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河内地区
久美浜湾の西側を通る府道49号を北上していきます。
河内地区の集落からの道を合わせていくと、西へ分かれていくがあります。
その道に入って終点までいくと、「Bela Vista」の標識が出るがあります。
その前が駐車場になっているので、ここに車を止めました。
「Bela Vista」はレストランだったそうですが、今は営業していないようです。
イタリア語で「美しい景色」という意味だそうです。
建物の裏側のテラスからは、語源になったと思われるが広がります。
往時には、この景色を眺めながら食事をしたのでしょう。
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河内地区から三原地区へ続く峠越えの旧道の入口は見当たりませんが、
駐車場の手前に立つ電柱の脇からを登っていきます。
なだらかになった先から、左のを登っていきます。
竹に掴まりながら急斜面を登って尾根の背が近づくと、と思われる広めの道が現れます。
倒竹を避けたりしながら登っていくと、すぐに開けた尾根に出ます。
左側へ少し出ると、などが見えました。
手前にある山はじじら山のようです。
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右側の植林地へ入っていくと思われる道を登っていきます。
入口付近では道がはっきりしませんが、少し登っていくとになってきます。
往時は良く歩かれた道なのか、幅は一間ほどで続いています。
2本並んだの脇を過ぎていくと、
馬の背のように尾根が狭くなった所があります。
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水場
馬の背のような所を過ぎると、すぐに少しに出ます。
左の方にも道があるような雰囲気でしたが、倒木が多くて確認できそうにもないので、
右側のを登っていきました。
大きめの石が目立つようになると、苔生した岩を水が流れ落ちているがありました。
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水場を過ぎていくと、1分もしない所に分岐があります。
もしっかりしていそうな様子でしたが、
赤テープが取り付けられているを進んでいきます。
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山内集落跡
大木の袂を過ぎていくと、が目立つようになります。
倒木などで雑然とした様子ですが、も幾つか現れます。
の脇を過ぎていくと、なだらかで広い所に出ます。
大きな石が目立つようになった辺りからこの先にかけてが山内集落の跡でしょうか。
下山後の車道で見かけた「山内部落離村之碑」によると、昭和44年の行政措置により、全11戸が離村されたとのことです。
古くからあった集落のようで、最盛期の村域はもっと広かったのかも知れませんが、詳細はよく分かりません。
(情報によると「山内」は「さんない」と読むようです)
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石仏
往時は貴重だったと思われるの右側を進んでいきます。
少し登り坂になってくると石仏がありました。
駐車場から18分ほどで着きました。
真ん中の大きいの袂には、小さな石仏が寄り添うように幾つか倒れていました。
「二番」「三番」と刻まれているようでしたが、意味は分かりませんでした。
石仏の少し先のに、大きめの石が散乱する一角があります。
端にはがありましたが、
かつては神社か寺院があった所なのでしょうか。
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石仏の所から左へ曲がって、に進んでいきます。
を南西を指して登っていきます。
時折取り付けられているテープを確認しながら登っていくと、緩やかなに出ます。
少し右へ曲がりながら支尾根を登っていきます。
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山内ヶ嶽
傾斜が緩やかになってくると少し右へ曲がって、広くて緩やかなを北西を指して登っていきます。
がゴロゴロした所を過ぎていくと、一番高そうな所に着きます。
標識類は見かけませんが、ここが標高300m〜320mほどの緩やかな山内ヶ嶽の山頂になるようです。
石仏から13分ほどで登って来られました。
周囲には樹木が茂っていて展望は良くありません。
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鞍部
登ってきた斜面を引き返してきます。
途中で進路を南へ取って、樹間から見えるへ向かって尾根を降っていきます。
久美浜湾に突き出すを眺めたりしながら降っていくと、
斜めに通るに出ます。
(*1)には倒木がありましたが、道はその先へと続いているようでした。
右の道を降っていくとすぐに鞍部に着きます。
山内ヶ嶽から8分ほど降った所になります。
ここからへ広めの道(*2)が降っています。
手前から続くこの道は地形図に破線で載っていて、尾根を斜めに横切っていく峠越えの旧道のようです。
ここは正面の尾根の背を登っていきます。
*1 下山時には左の道を歩きました。
*2 後日の右前方の広めの道を歩きました。(「 大山」を参照)
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に明瞭な道はありませんが、樹木が少なくて歩き易くなっていました。
正面の樹間に見える高みへ向かって尾根を登っていきます。
僅かになどを眺めながら、少し傾斜が増してきた尾根を登っていきます。
坂を登り切って高みに着くと、そこは山頂ではなくて、尾根の肩のような所でした。
が更に先へと続いていました。
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大山 (標高334.4m)
葛野浜から夕日ヶ浦にかけてのを樹間から眺めながら進んでいくと、
再びが増してきます。
坂をひと登りして緩やかになった尾根を進んでいくと、小広くなった山頂に着きました。
中ほどには「湊」があるので、
標識類は見かけませんが、地形図に載っている334.4m峰の大山になるようです。
鞍部から8分ほどで登って来られました。
周囲には樹木が茂っていて展望は良くありません。
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鞍部
大山の山頂から、登って来た尾根を引き返していきます。
左前方の樹間から尖った山が見えますが、方角からするとでしょうか。
緩やかな尾根を降ってを過ぎると、降り傾斜が少し増してきます。
正面にを眺めながら尾根を降っていくと、
大山の山頂から10分ほどで鞍部に着きます。
左へ降っていく旧道を見送って右前方へ登っていくと、すぐにがあります。
先ほど降って来た左前方の尾根を登ってもいいのですが、
右へ続くを降っていきました。
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少しした所を過ぎていくと、
が道を塞いでいました。
跨いでもくぐっても通過できそうにありません。
先の方には道が見えているので、左側の斜面を少し登って高巻いていきました。
滑り易い急な斜面を時間を掛けて通過して倒木の先に降り、
その先へ続く歩き易くなったを進んでいきます。
幅が広がった小尾根に出ると、が取り付けられていました。
左側には大きなが何本か生えていました。
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石仏
小尾根に出た辺りで道が不明瞭になりましたが、を横切るようにして進んでいきました。
少し窪んだ旧道らしき所も時折現れますが、またすぐに不明瞭になります。
の手前を右へ降っていくと、登って来た時に見かけた所に出ました。
その先へ降っていくと、石仏の裏手に出ました。
鞍部から19分ほどで降りて来られました。
ここからは元来た道を降っていきます。
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山内集落跡
少し降った先のなだらかで広い所の縁を進んでいくと、の脇を過ぎていきます。
やなどを見かける山内集落跡を降っていきます。
僅かなの脇を過ぎていくと、
樹木越しに山並みや海岸線が見えてきます。
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水場
尾根の左斜面に続くを降っていきます。
大きめの石が目立つようになると水場に着きます。
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少しを過ぎて植林地へ入っていきます。
のように尾根が狭くなった所を過ぎていくと、次第に旧道がはっきりとしてきます。
僅かに窪んだを降っていくと正面が明るくなってきます。
左前方に竹林が見えてくる植林地を降っていくと、開けた尾根に出ます。
石仏から11分ほどで降りて来られました。
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林道終点
車を止めてきた駐車場へは左のを降っていけばいいのですが、
僅かに登った所まで林道が来ているので、かなり遠回りになりますが、その林道を降っていくことにしました。
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迎接寺跡のシイ
少し右へ曲がりながら続くを緩やかに降っていきます。
1分ほど降って道なりに左へ直角に曲がると、すぐにがあります。
左へ分かれていく道を見送って真っ直ぐに進み始めると、右側へ10mほど入った所にシイの大木があります。
標識類は見かけませんでしたが「迎接寺跡のシイ」という名前で、京丹後市の指定文化財なのだそうです。
を張り出した大きな木でした。
情報によると、以前に迎接寺という寺院があった所のようですが、
今では久美浜湾の入口付近の大向地区に移されて遍照寺という名前になっているとのことです。
この辺りも山内地区の範囲に含まれていたようです。
迎接寺跡のシイ(ツブラジイ)
京丹後市指定文化財
分類:ブナ科シイ属
胸高幹周8.03m 樹高14m
ブナ科シイ属に属する常緑高木。関東地方南部以西から四国、九州及び朝鮮半島南部に自生している。
ツブラジイの材は菌に冒されやすく、中心部に腐れが発生しやすい。
1つの幹としての寿命はそれほど長くないが、根元から萌芽再生する能力は高いので、株立ちになったものも多い。
「迎接寺跡のシイ(ツブラジイ)」は、株立ちが多く、根元に次世代の幹が見られ、前述のツブラジイの特徴を強く示している。
株立ちをそれぞれ計測し、合計すると9.37mにも及ぶ。板根も大きく発達し樹勢も盛んである。
樹齢300年程度と推測され、ツブラジイとしては市内最大のものである。
迎接寺は熊野郡誌にその記述が見られ、かつては中世山林寺院として隆盛を極めたが、
昭和44年に山内集落が離村し、現在は京都府が所有し、(社)京都府森と緑の公社が管理する地になっている。
(出典:京丹後市ホームページ)
遍照寺
久美浜町字大向
遍照寺は久美浜町山内地区にあった迎接寺が450 年ほど前、現在の地に移されたもので、
その後幾多の変遷をへて現在の名前になったという。
伝承によれば天平 2 年、行基が旅の途中、但馬と丹後の境にさしかかった時に、
山中で巨木が『衆生摂取不捨』と唱えるのを聞き、
その木で阿弥陀如来像を刻み、現地に寺を建てたのが始まりという。
しかし、仁治2 年(1241)には寺が荒廃したので一番近かった集落である山内に再興されたという。
この迎接寺には宝寿院、蓮光院、遍照院、中性院(現在網野町内に現存)、正覚院の子院があった。
現在の遍照寺は遍照院の建物が残ったものと伝えられている。
(出典:京丹後市ホームページ)
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程なくして左へに曲がって降っていきます。
樹間から僅かにが見えるようになると、
左から林道がしてきます。
その道を合わせて少し右へ曲がって降っていくと、すぐに左右に通る林道に出ます。
は石畳になっていますが、
を降っていきます。
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等高線に沿うようにして続く林道を緩やかに降っていきます。
のようになっている所がありますが、
右の道は10mほどで行き止まりなので、左へ続く林道を降っていきます。
倒木が僅かにありましたが、乗り越えていきました。
右へのまで来ると、
角から正面にが分かれています。
その道でも同じ所へ降りられますが、道なりに右へ曲がっていきました。
僅かな谷筋に差し掛かると分岐があります。
谷筋を横切っていく道は50mほど先で行き止まりになっているので、
折れ曲がるようにして続くを降っていきます。
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林道起点
次第に正面が明るくなってくる林道を降っていくと、
小広くなったに出ました。
林道終点から14分ほどで降りて来られました。
左からは手前の曲がり角から分かれてきたが降ってきていますが、
最後の部分は少し段差になっていました。
すぐ先には車道が通っています。
脇に立つ電柱には「山内29」「カツチ110 L30」の標識が取り付けられています。
ここからは最初に車で登っていった車道を歩いて駐車場へ向かっていきます。
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登り坂になった車道を進んでいくと、道の脇に未舗装のがあります。
何処かへ通じる道という風でもなくて、道路建設時の資材置き場だった所なのでしょうか。
樹間からや久美浜湾に突き出したなどを眺めながら登っていきます。
先ほどよりも広い平らな所があります。
車道との段差もなくて、一時的な駐車場として利用できそうな様子でした。
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石碑群
登り坂が終わって傾斜がゆるやかになると、道端に石碑群がありました。
には狛犬と石灯籠の奥に「大福神社鳥居等埋蔵地」と刻まれた石碑がありました。
には大きな石仏があって、「昭和三年三月建之」と刻まれていました。
には「山内部落離村之碑」と刻まれた石碑があって、裏面にはその経緯が刻まれ、
表面には「有志者芳名」として網野町・京都市・岩滝町・豊岡市・大阪市・久美浜町の計16人の名前が刻まれていました。
石仏と石碑の間にある丸い石には、「発企人」として5名の名前が刻まれていました。
石碑群の左側からが分かれていて、
入口にはを安置したコンクリート製の祠がありました。
振り返ると、高みの上に「」の建物が見えました。
山内部落離村之碑
昭和四十四年京都府の行政措置に依り全戸離村す
対象戸数 十一戸
昭和五十六年五月関係有志者建之
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湊宮地区
と思われる山を正面に眺めながら車道を進んでいきます。
左へ大きく曲がり始める所から振り返ると、が見えますが、
方角からすると、じじら山とその北にある173.5m峰のようでした。
「」の建物を前方に眺めながら車道を登っていくと、車を止めておいた駐車場に着きます。
林道起点から12分ほどで到着しました。
建物の脇からは、先ほどのが良く見えました。
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