行者が岩
この上にある台地を「行者が岩」といい、右に立岩と同じ面積の台地である。
その名の通り、行者がこの大岩に魅せられ、ここで「行」をおこなったことに由来する。
現在、大地までの通路は、石や土の落下で痩せ細り大変危険であり、絶対にいけない台地となっている。
かつては、行者が日本海の海を眺め、「行」をおこない、想いを会得した。
「凪の日」「大時化の日」「吹雪の日」を経て、人生を得度したと伝えられている。
日本海に面し、右の立岩とならび我々、後生の人間に敬虔な気持ちを抱かせる大岩である。
平成30年7月吉日
東族代表者 東理代吉
東族代表者 東昭生
間人水無月神社講中
一、商売繁盛(日本海・竹野川の水運を司ってきました)
一、安産の神様(女性の神様として信仰されています)
一、家内安全学問の神様(応神天皇のころから学問の神様です)
立岩
合併前の福知山や大江町あたりを奥丹波と言う。
その奥丹波から丹後そして舞鶴を含めてのかなり広い範囲に麻呂子親王鬼退治伝説が伝わっている。
間人の東隣、丹後町字宮の竹野神社にまつわる「紙本著色斎宮大明神縁起」などが伝える伝説である。
この縁起は昭和56年に発見され、現在京都国立博物館に寄託されている。
竹野神社の祭神は天照大神、通称斎宮という。
間人の川すそ祭の謂
間人と書きて、タイザと読む。
不思議のいわれを調べ、我が東氏の由来を探求しここに明文にする。
水無月神社は内外の浜なる後ヶ浜川尻に鎮座す。
東氏の祭神たる水無月神社は、東氏の遠き祖先より毎年7月28日(旧暦6月28日)に竹野川の川尻松林に同族相集い夜を徹して神前に篭もり、
立岩巌頭に御幣を捧げ、かがり火をこうこうとたき盛大にして賑々しく、斎宮神社の桜井宮司の祭司にて祭神せるものなり。
竹野川の川尻松林に大太鼓を叩く響きはしょうらい(松風の音)と共に木霊し、善男善女の参拝は引きもきらず、
また妊産婦の参拝は持に多し、露店は軒を並べ客を呼ぶ声も高く夜の更けるを忘るる程なりしが、
敗戦後は神を軽ろんずる風潮を生み我が水無月祭も疎となりたり。
されど東氏の遠き祖先より祭事せるものを廃断するは誠に遺憾にして、祖先に対し相済まぬ儀と心得、
またこの伝統ある祭事を子孫に伝える義務ありと思料し(中略)、神社を行者岩の境内地に昭和51年11月6日遷宮せるものなり。
間人に於いて各種氏姓あれど一つの氏のみが一つの祭神をし、年に一度同族が相集う行事は吾ら東氏のみにして他姓にはなし。
東氏のみが何故何時の頃からかかる行事を行いしにや不明なれど、古き昔より口伝を以て相伝え今日に至れるものなり。
水無月神社は東氏のみにて祭事せるも、その講中に只一人異姓のものあり。
泊氏なり。
何故泊氏が東氏講中に加わりしにや不明なれど、往古より共に祭事す。
・・・我が間人は第31代用明天皇の御后穴穂部間人皇后を通じ大和の国斑鳩の宮とのゆかりあり。
東氏の祖を明らかにする為古事記、日本書紀またその他の文献により左に明文する。
10世紀の和妙抄には間人、大日本地名辞典には「間人は愛人のこと」、土師人の意かとも言い、
15世紀の一色軍記には対座とあり、丹後旧事記には田伊佐津とある。
現在の定説は間人村濫觴記なり。
(前掲)東氏の鼻祖は東漢直駒の後胤にして、千余その血脈は二流三流に別れ連綿として繁茂せり。
また木目見宿祢は相見となり、蒲田麿の子孫は蒲田を氏となし、小坂部民谷の子孫は谷、上谷、下谷、小谷と称し、
下戸部は下戸に、穂見中江麿は中江に、中臣スグリは中村となる。
その外記するに枚をもて挙げるべからず。
千余連綿として子孫の繁茂黄するはみな鼻祖の余訳なるべし。
水無月神社の祭りを司っている。
間人のちりめん製造業 株式会社川助織物社長東史郎氏