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余部地区
余部道路を余部ICで降りて国道178号を北上していくと、余部橋梁の手前に道の駅あまるべがあります。
今回はここの駐車場を利用させて頂きました。
橋梁の下には「」が建立されています。
昭和61年に発生した列車転落事故の犠牲者の慰霊碑のようです。
慰霊碑 聖観世音菩薩
聖観世音菩薩像建立の趣意
昭和61年12月28日正午すぎより山陰特有の低気圧が進入し列車転覆限界風速を超える強風が連続的に吹き荒れる13時25分頃、
回送中の下り和風列車みやび号が餘部鉄橋中央より客車七輌の脱線転落で鉄橋下のカニ加工場を直撃し
従業員主婦5名と列車車掌1名の計6名もの尊い生命が奪われ6名が重傷を負う未曽有の大惨事が発生した。
列車転落事故は明治45年に鉄橋寛政以来初めての惨事で、遺族や関係者にとって深い悲しみは言語に絶した。
二度と事故を繰り返さないように慰霊碑建立を遺族一同の呼びかけで関係者があい集い、
犠牲者の慰霊とご冥福を祈り、人々の永久平和と総ての交通安全の願いをこめて、現地に聖観世音菩薩像を建立する。
昭和63年10月23日 餘部鉄橋自己犠牲者 慰霊碑建立発起人会
聖観世音菩薩尊像について
この聖観世音菩薩は、有名な南無大自力観世音菩薩34化身のお力添をいただいており、
悩みや苦しみの人々を救い、その優しく慈愛に満ちたお姿は、人々に降りかかる厄災を祓い、大いなる平安を授ける尊い守護像です。
真心をこめてお参りされる人々のお願いを偉大なる観音力で必ずやかなえて下さるように、
現世ご利益が授かれるように建立した有難い聖観世音菩薩であります。
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道の駅から国道178号を南下していきます。
余部地区公民館や余部郵便局を過ぎていくと、長谷川にが架かっています。
橋を渡ってすぐの所にある梶原バス停の手前を左折して、の集落へ向かっていきます。
正面に見える稜線は、今回登る284.1m峰から北北西に延びる尾根のようです。
少しずれたを直進して坂道を登っていくと、小広くなった所があります。
建物の中には仏像が安置されていましたが、寺院関連の施設でしょうか。
広場の右側には、石仏や「四十八夜供養塚」と刻まれたなどが並んでいました。
建物の横には「八坂神社」の扁額が架かるがあります。
今回は神社へ続く石段の右側にある小さな石段から登っていくのですが、
その前にこの上にある八坂神社を訪ねていくことにしました。
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八坂神社
鳥居をくぐっていくと、石段が始まる所に「従是東出石領」と刻まれたが立っています。
そこを過ぎて真っ直ぐに続く石段を登っていきます。
両脇に石灯籠が立つのような所を過ぎて更に登っていくと、八坂神社の境内に着きます。
石段は100段ほどありました。
社殿は右を向いて建てられていました。
施錠されていない引き戸を開けてみると、中にはが安置されていました。
由緒などを記したものは見かけませんでしたが、情報によると、祭神は須佐之男命とのことです。
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登り口
まで石段を降っていき、
左に続くへ入っていきます。
の金網に沿って登っていくと、すぐに明瞭な山道が現れました。
ここが284.1m峰への登り口になります。
地形図に載っている破線の道のようですが、見るからに傾斜が急です。
先の方に白杭が見えたので、何かの巡視路になっているのだろうかと思いながら登っていきました。
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植林地の斜面に続くかなり傾斜がある道を1分ほど登っていくと、先ほど見えていたがあります。
そこを過ぎて更に登っていきます。
道は明瞭ながらかなりの傾斜があるので、何かに掴まらないとズリ落ちてしまいます。
先日来の雨模様で地面が滑りやすくもなっていたので、
脇の樹木や木の根などに掴まりながら慎重に登っていくと、が現れました。
中にケーブルでも通っているのかと思いながら更に登っていくと黄杭があって、「NHKケーブル埋設」と書かれていました。
どうやらこの上に電波関連の設備があって、少なくともそこまではこの道が続いているように思えました。
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斜面に続く急な道を登っていくと、左から前方へ続くが近づいてきました。
斜めに傾いた道よりは歩き易かろうと思って、そのに出て登っていきました。
写真では良く判りませんが、かなりの傾斜があって、次第に踝が痛くなってきました。
何度も立ち止まって、横に向けたり下に向けたりして足を休めながらの登りが続きます。
樹木などに掴まりながら、雑木が混じる植林地の尾根を休み休み登っていきました。
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引き続き急な尾根を登っていくと、傾斜が少し緩んだ所に出ました。
登り口から19分ほど登った所になります。
左側の樹間からは、山頂から北北西に延びるが見えていました。
やっと何かに掴まらなくても歩けるようになってホッとしながら、
植林地と雑木林を分けるを更に登っていきました。
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電柱
引き続き、白杭や黄杭が設置されたを登っていきます。
左側の樹間からを眺めながら更に登っていきます。
尾根には時折が咲いていました。
少し傾斜が増してきた尾根を登っていくと電柱が立っていました。
登り口から28分ほど登った所になります。
脇には少し壊れた注意書きが立っていました。
柱の中ほどには「」と書かれた箱とループ状の管が取り付けられていましたが、
電波を増幅して麓へ送る装置のようでした。
注意
この附近にテレビ用ケーブルを埋設しています。掘削等には十分注意してください。
(テレビ共同受信施設組合、NHK)
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電柱を過ぎて、を更に登っていきます。
これまで続いてきたは先ほどの電柱で終わりなのかと思っていると、
白杭や黄杭と共にまだ続いていました。
再び傾斜が増してくるので、樹木などに掴まりながら登っていきました。
植林が途切れてアオキなどが茂る尾根を登っていきます。
振り返ると、樹間から方面の海岸線などが僅かに見えました。
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急斜面のためにまた踝が痛くなってくるので、何度も立ち止まって足を休めながらのスローペースの登りが続きます。
左側に見えている北北西に延びるが心なしか少し近づいてきたことに勇気付けられながら登っていきました。
振り返ると、雪のあるが樹間から見える所もありますが、
景色を愛でている余裕はありませんでした。
引き続き、樹木などに掴まりながら急な尾根を登っていくと、
黄杭が2本ずつ2箇所に設置された4連の杭がありました。
電柱から26分ほど登った所になります。
こんなに詰めて設置しなくても良かろうにと思いますが、何か目的があるのでしょう。
脇の樹木には板状の小さながびっしりと生えていました。
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急傾斜の尾根を更に登っていくと、次第にになってきます。
更に傾斜が緩んで樹木などに掴まらなくても歩けるようになった快適でを登っていきます。
左から接近してくる北北西へ延びるを眺めながら進んでいくと、
テレビの共同アンテナが幾つか立つ緩やかな所に出ました。
4連の杭から7分ほど、八坂神社の傍の登り口から1時間3分ほどで登って来られました。
地形図によると、284.1m峰のある東西に続く標高280mほどの緩やかな山頂部の西端になるようです。
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展望地
登り着いた所は、眼の前に山並みが広がる展望地になっていました。
左側の高みには電波塔が立っていますが、方角からするとのようです。
その左奥に聳えている急峻な山はでしょうか。
中ほどに続く緩やかな尾根にも電波塔が立っていますが、の傍にある電波塔のようです。
その奥に横たわる稜線は、香住区を流れる矢田川の東側に連なる山々でしょうか。
電波塔の手前に見える道は、船越峠から国道178号へ続く道のようでした。
右側の稜線は、504m峰から久斗山へ続くのようです。
樹木などに掴まりながらの急登が続き、やっとの思いで登り着いた疲れを癒しながら、暫く景色を愛でていきました。
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284.1m峰
落ち着いたところで、左のに続く道を進んでいきます。
数10m進んでいくとが取り付けれていました。
に延びる尾根が左へ分かれていますが、三角点に向かって右の尾根を進んでいきます。
緩やかで広い雑木林に続く獣道のような所を、桃テープを確認しながら進んでいきます。
左側が少しした所を過ぎていくと、比較的綺麗な三等三角点「丹生野」がありました。
ここが地形図に載っている284.1m峰になるようです。
先ほどの展望地から3分ほどで着きました。
周囲には樹木が茂って展望は良くありませんが、南東から時計回りに写した写真を載せておきます。
北側の樹間からは、方面の海岸線が僅かに見えていました。
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三角点の先にもが続いていましたが、
尾根がしている手前まで引き返して、北北西に延びる緩やかな尾根を進んでいきます。
登ってきた尾根には急傾斜ながらも明瞭な道が続いていましたが、この尾根には明瞭な道はありません。
途切れながら続くを辿っていくことになりますが、
尾根の背を外れないように進んでいけば迷うことはありません。
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獣道を辿りながら緩やかに降っていきます。
右側の樹間から僅かに方面の海岸線が見える所もありました。
傾斜が緩やかなのは良いのですが、が茂り気味で倒木も少しあって、
歩くのにあまり快適な尾根ではありません。
山頂から10分ほど降っていくと、湿って平らになった所がありましたが、ヌタ場跡でしょうか。
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小ピーク
ヌタ場跡を過ぎていくと、程なくして軽いになってきます。
次第に幅が広がってくるを登っていくと、
ベンチが設置された小ピークに着きます。
山頂から14分ほどの所になります。
地形図によると、284.1m峰の北西450m辺りにある標高240mほどの高みになるようです。
ここで尾根が西と北へ分かれています。
ベンチの傍にはが立っていて、
北へ続く右の尾根は「たかのす展望台0.4km」となっていました。
獣道を辿るだけでは少々不安でしたが、この道標を見て安心しました。
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引き続き、途切れながら続くを辿りながら、尾根を緩やかに降っていきます。
この時は冬枯れの季節とあって、左側の樹間からは方面の海岸線が、
右側の樹間からは方面の海岸線が見えました。
小ピークから7分ほど降っていくと、ベンチがひとつ設置されていました。
周囲には樹木が茂っていて、展望は良くありません。
先ほどから歩いているこの尾根は、今では少し樹木が茂って道も不明瞭になっていますが、
ベンチが設置されて整備された当初には、明瞭な道が続いていたのでしょうか。
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ベンチを過ぎて、少し降り傾斜が増してくるとが現れます。
植林地の脇を降って傾斜が少し緩やかになると、笹竹が茂るようになりました。
次第に背丈が高くなってきて獣道も途切れ、何処を歩けば良いのか判らなくなりましたが、
を掻き分けながら真っ直ぐに進んでいきました。
藪漕ぎすること3分ほどで笹竹が茂る所から抜け出ると、再びになりました。
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峠
正面に見えてくるのようなものへ向かって、尾根を真っ直ぐ降っていきます。
最後に、朽ち果てた横木の階段をひと降りすると、左右に通る広い道に降り立ちました。
先ほどあったベンチから7分ほど、284.1m峰から29分ほどで降りて来られました。
降り立った所にはベンチが設置されています。
その脇にはが立っていて、右の道は「鎧駅1.25km」、
正面の道は「たかのす展望台 もうすぐ・サワリ鼻展望所0.35km」、
左の道は「余部集落1.4km・餘部駅1.85km」となっています。
別の道標「丹生野三角点0.9km」も立っていて、今降ってきた尾根を指していました。
ここは余部地区と鎧地区を結んでいたかつての生活道路を整備した「たかのすの森」の遊歩道が尾根を越えていく峠になります。
車を止めてきた道の駅へは左の道を降っていくのですが、
その前に、正面に見えているまで往復することにしました。
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たかのす展望台
緩やかな尾根に続く広い道を1分ほど進んでいくとたかのす展望台に着きます。
傍には「松ヶ崎百層崖」と題した解説板も設置されていました。
木組みの展望台に登ってみると、山並みなどをぐるりと見渡せる眺めが広がっていました。
曇っていたのが少し残念ですが、南から時計回りに写した写真を載せておきます。
や解説板にあるも良く見えました。
松ヶ崎百層崖(まつがさきひゃくそうがい)
ここから見える要塞のような岩壁は、松ヶ崎百層崖と呼ばれています。
これは地殻変動により地盤が上昇した陸地が、波によって浸食されて形成された崖で、海食崖と呼ばれています。
この百層崖の岩盤は、堆積物によって形成されたもので、特に砂岩層の白と泥岩層の黒の地層が、
交互に幾十にも重なり合って形成されていることが特徴です。
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峠
解説板の先に延びる尾根を進んでいくと6分ほどでサワリ鼻展望地に着きますが、
手前の峠まで引き返してきて、車を止めてきた道の駅へ向かって、
道標「余部集落1.4km・餘部駅1.85km」の指す右側のを降っていきます。
( サワリ鼻展望地への道と 鎧駅への道は「 たかのすの森」を参照)
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展望地
砕石が敷かれた広くて快適なを緩やかに降っていきます。
尾根の右斜面に続く道を5分ほど降って右側が開けてくると、
「余部地域について」と題したが立っています。
右側に日本海を望む眺めが広がる展望地になっていました。
が綺麗に見え、解説板にある余部埼灯台も僅かに見えました。
脇にはが立っていて、この先の道は「余部集落1.1m・餘部駅1.55km」、
今来た道は「たかのす展望台0.35km・鎧駅1.55km」となっています。
余部地域について
餘部駅と鎧駅周辺の地区は、昭和中期までは城崎郡余部村と呼ばれていました。
この中には、余部橋梁周辺と鎧駅周辺の集落のほか、ここから見える御崎地区も含まれていました。
御崎地区は平家伝説の地であり、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の一員が日本海を漂流してこの地に土着したと言われています。
御崎地区には、伊笹岬という岬に余部埼灯台があります。
この灯台は光点までの海抜が日本一と言われています。
余部集落と鎧駅を結ぶこの歩道は、鉄道が敷設される以前は、生活道路として、余部〜鎧の間をつないでいました。
鉄道ができた当初は現在の餘部駅はなく、余部の人々は鎧駅まで歩いて行き、列車に乗っていたとのことです。
そのころは、この道よりも鉄道のレールに沿って歩いた方が早かったようです。
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切通
右側の樹間からなどを眺めながら緩やかに降っていきます。
が次第に低くなってくる道を進んでいくと、
が設置された切通に着きます。
展望地から5分ほどの所になります。
右側には僅かに日本海が見えました。
ベンチの脇には道標が立っていて、
左のを過ぎていく道は「余部集落0.9m・餘部駅1.35km」、
今来た道は「たかのす展望台0.55km・鎧駅1.75km」となっています。
正面の僅かな高みへ続く踏み跡もありますが、切通を進んでいきます。
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五反畑展望所
切通を過ぎて右へ曲がり、尾根のに続く道を緩やかに降っていきます。
明るくなってくる正面へ向かって真っ直ぐ降っていくと、左へ折れ曲がる所にベンチが設置されていました。
脇に設置された解説板によると、ここが五反畑展望所になるようです。
切通から3分ほどの所になります。
正面の樹木が少し切り払われていて、を眺めることができました。
や余部鉄橋「空の駅」も良く見えました。
五反畑展望所
眼下に見える余部橋梁(余部鉄橋)は、明治45年に完成しました。
これにより、当時計画されていた、山陰本線 京都〜出雲今市(現在の出雲市)間が全通しました。
なお現在の山陰本線(京都〜幡生間)が全通したのは昭和8年のことでした。
余部橋梁はこれより先の、サワリ鼻展望所(約0.95km・30分)においても見ることができます。
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広くてを緩やかに淡々と降っていきます。
かつての生活道路とのことで、これなら大八車も通れたであろうと思いながら降っていきました。
右・左・右と折れ曲がりながら降っていきます。
が茂る所を過ぎていくと、が露出した所があります。
そこを過ぎていくと、道は左へ折れ曲がっていきます。
角にはが立っていて、左へ折れ曲がっていく道は「余部集落0.35m・餘部駅0.8km」、
今来た道は「五反畑展望所0.45km・鎧駅2.3km」となっています。
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道の上に覆い被さるようなの下を過ぎていくと、道は右へ折れ曲がっていきます。
が茂る所を少し曲がりながら降っていくと、
樹間からが見えてきます。
笹竹が少し茂る所を右へ曲がって降っていくと分岐があります。
角にはが立っていて、左へ折れ曲がっていく道は「余部集落0.15m・餘部駅0.6km」、
今来た道は「五反畑展望所0.65km・鎧駅2.5km」となっています。
右にも踏み跡がありますが、地形図に載っている破線の道のようでした。
道標の脇にはベンチが設置され、左側にはなどを眺められる景色が広がっていました。
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左へ折れ曲がり、正面に見えるへ向かって降っていくと車止めがあります。
たかのすの森の遊歩道はここで終わりになります。
峠から28分ほどで降りて来られました。
『使って下さい』ということなのか、脇には木製や竹製の杖が何本も置かれていました。
車止めの先には「たかのすの森の植生」と題したがあります。
たかのすの森の植生
ここから展望所へ至る道沿いの植生は、ふもと付近はスダジイ主体の常緑広葉樹の林、
途中からはヒノキ(針葉樹)の人工林となっています。
坂道を登りきると、ケヤキなどの落葉広葉樹の林になります。
広葉樹は根元で幹が分かれているものが多くみられますが、
これは、かつて人によって伐採されたときに、株から新たに生えたいくつかの芽がそのまま伸びて大きくなったためです。
主要な樹木には名札を付けていますので、確認してみてください。
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五反畑橋
コンクリート舗装されたを右へ降っていきます。
左から来る未舗装路を合わせて、長谷川沿いに右へ進んでいくと五反畑橋が架かっています。
橋を渡って国道178号に出ると、右側に「余部・鎧 たかのすの森 案内図」と題したがあります。
284.1m峰から降ってきた今回の尾根に「丹生野三角点へ」として峠から続く道が描かれているので、
案内板が設置された頃には、山頂まで明瞭な山道が続いていたように思われます。
余部・鎧 たかのすの森 案内図
現在地〜鎧駅まで約2.75km(約60分)
みどころ
◇遊歩道 |
鎧駅へつづくこの道は、かつては生活道として使用されていた道です。
途中には、日本海や余部橋梁を見渡せる箇所があり、景色を楽しみながら散策できます。
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◇森林 |
かつての生活道路の周囲にあるため、過去に伐採等により利用されてきた森です。
但馬地域の海岸付近の自然林として典型的なスダジイの林と、伐採等の人為の影響を受けて成立した、コナラやケヤキ、アカマツの林があります。
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「新ひょうごの森づくり」に基づく里山ふれあいの森づくり
この森では、地域のみなさまのご協力のもと、自然とふれあう里山林として活用できるように整備を行いました。
人が入りやすいように、不要な木の伐採や草刈を行って明るい森にし、遊歩道を整備しました。
また、ベンチ・案内ひゅおしき・展望台を設置して、散策や環境学習などに利用できるようにしました。
手入れされた明るい森林は、さまざまな生物の生息の場にもなります。
(平成22年3月 兵庫県 香美町)
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余部地区
案内板の斜め道路向かいに、車を止めておいた道の駅あまるべがあります。
お昼を少し過ぎた時刻になったので、駐車場を利用させて頂いたことでもあるし、
道の駅に入って軽く食事をしていきました。
中では「余部鉄橋の歩み」などが紹介されていました。
土産物などを売っている所の端の方にと畳席がありました。
食券を買ってカウンターに出し、出来上がると番号で呼び出され、自分で席まで運んでいき、
食べ終わると返却口へ持っていくというセルフサービス形式になっていました。
ソバが食べたい気分だったので、を注文してみました。
ワカメが結構入っていて、磯の香りが漂ってきました。
散蓮華も付いてきましたが、特に使いませんでした。
さようなら!ありがとう!そして後世へ…
余部鉄橋の歩み
余部鉄橋とは
○位置 |
兵庫県美方郡香美町香住区余部
山陰本線鎧・餘部間(京都起点188k637m97)
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○形式、規模 |
トレッスル式高架橋 橋台面間長309.42m 高さ41.45m
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○工期 |
着工:明治42(1909)12.16 竣工:明治45(1912)1.13
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○設計 |
基本設計:ポール・エルウオルフェル 実施設計:古川晴一
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○主な数量 |
鋼材重量:994t ペイント塗装面積:18,982u
リベット数:約67,000本 足場丸太:約20,000本
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○工事費 |
総工事費:331,535円(当時)
(明治40年の1円は平成10年では1,088円 33万円・・・3億6,000万円)
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○施工 |
基礎工事:鉄道興業合資会社
橋脚製作:米国セールブレーザ会社
橋脚組立、橋桁組立・架設:鉄道院直轄
橋桁製作:石川島造船所
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○工事担当技師 |
主任技師:橋本敬之
工区主任技師:岡村信三郎
工区技手:上原直吉
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以下、省略…
建設の計画
建設工事
工事完成
餘部駅の誕生
保守の足跡
列車転落事故
新橋架け替えへ
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