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船町会館
円山川に架かる堀川橋を渡り六方川に架かる水門付きの六方橋を渡っていくと、
山際に船町会館があります。
その隣の空地に車を止めさせてもらって引き返すと、
シャッター付きの建物には「眺望絶景 鶴城・宝城寺跡 愛宕山登山口 愛宕神社 徒歩15分」の看板が取り付けらています。
隣にはお地蔵さんが安置された祠があり、「西国 十八番 六角堂」と刻まれたや石碑なども並んでいました。
その脇から山へ登っていく道があります。
登り口の道端にはの道標が立っていて、山へ続く道は「鶴城址0.4km」、
船町会館の先の道は「玄武洞公園4.7km」、今来た道は「大石りくの遺髪塚0.6km」となっています。
傍には「椎の道」の標識も立っています。
今回はここから愛宕山へ登っていきます。
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幅の広い石段を登っていきます。
道々には採番された石仏が佇んでいましたが、苔生していて番号が分からないものもありました。
右・左と曲がりながら雑木林の斜面を3分ほど登っていくと、送電線の鉄塔が立っていました。
道はその少し手前を左へ曲がっていきます。
更に1分ほど進んで再び現れる石段を登っていくと、次の鉄塔の袂に着きました。
右側が開けていて、や豊岡盆地などを見渡せる眺めが広がっているようでしたが、
生憎と霧が立ち込めていて、先ほどの鉄塔や六方橋の先に広がる眺めは霞んでいました。
あぶない!!のぼらないでください
のぼると感電や墜落の恐れがあるため危険です。
関西電力(株)
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五叉路
霧のため周囲が霞むようになった石段混じりの道を、右・左と曲がりながら登っていきます。
4分ほど登っていくと五叉路のような所に出ました。
中ほどには「火の用心」の赤い標識が立っていて、「スダジイ−トキワイカリソウ群集」の解説板もありました。
手前にはが倒れていて、右へ降る道は「八坂神社0.2km」、左上へ登る道は「愛宕神社0.2km」、
今来た道は「船町方面(おりる)0.2km」となっています。
左へ戻るようにして登る道もありましたが、道標には何も示されてはいません。
正面にも踏み跡がありましたが、あまり明瞭ではありませんでした。
左上の方を見ると建物が見えていたので、左上へ登る道と左へ戻るようにして登る道は合流しているのだろうと判断して、
今回は道標が指している左上へ登る道を進んでいきました。
後日に右から登ってくる道を歩きました。(「 愛宕山」を参照)
スダジイ−トキワイカリソウ群集
当地域のシイ(スダジイ)林は、植生学的にはスダジイ−トキワイカリソウ群集とされるものです。
日本海沿岸で雪の多いこの地域では、林床にトキワイカリソウが出現し、
林内の植物の種類数が比較的少ないところに特徴があります。
この林は、もともと炭や薪をとるために伐採がくり返されていた、コナラやアベマキの多い落葉広葉樹の林でしたが、
伐採されなくなってしばらくたつので日陰でもよく育つスダジイが目だつようになりました。
このように日本の温暖な地域の林では人の手が入らなくなると、スダジイに代表される照葉樹の林に変わっていきます。
冬のヤブツバキの赤い花や、早春のコバノミツバツツジの紅紫色の花が楽しめます。
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妙見堂
浅く窪んだ坂に続く壊れかけた石段を登っていきます。
石仏を過ぎて緩やかな尾根に出ると、左側には民家風の建物がありました。
先ほどの五叉路から左へ戻るようにして登っていく道はこの建物に続いているようでした。
愛宕山の山頂で見かけた案内図によると、妙見堂というように思えました。
向こう側へ回って確かめてみようかとも思いましたが、今回は止めておきました。
後日に訪ねてみると、建物は壊されて基礎だけになり、建材などが辺りに散乱していました。
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右へ続く広くて緩やかになった尾根道を進んでいきます。
廿七番の石仏を過ぎて道端に笹竹が茂る軽い登り坂を進んでいくと、廿八番の石仏の先に鳥居がありました。
鳥居を過ぎて、広くて緩やかな尾根道を更に進んでいきます。
廿九番の石仏を過ぎていくと、石垣の横にが現れます。
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愛宕神社 (標高107.4m)
幅の広い石段を登っていくと、緩やかで広い愛宕山の山頂に着きました。
船町会館から16分ほどで登って来られました。
正面へ少し進んだ所に「」の扁額が掛かる愛宕神社があります。
その右側には大小の小社を納めたもありました。
山頂の手前が開けていて、豊岡盆地などを見渡せる眺めが広がるのですが、
この時には立ち込める霧で霞んでいて、何も見えませんでした。
この山頂付近にも少し霧が出ていました。
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山頂の中ほどに生える大きな樹木の袂には「紀念碑」と刻まれた三本組の石柱がありました。
脇の石柱には氏名などが沢山刻まれていました。
石柱の傍には「史跡 鶴城跡」と題した解説板があって、も載っていました。
この山頂部にはかつて鶴城があったようです。
豊岡市指定文化財 史跡 鶴城跡
【城史】
鶴城は南北朝期から戦国期にかけて円山川下流域に勢力を振い、
「山名四天王」のひとりに数えられた国人・田結庄氏の居城である。
伝承では、永享年間(1429〜1441)の但馬守護山名宗全による築城であるという。
天正3年(1575)10月におこった野田合戦で垣屋豊継らに攻められ、
城主・田結庄是義は菩提寺の(旧)正福寺で自害した。
その後、天正8年(1580)まで豊継の支配するところとなった。
【縄張】
鶴の後尾部にあたる主郭Tの背後を2段の堀切で切断して城域を確保し、
北西方向には土塁を多用した曲輪を配置し、南方向には大きい曲輪(U・V・W)を排している。
愛宕神社南側の尾根には小曲輪を多用し、曲輪Yのあたりは土塁と堅掘で防御している。
特徴的なのは、主郭Tの北側と東側斜面には戦国期特有の畝状堅掘を設けて防御を堅固なものにしていることである。
城域は、南北660m、東西460mを図る大規模なもので、国人・田結庄氏にふさわしい規模と縄張りを有し、
但馬でも有数の城郭である。
【愛宕神社・宝城寺跡】
元和5年(1619)、城跡に愛宕大権現を勧請、別当寺として宝城寺が置かれ、
豊岡城下の辰巳にあって歴代領主家の祈願所となった。
明治以降、宝城寺は廃され、代って愛宕神社が置かれた。
(平成7年3月 豊岡市教育委員会)
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曲輪V跡
愛宕神社の左側から奥へ進んでいくと、高さ2mほどの段差があります。
先ほどの鶴城跡の地図によると、段差の下にある広くて緩やかな尾根は、
かつて「曲輪V」があった所のようです。
横木の階段を降って尾根の左側沿いに進んでいくと、ベンチを過ぎた所にがあります。
角には道標が立っていて、正面の尾根に登っていく道は「あずまや0.2km」、
正面の尾根の左側を緩やかに降っていく道は「貴布祢神社0.5km」、今来た道は「愛宕神社」となっています。
左側の道は貴布祢神社へ降りて行かれますが、先ずは尾根に登っていく道を進んでいきました。
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小ピーク
背丈の低い熊笹が茂る尾根を軽く登っていきます。
程なくして現れる幅の広い横木の階段を登っていくと小ピークに着きました。
先ほどの地図では「主郭T」があった所で、標高115mとなっていましたが、地形図では112mとなっています。
正面の樹間からはこれから向かう尾根が見えていましたが、霧で霞んでいました。
ここから急なを降っていきます。
設置されているトラロープに掴まりながら、滑り落ちないよう慎重に降っていきました。
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幅の広い木橋に降りてその先へ進んでいきます。
降り気味に続く尾根道を進んでいくと、再び横木の階段があります。
そこでも張られたトラロープに掴まりながら降っていきました。
小さな鞍部に着いて、その先に現れる横木の階段を登り返していきます。
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日撫分岐
熊笹が茂る横木の階段を登っていきます。
程なくして高みに着くと分岐があります。
角には道標が立っていて、正面の尾根道は「金剛寺方面(山本)0.6km」、
右へ降っていく横木の階段は「日撫方面(おりる)0.5km」、今来た道は「愛宕神社0.2km」となっています。
右の階段は後で降るとして、先ずは正面の尾根道を進んでいきました。
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東屋
少し左へ曲がりながら軽く降っていくと、すぐに東屋に着きました。
愛宕神社から7分ほどの所になります。
中にはテーブル・ベンチがひと組設置されていてひと休みするには良さそうでしたが、
休まずに進んでいきました。
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東屋のすぐ先で、小尾根の上を通る道と、その左下を通る道に分かれています。
道標類はありませんが、いずれの道を進んでも、この先の僅かな高みを越えた先で合流しています。
今回は小尾根の上を通る道を進んでいきました。
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高みへ登っていくと、左側の樹木越しに山並みを見渡せようになりました。
奥の方に見えているのは来日岳でしょうか。
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高みを越えて降っていくと、手前で分かれた道が合流してきます。
その道を合わせていくと、こんもりとした高みの手前から左へ曲がっていきますが、
正面の高みへも広めの道が続いているようでした。
角には道標が倒れていて、左へ曲がっていく道は「あずまや0.1km」、今来た道は「愛宕神社0.3km」となっています。
正面の道は何も示されてはいませんでしたが、地形図によると、161m峰へ続く尾根のようでした。
正面の道にも興味がありましたが、今回は左へ曲がっていく道を進んでいきました。
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東屋
高みを巻いて、雑木林の尾根道を進んでいきます。
横木の階段を軽く降ってから登り返していくと、道は左へ曲がっていきます。
熊笹の生える高みを越えて緩やかに降っていくと、再び東屋があります。
愛宕神社から14分ほどの所になります。
中にはテーブル・ベンチがひと組設置されていました。
すぐ先には道標が立っていて、右の道は「金剛寺方面(山本)0.4km」、今来た道は「愛宕神社0.4m」となっています。
道標の指す方向を見てもそれらしい道はないがと思いながら辺りを見回していると、
熊笹に覆われ気味のが、東屋のすぐ傍から戻るようにして続いていました。
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尾根の左斜面を横切るようにして続く熊笹が茂る道を進んでいきます。
樹間からを眺めながら緩やかに降っていきます。
やがて左・右と曲がりながら降るようになると、崩壊している所がありました。
谷へ滑り落ちないよう注意しながら過ぎていきました。
右へ曲がって崩壊地の下を過ぎていくと、再びしている所がありました。
そこでも足元に注意しながら通過していきました。
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次第に竹林になってくる道を降っていきます。
左下の谷筋にはが沢山並んでいましたが養蜂をしているのでしょうか。
右・左と曲がりながら更に降っていくと、田んぼが広がる谷筋に通る舗装路に降り立ちました。
東屋から14分ほど、愛宕神社から28分ほどで降りて来られました。
脇には「ハイキングコース」と題したが倒れていて、
今降ってきた道は「遊歩道(愛宕神社へ)0.8km」となっていました。
支柱には「金剛の道」と記されていました。
その横には「歩く会」「山本」と記されたも倒れていて、可愛らしい顔が描かれていました。
右へ進んでいくと道の名前にもなっている金剛寺があるようですが、貴布祢神社へ向かって左へ進んでいきます。
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山際に続く舗装路を進んで民家が建ち並ぶようになると、左へ登っていく道が分かれていきますが、
正面に見えているに向かっていきます。
右へ分かれていく道を二本見送ってトンネルをくぐっていきます。
トンネルを出て右へ分かれていく道を見送っていくと、
左から降ってくる道を合わせた先の山際に、石仏が三体並んでいました。
苔生して読み難くなっていましたが、「一番」「二番」「三番」と刻まれているように思えました。
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森の右側に続く道を進んでいきます。
左右に通る広めの道路に出て左折していきます。
山際にある民家の横の数体の石仏などを過ぎていくと、
北近畿タンゴ鉄道のがあります。
その手前に左へ登っていく石段があります。
石段を1mほど登った所に「延喜式内宮」と刻まれた石柱や、
「兵主神社」「貴布祢神社」「腹痛ボケ封じの神様」と書かれた標識が立っています。
このまま道なりに進んでいくと最初の船町会館へ続いていますが、
ここから貴布祢神社を経て再び愛宕山へ登っていきます。
(北近畿タンゴ鉄道は2015年4月に京都丹後鉄道になりました)
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貴布祢神社
幅の広い石段を真っ直ぐに1分ほど登っていくと貴布祢神社の境内に着きます。
小振りの手水舎には「貴布祢神社」と書かれた板が取り付けられていました。
左側に立つ「貴布祢神社」の扁額が掲げられたをくぐっていくと社殿がありました。
修理中なのか雪除けなのか、周囲は緑色の簾網で囲まれていました。
社殿は拝殿と本殿がつながったような形になっていて、
本殿の屋根には5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。
簾網の中を覗ってみると、内側には内宮が納められていて、
「兵主神社」と「貴布祢大明神」のが掲げられていました。
二つの神社が合祀されているということでしょうか。
由緒などを記したものは見かけませんでした。
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社殿の右側に道標「愛宕神社0.5km」が立っていて、奥の方を指していました。
道標に従って奥へ進んでいくと「貴布弥の道」の標識が立っていて、
右側の斜面を横切るように続く細い山道を指していました。
入口付近は少し頼りなさそうな様子でしたが、標識に従って進んでいきました。
ここの標識は「貴布祢」ではなくて「貴布弥」の表記になっていました。
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左傾斜の斜面を横切るようにして山道を進んでいくと、すぐにしっかりとした道になってきました。
途中には木柵が設置された板を並べたもありました。
少し降って丸太を束ねたを渡って横木の階段を登っていくと、
竹林の斜面を登るようになります。
樹木が途切れた所からは、谷筋の奥に雪が残る山が見えていましたが、
方角からするとでしょうか。
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太い竹が混じる雑木林に、幅の広い横木の階段が途切れ気味に続いています。
曲がりながら登っていくと次第に傾斜が増してきます。
高みに向かって真っすぐ登るようになるとトラロープが張られていましたが、
登っていく分にはそれほど必要ではありませんでした。
貴布祢神社から8分ほど進んで斜面をほぼ登り終えると、
尾根の少し下を横切るようにして続くに出ました。
道標類は見かけませんでしたが、愛宕神社に向かって右へ進んでいきます。
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斜面を横切るように進んで雑木林の尾根の背に出ると、再び横木の階段が現れますが、
傾斜はこれまでよりも緩やかになっていました。
やがて正面にこんもりとした高みが現れますが、
愛宕神社から東屋へ向かっていく途中にあったのようです。
道はその高みを巻くようにして右へ曲がって、斜面を横切るように続いています。
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曲輪V跡
植林地の縁に続く熊笹が茂る道を進んでいきます。
左側に続く尾根が次第に低くなってくると、広くて緩やかな尾根の背に出ました。
見覚えのある所だと思っていると、愛宕神社の奥の一段低い所にある「曲輪V」があった所でした。
貴布祢神社から14分ほどで登って来られました。
手前には法印の名前などを刻んだが幾つか並んでいました。
ここから先ほど通過した日撫分岐へ再度進んでいくのですが、
その前に愛宕神社からの眺めを確かめに立ち寄っていくことにしました。
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広い尾根の先にある横木の階段を登って一段高い所にある愛宕神社の先へ出てみると、
先ほど登ってきた時に立ち込めていた霧はほぼ消えていて、綺麗な眺めが広がっていました。
すぐ下を流れる円山川には、来る時に渡ってきた堀川橋がよく見えていました。
奥の方には豊岡盆地を取り囲む山並みが広がっていましたが、
出石方面にはまだ少し霧が残っているようでした。
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日撫分岐
愛宕神社から引き返して小ピークに着くと、
先ほどは霞んでいたがはっきり見えるようになっていました。
急な横木の階段を降ってその先の階段を登り返していくと日撫分岐に着きました。
道標「日撫方面(おりる)0.5km」の指す右へ分かれていく急傾斜の横木の階段を降っていきます。
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背丈の低い熊笹などが茂る階段を降っていくと、次第に傾斜が緩んで階段の間隔も広がってきます。
雑木林の尾根の背を降るようになると、日撫分岐から2分ほどで、左へ鋭く曲がっていきます。
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斜面を横切っていくと、太い竹が目立つようになります。
斜面を少し降って馬の背のような尾根に出ると、
左側の尾根から降ってくるが合流してきました。
日撫分岐や東屋のある高みを巻いて、161m峰への分岐の手前へ巻く道のように思えましたが、
確かめるのは止めておきました。
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馬の背のような尾根を進み始めてすぐの所で、僅かな高みへ登っていく道と、
高みを右から巻いていくと思われる道に分かれていました。
道標類は見かけませんでしたが、右側の道には背丈の低い熊笹が茂っていました。
正面の高みに送電線の鉄塔が見えたので、そこで道が行き止まりなら引き返せばよかろうと思って、
取り敢えず正面の高みへ登っていきました。
ルート図には巻き道と思われる道を青色の線で示しておきました。
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広い尾根道を軽く登っていくと、すぐに送電線の鉄塔の立つ高みに着きました。
日撫分岐から6分ほど降った所になります。
鉄塔の下は草木が刈払われて明るくなっていました。
手前の樹木や鉄塔の支柱などに邪魔されながらも、を見渡すことが出来ました。
ここで行き止まりではなくて、少し右へ曲がりながらが続いていたので、
引き返さずにこのまま降っていくことにしました。
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樹木越しにの街並みや山並みなどを眺めながら、緩やかで広めの道を降っていきます。
次第に傾斜が増してくる道を降っていくと、鋭角に曲がっていく道の角に降り立ちました。
鉄塔から2分ほどで降りて来られました。
曲がり角には道標が立っていて、右の道は「遊歩道(愛宕神社)0.5km」、左の道は「日撫方面(おりる)0.3km」となっています。
確かめた訳ではありませんが、右から来る道は鉄塔の手前で分かれてきた巻き道のようでした。
脇には解説板がうつ伏せに倒れていたので、表側を向けておきました。
当初は表題も付いていたのでしょうが、消えてしまったのか、この時には分からなくなっていました。
ここは左へ曲がっていく道を進んでいきます。
当地域のコナラ林は、植生学的にはコナラ−オクチョウジザクラ群集とされるものです。
この林は、コナラをはじめ落葉広葉樹の多い雑木林で、新緑や紅葉など四季折々に変化を楽しめます。
コバノミツバツツジ・マンサク・タムシバなどの中低木と、
ショウジョウバカマ・オオイワカガミ・トキワイカリソウなどの野草は早春から初夏にかけて美しい花を咲かせます。
1960年頃までは薪や炭を燃料にしていたので、人々が伐採や下刈りを定期的におこなってこのような樹林を維持してきましたが、
ガスや電気の普及で放置され、ヒサカキなどの常緑樹が目だつようになりました。
ここではコナラ林を保全するために、常緑樹の伐採を行いました。
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宝篋印塔
樹木越しになどを眺めながら、緩やかで広めの道を進んでいくと、
やがて右・左と大きく曲がりながら降るようになります。
竹林が続くようになった小さな谷筋の左側を降っていくと、
森のには「印塔の道」の標識が立っていました。
日撫分岐から17分ほどで降りて来られました。
標識のすぐ先には「豊岡市指定文化財(伝)田結庄是義供養塔」「宝篋印塔一基 南北朝後半頃」の標識が立っていました。
そこから右側の谷筋へ戻るように続く熊笹が茂る踏み跡を進んでいくとがあって、
傍には解説板が設置されていました。
宝篋印塔(豊岡市指定文化財)
この宝篋印塔は南北朝期のもので、全高234cmの均整のとれた大塔である上、
ほとんど損傷がないという点で貴重なものとなっている。
大きさ・造立時期などもほとんど金剛寺印塔と同じだが、
格狭間(こうざま)に中心飾りがついているのがこの印塔の特徴である。
この飾りは同期の印塔の一部に共通するもので、全国的には、但馬・丹後・丹波に集中しており、
その他には4例しか見当たらない。
宝篋印塔は、もともとは仏舎利や経文を収めたもので、後には供養のためや墓標として建てられた。
この印塔についても、背後の城(鶴城)で戦士した戦国末期の武将・田結庄是義の供養塔であると伝えられている。
しかし是義の死は、塔造立後2百年を経た天正3年(1575)のことであり、
是義の供養塔であるとの言い伝えは史実とは言えない。
(平成6年3月 豊岡市教育委員会)
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宝篋印塔から引き返して森から出ると、正面には田んぼが広がっていました。
左上にはトタン葺きの大きな平屋が建っていましたが、かばん工場のようでした。
手前の一段高い所と田んぼ沿いに並行するように道が通っていましたが、
田んぼ沿いに続くの方を右へ進んでいきます。
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左へ曲がりながら続く農道を進んでいくと、
北近畿タンゴ鉄道のがあります。
鉄橋をくぐって水路沿いに進んでいくと舗装路に出ます。
右側にはが見えていますが左折していきます。
少しずれた十字路に出て右折していきます。
少し登り坂になってくると六方川沿いの道路に出ます。
ここを右折して川沿いに進んでいきます。
(北近畿タンゴ鉄道は2015年4月に京都丹後鉄道になりました)
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来る時に渡ってきた水門付きのを眺めながら進んでいくと、
山際に鳥居が立っています。
手前には「八坂の道」の標識が立っていて、
脇には「眺望絶景 鶴城・宝城寺跡 愛宕山登山口 愛宕神社 徒歩15分」の看板も立てかけられていました。
また「八坂神社を経て愛宕神社0.5km」の道標も立っていて、鳥居の先に続く道を指していました。
このまま道路を進んでいくと最初の船町会館に着きますが、
その前に八坂神社を訪ねていくことにしました。
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八坂神社
背後に火焔が描かれて剣を持った像が安置された小祠や石祠を過ぎていきます。
小さなに来ると、金網で補強された石垣や木柵の土止めなどが施されていて、
上の方には神社と思われる建物が見えていました。
脇にある石段を真っ直ぐに登って平らな所に着くと、左側に八坂神社がありました。
正面には「八坂神社」の扁額が掲げられていましたが、由緒などを記したものは見かけませんでした。
手前の両側には苔生したが控えていましたが、太い尻尾を立てた特徴的な姿をしていました。
首には注連縄が巻かれていました。
左側には赤い鳥居と祠がありましたがでしょうか。
その左側から八坂の道と思われる山道が続いていました。
愛宕神社へ登る途中の五叉路へ続いているように思えましたが、確かめるのは省略しました。
後日に稲荷社の左側の道を歩きました。(「 愛宕山」を参照)
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船町会館
八坂神社から引き返して「河川管理境界」の看板を過ぎていくと、
を渡ってきた道路に出ます。
そこを右折して坂道を降っていくと、山際に「豊岡市指定文化財 鶴城址」の標識が立っていました。
その先にある愛宕神社へ登っていった道を過ぎていくと、船町会館に戻ってきました。
以前には登り口に「鎮守の森案内図」が設置されていたようですが、
この時にはその支柱と思われる物が僅かに残っているばかりでした。
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