概 要 |
千々見山は新温泉町にある標高262.9mの山です。
山頂には小さな展望台があって、諸寄から浜坂にかけての山並みや海岸線を見渡すことができます。
南側から広い登山道が続いていて容易に山頂に立つことができますが、
今回は北東側の宇都野神社から急な尾根を登って南の登山道を降るルートを歩きます。
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起 点 |
新温泉町 浜坂駅
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終 点 |
新温泉町 諸寄駅
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浜坂駅…浜坂護国神社…宇都野神社…登山口…千々見山…鞍部…尾根の肩…峠…下タ山公園…小橋…諸寄駅
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所要時間 |
2時間30分
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歩いて... |
宇都野神社から山頂へ至るルートは踏み固められた道ではありませんが、
10mと空けずに桃テープが取り付けられていて、迷うことなく山頂に立てました。
傾斜が急な所にはロープが設置されていて、登り易くなっていました。
青葉が茂る季節のためか、山頂からの眺めは樹木に隠れ気味でした。
蒸し暑い日で、かなり汗を掻きました。
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関連メモ |
千々見山,
千々見山
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浜坂駅
浜坂駅(JR山陰本線)から歩いていきます。
駅舎を出た正面に「」があります。
そこに描かれている宇都野神社が今回登る千々見山の登山口になります。
案内板から左へ続く道路を進んでいきます。
浜坂駅前交番や浜坂町農協会館を過ぎて線路沿いの道を進んでいくと、
を過ぎた所にがあります。
踏切を渡って、「川下参道」の石碑が立つへ入っていきます。
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浜坂護国神社
浜坂B&G海洋センターが見えてくると、カーブミラーの立つがあります。
角にはが立っていて、右の道は「宇都野神社350m」などとなっています。
右折して勤労者体育館を過ぎると、大きな鳥居が見えてきます。
その手前には「浜坂護国神社」と刻まれたが立っていたので立ち寄っていきました。
石碑の脇から左へ入っていくと、本殿と拝殿からなる浜坂護国神社があります。
その左側には立派ながありました。
浜坂護国神社(由来)
当社は明治39年(1906)日露戦争の戦勝を期し、日清・日露戦死者の慰霊のため、
塔時の浜坂在住の戦友が相図り、広く町内に寄付を求めて創建された招魂社である。
本殿屋根は桧皮葺であったが、風雪により雨漏り等も生じたため、
大正14年、当時の在郷軍人分会長 山本宇一氏の寄進に寄り銅板に葺き替えられた。
また、現在の鳥居は昭和3年、石鳥居に再建され、本殿、拝殿の犬走りは「稲葉社御影石」で構造された。
昭和12年には川越松一氏の初議により、広く町民の寄付を募り、
南西側に土塁を築き、本殿を移転、拝殿、渡り廊下、石段を併建して現在の圍構となった。
大東亜戦争終結後の昭和22年、占領軍による取り壊しを怖れ、宇都野神社の飛び末社、浜坂護国神社として届け、
祭典は浜坂町主催で行われた。
昭和29年10月1日町村合併により、旧大庭、西浜両村の戦没者も合祀、浜坂町護国神社と改められ、
毎年4月10日を例祭とし、神仏両様の招魂祭が行われていた。
現在は9月に遺族会浜坂支部により、慰霊祭が行われており、管理、清掃は浜坂地区の遺族が行っている。
尚、大正時代に全国の市町村では多くの忠魂碑が建立されたが、地方の一町でありながら護国神社を有するのは希である。
遺族会浜坂支部
浜坂相撲場
浜坂相撲場は平成4年相撲の振興を願い整備され、同年6月21日に佐渡ヶ嶽部屋一行を招き、土俵開きが行われました。
毎年6月に青少年の健全育成を目的として、新温泉町浜坂相撲連盟と美方青年会議所の主催により、
「新温泉町浜坂相撲大会兼わんぱく相撲美方場所」が行われています。
郷土出身の大相撲力士が参加するなど、相撲の盛んなまちにふさわしい大会となっています。
隣接する浜坂護国神社は、明治39年、日清・日露戦争戦死者の慰霊のため、現在の場所に創建されました。
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元の道に戻って、その先に立つ「宇都野神社」の扁額が掛かるをくぐっていきます。
両側に大きな石灯籠が立つ道を進んでいくと、小川を渡った所にがあります。
宇都野団地へ続く左の道は見送って、正面のを進んでいきます。
宇都野神社のまで来ると、左側に鮑之霊水がありました。
鮑之霊水
当社(宇都野神社)境内にある「鮑之霊水」は、社伝によると、人皇十代、崇神天皇の御代に、
始動将軍・彦坐命(ひこいますのみこと・日子坐命とも書く)が丹波・但馬に来られて賊を平定され、
海路出雲国に向かわれるとき、宇都野真若命は、彦坐命をお迎えして塩谷浦で命の御船を修理し、あるいは新造された。
このとき、舟に穴があいて海水が入ってきた際、大鮑が穴をふさいでくれた。
このため彦坐命は宇都野真若命に命じて、この大鮑を「船魂潮路守の大神」として、宇都野の地に祀らせられ、これを鮑宮と称した。
宇都野真若命は、この霊鮑をこの地に放養されたが、この清水を「鮑水」というようになったと伝えられておる。
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宇都野神社
鮑之霊水を過ぎて参道を進んでいくと、
少し左へ曲がったがあります。
石段を登って境内に着くと、本殿と拝殿から成る宇都野神社の社殿がありました。
神社の由緒などを記したものは見かけませんでした。
右側には三柱神社(素盞鳴尊)・八柱神社(稲田女尊)・伊那神社(木花開耶姫命)・針神社(金山毘古命)・稲荷神社(保食命)のが並んでいました。
やもありました。
左側の一段高い所には愛宕神社(軻遇突智命)・二柱神社(天鈿女命・天児屋根命)の、
更に一段高い所には神武天皇のがありました。
伊勢神宮
宇都野神社より、磁石の真東より40°南の方角244km先の位置になります。
磁石で指す「真北」は地図上の経線が示す「北」より西に傾いた方向になります。
当地での差は約7.5度程度ですので、経度・緯度をもとにして描かれている地図では地図の「真東」より約32.5度南の方向になります。
出雲大社
宇都野神社より、磁石の真西より1°北の方角161km先の位置になります。
磁石で指す「真北」は地図上の経線が示す「北」より西に傾いた方向になります。
当地での差は約7.5度程度ですので、経度・緯度をもとにして描かれている地図では地図の「真西」より約6.5度南の方向になります。
兵庫県指定重要無形民俗文化財 宇都野神社麒麟獅子舞
兵庫県美方郡新温泉町浜坂 宇都野神社
「麒麟獅子舞」は、江戸時代中頃から鳥取県東部地域と兵庫県内では、新温泉町と香美町に伝えられている因幡系の獅子舞で、
頭の形が太神楽系に獅子舞とは異なり、頭部に一本の角があり、頭が獅子というよりも空想の動物「麒麟」に煮ていることから「麒麟獅子」と呼ばれています。
新温泉町内には9地区に伝承されており、いずれの地区の麒麟獅子舞も氏神の祭礼日、五穀豊穣・家内安全・無病息災・厄払いとして舞われます。
宇都野神社の麒麟獅子舞は、毎年7月第3日曜・月曜日(海の日)に行われる夏祭り(川下祭)と、
毎年10月8日に行われる秋祭りの年2回、神前で奉納した後、各家々の玄関などで舞われます。
新温泉町教育委員会、宇都野神社麒麟獅子保存会
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登山口
左側にある祠や石碑を囲む玉垣の手前を左へ進んでいくと、尾根の入口に桃テープが取り付けられています。
標識などはありませんが、ここが千々見山へのになります。
桃テープは10mと空けずに山頂まで続いて、ルートを示しています。
右下にの社殿を眺めてから、を登っていきます。
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尾根の背を登り始めると、程なくしてが張られています。
それほど傾斜は急ではありませんでしたが、過日の雨で滑り易くなった所もあったので、
念のためにに掴まりながら登っていきました。
3分半ほど登って傾斜が少し緩んで来ると、ロープは終わりになります。
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登山ルートが設定されてから歳月がそれほど経っていないのか、道は踏み固められてはいませんでしたが、
にはまだ夏草がそれほど生い茂っておらず、分かり易くなっていました。
見晴らしの利かないの尾根を登っていきます。
踏み跡が薄い尾根を登るのは不安な気持ちになり勝ちですが、桃テープが点々と取り付けられていて何の心配もいりません。
正面の樹間に見えてくるへ向かって登っていくと、
雑木が茂る小峰に着きました。
登山口から11分ほどの所になります。
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小峰を過ぎて少し降っていくと、すぐに軽いになります。
所々でが道を塞いでいますが、それほど歩き難くはありません。
自然木のが設置された所もありました。
ほとんど展望の利かない尾根ですが、右側の樹間から僅かに山並みが見える所がありました。
登山口から22分ほどの所になります。
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またが張られるようになると、
大きな岩が幾つも頭を出したになります。
登山口から25分ほどの所になります。
岩群の左側に続くロープに掴まりながら登っていきます。
岩場を過ぎても傾斜のがしばらく続きます。
3分ほどでロープが終わって、少しが茂る所を抜けると、
傾斜が少し緩やかになった尾根を進むようになります。
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歩き易くなったを登っていきます。
少しシダ類などが茂る所にあるを過ぎると、またが張られています。
ロープに掴まりながら登っていくと、1分も経たない所の樹木にが取り付けられていて、「山頂まであと少し」となっています。
登山口から33分ほどの所になります。
次第に傾斜が増してくる尾根を登っていくと、すぐの所にまたが取り付けられていて、
「ロープにたよるな」となっています。
せっかくロープが張られているのだから「ロープに掴まるな」ということではなくて、
「ロープに全体重をかけずに登るように」という意味だと解釈しました。
千々見山 山頂まであと少し
浜坂中学校トライやる/2013
急登 ロープにたよるな
浜坂中学校トライやる/2013
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写真ではよく分かりませんが、かなり傾斜がです。
湿度が高い日ということもあって次第に汗が噴き出してくるので、何度も立ち止まって汗を拭いながらゆっくり登っていきました。
が茂る所を過ぎたり、
の脇を過ぎたりしながら登っていきます。
ロープに掴まりながら6分ほど登って傾斜が緩やかになると、ロープは終わりになります。
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千々見山 (標高262.9m)
急登での疲れを癒しながら、歩き易くなったを登っていきます。
ロープが終わって2分ほど登っていくと、明るくなった右前方にが見えてきます。
やっと山頂に着いたと安堵の気持ちで進んでいくと、左右に通る緩やかで広めの登山道に出ました。
登山口から42分ほどで登って来られました。
出た所にはが落ちていて、「おつかれ様でした」となっていました。
左へ数m進んだ所から正面の林に10mほど入っていくと、小岩を過ぎた所に「上山」があるので、
地形図に載っている262.9m峰の千々見山になるようです。
山頂だ!おつかれ様でした
展望台 ⇒
浜坂中学校トライやる/2013
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登り着いた所の北側には小広いがあります。
手前の樹木には「千々見山 標高262.9m」のが取り付けられています。
傍には木組みの展望台があります。
2014年4月に来た時にはが壊れかけていましたが、
この時には綺麗に直されていました。
しかし丸太を針金で止めているだけなので、何とも心許なく感じます。
展望台からは北側に眺めが広がります。
以前はもっと眺めが良かったのですが、樹木が成長したのか茂る青葉のためか、この時には樹木がかなり眺めを遮っていました。
それでも、諸寄から浜坂にかけての山並みや海岸線を少し望めました。
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眺めを確認したら、千々見山から下山していきます。
諸寄駅へは北北西へ延びる尾根(*)を降るのが近道ですが、
今回は南に続く登山道から峠に降りて諸寄駅へ向かうことにしました。
を過ぎて降り始めると、
幅の広いが現れます。
正面の樹間からが僅かに見える所を過ぎていきます。
3分ほどで階段が終わると、緩やかな尾根を降るようになります。
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鞍部
軽い登り坂になってくるとを越えていきます。
軽く降って、緩やかになったを進んでいきます。
少し降り傾斜が増してくると、先ほどのが見えてきます。
更に降っていくと、夏草が茂り気味の明るい鞍部に着きます。
山頂から9分ほど降った標高200mほどの所になります。
左側が開けていて、浜坂方面のを眺められます。
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鞍部の先に現れる幅の広い横木の階段を登っていきます。
1分ほど登ってに着くと階段は終わります。
その先へ降っていくと、明るくなった僅かなに着きます。
左側にはが少し見えました。
を1分ほど登っていくと、緩やかな尾根になります。
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降り坂になってくると、道端の樹木に「チャンピオンザクラ」のがぶら下げられていました。
そこを過ぎてを登っていきます。
緩やかになった尾根を進んで僅かなになると小峰に着きます。
山頂から14分ほどの所になります。
ここで道は左へ曲がっていきます。
この辺りが地形図に載っている230m峰でしょうか。
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左へ曲がりながら進んでいくと、幅の広いを降るようになります。
右の樹間からはが広がってきます。
1分ほどで階段が終わって緩やかな道を進んでいくと降り傾斜が増してきます。
緩やかになったり傾斜が増したりしながら続く降り基調のを進んでいきます。
程なくして、道は少し左へ曲がっていきます。
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尾根の肩
僅かなの縁を進んでいくと、少し登り坂になってきます。
熊笹が茂り気味の道を軽く登っていくと、少し開けた所に出ます。
山頂から20分ほどの所になります。
地形図では、標高200mほどの細長く続く尾根の肩になるようです。
左側の樹間からはが見えました。
ここで道は右へ直角に曲がって、正面にを眺めながら横木の階段を降っていきます。
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1分ほどで階段が終わって、正面に広がるを眺めながら降っていきます。
緩やかになった道を進んでいくと、曲がっていきます。
程なくして急なを降るようにになります。
正面に山並みをながめながら降っていきます。
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峠
やがて見えてくる舗装路へ向かってを3分ほど降っていくと舗装路に降り立ちます。
山頂から27分ほどで降りて来られました。
降り立った脇には「千々見山登山口」のが立っています。
振り返ってみると、降り立った所はのようになっていました。
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下タ山公園
左側には東屋が二つ建つ公園があって、砂利道の散策路が設定されています。
中ほどには広い道が通っていますが、地形図に実線で載っている道のようでした。
奥の方のまで行くと、
その先にはが広がっていました。
公園の名前を示す標識や案内板の類いは見かけませんでしたが、まだ整備が完了していないのでしょうか。
前回来た時には「下タ山公園(仮称)整備工事」となっていたので、下タ山公園という名前なのでしょうか。
一面に咲くシロツメグサが良い匂いを漂わせていました。
景色を眺めたりしながら、ひと休みしていきました。
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降り立った峠からは諸寄駅と浜坂駅のいずれにも出られます。
浜坂駅までは自動車も通れる舗装路になっていますが、今回は諸寄駅へ向かうことにしました。
未舗装になった緩やかなを進んでいくと、
左側にはが広がってきます。
切り崩されたりコンクリート打ちされているに緩やかに続く道を進んでいきます。
峠から5分ほど進んでいくと、切通になった右へのヘアピンカーブを曲がっていきます。
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切通を過ぎていくとになります。
1分半ほどで未舗装路になると、山側に土石が積もったの跡がありました。
その先の谷筋を回り込んで次の尾根のまで来ると、再び簡易舗装路になります。
道なりに右へ曲がって次の谷筋を回り込んでいくと、再び崖崩れの跡がありました。
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未舗装になって、尾根のを右へ曲がっていきます。
次の谷筋まで来ると、またになります。
白いガードレールが現れたを回り込んでいきます。
切通の直前まで来ると未舗装路になります。
峠から14分ほどの所になります。
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僅かなを回り込んでいきます。
僅かな尾根の曲がり角まで来ると、またになります。
コンクリート打ちされたを少し曲がりながら進んでいくと、また切通があります。
峠から17分ほどの所になります。
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小橋
切通を過ぎて谷筋へ向かっていくと、が現れます。
左にを眺めながら、谷筋をヘアピン状に左へ曲がっていきます。
右へ曲がって、次第に低くなってくる切り崩されたに降っていきます。
このまま簡易舗装路が続くのかと思っていると、崖が地面に接する辺りで未舗装路になりました。
が広がって建物が見え始めた未舗装路を真っ直ぐに進んでいくと、小川に架かる小橋に出ます。
峠から21分ほどで着きました。
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小橋を渡って右折し、になった道を小川沿いに進んでいきます。
のプール・校舎・校庭などを過ぎていきます。
に出て右折し、小川を渡った先の階段を登り、車道よりも高い歩道を進んでいきます。
牛舎の脇を過ぎて再び車道に降りて、JR山陰本線のをくぐり、
すぐにある分岐を右へ曲がっていきます。
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田植えが終わったを眺めながら進んでいきます。
千羽鶴がお供えされたを過ぎて道なりに左へ曲がっていくと、集落へ入っていきます。
真っ直ぐ進んでまで来て、道なりに右へ曲がっていきます。
諸寄ふれあい広場のグラウンドの入口を左折し、もろよせ幼稚園を過ぎていきます。
Y字路を右へ進んでいくと分岐があります。
角には赤い「回転式 消火栓」があります。
ここから右へ分かれていくに入っていきます。
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諸寄駅
少し左へ曲がりながら進んでいくと、JR山陰本線のに出ます。
線路の下をくぐるとがあります。
立ち寄りたくもありましたが、列車の到着時刻が近づいていたので省略しました。
左側の線路沿いのを登って明星保育園を過ぎていくと、
小広くなった所に諸寄駅(JR山陰本線)があります。
小橋から21分ほどで到着しました。
旅情を誘う穏やかな日本海の漁村 諸寄駅周辺
港を囲むように家々が密集した町並み。
時を経て味わいを増した焼き板の壁や浜へと通じる入り組んだ路地。
まるで映画のワンシーンのような風景に出くわす。
古くから天然の良港として栄え、北前船の寄港地でもあった諸寄港。
東西の岬に囲まれた穏やかな入江は、諸国の廻船が風待ちの港として利用した。
近年は、明治の歌人・前田純孝の故郷として知られている。
病に倒れ、晩年をこの地で過ごした純孝は、死の直前まで短歌をつくり続けた。
昭和44年、村の有志によって建立された諸寄海岸の歌碑には、晩年の歌が刻まれている。
純孝にまつわる歌碑や地元出身の先人たちの顕彰碑などが、数多く点在している。
飛騨・平湯の社会教育を指導し、今も「飛騨聖人」と名高い教育者・篠原無然や、
最期の絵師と称される美人画家・谷角日沙春なども諸寄の出身だ。
諸寄の散策は、駅から偉大な先人たちの碑をめぐるのもよい。
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