烏帽子山古城の記
この山城の歴史は室町初期と察するが古書に見えるのは後屋城主越前守
時家「蘆田荻野赤井一族」の持城として内藤氏との烏帽子山城攻防激戦
の頃である。その後、丹波を制覇した時家の子、黒井保月城々主赤井直
政に受継がれ保月城々砦群の一環として四方を睥睨し天然の秀麗と要害
要路に位置した極めて高い戦略重要拠点として戦国の世に備えられてい
た。おそらく戦乱急を告げた一時期、山頂では烽火天に舞い立ち城兵騎
武士、この細き山道を駆け往き陣馬蹄の響きがやまの谷間に活きづきし
を想う。然かして時は流れ天正四年、丹波攻略の秀光軍 中略
遂に天正七年、四年越の攻防に保月城とその傘下城砦命運盡き果て一族
郎党掃党され土着や四散した。茲に於て烏帽子山城も栄枯の歴史を秘め
て閉じ、爾来五百有幾星霜、風雪に荒れたれど山頂には二重の空濠を鮮
明に残し中腹より麓の渓流岩山一帯、城主の尾泉水にして五段弾き千両
の滝、三十尺城峰の滝、秘境に懸かりて景勝壮大な古城の山庭に昔日が
偲び見られる。そしてこの奥山や村里には馬隠し、陣庄、水の手、下城
戸等の地名を残し城主赤井直政秘伝の名薬、蓮翹湯を始め古物古文状の
数々を伝え、人、おとないもまばらなるこの幾山河の奥里野辺に源氏一
族郎党の興亡幾百年の流れたる深き由緒ゆかりを物語るものである。又
栄光の日は去り落城についえ去らんとする哀歌を残していつまでも私達
の心の奥の胸深く、黄金に輝く夢を奏で美しく彩り伝えんとしている。
朝日さし夕日のあたる烏帽子根の
み山うつぎ木の花かげに黄金千両埋めたり
昭和四十七年文 施主 蘆田弘夫