三嶋田神社石仏
ここに奉祀されている石仏は、三嶋田神社の東方「神宮の森」にあった、三嶋田神社別当神宮寺に祭られていたものである。
(別当神宮寺とは、神仏習合思想に基づき、神社に付属して建てられた寺で、祭祀や管理を司っていた)
神宮寺廃絶後、石仏は三嶋田神社境内に移転安置されていたが、明治初年の神仏引き分けにより、
神社境外に覆屋を建て、再び移転された。
その後、昭和四十四年に行われた土地基盤整備事業により現位置に安置され、現在に至っている。
中央の大きな石仏三体は、釈迦如来を中心に左が地蔵菩薩、右が聖観世音菩薩である。
釈迦如来の背部には「神宮寺六十六部供養、永享十二年庚申(1440)六月十九日」と記銘されている。
また、聖観世音菩薩の背部には「千部経供養施主 源 貞總」の記銘が残る。
この三体の石仏は、三嶋田神社の祭神の本地仏で、宝永三年に建てられた同神社の旧鳥居に刻まれている梵字、
バク(釈迦)、サ(観音)、カ(地蔵)とも一致する。
(本地仏とは、日本古来の神に姿を変えて衆生救済をされる仏のことをいう。
これは仏が万物の根源である、という考えに基づいており、中世においては、主の神社では本地仏が定められていた)
地蔵菩薩の左は、庚申塔で、日輪月輪の下に「天の邪鬼」を踏みつけた三眼六臂の青面金剛が刻まれている。
その左側の小祠は、基盤整備の際、小字イカシマ三五七番地付近より現地に移転されたもので、
内部に五輪塔の水輪と六地蔵の刻まれた石幢の龕部が祭られている。
この六地蔵は神宮寺地蔵菩薩と伝承されており、当初祭られていた位置が神宮寺の跡とも推察される。
聖観世音菩薩の右側には石祠を有する板碑がある。
この板碑には、地蔵菩薩が彫られており、別名を麦飯地蔵と呼ばれている。
古来より麦飯の嫌いな者がこの地蔵尊を信仰すれば、麦飯が好きになり、体も丈夫になると伝えられている。
また、この地蔵尊は昔、狐に化かされた侍が刀で切りつけて二つになった、という話も伝えられている。
地蔵尊の年代は、ここに祭られている石仏中、最古とものと伝えられるが不明である。
因みにこの唐破風造りの石祀は後から造られたものと考えられ、
側面には「宝暦二年(1752)七ヶ村氏子中」と刻まれている。
その右側には宝筐印塔がある。
これは宝珠相輪が掛けているものの「中心飾付格座間」を刻み、室町時代に造られたと伝えられる。
その右側の大師像は明治時代初期に前述の覆屋を建てた際に合祀されたと思われる。
最後に一番右側にある四体の地蔵尊は、現在地より北へ二百米の場所、
通称チシャの木(小字古戸308番地の東南隅付近)にあったものである。
これも基盤整備により、現在地に移転安置されたもので、
その際、当初祭られていた地点から多数の灯明皿が出土したことが知られている。
この他に現在、神社の前を通る道が古代の街道であったことが判っており、
石仏の存在、由緒等と合わせて歴史考察の上で大変貴重な資料となっている。
久美浜町教育委員会、金谷区