立岩周辺
概 要 京丹後市丹後町にある山陰海岸ジオパーク散策モデルコース「立岩周辺散策コース」を歩きます。 道の駅てんきてんき丹後を起終点として、竹野神社・明神山古墳・産土山古墳・大成古墳・立岩などを巡ります。 各所からは日本海や海岸線などを見渡せる眺めが広がります。
起 点 京丹後市丹後町 竹野地区
終 点 京丹後市丹後町 竹野地区
竹野地区…竹野神社…明神山古墳…産土山古墳…竹野海水浴場…竹野漁港…展望地…大成古墳…立岩…竹野地区…(屏風岩)
所要時間 1時間50分
歩いて... 大成古墳へ向かう道を一本間違えましたが、竹野漁港の先の岬の上からは海を見渡せました。 夏草が茂る石段混じりの道を登っていくと、大成古墳のある丘に出ました。 立岩へ向かうルートは砂浜になっていました。
関連メモ 立岩周辺
コース紹介
竹野地区
京丹後市丹後町を通る国道178号の傍にある道の駅てんきてんき丹後から歩いていきます。
道の駅の前には「立岩周辺散策コース」と題したがあって、今回歩くコースが紹介されています。 同様の案内図は、山陰海岸ジオパークのホームページにも載っています。
奇岩「立岩」と古代からの人々の営み 立岩周辺散策コース
白い砂浜に突然そびえたつ立岩や屏風を立てたような屏風岩。 鬼退治伝説や竹野神社・古墳など、立岩と丹後の歴史について学び、古代のロマンとジオパークの壮大な景観を体験しましょう。
【ジオコラム】立岩と屏風岩はずっと昔の火山の痕跡
立岩と屏風岩は地下をマグマが通った痕跡です。 立岩はキノコの傘のようにマグマが地層に入り込み固まったもの(岩床)、 屏風岩は大地の縦の割れ目に屏風状にマグマが入り込み固まったもの(岩脈)です。
日本海と海岸段丘が織りなす絶景一直線 立岩・経ヶ岬コース
海岸の地形が階段状に高くなっている海岸段丘が海岸線に沿って広く続き、 立岩・屏風岩・丹後松島など特異な岩石や、段丘の地形をうまく人々の暮らしに活かした棚田とが、 見事に調和した美しい海岸風景が広がります。 海からは日本海の荒波により形成された犬ヶ岬・経ヶ岬のダイナミックな岩壁や、 青の美しさが特に際立つ青の洞門などが、遊覧船等により楽しめます。
(山陰海岸ジオパーク推進協議会)
奇岩「立岩」と古代からの人々の営み 立岩周辺散策コース
丹後には多くの伝承があります。 安山岩の巨大な岩石「立岩」には、第31代用明天皇の第3皇子麿子(まろこ)親王がこの地の鬼退治をされた時、 一夜のうちに天から振ってきた、この大岩に鬼を封じ込めたという伝説があります。 今でも風が強く、波の高い夜などは鬼たちの号泣する声が聞こえるといわれています。
道の駅てんきてんき丹後
京都府最北の道の駅です。 駅名「道の駅てんきてんき丹後」は、この地域に古くから伝わる伝統芸能「竹野のてんきてんき」に由来しています。 日曜日には地域住民による日曜市も開催されます。
(出典:山陰海岸ジオパークのホームページより抜粋)
国道178号に出て東進していきます。 てんきてんき村バス停を過ぎた所に、「竹野神社0.3km」「明神山古墳0.4km」の道路標識の立つ少し斜めのがあります。 「竹野神社」「丹後古代の里」の標識が指すへ入っていきます。 左右に広がる田んぼを眺めながら、雰囲気の良いが続く道を真っ直ぐ進んでいきます。 十字路を直進し、を過ぎていきます。 左右に通る車道に出ると、正面に「斎宮神社」と「式内 竹野神社」の石柱が立っています。
竹野神社
車道を横切って、正面に続く広い参道を進んでいきます。 石製のの先の鳥居をくぐって、 風情のあるを進んでいきます。 石段を登って、「斎宮神社」の扁額が掛かるを抜けていくと、 更に石段を登った所にがあり、 その背後に竹野神社の本殿があります。 道の駅から17分ほどで着きました。 立派な檜皮葺の屋根には5本の鰹木が乗り外削の千木が聳えていました。 右脇に建っている小振りの社が斎宮神社でしょうか。 こちらも檜皮葺の屋根に3本の鰹木が乗り外削の千木が聳えていました。
竹野神社
竹野神社は、「延喜式」の神名帳で大社として記される。 祭神は天照大神であり、本殿と並んで摂社斎宮神社があり、祭神として日子坐王命、建豊波豆良和気命、竹野媛命を祀る。 竹野媛は丹波大県主由碁理の娘で、第九代開化天皇の妃となる。 「古事記」「日本書紀」にも記され、竹野神社は竹野媛が年老いて天照大神を祀ることに始まると伝えられる。 斎宮神社には、第三十一代用明天皇の皇子である、麻呂子親王も祀られ、鬼賊対峙と丹後七仏薬師の伝承がある。 この伝承は「等楽寺縁起」「斎明神縁起」として絵巻に描かれ、京都府登録文化財となっている。 現在の社殿は文政十三年(1803)に再建されたものである。 本殿は規模の大きな一間社流造で装飾が抑えられた荘厳な建物であり、 斎宮神社本殿は対照的に小振りな一間流造で賑やかな装飾を有している。 中門は神社の門としては珍しい向唐門の派手な印象を与える建物で、いずれも京都府登録文化財として指定されている。 この他に竹野区に伝えられ、竹野神社の祭礼に演じられる郷土芸能「竹野テンキテンキ」は、子供六人からなる素朴なものであるが、 風流囃子物の古い形をのこす芸能で、京都府登録文化財に指定されるなど優れた文化財を伝えている。
(京丹後市教育委員会)
竹野神社
竹野神社は、9代開化天皇に使えた竹野媛が天照大神を祀ったとされる神社で、麻呂子親王の鬼退治を伝える絵巻物も残されています。 また、神社本殿が京都府の指定文化財になっている他、境内は環境保全地区に指定されています。
(出典:山陰海岸ジオパークのホームページより抜粋)
中門から出ていくと、左に建つ小祠の脇に、丸太を縦に敷き詰めたがあります。 その小径に入った所には「神明山古墳へ250m」のが立っています。 木橋を渡って、手摺りが設置された木の階段を登っていきます。 傾斜が緩やかになると、がありました。 中には小社が納められていました。 貼られた紙によると「野の神様」を祀っているようでした。 そこを過ぎて軽く降っていくとに出ます。 角には標識が立っていて、左の道は「神明山古墳へ170m」、今来た道は「竹野神社へ80m」となっています。 左の坂道を登ったすぐの所にがあって、 傍には「神明山古墳」の解説板があります。 「神明山古墳へ160m」の標識が指す右前方の枕木の階段を登っていきます。
平成26年3月末 中浜 稲荷町内会様より お社と覆屋 寄進いただきました。 野の神様をおまつりしています。 ありがとうございました。
(7月27日)
史跡 神明山古墳
この古墳は全長180mをこえる丹後地方では最大級の前方後円墳です。 竹野川流域の平野や、遠く日本海を見下ろす丘の上に築かれたこの古墳は、今から約1600年前にこの地方を支配していた豪族の墓です。 古墳には埴輪が並べられ、斜面は葺石と呼ばれる河原石で飾られていました。 竪穴式石室と呼ばれる死者を埋葬した部分はすでに破壊されていますが、 碧玉製の盒子など当時の豪族の権力を示すような遺物が出土しています。 この古墳は大正12年3月7日、史跡に指定されました。
(昭和50年8月 京丹後市教育委員会)
神明山古墳
通ってきた松並木などのを眺めながら、木製の手摺りが設置された枕木の階段を登っていきます。 階段が終わって緩やかになると、になった道を進んでいきます。 程なくして石畳は終わって少し右へ曲がり、僅かにを進んでいきます。 軽い登り坂になった小径を進んで最後に枕木の階段を登っていくと、開けた所に出ます。 中ほどには「史蹟 神明山古墳」の石柱が立っていて、も設置されていました。 竹野神社から6分ほどで着きました。 周囲が開けていて、ぐるりと見渡せる眺めが広がっていました。 少し先の方へ行くとも見えました。
神明山古墳及び周辺遺跡
史跡 神明山古墳
竹野川河口に築かれた大型の前方後円墳で、墳丘の規模は全長190m、後円部径129m、高さ27m、前方部幅78mを測る。 墳丘は3段築成で、葺石・埴輪を有し、くびれ部に円形の造り出しをもつ。 埋葬施設は水成岩からなる竪穴式石室だと推定される。 出土遺物として、滑石製の盒・坩を形どった石製模造品や家形・蓋形等の形象埴輪や円筒埴輪、ツボ・高杯・器台の土師器があり、 埴輪片には舟を漕ぐ人物が線刻されているものがある。 この古墳の築造は古墳時代前期末〜中期初頭だと考えられる。
(京丹後市教育委員会)
神明山古墳
神明山古墳は日本海側最大級の前方後円墳で、全長は200m近くに及びます。 古墳には2段の平坦部がみられ、かつてはこの平坦部に丹後独特の円形型埴輪が並べられていました。 古墳は国指定史跡になっています。 田植えシーズンには、古墳の円墳部の頂上から「古代潟」を彷彿とさせる景色を見ることができ、古代のロマンを感じられます。
(出典:山陰海岸ジオパークのホームページより抜粋)
来た道を引き返してきます。 撓んだ所を過ぎて枕木の階段を降っていくと、の脇に降り立ちます。 竹野神社へのを見送って民家の間を降っていくと、 左右に通るに出ます。 右折して、竹野神社の入口にあるを過ぎていくと、 左側に丹後古代の里資料館があります。 によると竪穴式住居や高床式倉庫などがあるようですが、訪ねるのは省略しました。 手前の駐車場の脇には神明山古墳へのルートが記されたもありました。
史跡神明山古墳はこちらからどうぞ
・国指定史跡神明山古墳は、丹後三大古墳のうちの一つです。
・専用駐車場はありません。当駐車場をご利用願います。
・竹野神社境内の散策路からお進みください。徒歩約10分で到着します。
・関連資料の展示は、古代の里資料館にあります。是非お立ち寄りください。
(京丹後市教育委員会)
丹後古代の里資料館バス停を過ぎて道なりに進んでいくと、国道178号のに出ます。 右折して、すぐにあるを過ぎていきます。 京都農業協同組合の竹野低温倉庫を過ぎ、Aコープたかのや営農経済センターの手前から右へ分かれていくを登っていきます。 左へ分かれていく道を見送ってグラウンド沿いに進んでいくと、のような建物があります。 その手前を左へ曲がって国道178号の上まで来ると、「産土山古墳」の解説板が立っています。
国指定史跡 産土山古墳
産土山古墳は、径約50mの円墳で、昭和30年国の史跡に指定された。 昭和13年、墳丘に営まれていた村社(三柱神社)再建の際石棺が確認され、翌14年京都府によって調査が行われた。 その結果、凝灰岩の長持形石棺が出土し、棺内には遺骸及び頭髪が残り、 また副葬品は変形四獣鏡をはじめ埴製枕、多数の勾玉や管玉・木櫛などのほか、 冑・短甲・鹿角装鉄剣・木弓などの武具も多く舞納されていた。 なお石棺は、調査後現地に埋戻され、今日にいたっている。
昭和63年3月 京丹後市教育委員会
産土山古墳
解説板の背後に続くを登っていきます。 「史跡 産土山古墳」のを過ぎていくと、一番高い所に神社が建っています。 扁額などは見かけませんでしたが、先ほどの解説板によると三柱神社というようです。 中を覗ってみると、檜皮葺の小社が二つ納められていました。 この小山が産土山古墳のようです。 神明山古墳から19分ほどで着きました。 振り返ると、の集落や竹野漁港などが見えました。
まで引き返してきて、その先の石段を降っていきます。 左へ曲がって降っていくとに出ます。 押ボタン式の横断歩道を渡って左へ進んでいくと、の手前から右へ分かれていく路地があります。 道の駅で見かけた案内図では小山の東側に道が描かれているので、迷うことなくこの路地に入っていきました。
今回歩いた右の路地は誤りでした。 案内図に描かれている道は、この少し先から戻るようにして登っていきます。 地形図の方が道の様子が分かるので、そちらも参照すべきだったと反省であります。
竹野海水浴場
左右に別れていく路地を見送って真っ直ぐ進んでいくと、左右に通るに出ます。 左折していくと、すぐの所の海側にが設置されています。 そこへ向かっていくと、左側には駐車場がありました。 目の前には竹野海水浴場が広がっていました。
竹野漁港
に戻って、その先へ進んでいきます。 右へ曲がり始める所にあるを過ぎていくと竹野漁港があります。 手前には、先ほどの駐車場の入口があります。
第1種 竹野漁港
所在地:京丹後市丹後町竹野地先
管理者:京丹後市
所官庁:水産庁
海で遊ぶ皆さんへ!!
・まき餌釣りは禁止されています。
・アワビ・サザエ等をとることは禁止されています。
・潜水器・水中銃で水産動植物をとることは禁止されています。
・違反すると法令により罰せられます。
(京都府・舞鶴海上保安部・網野警察署・丹後町)
潜水漁法禁止
この先の岩場(堤防沖から馬の瀬まで)は、 海水浴客・地元の人・及び漁協組合員も泳いでアワビ・サザエ等を許可無く獲ることはできません。
(丹後町漁業協同組合)
丹後町漁業協同組合や共同作業場の建物を過ぎていきます。 まで進み、 に進んでいきます。 岩が露出した所を登っていくと、目の前には磯浜が広がっていました。
展望地
岬の先へが続いていたので、ちょいと歩いてみました。 岬に続く草刈りされたを軽く登っていきます。 を過ぎて小径が終わると、 目の前に日本海や磯浜が広がる展望地になっていました。 産土山古墳から16分ほどで着きました。
眺めを堪能したところで、来たを引き返してきます。 が露出した所を降りて、 に進んでいきます。 竹野漁港を過ぎて墓地の所まで来ると、右側の建物の間に入っていく道があります。 その道へ入ってまで行くと、 があります。 夏草が茂ってほとんど歩かれていない様子でしたが、 ロープ柵が設置されていて遊歩道のようなので、意を決して登っていくことにしました。
大成古墳
道には夏草が茂って路面が分かり難くなっていました。 こんなを歩くことは想定していなくて普通の靴や服装で来たので、 長虫などに遭遇しないようにと念じながら登っていきました。 道なりに左へ曲がって更に登っていくと、開けたに出ました。 出た所には「竹野集落100m」の標識が立っていて、今登って来た道を指しています。 左右に通る道に出た所には「大成古墳群と立岩」の解説板(*1)があって、 「」も載っていました。 (*2)が案内図に載っている道のようです。 右側にはがありました。 この広くて緩やかな丘にある古墳群が大成古墳になるようです。 展望地から9分ほどで着きました。
*1 後日に来たところ、解説板は左の道の先に移設されていました。
*2 後日に左の道を歩きました。 (「立岩周辺」を参照)
山陰海岸ジオパーク 大成古墳群と立岩
この古墳群は、古墳時代後期(6世紀末〜7世紀初め)の古墳で、古墳からは多くの遺物が出土しています。 この古墳群をつくっている岩石は、左方向に見える立岩など周辺にある火山岩で、その柱状節理をうまく利用しています。 立岩の頂上、この大成古墳群のある場所、さらに東方に分布する、海から十数メートルの高さの平坦部は、 かつて海面だったところが、隆起して高くなったもの(海岸段丘)です。 ここからはいくつかの古墳が見つかり、古代からの人々の営みが確認されています。
(京丹後市商工観光部観光振興課、山陰海岸ジオパーク推進協議会)
大成古墳
大成古墳は古墳時代後期(6世紀末から7世紀初頭)の横穴式石室を持つ古墳群で、合計11基の古墳が確認されています。 石室に使われている石材は、周囲の柱状節理の発達した安山岩が使用されています。
(出典:山陰海岸ジオパークのホームページより抜粋)
右の道を進んでいくと、すぐの所にがあります。 角には標識が立っていて、左の道は「てんきてんき橋0.5km」、今来た道は「竹野0,5km」となっています。 左の道は後で歩くとして、先ずは正面の道を進んでいきました。 木柵で囲まれた所まで行くと、展望地になっていました。
手前のまで引き返してきて、 「てんきてんき橋0.5km」の標識が指すを進んでいきます。 木柵が設置された道を降り始めると、右側にがありました。 海に浮かぶを眺めながら降っていきます。 左・右と曲がりながらを降っていくと砂浜に降り立ちます。 右側には柱状節理の目立つが聳えていました。
正面に見えている立岩へ向かってを歩いていきます。 砂が軟らかくて足を取られるので、少しでも締まっているだろうと思って波打ち際を歩いてみましたが、あまり変わりませんでした。 平らに広がったを歩いたりしながら進んでいきました。 の手前まで来ると竹野川が流れています。 砂浜は立岩まで繋がっていないので、左に見えるてんきてんき橋へ向かっていきます。
低い蔓性植物が茂る脇を進んで、の階段を登っていきます。 コンクリート製の橋ですが、上面は板張りで欄干も木製になっていて風情がありました。 河口側にはが浮かんでいます。 上流側にはが見えます。 橋を渡り終えるとにトイレがありますが、 立岩へ降っていきます。
立岩
階段を降りていくと、正面に立岩があります。 大成古墳から12分ほどで着きました。 手前の堤防にあるから砂州に降りて、立岩まで歩いて行けます。 岩壁の際まで行くと、子供を抱いた像が安置されたがあります。 海岸の左側にはがあり、 が続いていました。
後日に後ヶ浜海水浴場に沿って西へ続く道を歩きました。 (「立岩周辺」を参照)
立岩
立岩は高さ約20mであり、京丹後市でもシンボルになっている安山岩の巨岩です。 垂直に延びた柱状節理が美しいことで有名です。 鬼退治伝説に関わる伝承も残されており、古くから人々に親しまれてきました。 竹野川が運んできた砂が砂州となり、離れ島になっていた立岩とつながっています。
間人皇后・聖徳太子母子像
聖徳太子の母・間人(はしうど)皇后は政権の争乱を避け、間人(たいざ)に身を寄せたと伝えられています。 この地を去る際、自らの名「間人」(はしうど)をこの地に贈りました。 村人たちは恐れ多いことから、皇后の退座にちなんで読み方を「たいざ」にしたとされています。
(出典:山陰海岸ジオパークのホームページより抜粋)
立岩から引き返してきて、を渡っていきます。 橋を渡り終えて、へ降っていきます。 竹野川の傍に続くを進んでいくと、 広くなったてんきてんき丹後オートキャンプ場に出ます。 炊飯棟・シャワー更衣室・トイレなどを過ぎていくと、 次のの前に「てんきてんき村オートキャンプ場案内」と題したがありました。
竹野地区
「出口」の標識が立つを左へ分けてオートキャンプ場の端まで来ると、 レンガ敷きのがあります。 脇には「山陰海岸ジオパーク 丹後町エリアマップ」と題したがあります。 坂道を登っていくと、右側には幾つもの土器のモニュメントがされていました。 左側には、車を止めておいた道の駅てんきてんき丹後があります。 立岩から12分ほどで着きました。
竹野遺跡
竹野遺跡は竹野川河口右岸の砂丘上にある弥生時代前期(今から2千数百年前)から中世にいたるまで、 長期間、人々の生活が営まれた丹後を代表する遺跡です。 この「道の駅」の地下には弥生時代前期の村が眠っています。 発掘調査により、石斧・石錘(石の重り)・黒曜石製の石器や、 弥生土器・土師器・須恵器などの土器および鎌倉時代の銅鏡などが発見されています。 また、古墳時代の竪穴住居や弥生時代の溝などもみつかっています。
竹野遺跡と潟湖
竹野遺跡の周囲には全長200mにも及ぶ史跡明神山古墳、直径50mの史跡産土山古墳などの丹後を代表する遺跡が密集しており、 古代丹後のロマンを感じさせてくれる地でもあります。 そして、南側に広がる水田地帯は古代が潟湖(入り江)であり、 船による朝鮮・大陸との交易の玄関口だったと推定されています。
屏風岩
家路につく前に、車で3分ほどの所にあるに立ち寄りました。 脇にある「屏風岩」の解説板によると、北西の方角のの傍にある岩が屏風岩のようです。 (所要時間に含めず)
屏風岩
丹後町筆石地区では、段丘崖下の海面上から崖とほぼ同じ高さまで突き出した板状の岩が見えます。 この板状の岩は、屏風を立てたような形から「屏風岩」と呼ばれています。 この「屏風岩」は、1500万年ほど前に堆積した火山灰などの地層中に貫入したマグマが固まったものです。 貫入した岩石は周囲の岩石より硬いため、削り残され、現在のような姿となりました。 この「屏風岩」から北西−南東方向に小島が直線上に並んでいます。 これらはマグマが、板状に貫入したことを示しています。
(京丹後市観光協会)
屏風岩展望台
海面から突然屏風のようにそびえる屏風岩は、柔らかい凝灰岩の地層中にマグマが入り込み、 固結した安山岩が、その後、周りの地層が浸食により削り取られ、硬い安山岩の岩脈が取り残されて現在の姿となりました。 屏風岩の沖合いにも数個の島がありますが、これらは全て一直線上に並んでいます。
(出典:山陰海岸ジオパークのホームページより抜粋)