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宮内地区
豊岡の市街地から国道312号を南下していきます。
すぐにある円山大橋を渡って国道426号を南下していきます。
小坂交差点を過ぎて、出石川に流れ込む袴狭川に架かる橋を渡っていくと、
鳥居橋東詰交差点の手前から東へ分かれていく道があります。
入口には「出石神社」の標識が出ています。
その道に入って真っ直ぐ進んでいくと、出石神社の道路向かいにがあります。
その前が広い駐車スペースになっているので、そこに車を止めさせてもらいました。
(出石神社へ向かう途中の道路脇には出石神社第二駐車場がありました)
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出石神社
宮内センターの道路向かいにがあります。
両脇に控える狛犬の先には「一宮」の扁額が掛かるがあります。
前後に側柱が立ち、注連縄が渡されていました。
その先の丹塗の神門には、「平安朝を偲ぶ」と云うがありました。
平安朝(一千年前)の昔を偲ぶ鳥居の遺物
当神社は奈良・平安時代の頃、但馬唯一の霊社として最も隆盛を極めたが、
その第一鳥居は狭間坂(出石町片間)に、第二鳥居は鳥居(出石町鳥居)に建っていたことを云い伝えていた。
たまたま昭和八年出石川改修に伴ひ鳥居橋の橋脚の工事中、地中から此の鳥居両柱の元口と、その下から多くの古銭が発見された。
これは当時の第二鳥居の遺物であり、現在の鳥居の区名が起った由来ともなっている。
平安朝の昔、但馬の国司や都の人たちが国府に着くと、次々にこの鳥居をくぐって出石神社に参向した往時を偲ぶことができる。
重之集下に、
そねのよし ただたぢまにて いづしの宮にて なのりそというものを よめといへば
千はやふる いつしの宮の 神のこま ゆめなのりそや たゝりもそする
暁の まかきにみゆる 朝顔は なのりそせまし 我にかわりて 源重之(平安朝歌人)
立春の日に神馬藻を奉献する神事が今も続いている。
神馬藻を奈乃利曽(なのりそ)と訓じ、海藻のほんだわらのことである。
但馬一宮 出石神社社務所
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神門をくぐると、正面に拝殿と本殿からなる出石神社の社殿がありました。
「但馬国一宮」と云われるだけあって立派な社でした。
拝殿から渡り廊下で続くの屋根には、5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。
拝殿の前には、首に鈴を付けて頭に角がひとつあるが控えていました。
あまり見かけない姿をしていますが、謂れなどは分かりませんでした。
境内の左側には社務所があり、社殿の右側にはが二つ並んでいました。
向かって右側には「夢見稲荷社」、左側には「比賣社」の扁額が掲げられていました。
その裏側は禁足地になっていました。
但馬国一宮 出石神社由緒
出石神社は、天日槍命が新羅の国よりお持ちになりました八種の神宝を出石八前大神として、
また天日槍命の大御霊を御祭神として斎祀しています。
天日槍命は、古事記、日本書紀ともに新羅国王の王子であり、日本に渡来されたとし、
その事績は記紀のほか古語拾遺、播磨国風土記等にうかがうことができます。
八種の神宝とは、古事記には珠二貫・振浪比礼・切波比礼・振風比礼・切風比礼・奥津鏡・辺津鏡と記しています。
天日槍命のご子孫は、田道間守命や神功皇后があります。
神社の創立年代はあきらかではありませんが、社伝の一宮縁起には、谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相謀り、天日槍命を祀ったと伝え、
諸書によりますが、およそ千三百年前にはこの地で祭祀がおこなわれていたことがうかがわれます。
但馬の国一宮として当地では別名を一宮さんと呼び親しまれています。
天日槍命は泥海であった但馬を円山川河口の瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、
現在の豊沃な但馬平野を出現され、円山川の治水に、また殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集めています。
現在の社殿は大正三年に再建され、透塀で囲まれた三間社流造の本殿、その前面には切妻造りの幣殿と祝詞殿があり、
拝殿は舞殿形式で入母屋造り平入りで蔀戸をつり、正面には拝殿の屋根と独立した平唐破風出桁の向拝は他に類のない珍しい建築です。
神門は丹塗の八脚門で、数多くの蟇股を飾り、左右に連なる塀も丹塗りです。
境内北東隅に約六百坪の禁足地があり、老樹が生い茂り、入れば祟りがあるといわれています。
御由緒
但馬は古代日本において他に類を見ない特徴的な斎祀伝承を有しております。
その中心が出石神社であります。
御祭神は新羅の国の王子天日槍命と伊豆志八前大神(八種の神宝)でございます。
命は日本に渡来後、泥水が充満する当時の但馬の有様を御覧になって、
円山川河口の岩石を切り開くことによって泥水を日本海へと流し、現在の肥沃な平野となった伝説があります。
又鉄の文化を大陸から伝えられ国土開発の祖神として、関係業界から崇敬をうけて居ります。
神社の西方七百米に鳥居という地名があります。
昭和八年河川の改修で土中から鳥居の両柱の木口とその下から開元通宝などの古銭が多く出土しました。
平安時代すでに、国内第一の霊社といわれた往時の様子を伝えるものです。
尚天日槍の子孫として多遅間守命(菓祖、中島神社御祭神)、仲哀天皇の后神功皇后がおられます。
但馬國一宮 出石神社
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出石神社を後にして、東へ進んでいきます。
お手洗いを過ぎていくと、少しずれたがあります。
正面の土塀の建物の前にはが立っていて、
右の道は「総持寺(出石町ふるさとの森)0.7km」、左の道は「白糸の滝3.5km・此隅城跡0.5km」となっています。
「ふるさとの森」というのにも興味を引かれましたが、左の道進んでいくと、入佐川に架かる橋の手前に分岐があります。
正面にはこれから向かう此隅山が聳えています。
左側には「山名氏城跡(此隅山城跡)」のが設置されていて、
往時のの図が載っていました。
傍には近畿自然歩道の標柱も立っていて、正面の道は「此隅山城跡0.8km」、右の道は「総持寺0.8km」、
左の道は「ひぼこ橋1.7km」、今来た道は「出石神社(便所あり)0.1km」となっています。
左の川沿いの道の先には宗鏡寺砦の跡があるようですが、今回は正面に架かる橋を渡っていきました。
国指定文化財 山名氏城跡(此隅山城跡)
平成8年11月13日指定
山名氏 |
山名氏は、室町時代において侍所の長官に任ぜられる最も有力な大名の一人で、明徳の乱、応仁の乱の中心勢力として関与した。
但馬は南北朝の初期以来山名氏の根拠地であり、南北朝期後半以降戦国期まで一貫して山名氏が守護の地位にあった。
この山名氏の本国但馬における本城が此隅山城である。
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現状 |
標高140mの此隅山山頂に長さ50m、幅10mの主郭を設け、これを中心に四方にのびる尾根上に削平による平坦地(くるわ)を多数設けている。
石垣などを用いない、中世の山城の様相をよく残している。
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城史 |
文中年間(1372〜74)ころ山名師義により築城されたといわれている。
山麓には宗鏡寺、願成寺、大手門、御邸などの地名が残り、かって城下町が存在していたことを伝えている。
また出石神社や総持寺にも山名に関する書状などが残っている。
しかし永禄12年(1569)と天正18年(1580)に天下統一をねらう木下秀吉らの織田軍が但馬に進攻し、此隅山城は廃城となった。
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(出石町教育委員会)
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登城口
橋を渡って、左右に広がる青々としたを眺めながら、
左右に分かれていく道を見送って真っ直ぐに進んでいきます。
登り坂になってきた道を進んでいくと、を過ぎた所の山際に、
草木に隠れ気味に「此隅山城登城口」のが立っています。
そのすぐ先に「遊歩道」のが立っていて、左のを指しています。
ここが此隅山への登り口になります。
出石神社から9分ほどで着きました。
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夏草が茂るのような所を進んでいくと、
山際に「此隅山登山口」のが立っています。
その奥には登城口にあったのと同様の「遊歩道」の標識があって、右上へ続く横木の階段を指しています。
標識には、この南方にある有子山の「遊歩道」で見かけたのと同様の甲冑姿の武士のが載っていました。
何処となく優しそうな表情をしていて、散策する人を見守っているように思えました。
ここから山登りが始まります。
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に続く横木の階段混じりの道を登っていきます。
夏草はなくなったものの、道には落ち葉が積もっていて、階段が分かり難くなっていました。
次第に雑木が目立つようになってくる尾根を登っていくと、が張られていました。
一旦途切れて再びトラロープ続くようになると、が増してきます。
見えてきたのような所に向かって尾根を登っていくと、
登城口から6分半ほどで、「遊歩道」の標識が立つ緩やかな尾根の肩に着きました。
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標識の指す右へ続くを進んでいきます。
緩やかになって安心していると、すぐに右・左と曲がりながら斜面を登るようになります。
またすぐにトラロープが張られたになってきます。
上に見えている稜線を目指して登っていくと、少し緩やかになった尾根の肩に着きました。
登城口から10分半ほどの所になります。
ここにも「遊歩道」の標識が立っていました。
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引き続きトラロープが張られたが続きます。
次第に息が切れてきて汗も噴き出してくるので、何度も立ち止まって汗を拭きながら登っていきました。
右・左と曲がりながらトラロープが張られた斜面を登っていきます。
道から少し離れた所にはがありました。
梢から僅かに見えるを眺めながら更に登っていくと、
三つめの「遊歩道」の標識が立つ所に着きました。
登城口から13分ほどの所になります。
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此隅山 (標高140m)
緩やかになったにはトラロープがまだ暫く続いていますが、もう掴る必要はなくなりました。
少し登り坂になってくると正面にが現れます。
明瞭な道はないし、どうやって登ろうかと思案していると、右側の笹竹が茂る所にトラロープが張られた細い道がありました。
その道に入って左へ曲がり、細くて滑り易いを登っていくと、
広くなった此隅山の山頂に着きました。
登城口から16分ほどで登って来られました。
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緩やかな山頂を進んでいくと「国史跡 此隅山城跡」と題した案内板があり、
が載っていました。
その先には、樹木に凭れ掛かるようにして「此隅山城主郭跡」のが立っていました。
山頂の西側が開けていて、出石の街並みや山並みなどを眺められる景色が広がっていました。
景色を眺めながら、しばらく休憩していきました。
山の名前は同定できませんでしたが、南西から北西にかけての写真を載せておきます。
には樹木が茂っていて、眺めは良くありませんでした。
国史跡 此隅山城跡
指定年月日 |
平成8年11月13日
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指定理由 |
【基準】 特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準(昭和26年文化財保護委員会告示第2号)史跡の部二(城跡)による。
【説明】 此隅山城跡は、室町幕府の四職家で最大級の大名であった山名氏が、根拠地である但馬国に築いた山城跡である。
同じく山名氏の居城であった有子山城跡とともに、我が国の中世の政治史と城郭史を示す貴重な遺跡であるので、
山名氏城跡として一括して史跡に指定し、その保存を図るものである。
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但馬山名氏 |
山名氏は新田氏の流れをくむ関東上野国の武士で、足利尊氏にしたがって室町幕府成立の騒乱で活躍。
室町幕府の四職家で最大級の大名となった山名氏は、
その一族が但馬、因幡、丹波、美作など日本全国66ヵ所中11ヵ国の守護職を兼務して「六分の一殿」と呼ばれた。
明徳の乱により一族の内紛を起こし衰退したが、嘉吉の乱で勢力を回復し、応仁の乱では宗全(持豊)が西軍の総帥となった。
但馬はこの山名氏の根拠地であり、14世紀後半に築かれたとされるこの此隅山城は、その本城として中世但馬史で重要な役割を果たした。
しかし戦国時代に入って山名氏はその勢力を失い、永禄12年(1569)に織田軍の木下秀吉の但馬侵攻により、この此隅山城は落城した。
この後ふたたび山名氏が築いた城がこの山の南2.5kmにある有子山城で、天正2年(1574)のことという。
しかし天正8年(1580)再度織田軍の羽柴秀長の但馬侵攻によって有子山城は落城、城主は因幡に出奔した。
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城郭遺構 |
現在残る城跡は標高140mの此隅山の山頂に主郭を設け、これを中心に四方にのびる尾根上に多数の曲輪が残っており、
石垣などを用いない中世の初期の山城の様相をよく残している。
他のたっじまの城でも、尾根という尾根にこれだけたくさんの曲輪を造っている例はあまりない。
山麓に宗鏡寺、大手門、御邸などの地名が残り、かつて城下町が存在していたことを伝えている。
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切岸
眺めを堪能したら此隅山から下山していきます。
登ってきた道を引き返せば駐車場所へは近いのですが、北側の道にも興味があったので、そちらへ降りることにしました。
振り返っての様子を確認してから、北西に延びる尾根に向かっていくと、
落差5mほどのが現れます。
樹木越しに僅かにを眺めながら慎重に降っていくと、
緩やかになった所には「城郭遺構 切岸」の(*)が立っていました。
降ってきた急坂は「切岸」というようでした。
*解説板の傍から右側へ遊歩道が分かれていきます。
(「 此隅山」を参照)
城郭遺構 切岸(きりぎし)
斜面を垂直近く削り落として、敵が登るのを防ぐ壁状の崖を造りだしたもの。
いわば城壁である。
切岸の下の堀切とセットにすれば、大変責めにくくする防御設備である。
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緩やかになった尾根を30mほど進んでいくと、少し広くなった所にが立っていて、
正面の道は「いずし古代学習館」、今降ってきた道は「主郭」、今歩いている道は「見学路」となっていました。
隣には「解説6」と書かれた金属製の箱があったので、
パンフレットでも入っているのかと思って蓋を開けて確認してみましたが、中には何も入っていませんでした。
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左にを眺めながら緩やかで広い道を進んでいくと、
すぐにトラロープが張られたが現れます。
大きな岩が頭を出す急な尾根を1分半ほど降っていくと尾根の背に出ます。
すぐに尾根の左肩を降るようになると、またトラロープが張られたになります。
尾根の背に出て30秒ほど進んでいくと、先ほどと同様の内容のが立っていて、
左前方の道は「いずし古代学習館」、今降ってきた道は「主郭」、今歩いている道は「見学路」となっていました。
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土塁跡
尾根の左肩を2分ほど降っていくと、分岐のある緩やかな尾根に出ました。
山頂から9分ほど降った所になります。
中ほどにはが立っていて、右の道は「いずし古代学習館」、正面の道は「説明板(約100m)」、
今来た道は「主郭(約150m)」となっています。
降り道は右の道になりますが、「説明板」というのが気になったので、そこまで往復してくることにしました。
正面に続く尾根を歩き始めてすぐの所に「土塁跡」のが立っていて、
その先には「城郭遺構 土塁」のがありました。
脇には「解説4」の金属製の箱もありましたが、先ほどと同様に中には何も入っていませんでした。
城郭遺構 土塁(どるい)
敵の侵入を防ぐため、曲輪の周囲に作られた土盛。
土塁の上部には木の柵列や、土塀を築いた可能性もある。
攻撃側からの防御区域内への視界を遮る効果があり、戦術上有効な設備である。
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解説板を過ぎていくとが立っていて、正面の道は「説明版」、今来た道は「主郭」、
今歩いている道は「見学路」となっていました。
正面の樹間から僅かにを眺めながら、
トラロープが張られたを降っていきます。
浅い鞍部に着いて登り返していきます。
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説明板
僅かなを越えて軽く降っていくと、
「「御屋敷」跡と「宗鏡寺砦」をのぞむ」と題したがありました。
土塁跡から3分ほどの所になります。
左側が開けていて、出石の街並みやを眺めることが出来ました。
説明板には「此隅山城に集結する但馬山名軍」のが載っていました。
斑な木陰のために醜い写真になりましたが一応載せておきます。
傍には「解説5」の金属製の箱がありますが、ここでも何も入っていませんでした。
「御屋敷」跡と「宗鏡寺砦」をのぞむ
室町時代、攻めてくる敵からお屋敷と城をどのように守ったのでしょうか。
城下の町並みは、みんなの衣装は、人数は、戦闘設備はなど想像してみてください。
此隅山城は、戦時に立て籠もる山城と平時の生活の場である「御屋敷」がセットになっている城跡である。
「御屋敷」は、16世紀以降但馬守護山名氏の「守護所」が置かれた所で生活の拠点(居館)であると共に、
政治を行う場所(政庁)でもあった。
守護は「御屋敷様」ともいわれた。
この場所から前方(南側)をみると、「御屋敷」を取り囲むように、「千畳敷」と「宗鏡寺砦」のある2つの尾根が突き出している。
敵が侵入した場合、この曲輪群(現在地)と「千畳敷」・「宗鏡寺砦」の3方向から攻撃を仕掛け、「御屋敷」を防御する縄張りである。
此隅山城の城下の一部は、「宮内堀脇遺跡」(「御屋敷」の西側下の水田面)として平成7〜9年にかけて発掘調査された。
幅約6mの2条の堀と土塁で区画された遺構からは、礎石建物・掘立柱建物・根太を使用した建物、屋敷の区画・通路などの遺構が出土し、
陶磁器などの遺物によって5世紀後半から16世紀後半の武家屋敷群であることが判明した。
中でも、焼土層から「永禄壱弐年八月廿四日、乃木出羽守」と記された木簡が出土、
永禄12年(1569)8月木下藤吉郎(後の秀吉)らが此隅山城を落城させた史実を裏付けている。
また、人名を墨書した多量の土師器皿や中国製の陶磁器の他に、
冑の破片(鍬形台)・鉄砲玉・小柄な金属製品・位牌(天文廿三年「道祐禅門霊位」)、折敷、将棋の駒など木製品も出土している。
字限図(小字図)では、「宮内堀脇遺跡」の南側に字「市場」「深市場」「シイ(四日)市場」があり、ここが町屋の可能性がある。
しかし、市場から離れた出石川の自然堤防上に字「舟戸」や「数珠屋」などの地名があり、町屋は散在していたものと思われる。
また、城下には、「宗鏡寺」、「太平寺」、「願成寺」、「宝高寺」、「清生寺」などの寺院が配置されていたようである。
(豊岡市教育委員会 平成20年3月)
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堀切
往復8分ほどでまで引き返してきて、標識「いずし古代学習館」が示す道を進んでいきます。
尾根の斜面に続くを進んでいくと、僅かな高みがあります。
手前の鞍部にはが立っていて、前方の道は「いずし古代学習館」、今降ってきた道は「主郭」、
今歩いている道は「見学路」となっていました。
高みの上には「城郭遺構 堀切」のが立っていました。
傍には「解説3」の金属製の箱がありましたが、ここでも何も入っていませんでした。
高みを越えて、その先に続くトラロープが張られたを降っていきます。
城郭遺構 堀切(ほりきり)
主に外敵の侵入防止のために、尾根を分断するように開削された溝。
斜面を竪方向に造られた堀を堅堀(たてぼり)と呼び、横に並べた堅堀を畝状堅堀と呼ぶ。
堀切の両サイドに堅堀をする例も多く、此隅山城跡にも見られる。
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曲輪
急坂は1分ほどで終わって、丸い尾根の背を緩やかに降っていきます。
土塁跡から4分ほど降った所に「城郭遺構 曲輪」のが立っていました。
傍には「解説2」の金属製の箱がありましたが、ここでも何も入っていませんでした。
解説板を過ぎてトラロープが張られたを降っていくとが立っていて、
左前方へ降っていく道は「いずし古代学習館」、今来た道は「主郭(約300m)」、今歩いている道は「見学路」となっています。
城郭遺構 曲輪(くるわ)
郭(くるわ)とも書く。
防御陣地・建物を建てる敷地として、土地を削平したり盛土をするなどした平地。
山城には小規模なものが多くみられるが、それぞれが防御の役割を持った城の重要施設である。
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トラロープがなくなった尾根を降っていきます。
やがて竹林になってくると、「古墳状の地形」のが立っていました。
正面になどを眺めながら尾根を降っていきます。
樹間から建物が見えてくるとが立っていて、
正面の道は「いずし古代学習館」、今降って来た道は「主郭(約500m)」、今歩いている道は「見学路」となっています。
古墳状の地形
尾根沿いに円墳と考えられる地形が連続している。
この地方に多くみられる小規模な墓。
試掘の結果、古墳に伴う小型の甕の破片を確認している。
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見学路入口
標識を過ぎていくと、下の方に出口が見えてきます。
そのまま斜面を真っ直ぐ降っていくと出口に降りられますが、道は右へ曲がっていきます。
左へ曲がる角まで来るとが立っていましたが、壊れていました。
横木の階段を降って左へ続く緩やかな道を進んでいきます。
右側に広がるを眺めながら短い階段を降っていくと、
左右に続くの前に降り立ちました。
土塁跡から13分ほどで降りて来られました。
正面には建物がありますが、柵沿いに左へ進んでいくと「山名氏と此隅山城跡」と題した案内板が立っていて、
「」が載っていました。
その縄張り図によると、今回降ってきた「見学路」の東側にも遊歩道があるようですが、今回は降り口に気が付きませんでした。
傍には「解説1」の金属製の箱がありました。
どうせ何もないのだろうと思いながらも蓋を開けてみると、中にはトラロープが入っていました。
案内板のすぐ先にある扉を開けて外に出ると、傍には「史跡 此隅山城跡」と刻まれた石柱や
「此隅山城跡 見学路入口」のが立っていました。
山名氏と此隅山城跡
此隅山城は但馬守護山名氏の居城で、伝承では文中年間(1372〜75)山名時義が築城したと言われていますが定かではありません。
しかし、戦国期の到豊・試豊・祐豊三代の居城であったことは確かである。
文献的初見は、永正元年(1504)夏のことで、守護山名到豊と垣屋続成(日高町・楽々前城主)との抗争が再燃し、
続成が到豊・田結庄豊朝の立て籠もる此隅山城を攻めている。
このとき出石神社にも軍勢が乱入し、社壇・堂舎・経巻・末社諸神が焼失している。
永禄12年(1569)8月には、織田信長の命を受けた木下藤吉郎(後の秀吉)らによって、此隅山城など但馬の18の城が落城させられている。
その後、山名祐豊は天正2年(1574)頃、此隅山城に代わる新城として有子山に有子山城を築城した。
此隅山城は守護大名の城らしく、城域は但馬最大規模で南北約750m・東西1200mあると考えられ、
山裾の「御屋敷(守護所)」を両翼から山城がつつみこむような陣形である。
城は主郭を中心に、そこから派生するすべての尾根に階段状に曲輪が構築されている。
縄張りは大別して、低い段差を持つ小曲輪や浅い堀切などが構築されている古い部分と、
高い断裁をもつ広い曲輪、深い堀切、折れをもつ土塁や堅堀などが構築されている新しい部分に分かれると考えられる。
前者は、南北朝期から室町期にかけて造られたものと考えられ、後者は主郭周辺・堅堀・折れを持つ土塁・千畳敷・宗鏡寺砦などで、
戦国期末期の有子山城築城期に改修されたものと考えらえる。
此隅山城は、守護大名山名氏の居城というだけでなく、南北朝期から戦国期の城郭遺構を良好に残している遺跡として、
平成8年11月13日国指定文化財の史跡に指定された。
(平成20年3月 豊岡市教育委員会)
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出石川防災センター
正面にある建物の間を進んでいきます。
には「小野地区公民館」と「小野地区防災拠点交流施設」の標識が掲げられていました。
は「出石川防災センター」で、「小野地区公民館」と「いずし古代学習館」の貼り紙も出ていました。
出石川防災センターへ入っていくと、左側には、「水害の歴史」、「水害を防ぐ」、「円山川の生き物」と題した展示がありました。
正面は「いずし古代学習館」の展示コーナーになっていて、
「出石の神話」として、「天日槍の神話」・「出石乙女の神話」・「田道間守の常世行き」が紹介されていました。
また、「古代のくらし」・「古墳の登場」・「古代の役所」・「古代の祈り」・「古代の楽器」などに加えて、
往時の準構造船のや、
「中世の山城」として今回登った此隅山城も紹介されていました。
出石川防災センター
この防災センターは、みなさんの姓名・財産を守る防災基地です。
大雨や地震が起こったとき、家屋に被害を受けた人や被害を受けそうな人の避難場所に使用します。
また、洪水が発生したときには、この防災センターで出石川や円山川などの増水状況、雨量レーダー画像を確認することができ、
水防活動を行う場所に使用します。
日頃は地域のみなさんに開放し、水防や円山川の自然環境、また郷土の生んだ偉人などを学習することを目的に、
みんなのふれあいの場として活用します。
災害時には避難スペースを確保するため、防災センター内に配置しているイス、テーブル等は移動します。
水防活動に必要な資材も確保しています。
山名の城 此隅山城
此隅山城は山名氏の本城として、第4代但馬守護山名時義の時代に築城されたといわれています。
標高140mの此隅山頂上に南北42m東西15mの主郭を設け、
これを中心に、四方の尾根に多数のくるわ(平坦地)を設けています。
全ての尾根にくるわがあるのが他に見られない特徴です。
自然の山の地形を守りに利用し、石垣はありません。
【山城】
戦国時代の山城は、岩の多い険しい山や、寺・神社があって人々が信仰を寄せる山を選んで築かれました。
攻める方は気持ちの上でも攻撃しにくくなります。
城主は普段はふもとのやかた等に住み、敵が来ると山城に移りました。
【平山城】
中世後期になると、より広い範囲を支配するため、交通が便利な場所を選んで山城と館を一カ所につくる「平山城」がつくられました。
城は守りのため小高い所に建てられましたが、周りには家臣が住み、経済的な中心でもありました。
天守閣はこのころからつくられる様になります。
【平城】
近世の城は、山や丘のない平地に築城されるようになります。
軍事的、政治的な中心地であり、立派な姿は城主の権力の象徴という意味もありました。
城下は家臣のほかに町人が住み、経済や文化の中心地として栄えました。
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出石川防災センターを後にして、最初の宮内センターへ向かっていきます。
左側には袴狭橋が架かっていますが、袴狭川沿いに続く道を右へ進んでいきます。
「かかし倶楽部」のを過ぎていくと谷外橋が架かる十字路がありますが、
そのまま直進していきます。
十字路の右の道へ入った先に 小祠があって、
その傍に「 此隅山登山口」のが立っていました。
先ほどの「縄張り図」に載っていた東側の道だろうと思って、ちょいと探ってみました。
民家などが点在する道を真っ直ぐ進んで山際まで行くと、正面にがありました。
左側の草地の先はになっていましたが、金網柵が続いていて入っていけませんでした。
正面の扉を開けていくと(*)になっていて、そこで道が分からなくなりました。
草に隠れた所に標識類があったのかも知れませんが、深追いするのは止めて引き返してきました。
(所要時間には含めず)
*後日に歩いたところ、草地の左側に遊歩道の入り口がありました。
(「 此隅山」を参照)
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豊受神社
谷外橋を見送った先で川がに分かれていますが、右側の川沿いに続く道を進んでいくと、
左右に通るに出る所の左角に豊受神社がありました。
角には立派なもありました。
左側に架かるを渡っていくと、鳥居の脇に「豊受大神宮」と刻まれた大きな石柱が立っていました。
鳥居の先へ続く参道を進んでいくと、本殿と拝殿からなる社殿がありました。
本殿の屋根には7本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。
神社の由緒などを記したものは見かけませんでした。
境内にはブランコなどがあって、子供の遊び場にもなっているようでした。
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豊受神社を後にして、角にある十字路を南下していきます。
矢坂川沿いに進んでいくと、左へ曲がる角にが架かっています。
橋を渡って左折すると、すぐの所にがあります。
脇には「白糸の滝」の標識が立っていて、今来た道を指していました。
そこを右折して、1.5車線道路を進んでいきます。
左右に竹林が広がるようになると、登り坂になった道端にがありました。
中には赤い布を纏ったお地蔵さんが安置されていました。
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登城口
綺麗な百日紅の花の咲くを左手に遠望しながら坂道を登っていきます。
僅かに曲がりながら坂道を登っていくと、程なくして降り坂になってきます。
正面に山や集落が見えてきた坂を降っていくと、最初のに戻ってきました。
ここからは元来た道を引き返していきます。
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宮内地区
左右に広がるを眺めながら道路を真っ直ぐに進んでいきます。
に架かる橋を渡って左へ曲がり、
すぐの所のを右へ入っていきます。
ブランコなどが設置されたを左に見ながら大木が茂る道を進んでいきます。
の建物を過ぎていくと、出石神社の前にある宮内センターに戻ってきました。
出石川防災センターから30分ほどで着きました。
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