此隅山
概 要 此隅山は豊岡市出石町にある標高140mの山です。 山頂にはかつて此隅山城があった所で、国の文化財にも指定されています。 山頂からは出石の街並みなどを眺められる景色が広がります。 山頂までは、南側と北側から遊歩道や見学路が設けられています。 今回は北側にある見学路を登って遊歩道を降るルートを歩きます。
起 点 豊岡市出石町 袴狭地区
終 点 豊岡市出石町 袴狭地区
袴狭地区…見学路入口…分岐…西の曲輪…分岐…此隅山…遊歩道入口…袴狭地区
所要時間 1時間10分
歩いて... 見学路は明瞭で分かり易くなっていますが、トラロープが張られた急な所もあります。 遊歩道は路面が傾いた所もあって荒れ気味ですが、所々に標識が立っていてルートを示しています。
関連メモ 此隅山
コース紹介
袴狭地区
国道426号の小坂橋交差点と鳥居橋東詰交差点との間に、袴狭川が出石川に流れ込む所があります。 そこから東へ分かれていく道路を進んで法案寺橋を渡っていきます。 右側に架かる袴狭橋を渡っていくと出石川防災センターがあります。 広い駐車場があるので、ここに車を止めさせて頂きました。
(この時は休館日で玄関が閉まっていて、館内には入れませんでした)
見学路入口
出石川防災センターの玄関前を過ぎていくと、 「小野地区コミュニティセンター」と「小野地区防災拠点交流施設」の標識が掲げられたがあります。 建物の前を右折して山際までいくと防護扉があります。 駐車場から1分ほどの所になります。 脇には「史跡 此隅山城跡」と刻まれた石柱と、「此隅山史跡 見学路入口」の看板が立っています。 ここから此隅山へ登っていきます。 短い棒を横にずらせば、容易に扉を開けられます。
防護扉を抜けて左へ進んでいくと、 すぐの所に「山名氏と此隅山城跡」と題した(*)が立っていて、 「」が載っています。 傍には「解説1」の金属製の箱がありますが、中には何も入っていませんでした。 右へ曲がって、を登っていきます。 階段が終わった道を進んでいきます。 少し先を左へ曲がっていくと、再びが現れます。 階段を登り終えた所に「見学路」の標識が立っていて、 右へ続く道は「主郭」、今来た道は「学習館」となっています。
山名氏と此隅山城跡
此隅山城は但馬守護山名氏の居城で、伝承では文中年間(1372〜75)山名時義が築城したといわれているが定かではない。 しかし、戦国時代には山名到豊・試豊・祐豊三代の居城であったことは確かである。 此隅山城が古文書で初めて見られるのは、永正元年(1504)夏のことである。 但馬守護山名到豊と垣屋続成(日高町・楽々前城主)との抗争が再燃し、 垣屋続成が山名到豊・田結庄豊朝の立て籠もる此隅山城を攻めている。 このとき出石神社にも軍勢が乱入し、社壇・堂舎・経巻・末社諸神が焼失している。 永禄12年(1569)8月には、織田信長の命を受けた木下藤吉郎(後の秀吉)らによって、此隅山城など但馬の18の城が落城させられている。 その後、山名祐豊は天正2年(1574)頃、此隅山城に代わる新城として有子山に有子山城を築城した。 此隅山城は守護大名の城らしく、その規模は但馬最大級で南北約750m・東西1200mあると考えられ、 山裾の「御屋敷(守護所)」を山城がつつみこむような形となる。 城は、主郭を中心にそこから派生するすべての尾根に階段状に曲輪が構築されている。 曲輪の形は場所によって大きく異なり、2種類に分けることができる。 一つは、城の西側、東側にみられる低い段差をもつ小曲輪で南北朝時代から室町時代にかけて造られたものである。 もう一つは、主郭の周辺や千畳敷、宗鏡寺砦などで深い堀切や折れをもつ土塁、竪堀などが構築されており、 戦国時代のなかでも有子山城が築城された頃に改修されたものである。 このことは、戦後久慈だのみならず長い期間にわたって城として使われ続けたことを示す。
豊岡市教育委員会
*2013年に来た時から案内板が作り直されたようで、 縄張り図は上下が反転し、解説文も少し変わっていました。
続く道を登っていきます。 道なりに左へ曲がっていくと「見学路」のが立っていて、 正面の道は「主郭(約500m)」、今来た道は「学習館」となっています。 標識を過ぎて尾根を登っていくとに出ます。 中ほどには「古墳状の地形」のが立っています。 も見られる尾根を登っていきます。 緩やかな所を過ぎて登り傾斜が増してくるとトラロープが張られています。 見学路入口から6分ほどの所になります。
古墳状の地形
尾根沿いに円墳と考えられる地形が連続している。 この地方に多くみられる小規模な墓。 試掘の結果、古墳に伴う小型の甕の破片を確認している。
が張られた尾根を登っていきます。 になると、トラロープは一旦途切れます。 すぐに傾斜が増し始めると、またが現れます。 トラロープが終わると、尾根の肩のような緩やかな所に着きます。 見学路入口から8分ほどの所になります。 脇には「見学路」のが立っていて、 右へ続く道は「主郭(約300m)」、今来た道は「学習館」となっています。
右へ曲がっていくと、またが始まります。 トラロープが終わるとになります。 右にを眺めながら進んでいきます。 緩やかになった尾根を進んでいくと、「城郭遺構 曲輪」のが立っています。 見学路入口から10分ほどの所になります。 傍には「解説2」の金属製の箱がありますが、中には何も入っていませんでした。
城郭遺構 曲輪(くるわ)
郭(くるわ)とも書く。 防御陣地・建物を建てる敷地として、土地を削平したり盛土をするなどした平地。 山城には小規模なものが多くみられるが、それぞれが防御の役割を持った城の重要施設である。
傾斜が増してくるを登っていきます。 程なくして、少しを過ぎていきます。 その先へ登り始めると、またが張られています。 急な尾根を登ってトラロープが終わると、小さな高みに着きます。 見学路入口から13分ほどの所になります。 脇には「城郭遺構 堀切」のが立っています。 傍には「解説3」の金属製の箱がありますが、ここでも何も入っていませんでした。
城郭遺構 堀切(ほりきり)
主に外敵の侵入防止のために、尾根を分断するように開削された溝。 斜面を竪方向に造られた堀を堅堀(たてぼり)と呼び、横に並べた堅堀を畝状堅堀と呼ぶ。 堀切の両サイドに堅堀をする例も多く、此隅山城跡にも見られる。
分岐
すぐ先にあるへ降りると「見学路」の標識が立っていて、 この先の道は「主郭」、今来た道は「学習館」となっています。 堀切を過ぎて、を軽く登っていきます。 すぐに見学路が左右に分岐する尾根に出ます。 見学路入口から14分ほどの所になります。 左前方には「見学路」のが立っていて、 右の道は「西の曲輪(約100m)」、左の道は「主郭(約150m)」、今来た道は「学習館」となっています。
右の尾根を進み始めると、すぐの所に「土塁跡」のが立っています。 前には「城郭遺構 土塁」の解説板があります。 「解説4」の金属製の箱もありますが、中には何も入っていませんでした。 解説板を過ぎていくと「見学路」のが立っていて、 この先の道は「西の曲輪」、今来た道は「主郭」となっています。 トラロープが張られたを降っていきます。 土が剥き出して滑り易い所を降っていくと浅い鞍部に着きます。
西の曲輪
少し登っていくと僅かなに着きます。 軽い降り坂になると、が茂るようになります。 左側の樹木が少ない所を進んでいくと、 「「御屋敷」跡と「宗鏡寺砦」をのぞむ」と題したがあります。 ここが西の曲輪の跡のようです。 分岐から3分ほどの所になります。 「此隅山城に集結する但馬山名軍」のが載っていますが、汚れていて分かり難くなっています。 傍には「解説5」の金属製の箱がありますが、ここでも何も入っていませんでした。 少し樹木が邪魔をしていますが、左側には出石の街並みや山並みを眺められます。
「御屋敷」跡と「宗鏡寺砦」をのぞむ
室町時代、攻めてくる敵からお屋敷と城をどのように守ったのでしょうか。 城下の町並みは、みんなの衣装は、人数は、戦闘設備はなど想像してみてください。
此隅山城は、戦時に立て籠もる山城と平時の生活の場である「御屋敷」がセットになっている城跡である。 「御屋敷」は、16世紀以降但馬守護山名氏の「守護所」が置かれた所で生活の拠点(居館)であると共に、 政治を行う場所(政庁)でもあった。 守護は「御屋敷様」ともいわれた。 この場所から前方(南側)をみると、「御屋敷」を取り囲むように、「千畳敷」と「宗鏡寺砦」のある2つの尾根が突き出している。 敵が侵入した場合、この曲輪群(現在地)と「千畳敷」・「宗鏡寺砦」の3方向から攻撃を仕掛け、「御屋敷」を防御する縄張りである。 此隅山城の城下の一部は、「宮内堀脇遺跡」(「御屋敷」の西側下の水田面)として平成7〜9年にかけて発掘調査された。 幅約6mの2条の堀と土塁で区画された遺構からは、礎石建物・掘立柱建物・根太を使用した建物、屋敷の区画・通路などの遺構が出土し、 陶磁器などの遺物によって5世紀後半から16世紀後半の武家屋敷群であることが判明した。 中でも、焼土層から「永禄壱弐年八月廿四日、乃木出羽守」と記された木簡が出土、 永禄12年(1569)8月木下藤吉郎(後の秀吉)らが此隅山城を落城させた史実を裏付けている。 また、人名を墨書した多量の土師器皿や中国製の陶磁器の他に、 冑の破片(鍬形台)・鉄砲玉・小柄な金属製品・位牌(天文廿三年「道祐禅門霊位」)、折敷、将棋の駒など木製品も出土している。 字限図(小字図)では、「宮内堀脇遺跡」の南側に字「市場」「深市場」「シイ(四日)市場」があり、ここが町屋の可能性がある。 しかし、市場から離れた出石川の自然堤防上に字「舟戸」や「数珠屋」などの地名があり、町屋は散在していたものと思われる。 また、城下には、「宗鏡寺」、「太平寺」、「願成寺」、「宝高寺」、「清生寺」などの寺院が配置されていたようである。
豊岡市教育委員会 平成20年3月
分岐
来た道を引き返して、僅かなを過ぎていきます。 少し降って浅い鞍部に着いて、張られたトラロープに掴まったりしながらを登っていきます。 土が剥き出して滑り易い所を登って緩やかになると、「見学路」のが立っています。 「土塁跡」のや「城郭遺構 土塁」の解説板などを過ぎていきます。 すぐに標識が立つ分岐に着きます。 往復7分ほどで戻って来られました。
「主郭(約150m)」の標識が指すを登っていきます。 少し左へ曲がりながらを登っていきます。 木の根が剥き出す斜面を登っていくと緩やかな尾根になります。 脇には「見学路」のが立っていて、 右へ続く尾根は「主郭」、今来た斜面は「学習館」となっています。
右へ続くを進んでいきます。 傾斜が増してくるとが張られています。 左へ曲がりながら登っていくとになります。 少し右へ曲がって、が目立つ尾根を進んでいきます。 岩が剥き出す急な尾根を、トラロープに掴まりながら登っていきます。
近づいてくる高みへ向かって、岩が剥き出すを登っていきます。 坂を登り切ると、山頂の一段低い所にあるなだらかでに出ます。 柱だけになった(*)が立っています。 傍には「解説6」と書かれた金属製の箱がありますが、何も入っていませんでした。 先へ進んでいくと、高低差5mほどの高みが現れます。 その手前には「城郭遺構 切岸」のが立っています。
*以前に来た時には「見学路」の板があって、この先の道は「主郭」、今来た道は「いずし古代学習館」となっていました。
城郭遺構 切岸(きりぎし)
斜面を垂直近く削り落として、敵が登るのを防ぐ壁状の崖を造りだしたもの。 いわば城壁である。 切岸の下の堀切とセットにすれば、大変責めにくくする防御設備である。
此隅山 (標高140m)
斜面を登っていくと、すぐに此隅山の山頂に着きます。 分岐から7分ほど、見学路入口から29分ほどで登って来られました。 枯れ木の傍には「此隅山城主郭跡」のが立っています。 標柱の先へ進んでいくと「国史跡 此隅山城跡」と題したがあり、 が載っていますが、風化して見難くなっています。 右側に広がる景色を眺めながら休憩していきます。
国史跡 此隅山城跡
指定年月日 平成8年11月13日
指定理由 【基準】 特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準(昭和26年文化財保護委員会告示第2号)史跡の部二(城跡)による。
【説明】 此隅山城跡は、室町幕府の四職家で最大級の大名であった山名氏が、根拠地である但馬国に築いた山城跡である。 同じく山名氏の居城であった有子山城跡とともに、我が国の中世の政治史と城郭史を示す貴重な遺跡であるので、 山名氏城跡として一括して史跡に指定し、その保存を図るものである。
但馬山名氏 山名氏は新田氏の流れをくむ関東上野国の武士で、足利尊氏にしたがって室町幕府成立の騒乱で活躍。 室町幕府の四職家で最大級の大名となった山名氏は、 その一族が但馬、因幡、丹波、美作など日本全国66ヵ所中11ヵ国の守護職を兼務して「六分の一殿」と呼ばれた。 明徳の乱により一族の内紛を起こし衰退したが、嘉吉の乱で勢力を回復し、応仁の乱では宗全(持豊)が西軍の総帥となった。 但馬はこの山名氏の根拠地であり、14世紀後半に築かれたとされるこの此隅山城は、その本城として中世但馬史で重要な役割を果たした。 しかし戦国時代に入って山名氏はその勢力を失い、永禄12年(1569)に織田軍の木下秀吉の但馬侵攻により、この此隅山城は落城した。 この後ふたたび山名氏が築いた城がこの山の南2.5kmにある有子山城で、天正2年(1574)のことという。 しかし天正8年(1580)再度織田軍の羽柴秀長の但馬侵攻によって有子山城は落城、城主は因幡に出奔した。
城郭遺構 現在残る城跡は標高140mの此隅山の山頂に主郭を設け、これを中心に四方にのびる尾根上に多数の曲輪が残っており、 石垣などを用いない中世の初期の山城の様相をよく残している。 他のたっじまの城でも、尾根という尾根にこれだけたくさんの曲輪を造っている例はあまりない。 山麓に宗鏡寺、大手門、御邸などの地名が残り、かつて城下町が存在していたことを伝えている。
遊歩道(*)が南側へ降っていきますが、を引き返していきます。 高低差5mほどの坂を降っていくと、「城郭遺構 切岸」のが立つ所に戻ってきます。 解説板の手前から右へ続く踏み跡を降っていくと、すぐに曲輪跡のようなに出ます。 左肩にある踏み跡を降って、が張られた所を左へ曲がっていきます。 岩が剥き出して笹も茂るの道を降っていきます。 正面に曲輪跡と思われる平坦地が見えてくると、道は右へ折れ曲がっていきます。
*南側の遊歩道は「此隅山」を参照。
すぐ先に見えている標識へ向かって降っていくと、「遊歩道」のが立つ所を左へ曲がっていきます。 斜面を横切るように降っていくとに出ます。 正面には曲輪跡のような平坦地がありますが、左肩に続くを降っていきます。 小刻みに左・右と曲がって、尾根のに続く道を降っていきます。 樹間に山並みを眺めながら路面が傾いた道を降っていくと、「遊歩道」の標識が立っています。 山頂から10分ほどの所になります。
正面には曲輪跡のような平坦地がありますが、折れ曲がって降っていきます。 右側にを眺めながら降っていきます。 道を塞ぐ倒木を避けていくと、落ち葉に埋もれながらもが見られるようになります。 斜面を横切るように進んで尾根の背に出ると、「遊歩道」の標識が立っています。 山頂から13分ほどの所になります。 正面には曲輪跡のような平坦地がありますが、尾根のに続く道を降っていきます。
遊歩道入口
少し降り傾斜が増してくると、「遊歩道」のが立っています。 標識を過ぎていくと、に続く横木の階段を降っていきます。 落ち葉が積もっていて分り難い所もあるを曲がりながら降っていきます。 横木の上に靴を乗せると滑って転びそうになるので、注意が必要です。 更に続く階段を降っていくと、広い谷筋の端に降り立ちます。 山頂から17分ほどで降りて来られました。 出口には「此隅山登山口」と「遊歩道」のが立っています。
広い谷筋を正面へ進んでいくと、小規模ながあります。 右へ曲がって石垣の脇を降っていくと、開け放たれたがあります。 防護扉を過ぎると、集落に続くに出ます。 舗装路を道なりに真っ直ぐ進んでいくと、小さな地蔵堂があります。 地蔵堂の脇には「此隅山登山口」のがあって、今来た道を指しています。
袴狭地区
地蔵堂を過ぎていくと、すぐの所にが架かっています。 橋の手前を左折して、沿いの道を進んでいきます。 のようなものが沢山置かれてる所を過ぎていきます。 袴狭橋が近づいてくると、車を止めておいた出石川防災センターがあります。 遊歩道入口から11分ほどで到着しました。