猫崎半島
概 要 猫崎半島は豊岡市竹野町にある兵庫県最北端の半島で、賀島半島とも呼ばれる岬です。 遠望すると猫がうずくまったように見えることから「猫崎」と名づけられたようです。 今回は賀嶋公園から高みを越えて、先端にある猫埼灯台までの道を往復します。 かなり登り降りのある山道が続きますが、途中までは石仏たちが出迎えてくれます。
起 点 豊岡市竹野町 竹野駅
終 点 豊岡市竹野町 竹野駅
竹野駅…鷹野神社…竹野浜…五社神社…賀嶋公園…立江地蔵尊…奥院…141.4m峰…馬の背…猫埼灯台…波食甌穴群…北防波堤灯台…竹野駅
所要時間 3時間40分
歩いて... 奥院から猫埼灯台までの道にはかなり急な登り降りがあって息が切れてしまいましたが、 各所にロープ柵が設置されて安全になっていました。 波食甌穴群を訪ねるのは、潮が引いて磯が現れる小潮の干潮時が良さそうでした。
関連メモ 猫崎半島
コース紹介
竹野駅
竹野駅(JR山陰本線)から歩いていきます。
駅のホームには「竹野浜(日本渚100選選定)と猫崎半島」と「北前船と北前館」と題した案内板がありました。 駅を出た右側に「」と題した大きな案内板があり、 今回歩く猫崎半島のイラスト風の地図が載っていました。 駅前の横断歩道を渡った所には「仲田光成書碑」と解説文を刻んだ碑がありました。
竹野浜(日本渚100選選定)と猫崎半島
竹野浜は白い砂浜と猫崎の緑、海の青さが調和し、大変美しく日本渚100選に選ばれた山陰随一の海水浴場です。 猫崎半島は参院海岸国立公園の特別保護地区に指定され、 モチノキ、ヤブニッケイ、ツバキなど暖地性の植物がみられ、学術的に貴重なものになっています。 遊歩道を登り展望台からは海から登る朝日と海に沈む夕日を見ることができます。
JR山陰本線竹野駅下車 徒歩20分、バス5分
北前船と北前館
竹野は北前船の交易で栄えた町。 長い航海で疲れた海の男たちが、白砂青松の竹野の浜にどれだけ心をなごませたことか。 海風に吹かれ、潮の香りを胸いっぱいに吸い込むと男たちが宝と夢を求めて旅立った往時が偲ばれます。
北前館(竹野温泉、北前資料館、レストラン)JR参院本線竹野駅下車
仲田光成書碑
春風や堤ながうして家遠し 与謝野蕪村
 (豊岡竹野かな書碑街道づくり実行委員会)
仲田光成先生書碑
仲田光成(本名幹一)先生は、明治三十二年(1899)、兵庫県城崎郡中竹野村(現豊岡市竹野町)に生まれ、 平成十五年(2003)に百四歳で死去されるまで明治・大正・昭和・平成の四代を生き抜かれた。 大正十年(1921)に上京して学習院に奉職、尾上紫舟師に就いて近代かな書道の創成に多大の功績を残された。 特に第二次世界大戦後の大字かなにおける「仲田様式」の確立は他の追随を許さぬ独歩の仕事であった。 ここに故郷竹野の白砂青松の海景から想を得たと言われる「はる風や堤ながうして家遠し」の与謝野蕪村句による書を碑に刻し その偉大な業績を永遠に伝えんとするものである。
平成十九年十一月二十五日 豊岡竹野かな書碑街道づくり実行委員会
竹野西交差点を直進して、二車線道路沿いの歩道を真っ直ぐ進んでいきます。 「耕地整理記念碑」を過ぎて竹野川に架かる竹野新橋まで来ると、 これから向かうが見えるようになります。 低いながらもかなり急峻な山のように思えます。 手前に立つ太陽エネルギー時計塔の袂を過ぎて、歩行者用の橋を渡っていきます。
太陽エネルギー時計塔
この時計塔は昼間、無限無公害の太陽光線を電気エネルギーに変え、 これをバッテリーに蓄電し、夜間の照明に利用し、時計も作動させております。
 (五周年記念事業 竹野ライオンズクラブ)
もずくカニ漁をされる皆さんへ
この川は、漁業権が設定されておりますので、以下の点にご注意下さい。
(1)組合員以外の人は、カニ漁をすることができません。
(2)もずくカニ漁をする時は、組合員証を携帯して下さい。
  (注)一人につきカゴは5個まで、ひもに名札をつけて下さい。
(3)もずくカニ漁をする期間は、7月1日から11月30日まで。
 (平成15年2月16日 竹野川漁業協同組合)
竹野交差点を直進していくと、民家などの建物が建ち並ぶようになります。 右から来る道を併せていくと、「」の扁額が掲げられた小祠があり、 中には数体のお地蔵さんが安置されていました。 道幅が広がってくると竹野小学校前交差点があります。 角には「南無阿弥陀佛」と刻んだ大きな石碑がありました。 右側の道のすぐ先にある竹野小学校を見送って正面の道を進んでいくと、 「御用地館 旧住吉屋邸 仲田光成記念館」の看板の立つ建物がありました。 玄関脇には「住吉屋歴史資料館」「仲田光成記念館」の垂れ幕もありましたが、立ち寄るのは省略しました。 隣にも立派な建物が並んでいて、その前には「元庄屋家松の由緒」と題した記念碑もありました。 屋敷の中に大きな松がありましたが、それが「但馬の名木」と言われている木でしょうか。
元庄屋家松の由緒
此の松は寛政十年の頃当家老母が蛇々山より持ち帰り移植 せるものなり爾来百七十有余年を経その勢旺盛樹姿威容にして 「但馬の名木」の声高し当主鋭意之が保存に盡力し今日に至る
高さ十米五十糎(約六間) 太さ一米七十糎(約五尺七寸) 枝張十六米五十糎(約九間)
昭和四十二年正月吉日 当主与田治郎右ヱ門建之
衆議院議員 伊賀定盛書
鷹野神社
竹野郵便局を過ぎていくと、大きなの生える所が見えてきます。 その前まで来ると「式内鷹野神社」と刻まれた石柱や「鷹野神社」の扁額が掛かるがありました。 狛犬が控える鳥居をくぐって石灯籠が両側に並ぶ参道を進んでいくと、鷹野神社の社殿がありました。 本殿の屋根には4本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 「天神さん」ということで、参道の脇には牛と思われる石像もありました。 道を挟んだ左側には、「鷹野神社末社舟霊社」の札が掛かる社、赤い鳥居と祠、「古川復一生誕地」の石碑、石祠などが並んでいました。
式内 鷹野神社
御祭神 主祭神 武甕槌神
相殿神 天穂日命、天満大自在天神(菅原道眞公)
神社合併による御祭神
須佐之男命、建御雷命、伊波比主命、五男三女神
御由緒 当社は延喜式神名帳に載っている古社である。 御祭神については武甕槌神(天つ神)を天孫系神族として尊崇し、 御神威をあがめて出雲系神族(国つ神)を制御するため鎮祭されたと伝えられている。 後世に至り菅原道眞公の怨霊を恐れるとともにその卓抜した文徳をあがめ、文道の神として天神信仰が広がった。 当社も道眞公を相殿に奉斉し、ご神紋も梅鉢を用い、浜の天神さんとして親しまれている。
竹野浜
鷹野神社の左側の道を真っ直ぐ進んでいくと、「竹野浜海水浴場」と題した解説板がありました。 辺りから『ウァ〜ォ!ウァ〜ォ!』という大きな声が聞こえてきたので、 声のする方を探してみると、民家の間にある狭い餌場の前で猫が睨み合いをしていたのでした。 民家などが立ち並ぶ道を進んでいくと、程なくして松並木が続く左右に通るに出ました。 正面にはの道標が立っていて、 左の道は「鹿嶋公園0.7km・北前館0.3km」、右の道は「竹野浜バス停0.2km」、 今来た道は「弁天浜0.8km・鷹野神社0.1km」となっていました。 道路を渡って竹野浜に出ると、これから向かうがよく見えました。 道草などをしていたこともあって、竹野駅から35分ほどかかりました。
竹野浜海水浴場
竹野浜は、兵庫県の最北端に位置し「渚百選」「水浴場55選」に選ばれ、 景観・水質・砂浜と三拍子そろった海水浴場に最適の浜である。 その昔、北前船の根拠地として知られ、多くの船主・水主が住み、 北海道から大阪までの「西回り航路」で活躍し、栄えた地であり、北前館はその資料館である。 江戸期より著名人の来訪が多く、柴栗山の「望満詩碑」、安藤広重の「諸国名所百景」などがあり、 今は俵万智の歌碑も建っている。 この砂浜の西端にある鹿嶋半島はその姿から「猫崎」とか「キューピー」とか呼ばれ、 心なごむ優れた景観を演出している。 昔、離れ島であった鹿嶋は白砂を集めて陸繋半島となって1キロに及ぶ砂浜を形成し、 川の流入をとめ北風を防いで、水清く、波おだやかな遠浅の浜となっている。 海からの日の出、日の入りを同じ場所で見られる全国でも数少ない地の一つであり、 特に西の海に沈む夕日は圧巻である。
 (竹野町、竹野町観光協会)
猫崎半島へは左へ進んでいくのですが、右の少し先の竹野浜バス停の傍に近畿自然歩道の解説板があるので、 ちょいと立ち寄っていくことにしました。 ここから賀嶋公園までの道は「兵庫県最北端猫崎半島をめぐるみち」にもなっていて、 そのが載っていました。
近畿自然歩道概要
全国で8番目の長距離自然歩道として整備され、近畿2府4県にまたがる総延長は約2万1千kmに及びます。 兵庫県では65コース、総延長約900kmとなり、現在地である"兵庫県最北端猫崎半島をめぐるみち"の起点は、 ちょうど京都府へとつながる連絡口となります。 県内のルートは日本海、瀬戸内海、太平洋に開けた多彩な海と摂津、播磨、但馬、丹波、淡路の5つの国を巡りながら、 自然とふれあい、景勝地や史跡をたずねる路線で、主に4つのルートに分かれています。
日本海沿岸ルート
(豊岡市〜浜坂町)
京都府から兵庫県最北端の猫崎半島を通り、今子浦、但馬松島、鎧の袖、但馬御火浦など、 日本海の荒波に削られてできた数々の洞門、奇岩、断崖や、磯浜など変化にとんだ海岸線の景色や漁村の風景を眺めながら、 浜坂町の城山に至り鳥取県境で中国自然歩道に連絡するルート。 沿岸には温泉や海水浴場などもあり、豪快な自然とともに、海の幸や海岸でのレジャーを楽しめるルートです。
山陽道ルート
(川西市〜上月町)
大阪府から能勢妙見山に入り、裏六甲の景色を眺望できる道を経て、三木へ至る。 さらに播磨地域の丘陵地帯を西へ進み、法華山一乗寺や書写山円教寺を訪ねたのち、 播磨の小京都と呼ばれる龍野の街並みを経て上郡町の皆坂の滝へ至る、中国自然歩道に連絡するルート。 山陽の多様な歴史と山里や田園風景を楽しめるルートです。
子午線円山川ルート
(城崎町〜明石市)
城崎から円山川に沿って南下し、玄武洞を訪れた後、出石の城下町、糸井渓谷、竹田城址を経て丹波地方へ至る。 水分れ公園(日本一低い中央分水界)、三尾山、多紀アルプスを通って丹波篠山を訪ねる。 立杭陶の郷、日本へそ公園、五峰山、三草山を経て播磨平野に入り、明石市街を抜けて明石港へ至る。 但馬、丹波、播磨の三つの地域の自然・歴史・文化にふれることのできるバラエティに富んだルートです。
淡路島ルート
(淡路町〜三原町)
(洲本市〜南淡町)
明石海峡を経て岩屋港から伊弉諾神宮を通り淡路島の西側に出る。 高田屋嘉兵衛記念館、五色浜や慶野松原の美しい海岸線を訪れ、 近郊農業地帯の三原平野を通っておのころ島神社へ至り、西へ向かうと、 淡路人形浄瑠璃資料館、鳴門海峡から、徳島県へ連絡するルート。 途中、灘黒岩水仙郷や沼島にも足をのばせる。 また、東へ向かうと、鮎屋の滝、三熊山(洲本城跡)を経て洲本港から和歌山県へ連絡するルート。 古代のロマンと四季折々の花景色や雄大な海岸風景を堪能できるルートです。
 (環境省、兵庫県)
兵庫県最北端猫崎半島をめぐるみち(竹野浜バス停〜切浜バス停) 5.8km
近畿自然歩道は、私たちの生活が近代化する中で、自然の残っている地域や名所・旧跡を帯状に結び、 身近に歴史や自然とふれあえるよう整備したものです。 コースには道しるべがありますのでそれにしたがってお歩きください。
【鷹野神社】  賀嶋天神など複数の神を祭神として祀り、船絵馬や方角石など北前船の遺産を多く残しています。 「浜の天神さん」として親しまれています。
【北前館】  竹野は北前船の寄港により、江戸時代から明治末期にかけて廻漕業の村として栄えました。 館内の北前船資料室には、各地の文化・風俗を運んだ商船、北前船の歴史を物語る貴重な資料が展示されています。
【休暇村竹野海岸 竹野スノーケルセンター・ビジターセンター】  山陰海岸国立公園内での自然観察、野外活動の拠点として整備されたレクリェーションエリアです。 宿泊施設、野外活動施設があり、エリア内のスノーケルセンターでは、竹野海中公園の自然を紹介する展示、 スノーケリングによる磯や海中の自然観察指導を行っています。
【淀の洞門】  切浜の北端の岬に、日本海の海蝕作用によってつくり出された洞窟は高さ約18メートル。 神代の昔よりあるといわれ、スサノオノミコトの伝説が語り継がれています。
竹野浜バス停から引き返してきて、 猫崎半島を正面に眺めながら、砂浜沿いに設置されたレンガ敷きのを進んでいきます。 陸側には緑地が続いていて、などが幾つも設置されていました。 「北前船の里竹野浜」と題したや、 北前船を模ったもありました。
仲田光成書碑
吹く風の心は常にあらめども夏こそ人に親しまれけれ 賀茂真淵
 (豊岡竹野かな書碑街道づくり実行委員会)
北風や 心志て吹け 子らの為
ここ竹野浜から臨む東方海岸線の断崖に延びる道路は昭和三十七年に自衛隊の作業により開通した。 灼熱酷寒の厳しい自然環境の中での難工事であった。 この句は当時の自衛隊第三施設大隊長西村喬二氏が工事の陣頭指揮をとりながら 北風吹きつける絶壁の小径を通学する当地の子どもたちの苦難を想い詠われたものである。 風雪に耐え北前船を全国に雄飛した先人その輝かしい足跡と精神を今に引き継ぎながら 困苦に負けぬ竹野の子どもたち健全な成長を願ってこの碑を建てる。 いつの世も子どもたちは次代を担う宝である。
平成十三年三月吉日 竹野町長 吉岡孝
北前船と竹野浜
竹野の北前船(千石船)は、江戸中期以降明治末、鉄道が開通するまで加島半島窓島を停泊地として、 小さな方位磁石をたよりに日本海の荒海を北は北海道江差、西は九州唐津、 瀬戸内を通って大坂まで物資輸送に活躍した大型木造貨物帆船で、当地方では「千石船」と呼んでいる。 最盛期には六十有余の廻船があり、「竹野の大浜」とよばれ、当時の豪商船主の家宅も現存している。 竹野小、中学校には精密な「千石船」の模型がある。 昨年五月北前船の復元船「辰悦丸」が竹野に寄港した。 商工会青年部結成二十周年を記念し、この大絵馬を作制した。
昭和六十二年 商工会青年部
海へ突き出す堤防の所まで来ると近畿自然歩道の道標が立っていて、 左の道は「賀嶋公園0.4km」、今来た道は「竹野浜バス停0.5km・弁天浜1.1km」となっています。 堤防の縁には船舶が幾艘も係留されていてになっているようでした。 道標に従って左折していくと、左右に通る道路に出ます。 その角にも近畿自然歩道の道標が立っていて、 右の道は「賀嶋公園0.4km」、今来た道は「竹野浜」となっています。 が続く道を右へ進んでいくと、左側の海辺に駐車場がありました。 入口には駐車場管理事務所がありますが、 夏の海水浴シーズンにだけ管理されているのか、この時には窓は閉じていました。 松林の中に「」があって、 これから向かう猫崎半島も描かれているので参考になります。
竹野地区の概要
竹野町の海岸線は、兵庫県の最北端の猫崎半島や海蝕断崖や砂浜があって変化に富み、 いたるところに美しい海岸風景がみられ、昭和38年山陰海岸国立公園に指定されました。 また、黒崎鼻周辺の海域は、海藻やベラ・チャガラ・イサキなどの魚が多く、 海底は変化に富む地形で、すばらしい景観を構成しており、海中公園になっています。 竹野町には、国立公園の自然とのふれあいを深めるための自然観察、テニス、キャンプ、 宿泊などの施設が整備された竹野海岸国民休暇村があります。 国立公園の主な見どころは、竹野浜、猫崎半島、淀の洞門、ハサカリ岩などです。 自然を大切にして心ゆきまで探勝してください。
■見どころ
海中公園:水深10メートル以内の起伏に富んだ海底、豊富な種類の魚貝類が生息しています。
ハサカリ岩:凝灰角礫岩の亀裂にそって洞門ができ、次いでその天井の岩が落ちてひっかかってできたもの。
淀洞門:岬の先端部にある洞門で、陸路からも行くことができます。 凝灰角礫岩の亀裂にそって浸食されてできたもの。
おう穴群:平磯の岩盤のへこみに石がひっかかり、波でぐりぐりまわされてできた穴です。
千石船係留基地:江戸時代からの物資輸送に活躍した大型木造貨物船「千石船」の基地が窓島にありました。
賀島公園:竹野浜の西端、猫崎半島の小高い山の上にある公園。眼下に青い海と竹野海岸一体が見渡せる眺望豊かな公園です。
●ジャジャ山公園 ●B&G海洋センター ●切浜海水浴場 ●竹野海水浴場 ●弁天浜キャンプ場
●竹野海岸国民休暇村 ●竹野スノーケルセンター ●北前館 など
■自然
野鳥:ホオジロ、メジロ、エナガ、コゲラ、ウミウ、セグロセキレイ、ヒヨドリ、シジュウカラ、ハヤブサなど
植物:ツバキ、ユウスゲ、ワカサハマグキ、ツワブキなど
:目前の日本海は対馬暖流が流れています。
山際へ進んでいくと、真新しい狛犬が控える鳥居が立っていて、脇に「小高翁顕彰碑」もありました。 鳥居の奥にはがあって、 「五社大明神」と書かれた板が取り付けられ、 「愛宕神社」「八幡宮」「天照皇大神宮」「春日神社」「住吉神社」と記されていました。 中には社がひとつだけ安置されていましたが、これらの五社が祀られているようでした。 「五社大明神」と書かれた紅白の提灯や千羽鶴もぶら下げられていました。 鳥居の右側から石段が山の上へと続いていました。 右側の道路の先には「賀嶋山八十八ヶ所霊場入口」の石碑が立っていて、 賀嶋公園はその道から行く方が近いのですが、 先ほどの案内図によると山の上に五社神社があるようなので、登っていくことにしました。
小高翁顕彰碑
小高熊造翁明治五年六月六日竹野村に生る 明治二十 八年同村書記に職を奉じてより収入役助役村長を歴任 すること実に三十五年その人格識見の故に亦各種団体 の長に押されその生涯を公共の福祉に尽して寧日なし  大正三年漁業協同組合長となるや至誠一貫組合の発 展に努めて二十八年この間兵庫県水産会副会長城崎郡 水産会長の任に就き或は兵庫県機船底引網組合但馬漁 船保険組合を創立その長となり水産の振興に献身す水 産兵庫の今日の隆盛翁の活動と徳望に負うこと大なる は衆目の一致するところ宣なるかな昭和十二年大日本 水産会総裁宮殿下より功績章を授けらる 郷土の人士 翁を慕うもの多くその徳をしのび業蹟を讃え後代にこ れを顕彰するの議翁と最も縁深き組合によってなりこ こに由縁の地を卜して碑を建立す
水産庁長官 清井正 撰
五社神社 (標高53m)
右・左と曲がりながら続く石段を登っていきます。 次第に石段が途切れ気味になってくる道を登っていくと、麓から4分ほどで小広くなった頂上に着きました。 地形図に載っている53m峰になるようです。 石畳の参道を進んでいくと、両側に控える狛犬の先に「五社大明神」の扁額が掲げられた社殿がありました。 これが先ほどの案内図に載っていた五社神社になるようですが、由緒などを記したものは見かけませんでした。 社殿の裏側を探ってみると山道が続いていました。 しっかりとした道のようだし引き返すのも何だしと思って、その道を歩いていくことにしました。
歩き始めの所には石段も設置されていて、往時にはよく歩かれていた道のようでした。 ツバキなどが茂る尾根に続く道を緩やかに降っていきます。 1分ちょっと進んでいくと、道は右へ戻るように曲がって降るようになります。 これから向かうのある高みや、 その奥にある141.4m峰と思われる高みが樹木越しに見えていました。 所々に縦ブロックの階段も設置されている道を左へ折れ曲がっていくと、道路奥の駐車場が眼下に見えてきました。 幼木が植えられた伐採地の右側に続く階段を降っていきます。 草に埋もれ気味の階段を探しながら降っていくとが立っていました。
赤い鳥居をくぐって「」と刻まれた石碑へ続く石段に出て降っていくと、 五社神社から6分ほどで、斜め駐車方式の駐車場に降り立ちました。 道路向かいから山の右側に舗装路が続いています。 ここが賀嶋公園への入口になります。 竹野浜に出てから35分ほど、竹野駅から1時間10分ほどで到着しました。 入口には近畿自然歩道の道標が立っていて、正面の道は「賀嶋公園0.2km」、 左の道は「波食甌穴群」、右の道は「北前館0.2km・竹野浜0.2km」となっています。 傍には案内板が設置されていて、が載っています。 波食甌穴群は後ほど訪ねるとして、先ずは賀嶋公園へ向かっていきました。
近畿自然歩道 兵庫県最北端猫崎半島をめぐるみち
【賀嶋公園】  日本海の展望がよい芝生広場です。 ここからは海食崖の但馬海岸や白砂青松の竹野浜、遠くには丹後半島を望むことができます。
【柴野栗山の碑】  寛政の三博士と呼ばれ、漢文作家であり江戸中期の儒者であった栗山は、文化4年(1807)風光明媚な但馬鷹浜に来遊し、 その雄大な自然に感嘆した心境を詩に残している。
【力士の碑】  江戸末期、千石船で巨福を得た竹野浜の船主仲間では、大阪相撲の愛好者が多く、 毎年夏には巡業団を迎えて角力興行を打っていました。 当時、人気があった幕内力士(下り松荘兵衛)の記念碑が建立されています。
【波食甌穴群】  甌穴は、岩盤に生じたわずかの凹凸に小石がひっかかり、 波によって小石がぐるぐるまわされて、凹みが大きくかつ深めて穴となったものです。 ここでは、大小約40の甌穴が群をなし、県指定の天然記念物となっています。
波食甌穴群周辺は、高波や斜面崩落の危険性があります。
賀嶋公園
右傾斜の斜面を横切るようにして続く舗装路を進んでいきます。 倒れた保安林の看板を過ぎていくと、が設置された所があります。 樹間からなどを眺めながら進んでいくと、道は左へ折れ曲がっていきます。 大きく右・左と曲がりながら登っていくと、案内板のあった入口から6分ほどで広めの頂上に着きました。 ここが【猫の尾】に当たる賀嶋公園で、標高は40mほどのようです。 前方には「山陰海岸国立公園 竹野賀嶋公園」 「標高五七.七米 北緯三五度四〇分」と書かれた標識が立っていました。 傍には「朝日・夕日・漁火が見える丘」と題した案内板があり、 入口で見かけたのと同じようなも載っていました。
魚つき保安林
城崎郡竹野町竹野字賀島
保安林内では、許可なく立木竹を損傷し、土石、樹木を採掘し、 土地形質を変更する等の行為をしてはなりません。
=山火事注意= (兵庫県)
山陰海岸国立公園 竹野賀嶋公園
朝日・夕日・漁火が見える丘
山陰海岸国立公園 京都府の網野海岸から鳥取県の鳥取砂丘まで、延長約75kmに及び海岸沿いの区域8,784haが、山陰海岸国立公園に指定されています。
猫崎半島 兵庫県の最北端に位置し、沖から見た姿が猫に似ているところから名づけられた陸繋島です。 流紋岩の柱状節理や凝灰岩の奇岩怪石、そしてタブ、モチ、ツバキなど日本海岸では珍しい温帯常緑樹林がみられます。 半島の北側一帯は国立公園の特別保護地区に指定されています。
賀嶋公園 日本海の展望が良い芝生広場です。 ここからは、海食崖の但馬海岸や白砂青松の竹野浜、遠くには丹後半島も眺められます。 また、夏は、東の海から昇る朝日、西の海に沈む夕日、そして夜の海に浮かぶ漁火の3つの光が楽しめます。
新四国霊場 竜海寺によって奉置されたもので、山中に88ヶ所の石仏があります。
案内板の横から西側を眺めるとの水平線が広がり、 これから向かう141.4m峰も見えていました。 眼下には打ち寄せるが岩に当たって砕け散っていました。 東側には「」の標柱が立っていました。 その先の樹木が低くなった所から海が見えましたが、夏の季節には昇る朝日が見えるようです。 南側にはコンクリート製のが建っていて、 やその奥の山並みなどを見下ろすことが出来ました。 休憩舎の先にはテーブル・ベンチが幾つか設置されていました。
賀嶋公園の右の奥へ進んでいくと、樹木の袂に「奥院 これより300m」の標識が落ちていました。 その先に「この先 猫崎半島北端まで歩道未整備のため危険!」の札が立っていました。 この芝生広場や入口にあった案内板にも「賀嶋公園から先、危険個所あり」と書かれていましたが、 どういう状況なのか心配ながらも、この先に続く山道を進んでいくことにしました。
この先 猫崎半島北端まで歩道未整備のため 危険!
 (環境省、兵庫県)
立江地蔵尊
入口は狭めながら、すぐに広めで緩やかなになってきました。 1分ほど進んでいくと、道端に「十三番」と「十四番」の石仏が並んでいました。 それぞれには「本尊十一面観世音」「本尊弥勒佛」と刻まれていました。 この道は賀嶋山八十八ヶ所霊場になっていて、 この先の奥院までの道々に採番されて本尊の刻まれた石仏が続いています。 「十五番」「十六番」「十七番」の石仏を過ぎて「十八番」の石仏まで来ると、 大岩の前に、これまでより大きな「」がありました。 賀嶋公園から2分ほどの所になります。 番号の一部が欠けていましたが、その右側には「十?番」の石仏もありました。 左側が開けていてが広がり、 遠くには海に突き出したが幾重にも連なっていました。 これから向かう141.4m峰も頭を少し覗かせていました。
大岩に寄り添う「二十番」の石仏を過ぎていくと、道は尾根のに続くようになります。 霊場の道ということで、一般の山道よりも少し広めになっているように感じました。 「二十一番」から「二十五番」の石仏を過ぎていくと、太い樹木の袂に向こう側を向いてが佇んでいました。 番号を確認してみると「四十七番」となっていました。 ここからは石仏の番号が小さくなりながら続いていました。
「四十六番」「四十五番」「四十四番」「四十三番」の石仏を過ぎて横木の階段を登っていくと、 左から来る道が合流している所がありました。 賀嶋公園から8分ほどの所になります。 左の道のすぐ先が小広くなっていたので、何かあるのかと思って寄り道していきました。 細い木が疎らに生えているものの、平らで開けた所になっていました。 周囲には大きな石が幾つかあって畑の跡のようでもないし、かつてお堂などが建っていた所なのでしょうか。 辺りを確認してみると、「三十三番」から「三十七番」の石仏がありました。 「三十六番」は倒れていたので、台座の上に起こしておきました。 端の方に出てみると、手前の樹木に邪魔されながらもを眺めることが出来ました。 これから向かう141.4m峰と思われる高みも見えました。
奥院
6分ほどで元の道に戻って、その先に続く横木の階段を曲がりながら登っていきます。 「四十一番」と「四十番」の石仏を過ぎていくと、傾斜が急になる手前に踊り場のような平らな所がありました。 先ほどのお堂の跡地のような所から1分ほど、賀嶋公園から寄り道も含めて15分ほどの所になります。 ここにこれまでよりも大き目の「」と刻まれた石仏がありました。 側面には「大正六年八月建立」と刻まれていました。 台座には「奉寄進」と題して多くの氏名が刻まれていて、小銭もお供えされていました。 ここはお堂の跡地のような所から近いので、 先ほどの場所は「奥院」とされるお堂が建っていた所のようにも思えてきました。
奥院の先からは急傾斜のが始まります。 ロープも張られているので、念のために掴りながら登っていきました。 右・左と曲がりながら石段を登っていくと、 などの眺められる所に出ました。 岩が剥き出した急な石段を更に登った辺りから振り返ると、 先ほどの賀嶋公園竹野浜などを見下ろす眺めが広がっていました。 奥院から2分ほど登った所になります
141.4m峰
再びロープが張られるようになった尾根の背に続くを登っていきます。 石段が終わった先へ更に登っていきます。 やがて傾斜が緩やかになってくると、道端にがありました。 地形図にある141.4m峰で、奥院から7分ほどの所になります。 【猫の背】に当たる所で、本コースの最高地点になりますが、周囲には樹木が茂っていて展望は得られません。
尾根に続く坂道を降っていくと、周囲には頭を出した大きな岩が目だつようになります。 少し登り坂になってくると、141.4m峰から2分ほどで僅かな高みに着きました。 そこからかなり傾斜のある石段を降っていきます。 ロープも張られているので、掴りながら降っていきました。
馬の背
鉄柱に2本のロープが張られた柵が続くようになった急な石段を降っていくと、 三角点から10分ほどの所で、馬の背のようになった狭い鞍部に降り立ちました。 ここが【猫の首】に当たる所になります。 左側にはが広がっていました。 鞍部にはが設置されています。 少しグラグラとしますが、両側に太いロープ柵が設置されているので安心です。 ロープに掴まりながらスリルのある橋を何とか渡ると、【猫の頭】へ向けての登りが始まります。 鉄柱に2本のロープが張られた柵の設置された急なを登っていきますが、 少し浮いている石もあって腰が引けてきました。
1分半ほどで石段を登り切ると、緩やかな道が尾根の右側の斜面に続くようになります。 賀嶋公園などで見かけた案内図では、【猫の頭】である96m峰の頂上を経ていくように道が描かれていますが、 実際にはその手前から東側の斜面を登り降りしながら横切っていきます。 鉄柱に2本のロープが張られた柵の設置された所などもありますが、傾斜はそれほど急ではありません。
猫埼灯台
円い大きな葉の植物が茂る所を過ぎていくと、眼下にが見えてきます。 ロープが張られた急坂を降り、その先の手摺付きの急な石段を降っていくと、 兵庫県の最北端に立つ猫埼灯台に着きました。 馬の背から8分ほど、賀嶋公園から44分ほどで到着しました。 目の前にはが広がっていました。 右の奥の方には陸地がぼんやりと見えていましたがでしょうか。 景色を眺めたりしながら、ひと休みしていきました。
猫埼灯台
初点 昭和36年10月
改築 昭和63年12月
この灯台は、船舶が安全に航行するための重要な施設です。 傷付けたり汚した場合は、法律により罰せられます。 この灯台に関してお気付きの点がございましたら、最寄りの航路標識事務所か海上保安部へ連絡をお願いします。
 (舞鶴海上保安部)
猫埼灯台を後にして、来た道を引き返していきます。 42分ほどで賀嶋公園の入口まで引き返して、道標「波食甌穴群」が指す西側へ進んでいきます。 駐車場の中を進んで海が見えてくると、コンクリート製の一段高い所に 「誕生」「誕生之浦」と刻まれた石碑がありました。 その左の山際にはが二つ並んでいて、「柴栗山睨満の碑」の標柱と解説板もありました。
文化四年(1807)六月、柴栗山が風光明媚な賀嶋の地で感嘆のあまり詩を詠み、 同十四年八月、出石藩の土岐東市がこれを刻んで建立したのがこの碑である。 碑には「 文化四年六月十日幕府の儒者である讃岐生まれの栗山が播磨の高見恭、但馬の医師黒崎擇等と来遊し、 讃岐・佐渡・越前・越中・越後を肘や腋に眺め、はるか雲天の外に満州を望んでその雄大な景色に感動し、 酒を汲んで広く豊かな心持ちになった。 従う者は門人の三上順憲及び養子の允弁であった。 」と記されている。 栗山は香川県高松に生まれ、元文元年(1736)から文化四年にかけて活躍した江戸時代中末期の儒者であって、 寛政の三博士の一人である。 天明八年(1788)には、晶平坂学問所の教授となり、 寛政二年(1790)のかの有名な「異学の禁」は栗山の建議によってできたものである。 栗山は詩文筆礼に秀で、当時有数の名文家といわれた。 なお横の小碑は美濃鵜の漢学者村瀬藤城が栗山の詩を後世まで保存させることを希って詠んだ詩が刻まれている。
 (昭和六十三年七月 竹野町)
「誕生」の石碑の右側に続く広い石段を降っていくとに出ます。 付近には漂着物が沢山打ち上げられていました。 韓国方面から流れ着いたのか、ハングルが書かれた酒のボトルもありました。 右の方にはの【猫の背】が見えていました。 一部コンクリート打ちされた遊歩道がその方向にも続いているようでしたが、 今回は左の山際の磯を歩いていきました。
駐車場・岩場
(1)キャンプ
(2)キャンプファイヤ
(3)バーベキュー
(4)焚火等
禁止します。
 (竹野町、竹野町観光協会)
波食甌穴群
この時は中潮の干潮時とあって、かなり潮が引いて岩が多く出て歩き易くなっていました。 案内板に載っていた波食甌穴群は何処にあるのかと探しながら山際沿いを歩いて行きましたが、 この時にはそれらしい物は見かけませんでした。
後日に調べてみると、大きいもので直径70cmほど、深さ50cmほどの穴もあるようです。 波打ち際の近くにあるのかと思って探してみると、が集まっているのを見つけました。 少し離れた所では直径20cmほどのも見かけました。 穴の底には小石が入っていて、まだ掘り下げ中のようでした。 【猫の背】の方向に続く遊歩道を歩いていくと、大きな岩に「」と題した解説文が刻まれていました。 その前には緑の海藻に囲まれたが幾つか並んでいました。
おうけつ
平磯の岩盤に生じたわずかの凹みに小石がひっかかり、 波浪の力で小石がぐるぐるまわされて凹みを大きく深くしたものです。
 (兵庫県)
海を眺めながら岩場を進んでいくと、9分ほどで駐車場へ登るがありました。 数段の石段を登っていくと、右には防波堤が延びていて、その先端に灯台が見えていました。 「立入禁止」の旨の看板は見かけなかったので、ちょいと立ち寄っていくことにしました。 数段の石段を登って防波堤の上を進んでいきます。 左側には海水浴場にもなっているが見えていました。
北防波堤灯台
防波堤の端まで来ると段差があります。 とても飛び降りられそうにはないし、どうしたものかと思っていると、左側に数段の石段がありました。 その石段を降って少し右へ曲がり、一段低い防波堤の上を進んでいきます。 右側に続く消波ブロックの奥には、先ほど訪ねたがよく見えていました。 打ち寄せる波を眺めながら真っ直ぐに進んでいくと、「竹野港北防波堤燈台」の銘板が取り付けられた灯台に着きました。 灯台の左側から裏手に回ってみると、打ち寄せる波を被りそうになったので、そそくさと引き返すことにしました。
竹野港北防波堤燈台
初点 昭和40年11月
を眺めながら灯台から引き返してきて、駐車場の中を進んでいきます。 駐車場管理事務所の傍まで来ると、松林が続く遊歩道が手前から分かれていたので、歩いていくことにしました。
ブロック敷きの快適な遊歩道を進んでいくと、木陰にはベンチも設置されていました。 横切る道を過ぎて再び続く遊歩道を進んでいくと道路に出ます。 出口には「」と題したタイルが埋め込まれていました。 北前館を起点とし竹野浜の付近を巡る延長2.8kmのウォーキングコースのようです。 後で調べてみると、豊岡市の2012年度の報告書にがあったので、参考までに載せておきます。 道路に出ていくと、右側の川沿いに「漁船漁具保全施設」の看板が掛かる建物がありました。 その先にはの河口付近の眺めが広がっていました。
竹野浜潮風浴歩キングコース
豊岡市歩いて暮らすまちづくり
0.5キロ刻みで、2.8キロまであります。
竹野駅
すぐ先で、浜辺を通る道と街中を通る道に分かれていますが、街中の道を進んでいきました。 道なりに進んでいくと、「止まれ」の道路標識の立つに出ました。 左のすぐ先に竹野浜が見えますが、右折して元来た道を竹野駅(JR山陰本線)へ戻っていきます。 駅舎の中には、山陰本線を走っていた往時のなどの写真や、 地域の夏を詠んだ俳句などが展示されていました。
夏めくや テレビの女の 衣装から
娘らの 臍出しルック 夏めきぬ
夕霞 墨絵のごとく たちこめて
頬に吹く 風の変りて 夏めきぬ
卒業式 女子大生の 華やぎぬ
各戸から 道具持寄り 春日役
山霞 きれいに見せる ぼかし枝
夏めくや 大戸を開けて 風を呼ぶ
電柵で 守りし筍 土産とす
海開き 魚は沖へと 身をかわし