毛原峠
概 要 毛原峠は福知山市大江町毛原と舞鶴市大俣の境にある元普甲道の峠です。 今回は毛原地区から元普甲道を通って毛原地区へ至るルートを往復します。 棚田が広がりワンダービレッジプロジェクトが推進されている毛原地区には、 散策コースも整備されているので、その一部も合わせて歩きます。
起 点 福知山市大江町 毛原地区
終 点 福知山市大江町 毛原地区
毛原地区…大岩神社…岩姫神社…毛原峠…岩姫神社…展望広場…竹林側登山口…水車小屋…毛原地区
所要時間 1時間40分
歩いて... 大岩神社の入口から続く元普甲道には毛原峠まで標識類を見掛けませんが、道は明瞭に続いています。 息が切れるような急坂はありませんが、折からの蒸し暑さで止め処もなく汗が噴き出してくるのには参りました。 水車小屋には「毛原を訪ねて」と題したパンフレットが置いてあって、 散策コースが描かれた「毛原のいまとみらいマップ」が参考になります。
関連メモ 元普甲道
コース紹介
毛原地区
福知山市大江町を通る国道175号の関交差点から府道9号を北上していきます。 京都丹後鉄道の大江山口内宮駅を過ぎていくと、切通に設けられたがあります。 トンネルを抜けていくとがあります。 手前には毛原バス停があり、正面には「棚田の里」のが出ています。 左へ曲がっていく府道9号と別れて右の道へ入っていくと、 すぐの所にがあります。 棚田が広がる浅い谷筋を軽く降っていきます。 左へ曲がりながら軽く登っていくと毛原公会堂があります。 その前が広くなっているので、ここに車を止めさせて頂きました。
の建物には毛原食品加工所「毛楽里」が併設されていて、トイレも設置されています。 脇にある掲示板には毛原のが張り出されています。 道路向かいには、毛原のかまど炊きがあります。 毛原公会堂の先へ続く道を軽く登っていくと、左右に通る道路に出ます。 右側にはがあって、 極彩色のが安置されています。
毛原 不思議、カワイイ、里山
毛原は「忘れ物をおとどけする」里です。 美しい棚田の風景が、まちの人の思い出となって日々の暮らしのちょっとした瞬間にいきいきと息づくとき、 どこかに置き忘れてきた大切な記憶を毛原の元気な人々とともに蘇らせてくれることでしょう。
毛原の棚田ワンダービレッジプロジェクト
右へ曲がって、民家が点在するを軽く登っていきます。 道なりに右へ曲がっていくと、左への曲がり角にがあります。 覗き込んでみると、小振りのが沢山泳いでいます。 餌を貰えると思うのか、傍までいくと口をパクパクさせながら近寄ってきます。 坂を登ってまで来ると、 正面の石垣に「毛原峠」の標識が取り付けられていて右の道を指しています。 右折していくと、左への曲がり角に東屋が建っています。 駐車地から6分ほどの所になります。 脇には「福知山市毛原の棚田風景」の解説板が設置されています。 「」の地図が載っていて、今回歩く毛原峠までの道が描かれています。 右側にはが広がります。
京都府選定文化的景観 福知山市毛原の棚田風景
福知山市の北東端に位置する毛原は、大江山南麓の峰々と小さな谷に営まれた集落です。 かつては頂近くまでもが田畑として開墾されていたと伝えますが、 現在は13戸の家々と600余枚の水田が棚田として広がります。 古くは丹後国加佐郡に属し、平安時代の著名な小式部内侍の詩の他、 『今昔物語』や『沙石集』などはこの先にある元普(不)甲道を舞台にした物語が伝えられており、 この地が由良川の傍らの河守から宮津へと向う古い街道に位置していたことを示しています。 襲来の背後には、特に著名な丹後の大江山がそびえ、数々の民俗伝承、殿背t具が伝えられています。 古くは神世の日子坐王(崇神天皇の弟)の土蜘蛛退治(丹後国風土記残缺)伝説、麻呂子親王(聖徳太子の弟)の鬼退治伝説、 そして大江山の鬼退治として最も著名な源頼光の酒呑童子退治伝説です。 毛原の近くにも「鬼の岩屋」「頼光の腰掛け岩」「酒呑童子屋敷跡」など伝説を今に留める遺跡が多く残されています。 町の喧騒からもほと遠く、清いせせらぎと四季折々に変化をみせる山々に自然の深さを感じます。 そして眼下には緩やかな曲線を描く棚田と蛇行した農道が美しく広がり、 春には新緑、夏には青い空と白い雲、そして秋には黄金色の稲穂が棚田の景色に色を添えています。 伝説と歴史の里に広がる毛原の棚田景観は、私たち日本人の心の中にある原風景を今に伝えています。
平成22年1月 福知山市教育委員会
左へ戻るように登っていく小径を見送っていくと道幅が広がった所がありますが、 この先にある大岩神社への参拝者用のでしょうか。 小屋が建つ所まで来るとがあります。 右へ曲がりながら降っていく道は地形図に実線で載っている道のようです。 正面の道を進んでいくと、また分岐があります。 駐車地から10分ほどの所になります。 角には「元普甲道」のが立っていて、 右の道は「モデルフォレスト・展望台」、 左の道は「毛原峠」「大岩神社・アカガシ群生・袈裟切地蔵」となっています。
大岩神社
左の道を登っていくとがありますが、 小さな閂を横にズラせば容易に開けられます。 防護扉を過ぎたすぐ先に水道のがありますが、 栓を捻ってみても水は出ませんでした。 蛇口を過ぎていくと、左側に木製のが立っています。 駐車地から13分ほどの所になります。 毛原峠へは正面の道を登っていくのですが、 左の参道の先に神社があるようなので、ちょいと立ち寄っていきます。 鳥居をくぐって、狛犬や石灯籠が並ぶ広いを登っていきます。 石段を真っ直ぐ登っていくと、小広くなったに着きます。 左側には覆い屋に納められた檜皮葺きの神社があります。 扁額の文字は風化していて判読出来ませんが、これが大岩神社のようです。 正面にはのようなものが並んでいます。 右側にはのような建物があります。 境内の様子を確認しながら、しばらく休憩していきます。
社務所の右側に続く地道を少し降っていくと、毛原峠へ続く道に出られます。
滑らないよう注意しながら、苔生したを降っていきます。 往復7分ほどでまで引き返してきます。 左へ曲がって、すぐの所にあるの脇を過ぎていきます。 コンクリート道を真っ直ぐ登って地道に変わる所まで来ると分岐があります。 左の道は大岩神社へ続いていて、先の方にはが見えています。 標識類は見掛けませんが、正面に続くを進んでいきます。
岩姫神社
広いには小岩が頭を出している所もありますが、歩き難くはありません。 埋設された塩ビ管を流れる小沢を跨いでいくとが見えてきます。 傍までいくと、注連縄が張られた小振りの鳥居が立っています。 大岩神社の入口に立つ鳥居から7分ほどの所になります。 社はなく、岩が剥き出しているばかりで、扁額なども見掛けませんが、 これが「岩神さん」とも呼ばれる岩姫神社になるようです。 左側にはなだらかながあります。 脇にはと思われる石も見掛けます。
岩姫神社の先へ続く沢沿いのを更に登っていきます。 程なくしてを渡っていきます。 少し左へ曲がって、沢が消えて浅くなったを登っていきます。 正面が明るくなってくると、曲がりながら続く横木の階段を登るようになります。
毛原峠
近づいてくる峠へ向って、を辿りながら登っていきます。 程なくして、左右に続く尾根の鞍部にある毛原峠に着きます。 岩姫神社から8分ほど、大岩神社への立ち寄りも含めて駐車地から32分ほどで登って来られました。 左側には「元普甲道」のが立っていて、 この場所は「毛原峠」、この先の道は「舞鶴市」、今来た道は「福知山」となっています。 右側にはがあって、中には石を三段重ねしたようなものが安置されています。 側面に掲げられた板によると袈裟切地蔵と言うようです。 (*)は正面へ降っていくようです。 眺めは広がりませんが、周囲の様子を確認しながら休憩していきます。
*後日に正面の元普甲道を歩きました。 (「元普甲道」を参照)
袈裟切地蔵
袈裟切地蔵は、ここ毛原峠に祀られており、安土桃山時代の剣豪岩見重太郎の仇討ち伝説では、 天橋立で親の仇討ちを果した帰り道に待伏せした追手と争った時に刃があたり、 切れたのがこの袈裟切地蔵と言われています。
伝承されている地域の民話によると、 バラバラになって転がり落ちたお地蔵さんの頭を受け止めた岩が、「岩神さん」とも呼ばれる岩姫神社とのことです。
岩姫神社
落ち着いたところで、浅い谷筋に続くを引き返していきます。 途切れながら続く横木の階段を辿りながら、を降っていきます。 曲がりながら降って谷の形が次第にはっきりしてくるとを渡っていきます。 石垣のようなものが見られるを降っていきます。 石垣の傍を降っていくと、小振りの鳥居が立つ岩姫神社に着きます。 毛原峠から6分ほどの所になります。 鳥居の奥にある割れそうになった岩がのようです。
埋設された塩ビ管を流れるを跨いでいきます。 所々に小岩が頭を出す道を降ってコンクリート道になると、 大岩神社へ続く地道とのに出ます。 右の地道を見送って正面のコンクリート道を降っていくとに出ます。 大岩神社の鳥居を右に見て舗装路を真っ直ぐ降っていくとがあります。 来た時と同様に小さな閂を横にズラして通過していくと、「元普甲道」の標識が立つ分岐に戻ってきます。 毛原峠から13分ほどで降りて来られました。
「モデルフォレスト・展望台」の板が指すを進んでいきます。 短い草が生える地道を進んでいくと、程なくしてがあります。 巻かれている鎖を解き、落とし棒を引き上げると開けられます。 扉には様々な形のが沢山取り付けられています。 防護扉の先にある有害鳥獣捕獲施設を過ぎていくと、は右へ曲がっていきます。 斜面を横切るように続く広い地道を登っていきます。
展望広場
広い地道を登って尾根の背に出ると、左側の広場に大きながあります。 左脇には「展望広場」の標識が立っていて、今来た道は「毛原の森・モデルフォレスト入口 150m 5分」となっています。 山際には「京都モデルフォレスト 毛原 共存の森」の看板が出ています。 休憩舎の左側を進んでいくと「展望広場」のが立っていて、 小尾根に続く横木の階段は「展望台」となっています。 横木の階段をひと登りすると、すぐに木組みのがあります。 これが展望台のようです。 元普甲道との分岐から8分ほどの所になります。 振り返ると、樹木に邪魔されながらもが広がります。 車を止めてきたも良く見えます。 眺めを愛でながら、ここでもひと息入れていきます。
デッキの背後には、苔生した緩やかなが広がっています。 右へ続くを降っていきます。 先ほどの大きなを右下に眺めながら降っていきます。 少し右へ曲がっていくと、先ほどの広場の端に出ます。 左側の松の幼木が生える所に「タムシバの尾根展望台 120m 5分」のが立っています。 合わせて10分ほど居た展望広場を後にして、標識が指す尾根を降っていきます。
が茂る所へ入っていきます。 松の幼木を過ぎて、歩き易い尾根に続くを降っていきます。 周囲の樹木に取り付けられた名前を書いたを眺めながら降っていきます。 古くなった横木を新しいのに替えた所もあって、よく手入れされていることが感じられます。 緩やかになった所を過ぎていくと、僅かな段差を降りた所に「タムシバの尾根展望台」のが立っていて、 この先の道は「アカガシの森 100m 4分」、今来た道は「展望広場 120m 5分」となっています。 ここがタムシバの尾根展望台になるようです。 展望広場から4分ほどの所になります。 先ほどのようなデッキは見掛けませんが、などを眺められます。
標識を過ぎていくとが増してきます。 樹木に取り付けられた小札を眺めながらしばらく降っていくとになります。 程なくしてが増してきます。 傾斜が緩やかになると、「アカガシの森」のが立っていて、 この先の道は「竹林側登山口 75m 4分」、今来た道は「タムシバの尾根展望台 100m 4分」となっています。 展望広場から8分ほどの所になります。 この辺りがアカガシの森になるようです。
竹林側登山口
標識を過ぎて降り傾斜が増してくると、「」の小札が取り付けられた樹木があります。 降り傾斜が更に増してくると、竹林にあるに出ます。 小さく左・右と曲がって墓地を過ぎていくと、左下にが見えてきます。 道路脇まで降りていくとがあります。 ここが先ほどの標識にあった竹林側登山口になるようです。 展望広場から12分ほどで降りて来られました。 三箇所ほど括られている針金を解いて扉を開けて車道に出ると、NTTドコモの電波塔「大江毛原(京都)」が立っています。
左へ続くを進んでいきます。 程なくして、への道を左に分けていきます。 少し右へ曲がりながら進んでいくと、広いがあります。 駐車場の中ほどまで進んでいくと、鉄パイプ柵が途切れる所から地道が続いています。 入口には「BBF」の標識が立っています。
地道に入って山際を進んでいくと、が建っています。 振り返ってみると、「」の標識が出ていますが、「ブラックベリー農園」という意味のようです。 浅い谷筋に広がるを眺めながら、山際を道なりに進んでいきます。 右へ曲がりながら進んで、小川に架かる小橋を渡ると、左右に通る道路に出ます。 右折したすぐの所には、「風の谷の百姓たち」と題したがあります。
風の谷の百姓たち
この谷に満ちている、温かい心の風に吹かれたくて、また毛原に来ました。 峰々から降り注ぐ光たち、母のように優しい土たち、子供のように駆け抜ける風たちと仲良くできる農業を、私達は楽しんでいます。
2002年11月 赤坂・宇加地・川瀬・桐本・杉本
水車小屋
左前方への道とのを直進していきます。 程なくして、「毛原の棚田 里の水車」の標識が掲げられた小屋があります。 竹林側登山口から11分ほどの所になります。 左側に設置された水車が元気に回っています。 中を覗ってみると太い軸が回っていて、現役で使われている様子です。 小屋の右面には「毛原を訪ねて」というが置いてあって、今回歩いた道が詳しく載っています。 傍には「」と題したがありますが、かなり年期が入っています。 地図も載っていますが見難くなっています。 福知山市のホームページに似たような地図「」があるので、参考までに載せておきます。 近くにはがあって、 毛原新聞や「毛原の里ワンダービレッジプロジェクト」の案内パンフレットなどが貼り出されています。
毛原の棚田と不(普)甲道
京都府選定文化的景観 平成20年2月選定
不甲道(元不甲)と普甲道(今普甲)
毛原への入口近く、今は草木に埋もれた細い道があり、その正面に「右ふけん 左なりあい」と刻まれた古い石の道標があります。 「なりあい」は成相寺、「ふけん」は普賢堂=不甲寺の道先、すなわち二つの不(普)甲道を案内しています。 不甲寺とは千歳嶺の麓、宮津市寺屋敷にあった平安時代の古刹で、かつては北の高野山とも呼ばれ、 成相寺に匹敵する大寺院でしたが、応仁の乱の戦場となり焼失したと伝えます。 古代の山陰道(丹後支路)は、与謝峠近くを越えると考えられていますが、 別に由良川を船で下り河守から内宮〜毛原〜辛皮〜不甲寺〜小田をへて宮津へ至る元不甲道のルートが想定されます。 平城宮出土木簡には「宮津郷 烏賊 二升太」と記されたものがあり、 ここを通って日本海の烏賊が献上されていたのでしょうか、 また『今昔物語集』や「沙石集」などの説話集にはこの不甲道での出来事がいくつか収められており、 奈良時代、平安時代〜中世の宮津と都を結ぶ主要な道であったことがわかります。 一方、毛原を迂回する現在の府道沿いの道は、江戸時代の初め、 宮津藩主京極高広に開かれたもので、参勤交代にも使われました。 そしていつこ頃からか毛原を通る道を元不甲道、 新たな道を今普甲道(不甲は不孝につながるので普に改名)というようになりました。 毛原の道順は、先の道標で右に折れ(この付近を「カイド」といいかつて宿屋もあった)、 高札場の横をとおり棚田の中を抜けて、大岩神社、岩神さん、そして毛原峠へと向います。 峠から辛皮へむかう道は、荒廃してわかりませんがかつては見事な石畳道が残っていたと伝えられています。
大岩神社、岩神さん、アカガシの巨木群
毛原の棚田を抜けた山際に氏神の大岩神社があります。 参道の左手の森には樹齢数百年を超えるアカガシの巨木群があちこちに見え、 古びた舞堂の中には高札など、明治の宮津県の掟が伝えられ、この地が丹後であることを知らしています。 大岩神社を過ぎてすぐ、大きな岩と、まるで岩にからみつくように巨杉が2本、前に石灯籠と真新しい鳥居が建っています。 おそるおそる覗き込むと反対に心を見透かされているような視線を感じます。 巨石には神が宿り、神が降り座す処という巨石信仰を体験する神秘的な御神体です。
袈裟切地蔵
毛原峠に胴体と頭がバラバラになった小さなお地蔵さん(台座を含めて50cm)があります。 昔、剣豪として名高い岩見重太郎が父の仇として広瀬軍蔵ら3人を追って、丹後の宮津へ向い、 寛永9年9月20日(1652)天橋立において3人を討ち、本望を遂げました。 ところがその帰路、ここ毛原峠の地蔵堂の大杉の下で休んでいると、 先回りして待ち伏せていた軍蔵の子、軍左衛門らに切りつけられてしまいます。 重太郎の防戦し、難を逃れましたが、そのとき重太郎の袈裟切り剣術により、地蔵は3つに切られてしまいました。 以降この地蔵を「袈裟切地蔵」と呼ぶようになったと伝えています。
平成22年1月 福知山市教育委員会
毛原地区
小川に架かるを渡っていきます。 左へ曲がり始めると、の民家を過ぎていきます。 電波塔が立つ竹林側登山口の傍を過ぎて左へ曲がりながら進んでいくと、 四等三角点「福ノ前」がある小山のが見えてきます。 擁壁の脇を過ぎていくと、右の小山へ登っていく道とのがあります。 入口には「元普甲道」の標識が立っていて、右の道は「毛原峠」となっています。 分岐を直進していくと、車を止めておいた毛原公会堂に着きます。 竹林側登山口から20分ほどで到着しました。