立岩周辺
概 要 京丹後市丹後町の間人地区にある陸繋島になった立岩の周辺を歩きます。 西側にある行者が岩から東側にある大成古墳にかけてを巡ります。 途中には展望台や間人皇后聖徳太子母子像などがあります。
起 点 京丹後市丹後町 間人地区
終 点 京丹後市丹後町 間人地区
間人地区…行者が岩…後ヶ浜海水浴場…展望台…間人皇后聖徳太子母子像…立岩…てんきてんき橋…大成古墳…展望地…道の駅てんきてんき丹後…間人地区
所要時間 1時間10分
歩いて... 行者が岩からてんきてんき橋までには広いコンクリート道が続いていますが、 砂が覆ったり漂着物が散乱していて歩き難くなっていました。 てんきてんき橋から大成古墳までの間に道はなく、砂浜を歩いていきます。 大成古墳から立岩を眺めていると、頂部がなだらかになっていることに気付くという新たな発見もありました。
関連メモ 立岩周辺
コース紹介
間人地区
京丹後市の網野町から丹後町へ向かって国道178号を北上していきます。 新間人トンネルを抜けて十字路を直進し、T字路になったを左折していくと、 京丹後市丹後庁舎を過ぎた所に上下二段になった駐車場があるので、ここに車を止めさせて頂きました。
脇には「立岩」と題した解説板があって、東側に続く砂浜の先には、 今回訪ねるが見えます。 西側の一段低い駐車場の先にもが続いています。
立岩
竹野川河口から竹野港付近の海岸では、柱状の割れ目をもつ巨大な黒い岩石が多く見られます。 特に「立岩」は、周囲1qにも及び、その巨大さからも地域のシンボルとして親しまれています。 「立岩」に見られる柱状の割れ目は「柱状節理」と呼ばれ、地層中に貫入したマグマが冷えて固まる際にできたものです。 竹野港の南西には「大成古墳」があり、その石室には立岩と同じ岩石が使われています。 当時の人々が、柱状節理によって適度な大きさとなるこの岩石を石材としてうまく利用してきたことがうかがえます。
京丹後市観光協会
行者が岩
駐車場の海側には陸繋島のような行者が岩があります。 手前には間人水無月神社があって、「間人の川すそ祭の謂」や「行者が岩」の解説板もあります。 解説板によると、行者が岩はかつて行者が「行」を行って得度した岩で、間人水無月神社はこの地方の東氏が祀る神社とのことです。 岩の上に登れそうな様子もありますが、鎖で閉ざされていて登るのは禁止のようでした。
行者が岩
この上にある台地を「行者が岩」といい、右に立岩と同じ面積の台地である。 その名の通り、行者がこの大岩に魅せられ、ここで「行」をおこなったことに由来する。 現在、大地までの通路は、石や土の落下で痩せ細り大変危険であり、絶対にいけない台地となっている。 かつては、行者が日本海の海を眺め、「行」をおこない、想いを会得した。 「凪の日」「大時化の日」「吹雪の日」を経て、人生を得度したと伝えられている。 日本海に面し、右の立岩とならび我々、後生の人間に敬虔な気持ちを抱かせる大岩である。
平成30年7月吉日
東族代表者 東理代吉
東族代表者 東昭生
間人水無月神社講中
一、商売繁盛(日本海・竹野川の水運を司ってきました)
一、安産の神様(女性の神様として信仰されています)
一、家内安全学問の神様(応神天皇のころから学問の神様です)
立岩
合併前の福知山や大江町あたりを奥丹波と言う。 その奥丹波から丹後そして舞鶴を含めてのかなり広い範囲に麻呂子親王鬼退治伝説が伝わっている。 間人の東隣、丹後町字宮の竹野神社にまつわる「紙本著色斎宮大明神縁起」などが伝える伝説である。 この縁起は昭和56年に発見され、現在京都国立博物館に寄託されている。 竹野神社の祭神は天照大神、通称斎宮という。
間人の川すそ祭の謂
間人と書きて、タイザと読む。
不思議のいわれを調べ、我が東氏の由来を探求しここに明文にする。 水無月神社は内外の浜なる後ヶ浜川尻に鎮座す。 東氏の祭神たる水無月神社は、東氏の遠き祖先より毎年7月28日(旧暦6月28日)に竹野川の川尻松林に同族相集い夜を徹して神前に篭もり、 立岩巌頭に御幣を捧げ、かがり火をこうこうとたき盛大にして賑々しく、斎宮神社の桜井宮司の祭司にて祭神せるものなり。 竹野川の川尻松林に大太鼓を叩く響きはしょうらい(松風の音)と共に木霊し、善男善女の参拝は引きもきらず、 また妊産婦の参拝は持に多し、露店は軒を並べ客を呼ぶ声も高く夜の更けるを忘るる程なりしが、 敗戦後は神を軽ろんずる風潮を生み我が水無月祭も疎となりたり。 されど東氏の遠き祖先より祭事せるものを廃断するは誠に遺憾にして、祖先に対し相済まぬ儀と心得、 またこの伝統ある祭事を子孫に伝える義務ありと思料し(中略)、神社を行者岩の境内地に昭和51年11月6日遷宮せるものなり。 間人に於いて各種氏姓あれど一つの氏のみが一つの祭神をし、年に一度同族が相集う行事は吾ら東氏のみにして他姓にはなし。 東氏のみが何故何時の頃からかかる行事を行いしにや不明なれど、古き昔より口伝を以て相伝え今日に至れるものなり。 水無月神社は東氏のみにて祭事せるも、その講中に只一人異姓のものあり。 泊氏なり。 何故泊氏が東氏講中に加わりしにや不明なれど、往古より共に祭事す。 ・・・我が間人は第31代用明天皇の御后穴穂部間人皇后を通じ大和の国斑鳩の宮とのゆかりあり。 東氏の祖を明らかにする為古事記、日本書紀またその他の文献により左に明文する。
10世紀の和妙抄には間人、大日本地名辞典には「間人は愛人のこと」、土師人の意かとも言い、 15世紀の一色軍記には対座とあり、丹後旧事記には田伊佐津とある。 現在の定説は間人村濫觴記なり。 (前掲)東氏の鼻祖は東漢直駒の後胤にして、千余その血脈は二流三流に別れ連綿として繁茂せり。 また木目見宿祢は相見となり、蒲田麿の子孫は蒲田を氏となし、小坂部民谷の子孫は谷、上谷、下谷、小谷と称し、 下戸部は下戸に、穂見中江麿は中江に、中臣スグリは中村となる。 その外記するに枚をもて挙げるべからず。 千余連綿として子孫の繁茂黄するはみな鼻祖の余訳なるべし。 水無月神社の祭りを司っている。
間人のちりめん製造業 株式会社川助織物社長東史郎氏
車道を引き返し始めると、路肩が広がったのような所に「丹後天橋立大江山国定公園 立岩・後ヶ浜海水浴場」の看板が立っています。 その先には「立岩のいわれ」と題したがあります。 解説板の先から左へ続くを降っていきます。 途中には「」があります。 砂浜に降りると、休憩舎やトイレなどの建物が並んでいます。
立岩のいわれ
竹野川の河口付近にあるこの大きな岩は、柱状に伸びた岩肌が見事にそそり立っているところから「立岩」と呼ばれ、 地域のシンボルとして親しまれています。 麻呂子親王鬼退治伝説によれば、第31代用明天皇の皇子、麻呂子親王がこの地で悪事を働く鬼を退治したとき、 この大岩に鬼たちを封じこめたとい伝えられています。 岩の中からは今でも鬼の号泣する声が聞こえているといわれ、江戸時代までは鬼祭りが行われていました。 また、時代劇の撮影地としても評価が高く、映画「最後の忠臣蔵(2010年)」、「利久にたずねよ(2013年)」などの撮影が行われています。
お問い合わせ:京丹後市観光協会
設置:京丹後市
間人皇后ゆかりの碑
第31代用明天皇の御后であり聖徳太子の母君であらせられた穴穂部間人皇后は6世紀のおわりころ大和における蘇我物部の争乱をここ皇后の御領であった大浜の里に避けられた。 やがて乱おさまり再び斑鳩の宮へ還幸される時名残りを惜しむ里人へ次の御歌をたまわったと伝えられている。
大浜の 里にむかしを とどめてし 間人村と 世々につたへん
後ヶ浜海水浴場
右に見えるへ向かっていきます。 後ヶ浜海水浴場になっている砂浜には背の低いが続いています。 砂防堤の陸側には幅2mほどのが続いていますが、 砂をかぶったり漂着物が散乱していたりして歩き難くなっていました。 右上に展望台が見えてくるので、立ち寄っていきます。
展望台
砂の上を少し登っていくと展望台に着きます。 傍には「立岩」と「間人皇后・聖徳太子母子像」の解説板があります。 後ろ側に設置されたを登っていきます。 ベンチがひとつ置かれたに出ると、後ヶ浜を見渡せる眺めが広がります。 西側には先ほどのが、東側にはが見えます。
立岩は高さ約20mであり、京丹後市でもシンボルになっている安山岩の巨岩です。 垂直に延びた柱状節理が美しいことで有名です。 鬼退治伝説に関わる伝承も残されており、古くから人々に親しまれてきました。 竹野川が運んできた砂が砂州となり、離れ島になっていた立岩とつながっています。
近畿自然歩道
聖徳太子の母・間人(はしうど)皇后は政権の争乱を避け、間人(たいざ)に身を寄せたと伝えられています。 この地を去る際、自らの名「間人」(はしうど)をこの地に贈りました。 村人たちは恐れ多いことから、皇后の退座にちなんで読み方を「たいざ」にしたとされています。
近畿自然歩道
カツオノエボシに注意!!
平成30年8月10日、京丹後市内の海岸で発見されたクラゲについて、京都府農林水産技術センター海岸センターに問い合わせたところ、 「カツオノエボシ」であることが確認されました。 カツオノエボシは触手に強い毒を持つクダクラゲの一種で、刺されると強烈な痛みが走り、痛みや炎症が長時間続きます。 また、二度目に刺されるとアナフィラキシーを起こし、ショック死することもあるとのことです。 浜辺に打ち上げられていても、触れると、刺激に反応して、「刺胞」と呼ばれる毒針が発射され、それによる被害が多いそうです。 (以下略)
海水浴場
間人皇后聖徳太子母子像
眺めを確認したら展望台から降りて、 砂防堤の陸側に続く砂に埋もれたを進んできます。 すぐの所のが途切れていて、砂浜に出られるようになっています。 ちょいと海辺まで出てみると、波が打ち寄せる海岸線が広がっています。
砂浜から戻ってその先へ進んでいくと、右側の丸いドーム状の基礎の上に間人皇后聖徳太子母子像があります。 この時には逆光で、表情などを上手く写せませんでした。 立岩にではなくて海に向かって立っていますが、 海路で大和へ戻っていったのでしょうか。 東側には大成古墳があるが見えます。
立岩
すぐそこに見えている立岩へ向かってを歩いていきます。 コンクリート道に出て右へ曲がり始める所に、砂州へ降りていくがあります。 砂州を真っすぐ進んでいくと、立岩まで歩いて行けます。 駐車場から19分ほどで着きました。 柱状節理が目立つ岩壁の中ほどには、子供を抱いた像が安置されたがあります。 西側の砂浜の先にはが、 東側の竹野川の河口の先にはがある岬が見えます。
竹野川の両側の砂州が立岩へ延びています。 地形図にあるように東側の砂州が立岩に届いている時期もあったようですが、 この時にはその逆になっていて、西側の砂州が立岩に届いています。
てんきてんき橋
を引き返していきます。 石段を登ってコンクリート道に出ると、すぐの所に「立岩」と題したがあります。 解説板の先の車止めを過ぎると、左側の竹野川にが架かっています。 コンクリート橋ですが、上面は板張りで欄干も木製になっていて風情があります。 間人後ヶ浜交差点の傍に架かる廣瀬橋の際からここまで車で来られて、小さなやトイレがあります。 河口側にを眺めながら橋を渡っていきます。
竹野川河口から竹野港付近の海岸では、柱状の割れ目をもつ巨大な黒い岩石が多く見られます。 特に「立岩」は、協議会その巨大さからも地域のシンボルとして親しまれています。 「立岩」に見られる柱状の割れ目は「柱状節理」と呼ばれ、地層中に入り込んだマグマが冷えて固まる際にできたものです。 竹野港の南西には「大成古墳群」があり、その石室には立岩と同じ岩石が使われています。 当時の人々が、柱状節理によって適度な大きさとなるこの岩石を石材としてうまく利用してきたことがうかがえます。 地元の伝承によると、第31代用明天皇の第3皇子、麻呂子親王がこの地で悪事を働く鬼を退治したとき、 この大岩に鬼を封じこめたと伝えられています。 岩の中からは今でも鬼の号泣する声が聞こえるといわれています。
京丹後市商工観光部観光振興課、山陰海岸ジオパーク推進
橋を渡り終えると、右側にあるてんきてんき丹後オートキャンプ場方面へも降りられますが、 左側に見えるへ降っていきます。 橋を降りて背丈の低い蔓性植物などが茂る所を進んでいくとに出ます。 左側にはが見えます。 大成古墳がある岬へ向かって、足を取られて歩き難い砂浜を進んでいきます。 この砂浜は海水浴場になっていないのか、後ヶ浜のような砂防堤やコンクリート道は設置されていません。
が見事な岬を眺めながら進んでいきます。 岬の手前まで来るとが現れます。 すぐにになる手摺りが設置された道を曲がりながら登っていきます。 振り返ると、陸繋島になっているが良く見えます。 階段を登り切ると、大成古墳がある岬の上に出ます。 立岩から17分ほどの所になります。
大成古墳
左側にあるを過ぎていきます。 左右に続く広い地道に出ると標識が立っていて、 右へ続く道は「竹野0.5km」、今来た道は「てんきてんき橋0.5km」となっています。 右側にはがあります。 正面にはがあります。 振り返ると、立岩へ続くが良く見えます。 を眺めていると、頂部がなだらかになっていることに気付きました。 行者が岩で見かけた解説板によると、この岩の上で神事が行われるとのことです。
展望地
左側にある柵で囲まれた展望地に立ち寄っていきます。 左側にあるは、手前の岬に隠れて僅かしか見えません。 正面には入江になったを見下ろせます。 右側にはがあり、その先には犬ヶ岬が見えます。 竹野海水浴場になっている砂浜の先にはも見えます。
国道178号を東へ進んでいくと屏風岩を眺められる所があります。 (「立岩周辺」を参照)
屏風岩
丹後町筆石地区では、段丘崖下の海面上から崖とほぼ同じ高さまで突き出した板状の岩が見えます。 この板状の岩は、屏風を立てたような形から「屏風岩」と呼ばれています。 この「屏風岩」は、1500万年ほど前に堆積した火山灰などの地層中に貫入したマグマが固まったものです。 貫入した岩石は周囲の岩石より硬いため、削り残され、現在のような姿となりました。 この「屏風岩」から北西−南東方向に小島が直線上に並んでいます。 これらはマグマが、板状に貫入したことを示しています。
京丹後市観光協会
屏風岩展望台
海面から突然屏風のようにそびえる屏風岩は、柔らかい凝灰岩の地層中にマグマが入り込み、 固結した安山岩が、その後、周りの地層が浸食により削り取られ、硬い安山岩の岩脈が取り残されて現在の姿となりました。 屏風岩の沖合いにも数個の島がありますが、これらは全て一直線上に並んでいます。
出典:山陰海岸ジオパークのホームページより抜粋
標識が立つ所まで引き返してくると、正面にが続いています。 左側にはがあります。 池の右側から東側へ降りていく小径(*)があって、「竹野集落100m」の標識が立っています。 正面の道を少し登って車止めを過ぎると、緩やかな道になります。 地形図に二重線で描かれている道の終点になります。 左右には小広い空き地があって、大成古墳を訪ねる際の駐車場として利用できそうです。 脇にはが立っていて、 この先の道は「竹野0.4km」、今来た道は「大成古墳群0.1km」となっています。 以前に来た時には手前の池の傍にあった「大成古墳群と立岩」と題したは、ここに移設されていました。 解説板には「」が載っています。
*東側へ降りていく小径は「立岩周辺」を参照。
大成古墳群と立岩
この古墳群は、古墳時代後期(6世紀末〜7世紀初め)の古墳で、古墳からは多くの遺物が出土しています。 この古墳群をつくっている岩石は、左方向に見える立岩など周辺にある火山岩で、その柱状節理をうまく利用しています。 立岩の頂上、この大成古墳群のある場所、さらに東方に分布する、海から十数メートルの高さの平坦部は、 かつて海面だったところが、隆起して高くなったもの(海岸段丘)です。 ここからはいくつかの古墳が見つかり、古代からの人々の営みが確認されています。
京丹後市商工観光部観光振興課、山陰海岸ジオパーク推進協議会
大成古墳
大成古墳は古墳時代後期(6世紀末から7世紀初頭)の横穴式石室を持つ古墳群で、合計11基の古墳が確認されています。 石室に使われている石材は、周囲の柱状節理の発達した安山岩が使用されています。
出典:山陰海岸ジオパークのホームページより抜粋
を越えて、車も通れる舗装路を軽く降っていきます。 のような建物を過ぎて、坂道を降っていきます。 右へ曲がりながら降っていくとが見えてきます。 緩やかになって左へ曲がると国道178号に出ます。 左側には「大成古墳群」や「大成古墳群0.2km」のがあって、今降ってきた道を指しています。 右側にも「ようこそ!山陰海岸ジオパークへ」「大成古墳群」「立岩」などのが立っています。
道の駅てんきてんき丹後
車を止めてきた駐車場へ向かって国道178号を進んでいくと、を過ぎていきます。 畑地の奥にを眺めたりしながら進んでいきます。 オートキャンプ場への道を右に分けていくと、を過ぎていきます。 少し右へ曲がって道が左に分かれる所まで来ると、右側に道の駅てんきてんき丹後があります。 大成古墳から16分ほどの所になります。 建物の前には「」などの案内板が設置されています。 左側には竹野遺跡で出土した土器のモニュメントがされています。
ちょいと小腹が空いたので、道の駅で軽く食事をしていきました。 (食事は所要時間に含めず)
奇岩「立岩」と古代からの人々の営み 立岩周辺散策コース
白い砂浜に突然そびえたつ立岩や屏風を立てたような屏風岩。 鬼退治伝説や竹野神社・古墳など、立岩と丹後の歴史について学び、古代のロマンとジオパークの壮大な景観を体験しましょう。
【ジオコラム】立岩と屏風岩はずっと昔の火山の痕跡
立岩と屏風岩は地下をマグマが通った痕跡です。 立岩はキノコの傘のようにマグマが地層に入り込み固まったもの(岩床)、 屏風岩は大地の縦の割れ目に屏風状にマグマが入り込み固まったもの(岩脈)です。
山陰海岸ジオパーク推進協議会
竹野遺跡
竹野遺跡は竹野川河口右岸の砂丘上にある弥生時代前期(今から2千数百年前)から中世にいたるまで、 長期間、人々の生活が営まれた丹後を代表する遺跡です。 この「道の駅」の地下には弥生時代前期の村が眠っています。 発掘調査により、石斧・石錘(石の重り)・黒曜石製の石器や、 弥生土器・土師器・須恵器などの土器および鎌倉時代の銅鏡などが発見されています。 また、古墳時代の竪穴住居や弥生時代の溝などもみつかっています。
竹野遺跡と潟湖
竹野遺跡の周囲には全長200mにも及ぶ史跡明神山古墳、直径50mの史跡産土山古墳などの丹後を代表する遺跡が密集しており、 古代丹後のロマンを感じさせてくれる地でもあります。 そして、南側に広がる水田地帯は古代が潟湖(入り江)であり、 船による朝鮮・大陸との交易の玄関口だったと推定されています。
間人地区
道の駅を出て振り返ると、台形をしたが見えます。 国道178号に出て右へ進んでいくと、竹野川にが架かっています。 右側に新しい橋脚がありますが、歩道部分がない廣瀬橋に並行する歩道橋を架けるのでしょうか。 廣瀬橋を渡って立岩へ続く道を分けていくと、来る時に曲がっていったに出ます。 交差点を直進して、左側のや右側のを過ぎていくと、 路肩が広がった駐車スペースのような所の先に、車を止めておいた駐車場があります。