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湊宮地区
久美浜湾の西岸に続く府道49号(久美浜湊宮浦明線)を北上していきます。
「筏のりば」を過ぎて更に進んでいくと、信号機のないがあります。
角には菱形のが立っていて、正面へ続く府道49号は「夕日ヶ浦9km」「小天橋2km」、
左へ分かれていく府道122号は「風蘭の館3km」「蒲井浜2km」となっています。
交差点を左折して府道122号を登っていくと、左へ曲がるヘアピンカーブの手前に、
路肩の広がった駐車スペースがあったので、ここに車を止めました。
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登山口
駐車スペースの先へ100mほど進んだ所のヘアピンカーブの角に、じじら山へのがあります。
入口には「じじら山展望台 山頂まで500m」のが立っています。
道路の左側には「路面凍結防止剤」が入った半円筒形の黄色いがありました。
ここから山頂までは数年前に再整備が行われ、明瞭な道が続いています。
浅い谷筋へ入ってすぐの所に、丸太を組んだがありました。
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両側に丸太が敷かれたを進んでいきます。
散乱している枝などを避けながら進んでいくと、横木の階段が始まります。
丸太を組んだ小さなを過ぎて次第に登り傾斜が増してくると、
階段沿いにトラロープが続くようになります。
階段とロープは尾根の肩まで続いていました。
それほど危険な様子はないのでロープに掴ることはありませんでしたが、
階段を斜めに横切るように張られている所が結構あって、何度も身を屈めてロープの下をくぐっていくのが少々面倒でした。
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登山口から3分ほど登っていくと、急にが生い茂ってきました。
モミの木の葉を小さくしたような葉をして細い茎でしたが、シダ類の仲間でしょうか。
これまでに見かけたことのない植物だったので気になりました。
横木の階段は植物の下に隠れるようにして続いていたので、膝で掻き分けながら登っていきました。
ずっとこんな様子なのかと心配していると、茂みは30秒ほどで終わって、再びが現れました。
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の段差は結構ありました。
間隔もそれほど狭くはないので、登るのに苦労しました。
もう少し間隔を狭めて段差を低くするか、ジグザグに折れ曲がるコース取りをするなどの配慮があると登り易いのにと思ったりしました。
次第に息が切れてくるので、何度も立ち止まって呼吸を整えながら、ゆっくりと登っていきました。
登山口から5分ほど登った所の脇に、丸太を組んだベンチがありました。
『休みながら登って下さい』という心遣いでしょうか。
有り難いとは思うものの、今回は休憩することなく過ぎていきました。
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更に続くを喘ぎながら登っていきます。
振り返ると、樹木の間からが見える所もありました。
歩みを止めて呼吸を整え眺めを確認しながら登っていきました。
階段が少し蛇行するようになると、正面の樹間に稜線が見えてきました。
もうすぐ尾根に出られると分かって、気を取り直して登っていきました。
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次第に近づいてくるを目指して横木の階段を登っていきます。
が終わった先へ続く横木の階段を少し登っていくと、左右に通る緩やかな尾根の肩に登り着きました。
には降り気味の尾根が続いていますが、
のすぐの所に三角点があるので、先ずは左へ進んでいきました。
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173.5m峰
左へ曲がると、すぐに松の幼木が茂っていました。
その一段高い所にがあるので、地形図に載っている173.5m峰になるようです。
登山口から13分ほどで登って来られました。
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山頂の東側にはを見下ろせる眺めが広がっていました。
小天橋・葛野浜・箱石浜・浜詰などの海水浴場になっているや、
久美浜湾に突き出すの先端も見えていました。
西側にはの海岸線が続いていました。
海に突き出したや、神社のあるも良く見えました。
素晴らしい眺めを楽しみながら、急な階段を登ってきた疲れを癒していきました。
小天橋海水浴場の駐車場で見かけた案内板の解説文を参考までに載せておきます。
小天橋
久美浜町湊宮から箱石にかけて久美浜湾と日本海を分ける砂州は、
日本三景の一つ「天橋立」を思わせることから「小天橋」と呼ばれています。
小天橋砂州は、葛野や湊宮地区に点在していた古砂丘を新期の砂州や砂丘がおおって、
一つながりの砂州になったものと考えられています。
この小天橋により閉じられた周囲28kmの潟湖が久美浜湾です。
海水と淡水が混じったこの湾内では、カキの養殖が盛んに行われており、
その景観は京都府の文化的景観に選定されています。
(京丹後市観光協会)
久美浜湾
小天橋(砂州)によりせきとめられた湾で、幅約50mの大向水道で、日本海とつながっています。
湾には、カモなどの多数の渡り鳥も訪れます。
(環境省)
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18分ほど居た173.5m峰を後にして、丸太を組んだベンチを過ぎて、
南へ続く広いを緩やかに降っていきます。
歩き始めてすぐに、左側の樹間から丹後半島のを眺められる所がありました。
網野町塩江地区から網野町磯地区にかけての海岸線でしょうか。
広い尾根を降っていくと、程なくして緩やかになった浅い鞍部になってきます。
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鞍部をしばらく進んでいくとになってきますが、173.5m峰への急な階段に比べれば楽勝です。
息が切れることもなく、登っていくことができました。
を過ぎていくと、
樹木に矢印を書いたが取り付けられていて、正面の尾根を指していました。
登山口からここまでは標識らしいものを見かけなかったので、
文字は何も書かれていませんでしたが少し安心しました。
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じじら山
次第に近づいてくるを目指して尾根を登っていくと、緩やかに続く小広い高みに着きました。
ここがじじら山(四神ヶ嶽)になるようです。
173.5m峰から8分ほどで到着しました。
地形図によると、南北に続く標高190mほどの緩やかな高みになるようです。
少し先へ進んだ所にがあって、
背後には「建暦年間 蛭児大神 鎮座地乃跡」と書かれたが立っていました。
祠の中には、何故だか一升瓶がお供えされていました。
山名の謂れなどを記したものは見かけませんでしたが、行き交う千石船をここから監視していたのでしょうか。
「四神」とは青竜・朱雀・白虎・玄武のことでしょうか。
「じじら」という名前の意味もよく分かりませんでした。
四神
四神(しじん)は、中国の神話、天の四方の方角を司る霊獣である。四獣(しじゅう)、四象(ししょう)ともいう。
東の青竜(せいりゅう)・南の朱雀(すざく)・西の白虎(びゃっこ)・北の玄武(げんぶ)である。
(出典:ウィキペディア)
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東側が少し開けていて、小天橋を見下ろすことが出来ました。
大向水道の先にあるの集落を眺めていると、
グラウンドの傍にが見えました。
この山頂にある小祠は、その神社のある方角に向けて設置されているようでした。
景色を眺めながら、ここでも少し休憩していきました。
後日に、山頂から南南西に続く尾根から大向地区へ降るルートを歩きました。
(「 じじら山」を参照)
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173.5m峰
8分ほど居た山頂を後にして、来た道を引き返していきます。
浅い鞍部を過ぎて軽く登り返していくと、じじら山から8分ほどで173.5m峰に戻ってきました。
再度、との眺めを確認してから、
少し手前から西に続くを降っていきました。
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登山口
喘ぎながら登ってきた急な階段も、降る時には楽ちんであります。
少し段差が高いものの、快適に降っていけました。
5分ほど降って丸太を組んだの脇を過ぎていくと、
が茂る所を降っていきます。
丸太を組んだ小さなを過ぎて浅い谷筋になってくると登山口に着きました。
173.5m峰から11分ほどで降りて来られました。
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湊宮地区
車道に出てを再度確認してから、車を止めておいた駐車スペースに向かっていきました。
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家路に着く前に、山頂から見えていた蛭児神社を訪ねていきました。
に車を止めて湊宮地区を歩いていくと、東側を向いて蛭児神社がありました。
「蛭児神社」の扁額が掛かる鳥居を過ぎて境内に入っていくと、本殿と拝殿から成るがありました。
正面には「蛭児大明神」のが掲げられていました。
社殿の左側には、右側にはとがありました。
また、左側にはがあって、先ほど登ってきたじじら山が正面に見えていました。
蛭児神社
御祭神 天津日高彦穂々出見尊 火遠理命 豊玉毘賣命
由緒 当社は往古日留居大明神と唱え、四神ヶ嶽に奉斎されておりましたが、
鎌倉時代の建暦年間(1211〜1213)、勅諚に依り、将軍・右大臣源実朝公が、現在の地に移転したといわれています。
『玉葉集』に鎌倉右大臣の歌があります。
「神風や 朝日の宮の宮移し 影長閑なる代にこそ有けれ」
とあります。
朝日の宮は即ち当社のことで、当時の造営が成り遷宮の有様を詠んだものであります。
後年社殿の炎上によって大永2年(1522)壬年8月18日再造営がなされた事は、丹後旧事記其の他の記録により明らかであります。
幕政時代、湊宮に船見番所がありましたが、享保2年代官飯塚二郎の代に、船見番所を改めて陣屋が置かれた。
其の当時、代官の崇敬があった様で、御剣一口の奉納の記録があります。
日留居大明神は延喜式の所載(第60代後醍醐天皇の時代897〜929に編修された神社明細帳)の村岡神社との説があります。
日留居は蛭児であることから後年社名を蛭児神社と称するようになった。
明治43年拝殿を改築し、境内社稲荷神社は元稲荷山にあり、小泉市太夫代官の奉祀崇敬する社で、明治維新の際、現地に移転した。
さらに、平成21年6月御本殿廻りの玉垣を僅か取り除き改修、其の他狛犬、灯籠の移設をも施した。
正面のみ石垣を新調し周囲は旧石垣を積みなおした。
境内西北程にも四神ヶ嶽山頂に向かい蛭児神社御鎮座の跡の遥拝所を造営し鳥居を建立した。
四神ヶ嶽(ジジラともいう) 蒲井村より大向村へ越える処の右の方に当り、この山上に村岡ノ神社がある。日留居大明神と云うとある。
「丹哥府志」に、次のような記述があります。
関が原の役のとき、福知山の城主小野木継殿介が、細川越中守の留守に乗じて、田辺の城を攻めた。
是に於いて、玄旨法印は、長岡玄蕃頭の妻及び松井佐渡守の妻子を皆、田辺城内に呼び寄せ、
その居城に火を放ち、一国一城のほかは、更に城塁を破壊し、悉く田辺城内に籠った。
しかし、なにぶん急なことであり、久美より田辺に待機する時間はなかった。
そこで、久美にいた佐渡の守の妻子は山深く隠れるように下知された。
よって、大西三郎佐衛門、大西惣兵衛などお供してこの山に隠れたとあります。
摂社 |
大川神社 御祭神 五元五柱神 保食神 大己貴神 少彦名神 埴安姫神 大土御祖神
日御碕神社 御祭神 天照皇大神 素盞鳴尊
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境内社 |
稲荷神社(天満宮合祀)
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蛭児神社御鎮座の跡 遥拝所
今から凡そ798年前の建暦年間(順徳天皇の御代)に蛭児神社が四神ヶ嶽(ジジラ)の山頂に奉斎されていたものを現在のこの地に鎮座されたといわれております。
この石垣と神明鳥居は、その本宮であった四神ヶ嶽の山頂に向かい遥拝所として平成21年6月吉日造営建立した。
(平成21年10月吉日)
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境内の左側には千石船の解説板が設置された建物がありました。
この湊宮地区は往時には廻船業で大いに賑わった所のようでした。
ガラス戸から中を覗ってみると、3mほどのが宙吊りにされていました。
千石船の由来
正親町天皇の天正10年、湊宮が時の城主一色守護の領地であった頃、
同地に五軒家(木下、本小西、浜小西、下家、新家)という回漕業を営む豪商が住み、
土地の大半はこれらの家々が屋敷として所有し、住民とは親方子方の関係を結び、
子方は全て五軒家に衣食さし持船38隻に乗り組ませて旭の港を根拠地にして外国と貿易をなし盛威を振るっていた。
寛永13年、幕府の命令で(鎖国時代であった)船の型を千石船に制限された。
それ以来国内貿易に転じ、北はエゾ松前(北海道)から西は下関(萩)兵庫(神戸)難波(大阪)江戸(東京)までをその活動の範囲と成した。
これがため、家運は以前にも増して益々繁盛し、津々浦々にその威勢を知られるところとなった。
その後寛政11年、住民が豊漁祈願と併せて五軒家の全盛時代の遺跡を記念するため、
この船の模型を土地の氏神様に奉納したものである。
(蛭児神社)
府重要民族資料 千石船 三社丸
長さ2.98m 幅0.80m 深さ0.90m
江戸時代、湊宮には廻船問屋が多くあった。
この千石船三社丸は廻船問屋仙助ほか氏子崇敬者4名が寛政7年正月(1795)奉献したものである。
千石船は米千石を積むのであるが、船の大小は帆の大きさで決まり、
帆二十反が千石、この船は千四百石の大きさの模型として作られている。
三社丸は当時の氏神、蛭児神社と摂社日御前神社、大川神社の三社に因んだものである。
明治時代までは旧暦正月11日船おろしと言う行事がおこなわれて海上の安全と豊漁が祈願なされていた。
(久美浜町、蛭児神社)
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