下浜尾根
概 要 香美町香住区の下浜地区にある下浜尾根を歩きます。 西迎寺の近くから尾根に取り付き、標高120m辺りまで尾根を進んで南へ降り、法庭神社・八幡神社に出るルートを周回します。
(「下浜尾根」は正式名ではなく、「下浜地区にある尾根」という意味を表す当サイトの造語です)
起 点 香美町香住区 下浜地区
終 点 香美町香住区 下浜地区
下浜地区…登山口…イセノミヤ神社…建物跡…法庭神社・八幡神社…帝釈寺…西迎寺…下浜足跡化石…下浜地区
所要時間 1時間40分
歩いて... 一般的な登山ルートではないようで、案内板や標識類は見かけませんが、 八十八ヶ所石仏巡りの道の一部になっていて、間隔は長めながら採番された石仏が続いています。 分かり難い所も少しありますが、概ね明瞭な道が続いています。
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コース紹介
下浜地区
香美町香住区の市街地にある香住小学校前交差点から県道4号(*)を西進していきます。 矢田橋を渡った先にある分岐から右側の海沿いの道に入っていくとが架かっています。 橋を渡ったすぐ右側に空き地があるので、ここに車を止めさせて頂きます。
*県道4号は以前は国道178号でしたが、山陰近畿自動車道(鳥取豊岡宮津自動車道)の余部道路の開通に伴い、 2016年に県に移管されて県道となったようです。
登山口
先へ続く車道を進んで三田浜口バス停まで来ると「下浜足跡化石」のが出ています。 右の先にあるようですが下山後に訪ねることにして、先ずは見送っていきます。 真っ直ぐ進んでいくと、左から来るに出ます。 右前方へ続く坂を登り始めると、山際に「三田浜海水浴場1.6km」のが立っています。 標識の裏側にある坂道が今回の登山口になります。 駐車地から2分ほどの所になります。
イセノミヤ神社
坂道を登っていくと、すぐに左へ折れ曲がって、コンクリート擁壁の袂のを登るようになります。 左側に金網柵が続くようになるとがあります。 順路は前方のロープが張られた道になりますが、の先に建物が見えるので立ち寄っていきます。 軽く登っていくと、すぐに建物の横に出ます。 登山口から1分ほどの所になります。 格子戸から中を覗ってみると、が安置されています。 扁額などは見かけませんが、情報によるとイセノミヤ神社というようです。
手前の分岐まで引き返して、ロープが張られたを登っていきます。 少し右へ曲がりながら登って傾斜が増してくると、両側にが続くようになります。 ロープが終って緩やかになると、少し曲がっていきます。 樹木の袂には、台座から降りた「八十六番」の双体の石仏があります。 登山口から6分ほどの所になります。 今回歩くルートは八十八ヶ所石仏巡りの道の一部になっているようで、間隔は長めながら採番された石仏が続いています。
しばらく進んでいくとになります。 次第に傾斜が増してくる尾根を小刻みに曲がりながら登っていくとになります。 軽く降るようになると、右の樹間に三田浜海水浴場の北側にある標高70mほどのが見えてきます。 程なくして「八十五番」のがあります。 傾斜が増してくる尾根を降っていくと、深く窪んだ鞍部に着きます。 登山口から12分ほどの所になります。
鞍部から登り返して緩やかになると、「八十四番」のがあります。 軽く降って緩やかになると、右の樹間にが見えてきます。 尾根の右肩を少し降っていくと、浅いに出ます。 左側が開けていて、が少し見えます。 鞍部の先へ登って軽い降り坂になると、先ほどよりもが見易くなります。 軽く登って緩やかになると、「八十三番」の石仏があります。 登山口から18分ほどの所になります。
86m峰の手前まで来ると、少し開けてに出ます。 ここで道が不明瞭になりますが、正面の段差を二つほど登っていくと、に明瞭な道が現れます。 86m峰巻き道になっているようです。 左に広がる香住のを眺めながら、斜面を横切るように進んでいきます。 になる斜面を右へ曲がりながら進んでいきます。 植林地から出ると尾根の背に復帰します。 登山口から22分ほどの所になります。
少し進んでいくと窪んだに着きます。 には地形図に破線で載っていると思われる道が見られますが、下浜地区まで降りて行けるのでしょうか。 先ほどよりも香住のが綺麗に見えます。 鞍部の先へ続く広がった尾根を登り始めると、尾根の左斜面にが現れます。 左斜面に続く巻き道のような道を進んでいきます。
程なくしてに復帰します。 尾根が広がってくるとになります。 高みの右肩を越えて降っていくと行き止まりのようになっているので、左側のに出ます。 登り坂になると、大岩が幾つか剥き出しています。 登山口から29分ほどの所になります。
大岩を二つ過ぎていくと、尾根の真ん中に更にがあります。 は歩けそうにありません。 を見ると狭いながら道が続いているので歩いていきます。 階段状に切れ込みが入れられているを右へ回り込むように登っていきます。 大岩の上に出ると「八十二番」の石仏があります。 登山口から31分ほどの所になります。
少し左へ曲がりながら登っていくとになります。 右へ曲がりながら進んでいくと、「八十一番」のがあります。 登山口から34分ほどの所になります。 石仏を過ぎると、少しを降るようになります。 程なくしてになります。 登り坂になると、尾根の左肩を進むようになります。
右へ曲がりながら登っていくとに出ます。 左へ曲がって、広くなったを登っていきます。 緩やかな所を過ぎて登り傾斜が増し始めると、尾根の左斜面から斜めにが張られています。 右へ曲がって、を斜めに登っていきます。 ロープに掴まったりしながら登っていくと、尾根の右斜面に出ます。
建物跡
ロープが終って左へ曲がると道がしていますが、左側の道を登っていきます。 程なくして、標高120mほどの広くて緩やかなに出ます。 少し左側には「八十番」の石仏があります。 登山口から43分ほどの所になります。 手前には使用済みと思われるが多く見られますが、かつては祠のような建物があったのでしょうか。 正面には歩けそうなの尾根が続いていて、175m峰がある尾根に出られそうです。 今回は石仏の手前を戻るように曲がって、南へ延びる尾根を降ることにします。
広くて緩やかな所を過ぎると、右へ曲がってになります。 すぐに左へ曲がっていくと、岩盤の剥き出すに出ます。 それほどの急傾斜ではありませんが、雨後には滑り易いので、足元に注意しながら慎重に降っていきます。 岩盤の剥き出す尾根をしばらく降って傾斜が緩やかになると、向こう側を向いた「七十九番」のがあります。 建物跡から6分ほどの所になります。 石仏を過ぎると、大きく曲がって降っていきます。 少し降って左への曲がり角まで来ると、樹間に山並みが少し見えます。
左へ曲がって、尾根のに続く道を降っていきます。 引き続きが剥き出しているので、足元に注意しながらゆっくりと降っていきます。 少し左へ曲がりながらを横切るように続く道を降っていきます。 程なくしてに出ます。 右へ曲がって岩盤の剥き出す尾根を降り始めると、「七十八番」の石仏があります。 建物跡から13分ほどの所になります。
少し降っていくと、剥き出すは見かけなくなります。 緩やかになった尾根を進んでいくと、尾根の真ん中に上水道のがあります。 道が不明瞭になる尾根を真っ直ぐ進んで竹や笹が茂る所に出ると、コンクリート製ののようなものがあります。 笹などを掻き分けながら進んでいくと、程なくしての縁に出ます。 『道は何処にあるか』と探していると、左の植林地の縁に明瞭な道が現れます。 建物跡から18分ほどの所になります。
植林地の縁に続く道を進んで窪んだ道になると、に入っていきます。 すぐに歩き易いになります。 次第に幅が狭くなって、のような所を過ぎていきます。 竹林が終るとになります。 少し右へ曲がりながら進んでいくと、倒れた「七十七番」の石仏があります。 建物跡から21分ほどの所になります。
法庭神社・八幡神社
シダ類などが茂る明るい所に出ると、コンクリート製ののようなものがあります。 右側にはが広がります。 小さく左・右と曲がっていくと、またになります。 傾斜が増してを降るようになると、右上に神社が見えてきます。 窪んだ道は左へ曲がりながら尾根の左斜面に続いていますが、僅かに見られる右側の踏み跡を登っていきます。 すぐに神社の脇に出て左側から回り込んでいくと、神社の前に出ます。 建物跡から27分ほどで降りて来られました。 社殿に扁額は掲げられていませんが、参道にある鳥居には「法庭神社」「八幡宮」の扁額が掲げられています。 境内には「法庭神社 神輿新調記念」や「[敬神崇祖」のがあって、 神社の経緯などが刻まれています。
式内社法庭神社 神輿新調記念碑
旧神輿は明治14年に細工奉納され119年の歳月によって老朽化が進み祭典行幸に支障を来すような状態となり 平成12年4月氏子の総意により新調した。
竣 工平成12年4月吉日
皇紀2660年 西暦2000年
制作費金355万円
諸経費金100万円
神社基金 金250万円 法人基金 金105万円 下浜区基金 金100万円
制作者株式会社 大宮
宮司田淵義親
 (以下略)
敬神崇祖
武内社法庭神社祭神武甕槌命
位置香住町下浜字ナガオ谷225番の1は明治43年国鉄の開通により境内地3分1が鉄道敷となり狭められた近時覆殿が破損甚だしく今度之を新築向拝は八幡神社のものを利用して改築する。
合祀社法庭神社 八幡神社
合祀下浜字カンオンドウ591番の1法庭神社は参拝上汽車の通過で危険につき御分神を八幡神社祭神輿田別命に御遷宮合祀したが拝殿覆殿が甚だ破損していたので之を新築し本殿は現姿のまま西に7米移し南向きを東向きとし参道石段も同じく東向きに変えた。
総建築費328万1900円
寄附者下浜財団法人下浜区
竣 工昭和35年12月27日
 (以下略)
帝釈寺
法庭神社・八幡宮」の扁額が掲げられた正面の鳥居から続くを降っていきます。 手水舎の前に降りて右へ曲がり、を降っていきます。 左へ曲がって石段を降っていくと、「法庭神社」・「八幡宮」の扁額が掲げられたがあります。 左へ曲がっていくと、すぐに帝釈寺があります。 手前にあるのが本堂で、本坊や庫裡と思われる建物が横に続いています。 脇の建物には「三番叟」の解説板があります。 参道の石段の傍には「八十八番」のがあります。 八十八ヶ所石仏巡りの結願の場所のようです。 正面の石段を降りて車道に出ると、「「枕石」由来」と「喜見山 帝釈寺」のがあります。
発願の「第一番」の石仏は香住区一日市の長福寺にありますが、全体の案内図などは見かけず、どんなルートなのかは不明です。
三番叟(法庭神社) (香美町指定無形民俗文化財)
10月5日の秋祭りの神事として「天下太平・国土安穏・長久円満・息災延命」等を祈願し、 「踏子」と呼ばれる千歳・翁・黒木尉と謡手・鼓・笛・拍子木で構成され氏神に奉納される。 三番叟の千歳・翁・黒木尉の三つに組まれた舞の中心は翁と思われ、 それは悪霊を鎮め、人々に祝事を述べ幸福をもたらす神であり、五穀豊穣を祈願する内容を表現している。 三番叟は、三番猿楽という言葉で、方固めという四方へ向かって大地を踏み固める悪魔払いの呪術であったようで、 室町時代より始まったとされている。 三番叟は「舞う」ではなく「踏む」といっているのはそうした踏み鎮めの祈祷のなごりと考えられている。
「枕石」由来
遠く6世紀末、我国では蘇我氏と物部氏との争いの中で、 仏教を敗訴する物部守屋によって貴重な渡来仏の多くが難波に投棄されたが、 その一仏が不思議な漂流を経て当地に漂着し、地元村民によって救い上げられた。 人々はその威厳に満ちた尊容に驚覚し、やがて一字の御堂を建立して海上安全・五穀成就の守護身として敬い、 信仰を深めていった。 これが帝釈寺開山縁起である。 この大長石は白鳳4年(676)当山本尊が下の浜枕ヶ崎、一ノ瀬に漂着された時、 波打際で枕にして横たはっておられた縁深き浄石である。 本尊と共に大多数の村民の合力によって運び上げられたものと伝えられている。
喜見山 帝釈寺(真言宗高野山派)
この寺の、本尊帝釈天は聖徳太子が自らお刻みになった尊像ですが、 仏教排斥派により難波の海(大阪湾)に投げ込まれたものが白鳳4年(676)に下浜枕ノ崎に漂着しました。 地元の漁夫が救いあげ一堂を建立して安置して信仰をしました。 午歳のみに(12年目)開扉される秘仏として伝えられています。 その後、大宝2年(702)に法相宗の開祖道照上人がこの地に来られ、 自ら一刀三礼の厄除聖観世音菩薩像(国指定重要文化財)をお刻みになり帝釈天の脇仏としてお祀りになり一大道場を建立されたのがこの寺の創建とされています。 室町時代初期には七堂伽藍を完備し一山寺院三十三坊を有する名刹となり隆盛を極めたといわれています。 尚、当寺には町指定文化財の独古石や経筒もあります。 又、庭園は蓬菜式を取り入れた準築山式枯山水庭園で、作庭は江戸初期と推定されています。
西迎寺
左へ続く路地を進んでいくとがあります。 左側には「制札 共同井戸の跡」のがあります。 分岐を直進して車道に出て左折し、に進んでいきます。 円筒形の赤い郵便ポストを過ぎて香美町消防団のまで来て、左の路地へ入っていきます。 路地を一つ横切った先の分岐を右折していくと、程なくして西迎寺があります。 謂れなどを記したものは見かけません。 境内には「八十七番」のがあります。 これで八十八ヶ所石仏巡りの最後の部分(77番から88番)を歩いたことになります。
制札 共同井戸の跡
ここは、徳川時代村はづれで制札の場所であり、通行人の検問もされていたといわれています。 又共同井戸があって、上水道が整備されるまでは、多くの区民が利用し、井戸端会議の場所でもありました。
平成7年10月吉日建之 下浜区
下浜足跡化石
西迎寺を過ぎてすぐに右の路地へ入っていくと、十字路の先に「山陰街道かみ宿場」のがあって、 先ほどの西迎寺の謂れが少し載っています。 十字路を直進して車道に出ると、右前方に三田浜口バス停があり、傍に「下浜足跡化石」のが立っています。 を抜けて右へ進んでいきます。 「石になった足跡」のを過ぎると石畳になった海岸に出ます。 ここが下浜足跡化石がある海岸になるようです。 足跡を探しながら、しばらく休憩していきます。
山陰街道かみ宿場
浄土宗 西迎寺
戦国時代、裏山の高木山に山城がありました。 その城の殿様が菩提寺として永禄元年(1558)に建立した寺です。
洗心甘露・名水の井戸
文久2年(1863)下浜松井治絵ヱ門が酒造りのためにつくった石組の井戸です。 村人の大切な飲料水として利用されてきました。
力だめしの石
運動用具の無かった時代、村の青年たちは卵形の石を使って力を競い合いました。
香住町下浜観光協会
石になった足跡 [香美町]
1.こんな動物・鳥たちの足跡が探検できます
長鼻類(ゾウなど)・奇蹄類(サイなど)・偶蹄類(シカなど)・鳥類(ツルなど)
2.足跡化石のついた頃
遠く2,00〜1,700万年前、大陸から分離した日本列島が形づくられていく頃、 この付近一帯は「古香住湖」という湖のほとりでした。 動物や鳥たちがつぎつぎと水や餌を求めてやってきて・・・。 その時つけた足跡が、遠い時を経て石となって残ったものです。
3.足跡化石のでき方現れ方
(1)Aの地面にBの地層がおおいます。
(2)シカが歩いた跡が、Bの地面に残ります。
(3)Bの地層の上を、Cの地面がおおいます。
(4)Cの地層の上部がけずられ、足跡化石が現れます。
(5)Cの地蔵がけずりとられて足跡化石が現れます。
(6)Bの地層もけずられ、硬い部分だけ残ります。
パンフレットを手にしてこの案内板から東方(左)20メートル崎の観察地点で全体を見通しながら足跡探検をはじめましょう・・・。
下浜地区
まで引き返してきます。 に出て、左へ進んでいきます。 下濱橋の手前まで来ると、車を止めておいた駐車地があります。 法庭神社八幡神社から25分ほどで到着しました。