を妙見山または妙見と呼んで尊崇する。
平成二十五年五月 水原寛 之建
但州(但馬)妙見山の変遷
名草神社
  古代 神道 主神 名草彦命 六座の諸神 紀川名草より招聘
妙見社
  平安〜室町時代 神道 天御中主命 星の神(北辰・北斗)
  江戸時代 真言宗 祖 初代 神仏習合
名草神社
  明治六年二月 復称 神道 祖 九代
石碑を過ぎていくと、左右に通る妙見蘇武林道に出ます。 左側には小規模の駐車場(*)があって、ここまで車で登ってくることが出来ます。 その脇に「名草神社駅 起点から8.0km 終点まで46.3km」のが立っています。 正面には「但馬妙見 名草神社」のや「水源かん養保安林」の解説板があります。 が載っていて、以前の地域の名前が見られます。
*駐車場の傍にはクリンソウの群生地があります。 (「妙見795m峰」を参照)
保健 水源かん養 保安林
この保安林は、妙見地域の保健休養の場として役立っています。
森林は、きれいな水や空気の大切な供給源となり、私達に安らぎと潤いを与えてくれます。 この保安林は、景観を保持し、自然とふれあう憩いの場として、保健やレクリェーションに活用するため、特に指定されました。 保安林内においては、次の行為は知事の許可を受けなければなりません。
 一、立木竹の伐採及び立木の損傷
 二、土石の採取及び樹根の採掘
 三、その他土地の形質を変更する行為
森林は国の宝です。保護育成に努め、後世に引き継いでいきましょう。
名草神社周辺のスギは、妙見スギと呼ばれ、大杉(夫婦杉)は国の天然記念物です。大切にしましょう。
平成元年度設置 兵庫県
水源かん養保安林
養父郡八鹿町石原字妙見ほか
保安林内では、許可なく立木竹を損傷し、土石、樹木を採掘し、土地形質を変更する行為をしてはなりません。
=山火事注意= 兵庫県
左前方に続くを登っていきます。 道は概ね舗装されていますが、所々でになります。 緩やかな広い所に出ると、左側に妙見の大スギがあります。 中にはが保存されていて、脇には倒れたが横たえられています。 そのすぐ先に三重塔があります。 出雲大社の本殿の柱として妙見杉を提供した縁で建てられた塔のようです。
妙見の大スギ
国指定…大正13年12月9日
樹高…48m 樹齢…1500年
目通り…11m10cm(周囲の長さ)
樹齢1500年といわれた妙見の大スギの根株を保存しています。 平成3年9月、最大瞬間風速40m以上という台風19号によって根本から倒壊しました。 この時に約40本の大杉が倒れたり、ヒビ割れの被害を受けました。 大杉は地上7.2mのところから幹が2本に分かれ、並立していたことから夫婦杉と呼ばれ、 三重塔とともに八鹿町のシンボルとして親しまれてきました。 昔から妙見には樹齢400年前後の杉の古木が自生しており、 江戸時代には出雲大社本殿の心柱に提供された由緒もあります。 妙見杉は妙見の山岳地帯に育成する杉で、寒冷地に強い兵庫県を代表する品種です。 多くの人に夫婦杉の姿を思い出していただければ幸いです。
この展示館は夫婦杉の根株を保存するためのもので、三重塔との景観を考えて切妻造の神社建築としました。
平成6年 名草神社
国指定重要文化財 名草神社三重塔
明治三十七年二月十八日指定
<三間三重塔婆>
この三重塔は、島根県出雲大社に出雲国主尼子経久が願主となって大永七年(1527)六月十五日に建立したものと伝えます。 出雲大社の本殿の柱に妙見杉を提供した縁で、塔は日本海を船で運ばれ、 寛文五年(1655)九月に標高800mのこの地に移築されました。 高さは24.1m、一重の一辺の柱間は4.7mあります。 屋根はこけら葺で、各重には高闌付縁があります。 心柱は二重から塔の先端まで伸びています。 大永七年の材料は松・けやきが主体で、寛文五年に移築されたとき、妙見杉で補っています。 彫刻では一重の軒隅で力士が屋根を支えています。 蟇股には凡字のほかに蓮、牡丹、琵琶、雲の透かし彫りがあります。 また三重の軒隅には「見ざる・言わざる・聞かざる・思わざる」を表した四猿の彫刻があります。 昭和六十二年十月に解体修理が完成し、丹塗りも鮮やかな、三重塔が四百六十年ぶりによみがえりました。
昭和六十三年十一月 八鹿町教育委員会
名草神社
トイレの前にあるを登っていきます。 右へ曲がって石段を登ってに出ると、 円形のコンクリートで固められた木の株が左右にありますが、かつての鳥居の跡でしょうか。 更に石段を登っていくと、で閉ざされています。 先には名草神社の拝殿や本殿があるのですが、この時には修理工事の真っ最中でした。 左側にはがあります。 立入禁止になっている本殿はシートで覆われて見えませんが、拝殿は鮮やかな色を取り戻して修理がかなり進んでいるようでした。
【工事の説明板】
重要文化財 名草神社 本殿・拝殿「平成の大修理」
名草神社は「妙見山」、「妙見さん」と呼ばれ、江戸時代から山陰地方の妙見信仰の中心地であり、 但馬地方内外から多くの人がお参りする大社として栄えました。 名草神社には多くの貴重な建造物が残されており、本殿・拝殿・三重塔は国指定重要文化財、 社務所は県指定文化財に指定されています。 名草神社は妙見山中の標高800mに位置します。 但馬の中でも特に積雪量が多く、冬の積雪は3メートルに達します。 名草神社ではたびたび雪による建物被害が発生していますが、近年では平成24年の大雪により本殿や拝殿の屋根が破損しました。 建物の基礎の変形や全体の経年的な劣化も進んでおり、本殿・拝殿ともの根本的な修理が必要となりました。 …(以下略)
《以前に来た時に見掛けた解説板の内容を参考までに載せておきます》
県指定文化財 名草神社本殿
指定年月日 昭和42年3月31日
所有者・管理者 名草神社
妙見山の中腹、標高800mの高地に本殿がある。 別名を妙見社とも言い、名草彦命、天御中主神など7神を祭祀する。 本殿は宝暦4年(1754)に造られた大規模な建築で、正面が9間(17.50m)、側面が5間(9.04m)で、 屋根はこけら葺で入母屋造、正面に千鳥破風と唐破風をつける。 彫刻は精巧で、向拝の両側の柱には口をおさえた獅子と耳をおさえた獅子、 その上の軒下には力童子など、多数の彫刻がある。 平面は内々陣・内陣・外陣の3区に分かれ、その周囲に庇がめぐるもので、 江戸時代の神仏習合の神社建築として特筆される。
平成3年11月 兵庫県教育委員会
開運・招福お守入 おみくじ
このおみくじには開運を招く八体の縁起物のお守のいずれかが納まっております。 いつもお身体につけて開運のお守としてたいせつにお持ち下さい。
だるま 人に忍と福と寿命の三徳を与える福の神。
銭亀 長寿延命と財宝授与。
かえる 旅行・外出先から無事安全に帰ります。
小槌 振れば諸難を払い財宝を授かります。
招き猫 商売繁昌・家内安全の縁起物。
恵比須 笑いを招く神。商売繁昌・大漁満足の福神。
大黒天 工業・商業・農業の神として授福神の代表。
熊手 かっこめといわれ、運や財をかき込む縁起物。
妙見地区
登ってきたを引き返していきます。 まで降りてくると、 右側から降っていく(*)がありますが見送っていきます。 所々で地道になるコンクリート道を降っていくとに出ます。 丁度昼時になったので、林道を横切った所にある「社人之碑」や「妙見山の変遷」の石碑が並ぶ広い所の脇に腰掛けて昼食タイムにしました。
ケロケロ道は「妙見山」を参照。
石碑
お腹が満ちたところで、を引き返していきます。 集落に続く道を真っ直ぐ進んで舗装路が終わる辺りまで来ると、の先が明るくなっています。 気になるので脇へ入っていくと、を眺められる景色が広がっていました。 元の道に戻って、コンクリート製のに沿って降っていきます。 水路が終わると、植林地のになります。 僅かに曲がりながら軽く降っていくと、右側にある「故陸軍歩兵軍曹」の石碑を過ぎていきます。 社人之碑から9分ほどの所になります。
緩やかな尾根の背を軽く降っていくと、が分かれていきますが、すぐ先で合流します。 尾根の僅かにを進んだりしながら降っていきます。 尾根の背に戻って軽く降っていくと、尾根の背から分かれてを降るようになります。 次第に高くなる左の尾根を眺めながら、に続く道を降っていきます。 少し狭くなる道を降っていくと、松の幼木が生える所を過ぎていきます。
が生える明るい所を過ぎていきます。 緩やかになった道を進んでいくと、切れ込みが入れてあるを乗り越えていきます。 少し先に再びあるを乗り越えていきます。 左の尾根との高低差が少なくなってくると、左から降ってくる道が合流してきます。
休憩小屋
少しを降っていきます。 窪んだ道が左側にするようになりますが、少し先で合流します。 降り傾斜が増し始めるとがありますが、元来た右の道を降っていきます。 道なりに右・左と曲がって降っていくと、分かれてきた道が合流した先に休憩小屋があります。 社人之碑から28分ほどの所になります。
小屋を過ぎていくと道がに分かれていますが、 来た時と同様にの道を降っていきます。 傾斜が増した道を降っていくと、右からの道がします。 そのすぐ先で左からの道がします。 尾根の背に続く少し窪んだ道を降っていくと、石の道標や「←1.8km 名草神社」の標識がある分岐に着きます。 休憩小屋から3分ほどの所になります。 登って来た道は正面へ続いていますが、左の道が気になるので降っていきます。
磨崖仏
窪んだを降っていきます。 左へ曲がりながら10mほど降っていくと、左右に通るに出ます。 先ほどの石の道標には「左 くわんおんじ こくぶんじ」となっているので、 を回り込むようにして道が続いていても良さそうに思えますが、明瞭な道はすぐ先で途絶えています。 10mほど先に露出した岩があるので近寄っていくと、が彫られています。 苔生していてはっきりとはしませんが、観音寺や国分寺へ続く道を行き交う人々を見守ってきたのでしょうか。
磨崖仏を確認したら引き返してきます。 降ってきた右の道は見送って、を進んでいきます。 尾根の背の少し下に緩やかでが続いていますが、倒木などがあって少し歩き難くなっています。 左の樹間からが見える所を過ぎていきます。 樹木が伐採されてに出ます。 尾根の背に出ると、黄色いシートが被せられたものがあります。 そこから左の尾根の背に小径が続いていて、登ってきた時にあった分岐へ降りて行けますが、 尾根の背を横切るように右へ曲がっていきます。
四叉路
塞いでいるを乗り越えていきます。 少し倒木はあるものの、が続いています。 右から降ってくる道が近づいてくると、が茂る所を過ぎていきます。 右からの道が合流すると四叉路に着きます。 休憩小屋から10分ほどの所になります。
左へ曲がって、石垣が何段も見られるを降っていきます。 まで来て、右へ曲がっていきます。 少し先を曲がっていきます。 植林地の斜面を降っていくと、左前方から降ってくる小径がしてきます。 先ほどの明るい所から分かれてきた小径になります。 小径を合わせて降っていくと、尾根の背のすぐ傍を過ぎていきます。
右・左と曲がりながら降っていくと、道を塞ぐを跨いでいきます。 その先を右へ曲がって、更にあるをくぐっていきます。 左へ曲がって降っていくと、が次第に低くなってきます。 尾根の右肩に続く広い道を降っていくと、僅かな切通のようになった尾根の先端を左へ曲がっていきます。
小橋
少し先を右へ曲がってを降っていきます。 左へ曲がってシダ類が茂るようになると、が設置されてます。 手摺りに沿って右へ曲がっていくと、はなくなります。 程なくして、白い手摺りが設置されたコンクリート製の小橋に出ます。 休憩小屋から27分ほどの所になります。 を眺めながら、小橋を渡っていきます。
小橋を渡った所に立つ「←2.7km 名草神社」のを過ぎていきます。 が茂る所を過ぎていきます。 右を流れる川の水音を聞きながら降っていくと、半壊したを過ぎていきます。 僅かな谷筋を回り込んで、コンクリート製の小祠に納められたを過ぎていくと砂防ダムがあります。 休憩小屋から31分ほどの所になります。 柵は設置されていないので、中ほどまで出てみました。 一段低くなった幅の広いから、滔々と水が流れ落ちていました。 には河原が広がっています。
日畑地区
砂防ダムを後にして、を降っていきます。 岩壁から水が流れ落ちてのようになっている所を過ぎていきます。 小さな堰堤の手前まで来るとに変わります。 剥き出した岩盤からコンクリート打ちされた川床に変わる川の水音を聞きながらに進んでいきます。 谷筋が広がってくると、金網柵で囲まれた小屋を過ぎた所に、車を止めておいた駐車スペースがあります。 休憩小屋から40分ほど、社人之碑から1時間9分ほどで降りて来られました。