但馬御火浦
概 要 但馬御火浦は香美町香住海岸から新温泉町浜坂海岸の間にある岩礁海岸です。 日本海の荒波で削られた景勝地で、国の名勝や天然記念物にもなっています。 今回は餘部駅から三尾地区にかけて続く近畿自然歩道「但馬御火浦漁火のみち」を歩きます。 ほとんどは海面からかなり上に続く舗装路で、歩き易くなっています。
起 点 香美町香住区 餘部駅
終 点 新温泉町 三尾バス停
餘部駅…伊伎佐神社…さんじばし…御崎地区…余部埼灯台…記念碑「碧林」…間塩…不老の水…大三尾橋…三尾地区…八柱神社…三尾港…三尾バス停
所要時間 3時間30分
歩いて... 御崎地区から余部埼灯台へ至る部分が急な石段混じりの道になっている他は、1.5車線の舗装路が続いていました。 自動車はたまにしか通って行かず、安心して歩いていくことが出来ました。 海岸沿いのコースですが、樹木に邪魔されて海を綺麗に眺められる所はそれほど長くは続かず、淡々と歩き続ける所が多くなりました。
関連メモ 三尾117m峰, 余部550m峰
コース紹介
餘部駅
餘部駅(JR山陰本線)から歩いていきます。
駅ホームの隣りには余部鉄橋「空の駅」があります。 架け替えられるまでのの一部が残された展望施設になっていて、 まで歩くことができます。 この時の利用時間は「9:00〜19:30」となっていましたが、季節等によって変わるのか、 差し込み式の数字板で表示されていました。
これより先は空の駅です。
 (兵庫県、香美町)
余部鉄橋「空の駅」展望施設のご利用にあたって(お願い、禁止事項)
展望施設をご利用される方は以下のことに留意、または厳守してください。
1. 展望施設のご利用時間(開門時間)は、入口門扉の表示をご覧ください。
2. 展望施設は、気象条件および現場状況により、閉鎖することがあります。
3. 閉鎖が間に合わない場合があります。強風等の悪天候時は展望施設への立ち入りを控えてください。
4. 展望施設内での飲食、大声で騒ぐ等の行為は禁止します。
5. 空き缶やゴミ等を捨てたり、絶対に物を投げたりしないでください。
6. 門扉や柵等には絶対に手をかけたり上ったりしないでください。
7. 施設を破壊したり、落書き等をしないでください。
8. 突風の恐れがありますので、帽子・ストール・傘などは飛ばされないように留めるか使用しないでください。
9. 路面が滑る恐れがありますので、展望施設内で走らないでください。
10. その他、近隣住民や他の利用者に迷惑のかかる行為一切を禁止します。
上記に違反したとき、違反するおそれがあると認められたときは、展望施設の利用を制限または禁止します。 上記に違反し、第三者に被害を与えた場合、また利用者に損害が生じても、責任は一切負いません。
 (「空の駅」展望施設管理者 香美町)
駅ホームから斜面に続くコンクリート舗装路を降っていきます。 左・右と折れ曲がりながら降っていくと分岐があります。 脇にある標識によると、正面の道は「鉄橋下・バス駐車場・トイレ」、左へ戻るようにして降っていく道は「西区」、 今降ってきた道は「余部駅へはこちらの通路をお通り下さい」となっています。 傍には「ありがとう余部鉄橋 余部観光協会 観光マップ」と題したもありました。 この図の左上に載っている御崎灯台へ行くには左の道の方が近そうですが、 正面にあるの下を進んでいきました。
坂道を曲がりながら降っていくと、橋脚が立ち並ぶ所に降り立ちます。 「余部鉄橋「空の駅」展望施設」のや「余部橋りょう」の解説板などがあって、 「空の駅」展望施設は延長82m、高さ約40mとなっていました。 国道178号まで出ると、道の傍には「」が建立されています。 昭和61年に発生した列車転落事故の犠牲者の慰霊碑のようです。 右側には「道の駅あまるべ」がありました。 傍にある「」に載っている宮ノ内橋へ向かっていきます。
余部鉄橋「空の駅」展望施設
明治45年の完成から約100年間、JR山陰本線の運行を支えてきた余部鉄橋。 平成22年8月、新しくコンクリート橋に架け替えられましたが、JR餘部駅側から3本の橋脚は現地保存され、 余部鉄橋「空の駅」展望施設として生まれ変わりました。 地上高約40mの浮遊感や日本海の美し眺めをお楽しみください。
慰霊碑 聖観世音菩薩
聖観世音菩薩像建立の趣意
昭和61年12月28日正午すぎより山陰特有の低気圧が進入し列車転覆限界風速を超える強風が連続的に吹き荒れる13時25分頃、 回送中の下り和風列車みやび号が餘部鉄橋中央より客車七輌の脱線転落で鉄橋下のカニ加工場を直撃し 従業員主婦5名と列車車掌1名の計6名もの尊い生命が奪われ6名が重傷を負う未曽有の大惨事が発生した。 列車転落事故は明治45年に鉄橋寛政以来初めての惨事で、遺族や関係者にとって深い悲しみは言語に絶した。 二度と事故を繰り返さないように慰霊碑建立を遺族一同の呼びかけで関係者があい集い、 犠牲者の慰霊とご冥福を祈り、人々の永久平和と総ての交通安全の願いをこめて、現地に聖観世音菩薩像を建立する。
昭和63年10月23日 餘部鉄橋自己犠牲者 慰霊碑建立発起人会
聖観世音菩薩尊像について
この聖観世音菩薩は、有名な南無大自力観世音菩薩34化身のお力添をいただいており、 悩みや苦しみの人々を救い、その優しく慈愛に満ちたお姿は、人々に降りかかる厄災を祓い、大いなる平安を授ける尊い守護像です。 真心をこめてお参りされる人々のお願いを偉大なる観音力で必ずやかなえて下さるように、 現世ご利益が授かれるように建立した有難い聖観世音菩薩であります。
餘部鉄橋
この鉄橋は明治45年(1912)3月1日開通で、建築様式はトレッスル式、2年の歳月と33万1千円の巨費、 延べ25万人の人夫を投じて完成されました。 (鉄橋の試運転日は明治45年1月28日) 高さ41.50m、長さ309.41mの規模は当時東洋一のデビューで、現在トレッスル式鉄橋では日本一の規模を誇っている。
土木学会田中賞受賞 余部橋りょう
明治45年(1912)の完成から約100年間、山陰地方の鉄道輸送を支えてきた旧余部橋りょう(鋼トレッスル橋)に代わり、 平成22年(2010)に現在の余部橋りょうが完成しました。 「直線で構成されたシンプルな美しさ」「風景に溶け込む透明感」をコンセプトとした景観美や、 厳しい自然条件に対する耐久性と安全性を両立させた設計、さらには今回用いられた過去に例を見ない施工方法が、 今後の橋梁光学に発展に大きく寄与すると認められ、平成22年度土木学会田中賞(作品部門)を受賞しました。 田中賞は昭和41年(1966)に創設され、橋梁工学に関する優秀な業績に対し、 土木学会の学会賞として授与されているものです。 賞の名称は、関東大震災の首都復興に際し 帝都復興院初代橋梁課長として隅田川にかかる名橋を生み出した故田中豊博士(1888〜1964)に由来しています。 田中賞の記念プレートを、余部橋りょうの2P橋脚(この看板の背後)の地上約5mの位置に取り付けてあります。
 (JR西日本旅客鉄道株式会社)
道路を渡っていくと、かつての余部鉄橋の一部が展示されています。 「余部鉄橋の歩み」の解説板にはの写真が載っていました。 子供の頃に列車に乗って通ったことがありますが、かなりスリリングだったように記憶しています。
余部鉄橋の歩み
計画〜建設】  余部鉄橋の建設計画については、鉄道院米子出張所の岡村信三郎技師が余部詰所勤務となった際、 潮風害による腐食と将来の保守の困難性を考慮し、鉄筋コンクリートアーチ橋安を鉄道院に上申した。 しかし、建設費の低減や欧米での前例がないことなどから、最終的に鉄橋案が採用されたといわれている。 鉄橋の設計は、鉄道院技術研究所技師 古川晴一(兵庫県出身)が行った。 余部鉄橋に採用されたトレッスル式橋脚は19世紀末の米国ウで広範に採用されており、 古川は明治40年(1907)7月より1年間欧米に出張し、技術的に可能なことを確認した上で、 帰国後トレッスル橋の採用を決定している。 橋脚鋼材はアメリカンブリッジカンパニーのペンコイド工場で製作され、まるばる海を渡り九州の門司に到着。 そこで日本海回りの汽船弓張丸に積み替え、明治43年8月下旬に余部沖でハシケに移し余部浜から陸揚げされた。 組立は、明治44年5月からわずか5ヶ月という短期間で行われた。 橋桁鋼材は石川島造船所で製作され、明治44年9月上旬に工事列車を仕立て、 神戸から陸路で鎧駅まで輸送された後、鎧駅構内において昼夜兼行で組み立てられた。
工事完成】  険しい山に囲まれ複雑に入り組んだ海岸線の地形に阻まれた香住〜浜坂間は、 山陰西線建設工事の中で最難関にして最後の工事区間であった。 余部鉄橋建設工事は明治42年12月16日着工、45年1月13日竣工と、その工事期間は実にわずか2年2ヶ月。 当時約33万円もの巨額の建設費と延べ25万人もの人工を投じて敢行され、明治の最高の土木技術を結集して見事に完成した。 1月28日には機関車2両で試運転が行われ、3月1日、余部鉄橋の完成により山陰本線前線が開通することとなった。
保守の足跡】  余部鉄橋は、日本海からの強い潮風にさらされるため、サビから鉄を守らなければならないという宿命にあった。 鉄橋完成から3年後にはペイント塗装工事が始められ、腐食した部材の取替えも行われてきたが、 太平洋戦争中は資材が欠乏し、鉄橋の荒廃は極みに達していた。 戦後になってペイント塗装工事が再開されるとともに修繕工事も始められ、 昭和32年からは3次にわたる修繕計画が立てられるなど、地道な維持管理が行われてきた。 一方、大正6年には専属の塗装工として、鉄橋建設当時から従事していた日本ペイント製造の社員、 望月保吉と上倉音吉が鉄道院に採用され、いわゆる「繕いケレン」が続けられてきた。 これは、衣服の繕いと同様に、鋼材の小さな異状部分の塗膜をワイヤーブラシ等で取り除き、 直ちに下塗り・中塗り・上塗りをするという一連の作業をさす。 高所であり、常に転落の危険と隣り合わせの命懸けの作業であった。 完成から約100年間、余部鉄橋が現役であり続けた陰には、 地道な営みを続けてきた「橋守」と呼ばれる人たちの努力があったことを忘れてはならない。
国道沿いに左へ進んでいくと、石垣が設置された一段高い所にがあります。 特徴的な塔の脇には「余部鉄橋の概要」と題した案内板があって、 「建設当時の様子」・「余部鉄橋をわたる蒸気機関車」・「餘部駅完成で待望の一番列車」の写真が載っていました。 正面に広がるを眺めながら、防波堤沿いに進んでいきます。 防波堤が終わって国道に出ると、を過ぎたすぐの所に余部交差点があります。 その角には近畿自然歩道が立っていて、右の道は「伊岐佐神社0.1km・御崎集落3.3km」、 左の道は「余部鉄橋0.2km・余部駅0.5km」となっています。 道標の横には「」の看板があって、 右の道が御崎を経て三尾へ至ることを示しています。
余部鉄橋の概要
橋梁形式 トレッスル式橋梁
長さ 309.42m
高さ 41.45m
工期 明治42年12月〜明治45年1月
設計者 鉄道院技師 古川晴一
総事業費 331,535円(当時)
構造 橋脚11基、橋台2基、プレートガーダー23連
漁火林道三尾御崎線
眼下に海
現在地…(3.2k)…御崎…(漁火林道7.7k)…三尾…(4.7k)…国道178号 浜坂方面→
伊伎佐神社
道標に従って右折していくと、西川に架かるを渡っていきます。 橋を渡ったすぐ左に「伊伎佐神社」の扁額の掛かるが立っていたので立ち寄っていきました。 脇には「敬神之碑」と題した由緒書きがありました。 鳥居をくぐって参道を進み、少し右へ曲がっていくと、石段を登った所に社殿がありました。 社殿の左右には内側を向いた祠があって、 右側の祠には祖霊社恵比寿社、左側の祠には三柱社稲荷社が祀られていました。
敬神之碑
一、社名 式内 伊岐佐神社
一、御祭神 伊弉諾命 彦座王命 出雲色男命 天児屋根命 応神天皇
一、由緒 文武天皇ノ御代、慶雲四年七月、諸国に悪疫病ガ流行ス、時ノ天皇ハ、 諸国ニ神祇ヲ祀ルコト命ジラレシ時、美含大領椋連小柄 彦座王命ヲ、ココ伊岐佐ノ丘ニ勧請シタコトニ創マル  今ヨリ約千二百八十年前ノコトデアル  更ニ天平七年ニハ 伊弉諾命ヲ、勧請シ主祭神トスル  嘉祥四年正月二十七日時ノ神祇官領ヨリ「正六位ノ上」ガ授ケラレ数少ナイ延喜式ノ小社ニ列シ、 延喜二十二年春山岳ニハ、奉幣ノ儀アリ官社トナル  又文永七年夏、異国(蒙古)来襲ト聞キ、武神男山八幡宮ノ御分霊中臣天ノ祖、 天児屋根命ヲ勧請シ、異賊退治ノ祈祷式ヲ行フナド由緒アル神社デアル
一、例大祭日 七月十五日デ神幸式渡御アリ
現地では「伊佐神社」と「伊佐神社」のふた通りの表記が見られました。
伊伎佐神社から引き返して、宮ノ内橋の先に続く舗装路を登っていきます。 余部鉄橋や神社などに立ち寄っていたので、餘部駅に着いてから25分ほど経っていました。 1分ほど進んでから振り返ると、の全体を眺めることができました。 を過ぎていくと、右側にが広がってきます。 崖に沿って続くを登っていくと、 正面の斜面にの集落が見えてきます。 伊伎佐神社から13分ほど進んでいくと、僅かな切通のような所を過ぎて左へ曲がっていきます。 角には近畿自然歩道が立っていて、 左へ曲がっていく道は「御崎集落2.2km・御崎の灯台2.9km」、今来た道は「伊岐佐神社1.0km・余部鉄橋1.3km」となっています。
さんじばし
岩壁にあるを過ぎていくと、右側が開けてを眺められる所がありました。 降り坂になってきた舗装路を進んでいきます。 この付近には、道に沿ってが並んでいました。 花の季節になると綺麗な眺めになるのだろうと思いながら降っていきました。 やがて右側にが現れます。 谷筋には海の方へ向かうが続いていました。 谷を回り込むようにして進んでいくと、さんじ谷川が架かっています。 伊伎佐神社から21分ほどの所になります。 橋の手前から右の谷筋へ未舗装路が分かれていますが、橋を渡っていきます。
さんじばしを渡って、登り坂になってきた舗装路を進んでいきます。 少し登っていくと、(*)が左へ戻るようにして分かれています。 地形図に載っている川沿いに道になるようです。 その道を見送ったすぐ先に近畿自然歩道のが立っていて、 この先の道は「御崎集落1.2km・御崎の灯台1.9km」、今来た道は「伊岐佐神社2.0km・余部鉄橋2.3km」となっています。 さんじばしから7分ほど進んでいくと、が幾つか建つ所を過ぎていきます。 曲がりながら続く舗装路を登っていくと、カーブミラーの設置された曲がり角があります。 さんじばしから15分ほどの所になります。 曲がり角からはを眺められました。
*後日に左の林道を歩きました。(「余部550m峰」を参照)
御崎地区
左へ曲がって降り始めると、ブロック製のが二つありました。 そこを過ぎていくと、道端にがありました。 ここは海面から135mほどはあるので嵐で打ち上げられたとも思えず、何の目的で置かれているのかは分かりませんでした。 小舟を見送って少し進んでいくと、舗装路が分岐している所に着きました。 さんじばしから20分ほどの所になります。 脇にはがあって、ここが御崎地区の集落の入口になります。 脇には「近畿自然歩道 但馬御火浦漁火のみち」のが設置されていました。
近畿自然歩道 但馬御火浦漁火のみち
−平家落人伝説伝承地 御崎地区−
壇ノ浦の合戦(1185)に敗れた平家の武将達は、海路を隠岐、対馬へ逃れようと漕ぎ進めましたが強いシケに遭い、 因幡と但馬の海岸へ押し流されてしまいました。 ここ御崎は、平家一門のうち門脇宰相平教盛を大将とし、伊賀平内左衛門家長、その子光長、 矢引六郎右衛門、小宰相局など一行7人が命からがら流れつき、平家の再興を願いながらこの地に住み着いたと伝えられています。
伊岐佐神社】  浜地区の氏神である伊岐佐神社は「延喜式」神名帳によると、美含郡の「伊岐佐神社三座」と考えられています。 現在祀られているのは伊弉諾命ですが、かつては彦坐命、五十狭別命、出雲色男命の三つの神様を祀ったといわれています。
百手の儀式】  平内神社では毎年1月28日に行われる「百手の儀式」は、101本の矢を的にめがけて射る伝統行事で、 平家の再興を矢の的に託したものと伝えられています。
御崎の灯台】  日本一高い所にある灯台として知られている御崎の灯台は、海抜は284m余りで、光のとどく距離は73kmにも及びます。 昭和26年に完成した灯台で、光度920,000カンデラの光は15秒で1回転し、夜の日本海を行きかう船の安全を見守っています。
平家蕪】  この地に自生し、この地にしか育たないといわれる珍しい植物です。 昔は葉を食用として集落で作っていましたが、現在は野生化し、集落付近の土手や空き地に見られます。
バス停の前が広くなっていて、石碑「史跡 平家村 御崎」や墓石、六地蔵などが並び、 「平家伝説」などの解説板も設置されていました。 解説文を読んだり、右に見えるを眺めたりしながら、ひと息入れていきました。
平家伝説
当地、御崎は余部から険しい山道づたいに約4キロ、日本海に突き出た岬の突端にある平家集落である。 かつては、食物や飲用水にもこと欠くような、文字通り陸の孤島であった。 平家伝説の地は、ほとんど全国にまたがって各地に分布している。 但馬地方にも古くから平家の里と良い伝えられて来たところが数多くあるが、とりわけ「御崎の平家伝説」は有名である。 「平家物語」の中ではすでに死んだことになっている人たちの生存説が極めて多い。 壇ノ浦の合戦(寿永4年・1185年3月)に敗れた平家の武将達は、海路隠岐・対馬へ逃れようと壇ノ浦から漕ぎ進めたが、 日本海に出てから強いシケに遭い、因幡と但馬の海岸へ押し流されてしまった。 この岬には、平家の一門の内、門脇宰相教盛を大将とし、幼帝安徳天皇の衛士の大将伊賀平内左衛門家長、その子光長、 矢引六郎右衛門、小宰相局など一行7人が命からがら漂着したのは、寿永4年4月5日のことであった。 一行が岬のある伊笹岬の沖にさしかかると一条の煙が見え船戸に漕ぎ付け、それを頼りに崖をよじ登って行くと、 小さな庵に高野聖の森本浄実坊という修験者がいて、一行は小麦の蒸し物をクズの葉にのせて施され、飢えをしのいだ。 平家再興を計るため先ず「一の谷」奥に門脇宰相が居を構え、二キロほど東西へ隔て、 東の方に伊賀平内左衛門、西の方に矢引六郎右衛門が居を構え、追っ手に備えたと伝えられている。 毎年1月28日に氏神の平内神社の境内で行われる「百手の儀式」は、平家再興の願いを込め、 源氏に見立てた的に101本の矢を射る新年の武芸始めの儀式として、代々受け継がれてきた伝統行事である。 集落の入口に俊龍大和尚の碑がある。 和尚は、諸寄の龍満寺で得度したこの地出身の禅僧で、時の大老井伊直弼に師と仰がれ、 万延6年3月、桜田門外の変で暗殺された大老の葬儀では、導師を勤めた人である。
御崎哀歌
一、 青い海原はてしなく はるかにかすむ能登半島 御崎の丘にたたずめば 磯に白波荒しぶき
二、 樫の古木に影宿す 平家落人物語り 日吉の神の大いちょう その行く末見守りて
三、 あれが御崎の灯台と はぐれとんびに招かれて 登る坂道そのかなた 遠く望む隠岐の島
作詞 山本一之 作曲 笹尾廣嗣
矢引俊龍和尚(井伊大老の導師)生誕の地
和尚は、寛政元年(1788)、平家落人矢引六郎正固の子孫の一人としてこの地に誕生しました。 十歳の時浜坂町諸寄龍満寺で得度し、その後、愛知県足助町香積寺の住職となり禅僧として名声が高く、学徳も高く評価されていました。 時に、嘉永6年(1853)鎖国を続けていた徳川幕府にアメリカの使節ペリー提督が来日して開港和親を迫りました。 国内の情勢は鎖国を続けるか、開国するかで揺れ動いていました。 時の大老井伊直弼は事態の解決に悩み、幼少の頃より禅の修行を受けていた和尚に教えを乞いました。 俊龍和尚は国内の情勢をよく見通し、鎖国を続けている事態ではないことを教示し、開国通商することを説き、 品川東海寺で日米通商条約を調印するよう導きました。 和尚は自ら会議に参列し、通訳の任務にも就いたと伝えられています。 万延元年(1860)、井伊大老は登城途中桜田門外で水戸浪士の凶刃に倒れました。 大老の葬儀の導師は和尚がつとめたことは勿論ですが、 その後、江戸を去り井伊家菩提所彦根清涼寺の住職を勤めました。
 (香住町観光協会)
広場の右に続く舗装路を石垣沿いに1分ほど進んでいくとカーブミラーの立つがあり、 左の石垣の間に続くが分かれています。 脇にはが取り付けられていて、左の坂道が近畿自然歩道であることを示しています。 この先を道なりに右へ曲がりながら降っていくと、 そば処「平家の里」や香美町立余部小学校御崎分校などがありますが、標識に従って左の坂道を登っていきます。 民家の脇を過ぎて急坂を登っていくと分岐があります。 脇には背の高い御神燈があります。 正面の石垣にが取り付けられていて、近畿自然歩道は右の小径であることを示しています。 左へ進んで民家の脇から登っていくと、案内板に載っていた平内神社がありますが、訪ねるのは省略しました。
標識に従って右へ続く小径を進んで開けた畑地の脇に出ると、 斜面の下には日本海のが連なっていました。 畑地の中に続く小径を登って地道や石段になって来ると、 道端に「」と刻まれた大きな墓石がありました。 この御崎地区の出身の方でしょうか、集落を見下ろすようにして立っていました。 墓を過ぎて石段を更に登っていくと、近畿自然歩道の道標が立っていて、 この先の道は「御崎の灯台0.5km」、今登ってきた道は「余部鉄橋3.7km」となっています。
参議院議員 伊賀定盛之墓 従四位勲二等瑞寶章
伊賀定盛略暦
昭和22年4月城崎郡余部村長
昭和30年4月兵庫県議会議員三期
昭和40年5月兵庫県議会社会党議員団幹事長
昭和41年5月兵庫県社会党県本部副委員長
昭和42年1月衆議院議員四期
日本・中国農業農民交流兵庫県協会長
昭和49年7月兵庫県商工振興協同組合理事長
正覚院律道盛心居士
平成2年9月1日 行年69歳
畑地の中に続く急な小径を登っていきます。 傾斜が少し緩んでくると、正面の尾根の上にが見えてきます。 畑地が終わって笹が茂る所から振り返るとが広がっていました。 斜面を横切るようにして続くを登っていきます。 の傍を過ぎて更に登っていくと、緩やかで広い尾根に登り着きました。 御崎バス停のある広場から16分ほどで登って来られました。 登り着いた所には近畿自然歩道の道標が立っていて、右の道は「御崎の灯台0.1km」、 左の道は「間塩3.9km」、正面の道は「美伊神社1.0km」、今登ってきた道は「御崎集落0.4km」となっています。 正面に立つ石灯籠や鳥居の先に続く道を降っていくと美伊神社があるようですが、訪ねるのは省略して、 右側のすぐ先に見えているへ向かっていきました。
余部埼灯台
舗装路を1分ほど進んでいくと余部埼灯台に着きます。 餘部駅に着いてから1時間25分ほどで到着しました。 道標に記されていた「御崎の灯台」という表記は見かけませんでしたが、この灯台を指しているものと思われます。 灯台の先に出てみると、緩やかな畑地の先にが広がっていました。
余部埼灯台
〜日本一高い場所にある灯台〜
この地に灯台が建設されたのは、昭和26年(1951)3月25日でした。 当時は山また山の山林で、建設資材は御崎の港から人力により運搬され、それも地元御崎の人々の手によるものでした。 昭和36年(1961)までは、灯台職員がこの地で生活し、灯台を守っていましたが、現在は無人で運用しています。 現在の灯台は、昭和60年(1985)に建替えられ2代目です。 この灯台は、我が国で一番高い場所にある灯台です。 ここから日本海の眺望をお楽しみください。
位置北緯35度39分57秒 東経134度32分18秒
光り方単閃白光 毎15秒に1閃光
光の強さ44.0万カンデラ
光の届く距離23.0海里(約42.6km)
高さ地上から灯台頂部 約14m 水面から灯火 約284m
管理事務所舞鶴海上保安部
 (海上保安庁、橙光会、日本財団)
余部埼灯台50周年記念行事「タイムカプセル」
日本一高い所に位置する灯台として、余部埼灯台がこの地に誕生して50年と時を経て、これを記念し、 この灯台内には、2001年度の余部小学校全校生徒(51名)前年度卒業生(11名)及び余部幼稚園の児童(12名)の「15年後の私へ」と題した作文や絵などが、 タイムカプセルとして保管されています。 このタイムカプセルは15年後の2016年に開封する予定です。 灯台に納められたタイムカプセルが時を経て、余部の美しい景観と共に、郷土を想う心が「永久」であることを願うものです。
 (2001.5.12 第八管区海上保安本部 香住航路標識事務所)
余部埼灯台から引き返して、登り着いた所を過ぎていくと、舗装路の曲がり角に出ます。 余部埼灯台を訪ねる観光客用なのか、脇が広いになっていて、東屋風の建物もありました。 「山陰海岸国立公園」と題した解説板もあって、 ここから東へ続くなどが載っていました。 舗装路に出た所の樹木の傍に近畿自然歩道の道標が立っていて、正面に続く道は「間塩3.8km」、 今来た道は「公衆便所・御崎の灯台0.2km・御崎集落0.5km」となっています。 御崎バス停のある広場から分かれてきた道のようですが、 正面に続くを進んでいきます。
山陰海岸国立公園
山陰海岸は山脚部が直接海に接するため、海食崖や磯浜の岩石海岸です。 地形的には海が急激に深くなる沈水型のリアス式海岸です。 海岸線は、洞門・洞窟をはじめ大海食崖、波食棚、甌穴などとともに奇岩怪石が多く、変化に富む地形となっています。 名勝「鎧の袖」は、高さ約654m幅約200mの大岩壁です。 この岩壁は火成岩で、今から約300〜1,000万年前の火山活動により、貫入した流紋岩が冷え固まる際、 六角柱をたばねたような柱状節理と、それを輪切りにするような板状節理が無数に発達したものです。
 (近畿自然歩道、環境省・兵庫県)
時折開けるを眺めながら、僅かに登り坂になった舗装路を進んでいきます。 1.5車線の道路ですが、自動車はたまにしか通っていきません。 駐車場から6分ほど進んでいくと、道端に残雪が現れ、進むにつれて次第に路面を覆うようになってきました。 凍てつく日だったので、滑って転ばないように注意しながら進んでいきました。 そんな雪が、途切れながらも12分ほど続きました。
記念碑「碧林」
雪がなくなり軽い降り坂になってきた道を淡々と進んでいきます。 谷筋の曲がり角に来ると、谷筋の先にはが見えていました。 を快調に降って尾根を回り込む角まで来ると、 「碧林」と刻まれたがありました。 余部埼灯台から42分ほどの所になります。 ここは香美町新温泉町の境界になっていて、 ここまでの道は旧香住町の分担で、この先の道は旧浜坂町の分担だったようです。 手前には近畿自然歩道が立っていて、 左へ曲がっていく道は「間塩1.0km・三尾バス停4.0km」、今来た道は「御崎の灯台3.0km」となっています。 記念碑の脇にはベンチが設置されていて、ひと休みするのに良さそうな所でしたが、 記念碑を確認しただけで先へ進んでいきました。
山陰海岸国立公園 林道三尾御崎線 碧林
事業名 民有林林道開設事業 林業地域総合整備事業
事業主体 香住町 浜坂町
施工延長 4,716m 3,070m
事業費 650,474千円 377,133千円
施工年度 S.53〜S.62,S63〜H.元 S.45〜S.56,H.元
平成2年3月建立
記念碑「碧林」を過ぎていくと、海に突き出すが見えてきました。 少しずつ見える角度が変わっていくる半島を眺めながら快調に降っていきます。 先端には灯台が見えていたので、地形図に載っているでしょうか。 記念碑「碧林」から8分ほど進んでいくと、小さな谷筋に差し掛かります。 山側にはがあって、心地よい音をたてながら水が流れていました。 暑い夏場には涼を得るのに良さそうな所でした。 沢は道路を横切って右側の谷へと流れ落ちていました。
間塩
引き続き降り坂になった道を5分ほど進んでいくと、先ほどよりも大きな谷筋に着きます。 ここでもが勢いよく流れていて、道の下を通って海へと流れていきます。 ここから右の谷筋へが分かれていますが、入口には鉄棒が渡されて封鎖されていました。 御崎地区の広場で見かけた案内図ではこの辺りに「間塩」と書かれているし、 これまでにあった道標からも、この辺りが「間塩」になるように思えますが、その旨の標識などは見かけませんでした。 地形図にはこの谷筋に水田の記号が描かれていますが、「間塩」とは集落ではなく、この谷筋の名前でしょうか。 以前には「間城」と言って、三尾地区の人が舟に乗って耕作に通っていたという情報もありますが、実状はよく分かりません。
こんな時にはすぐ110番
○海岸付近で
・見慣れない船・ゴムボート
・人目を避けて潜んでいる人
・不審な漂着物・漂流物(ゴムボート等)
○密漁者(この付近は禁漁区に設定されております)などを見かけた時
 (浜坂地区沿岸防犯協力舎、浜坂町漁業協同組合、美方警察署)
谷筋を回り込んで登り坂になってきた道を進んでいくと、谷筋の先から海に突き出すが見えてきます。 その名の通り、細い板状になった急峻な岬です。 先ほど分かれた簡易舗装路が海へ向かって続いているのも見えました。 次第に見える角度が変わってくる岬を眺めながら坂道を登っていきます。 地形図では500mほどの長さに描かれている鋸岬ですが、そんなに長くは見えないのが不思議でした。
僅かな谷筋に架かるをふたつ過ぎていきます。 少し見えるの海岸線を眺めながら進んでいくと、尾根を切り開いた切通があります。 脇には壊れた近畿自然歩道があって、この先の道は「三尾バス停2.0km」、 今来た道は「間塩1.0km・御崎の灯台5.0km」となっています。
不老の水
切通を過ぎて降っていくと、 右へ曲がり始める所のコンクリート打ちされた崖にがありました。 間塩から23分ほど、記念碑「碧林」から37分ほどで着きました。 赤い前掛けをしたお地蔵さんが佇み、サカキがお供えされていました。 柄杓も置いてあって飲めるようだったので、ちょいと手に受けて飲んでみました。 暑い夏場でも涸れることのない水とのことです。
不老の水を過ぎていくとが広がってきます。 谷筋の先にはが浮かんでいました。 明るい坂道を降っていくと、谷筋にはの集落が少し見えてきます。 僅かな畑地があるヘアピンカーブまで来ると、角から正面へが分かれていきます。 入口にはが立っていて、正面の山道(*)は「日和山山頂方面」、 左へ曲がっていく道は「三尾集落方面」、今来た道は「余部方面」となっています。 「日和山」という名前から、眺めが良さそうな所に思えましたが、立ち寄るのは止めておきました。
御崎地区の広場で見かけた案内図によると、岬の先端にある117m峰が「日和山」になるようです。
*後日に日和山への道を歩きました。 (「三尾117m峰」を参照)
大三尾橋
道なりに左へ曲がり、右下にの集落を眺めながら坂道を降っていきます。 僅かな谷筋を回り込んで次の曲がり角まで来ると、などを見下ろせました。 斜面や谷筋に広がるを眺めながら降っていくと、大三尾橋を渡っていきます。 不老の水から14分ほどの所になります。 三尾川が流れる谷筋にはが広がり、その先には集落が見えていました。
谷筋を回って坂道を3分ほど降っていくと、集落が近づいてきた所に分岐があります。 角には近畿自然歩道が立っていて、正面の道は「三尾バス停0.5km」、 今来た道は「間塩2.5km・御崎の灯台6.5km」となっています。 右に戻るようにして分かれていく道には何も示されていません。 三尾バス停へは正面の道を降っていけば良いのですが、 から三尾の集落を経ていくことにしました。
三尾地区
左へ曲がりながら坂道を降っていきます。 小橋を渡って三尾川沿いに降っていくとが近づいてきます。 川の両側に寄り添うようにして民家が建ち並ぶようになると、三尾地区の集落になります。 川を渡ったり渡り返したりしながら狭い道が続いています。
三尾地区は二つに分かれていて、この谷筋にあるのが「大三尾」で、 尾根をひとつ挟んだ西側の谷筋にあるのが「小三尾」というようです。 3つの尾根に挟まれた谷間にあることが「三尾浦」という地名の由来とされているようです。 その昔、神功皇后日和山で焚いた篝火で海難を逃れたので、 そのお礼として「御火浦(みほのうら)」という名前を授けたという話が残っているようです。
八柱神社
集落の中を降っていくと鳥居が見えたので、立ち寄っていくことにしました。 浜坂町消防団第6分団格納庫の前を過ぎて石段を降ると、右側に登っていく石段の上にが立っています。 「八柱神社」の扁額の掛かる鳥居をくぐり更に石段を登っていくと平らな所に出ました。 左側にはがありました。 社務所にしては少し雰囲気が違うようだしと思いながら周囲を見回していると、 石段の右側に生える幼木の傍に「御火浦小学校お別れ記念植樹」の標柱が立っていました。 左側の建物はかつての御火浦小学校の一部だったのでしょうか。 平らな所から更に石段を登っていくと社殿がありました。 正面には「八柱神社」の扁額が掲げられていましたが、由緒などを記したものは見かけませんでした。 社殿の左側には祠があって、中に小社が納められていましたが、名前は分かりませんでした。
御火浦小学校お別れ記念植樹
平成16年3月吉日
三尾区 御火浦小学校PTA、御火浦小学校同窓会
御火浦小学校は2004年に廃校となり、浜坂東小学校へ統合されたようです。 かつての御火浦小学校は、三尾港の傍の御火浦コミュニティセンターの所にあったようです。
三尾港
八柱神社から引き返してを降っていきます。 三尾川沿いに出ての中を進んでいくと三尾港に出ました。 港には小船が幾艘も陸揚げされていました。 左側にはがあります。 かつてはここに御火浦小学校があったようです。
注意
この周辺海域にはアワビ、サザエの稚貝を放流しています。 この区域内は第一種漁業権内ですので、違反者は漁業法及び漁業調整規則により処罰されます。 尚、漁業者以外でウエットスーツを着用しているものは密漁中とみなします。
 (浜坂町漁業協同組合、浜坂警察署)
三尾バス停
御火浦コミュニティセンターの前を左へ曲がって坂道を登り始めた所に三尾バス停があります。 大三尾橋から24分ほどで到着しました。 浜坂駅(JR山陰本線)までのバスの便がありますが、本数は少ないので、 バスを利用する場合には事前に調べておいた方が無難です。
バス停を過ぎて坂道を登っていくと、集落の手前にあった分岐から正面へ降ってきたに出ます。 出た所には「近畿自然歩道 但馬御火浦漁火のみち」のが設置されていました。
近畿自然歩道 但馬御火浦漁火のみち (余部駅〜三尾バス停) 11.3km
近畿自然歩道は、私達の生活が近代化する中で、自然の残っている地域や名所・旧跡を帯状に結び、 身近に歴史や自然とふれあえるよう整備したものです。 コースには道しるべがありますので、それにしたがってお歩きください。
御崎の灯台(余部埼灯台)】  日本一高い所にある灯台として知られている御崎の灯台は、海抜は284m余りで、光のとどく距離は73kmにも及びます。 昭和26年に完成した灯台で、光度920,000カンデラの光は15秒で1回転し、夜の日本海を行きかう船の安全を見守っています。
御崎集落(百手の儀式)】  御崎集落は、1185年壇の浦の戦いで敗れた平家の武将が落ちのびた末にたどり着いた地として、平家落人伝説が語り継がれています。 集落内の平内神社で毎年1月28日に行われる「百手の儀式」は、101本の矢を的にめがけて射る伝統行事で、 平家の再興を矢の的に託したものと伝えられています。
鋸岬】  鋸岬は、角礫状の流紋岩と角礫岩からできており、 浜坂町と香住町とを仕切るかのように海上に張り出した長さ500m、幅60m、高さ20mの半島です。 半島の頂部は凸凹になっていて、まるで鋸の刃のようであることからこの名で呼ばれています。
旭洞門】  鋸岬のちょうど中間部に位置し、船上からこの洞門越しに見る朝日が絶好であることから「旭洞門」と呼ばれています。
コースの見どころ
余部鉄橋】  山陰本線の名所として知られているこの鉄橋は、高さ41mm長さ309mのトレッスル式鉄橋です。 明治45年に完成した当時は東洋一と呼ばれ、今も日本海の強風を真向から受け、四季折々の姿を見せながらその雄大さを誇っています。 眼下に日本海と余部の集落が広がる車中からの展望は、まるで空中列車に乗っているような感じを味わえます。
三尾大島】  三尾大島は、島全体が六角形の柱状節理の形状であり、世界でも稀な美しい景観であることから、天然記念物に指定されています。 形状がアワビを伏せた格好に似ているところから別名「鮑島」とも呼ばれています。 大島を中心とした海域は魚の宝庫となっています。
但馬御火浦】  浜坂町岸田川河口から香住町の伊笹岬までの海岸一帯は、名勝「但馬御火浦」として、国の天然記念物に指定されています。 日本海の怒涛で洗われ、形成された奇岩、洞門、洞穴が連続し、釣鐘洞門や三尾大島などの奇勝は、世界屈指の景勝地です。 浜坂港から出航している遊覧船に乗り、海から探勝することもできます。
 (環境省・兵庫県)
後日に三尾バス停の先を少し歩いてみました。 振り返っての集落を眺めながら道路を進んでいくと、 小三尾の集落が見えてきた所に「御火乃浦」と刻まれた石碑などが設置された小広場があり、 解説板が幾つか設置されていました。 振り返るとが良く見えました。
三尾の伝説
三尾には数多くの伝説や言い伝えが残っていますが、その中の二つの伝説を紹介します。
三尾の起源】  その昔、神功皇后が三韓遠征のため三尾の沖合を船で通りかかった時、海上が濃霧のため難渋していた。 その時三尾の日和山で漁師が焚いたかがり火によって方角が解り助かったので、 皇后が「今後は御火浦と改めなさい」と言い、それからこの地を御火浦と呼ぶようになった。 しかし、その後再三にわたってこの地が大火に見舞われたので、 土地の人々は「御火浦という名前が悪いからだ」ということで、もとどおり三尾浦になったと伝えられている。
間塩難船の亡霊】  江戸時代の正徳3年(1713)、伊丹屋嘉兵衛の北前船が間塩の沖合で難破し、五人の乗組員が行方不明となった。 三尾の村人たちの救助によって、そのうち三人は助けられたが、五兵衛と長左衛門の二人はついに見つからなかった。 その後、間塩の田に五兵衛と長左衛門の亡霊が毎日でてきて相撲をとって遊ぶので、村人達は気味悪がった。 この話を聞いた大阪天満宮吉野屋のおばあさんが紺風呂敷を広げて 「さあ五兵衛も長左衛門もこれに乗れ。連れて帰るから…」と言って包んで帰っていった。 以来、間塩には亡霊が出なくなったという。
海上交通の難所として聞こえた三尾では、昔から船の難破が数多く、船員の救助活動が行われてきました。 三尾の漁師たちは同じ海に生きる人間として強い意識をもち、進んで遭難者の救助にあたってきました。
 (近畿自然歩道 環境省・兵庫県)
山陰海岸ジオパーク 三尾大島
三尾大島は高さ50m、周囲約300mの小島で、照来層群(約300万年前)に属する粗面岩質デイサイトの岩床からなります。 島全体に六角形状の柱状節理が発達しています。 特に東側の岸壁では、無数の柱状節理とそれを切る板状節理が美しい景観を作り、 名勝・天然記念物「但馬御火浦」の代表的な場所となっています。
 (新温泉町)
国・名勝天然記念物 但馬御火浦
指定年月日 昭和9年1月22日
所有者・管理者 国・県・町(浜坂町他)
浜坂町岸田川河口から香住町伊笹岬までの海岸は、国の名勝天然記念物「但馬御火浦」に指定されている。 この一帯は、新第三紀の安山岩や凝灰岩からできており、たくさんの断層・節理・貫入岩脈が見られ、複雑な海岸となっている。 特に、三尾大島は玄武岩の貫入岩脈からできており、表面には美しい亀甲型の柱状節理が発達している。 また、断層や節理の弱い部分が波に浸蝕されてできた通天洞門や旭洞門をはじめとする多くの洞門や洞穴が見られる。 遊覧船から見るダイナミックな地形は訪れる人たちに自然の力の偉大さを感じさせる。
 (平成10年3月 浜坂町教育委員会)