概 要 |
弁天山は、宮津市の天橋立の北側にある標高320mほどの山です。
山頂には展望台があって、天橋立などを見渡せる眺めが広がります。
今回は府中地区公民館を起終点とし、成相寺へ続く参詣道の本坂道を登って車道に出て山頂へ向かい、
車道と石段を降るルートを半周回します。
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起 点 |
宮津市 中野地区
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終 点 |
宮津市 中野地区
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中野地区…本坂道入口…小松道合流…益軒観…車道出合…成相寺山門…五重塔…弁天山…成相寺山門…車道出合…傘松小倉屋…大谷寺…中野地区
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所要時間 |
2時間50分
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歩いて... |
本坂道は横木の階段も見られる広い道になっていますが、階段は朽ち果てそうで落ち葉や土砂が積もっています。
明瞭な広めの道で、木に掴まりながら登るような急坂はありませんが、たっぷりと汗を搾られました。
益軒観・弁天山・傘松小倉屋などからは眺めが広がりますが、生憎と雲が広がっていたのが残念です。
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関連メモ |
今のところ、関連メモはありません。
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中野地区
与謝野町を通る国道176号の消防署前交差点から国道178号に入って北上していきます。
宮津市に入って天橋立が近づいてくると、府中小学校の手前にがあります。
角には理容店があります。
して、府中駐在所を過ぎていきます。
軽く登っていくと、左への曲がり角に府中地区公民館があるので、ここに車を止めさせて頂きます。
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本坂道入口
から出て、左へ進んでいきます。
出口には「」がありますが、今回歩くルートは載っていません。
軽い登り坂のを進んでいきます。
カーブミラーの立つ所まで来ると十字路があります。
右側には「西国廿八番 成相寺 本坂」のが立っていて、右隣に「一丁」の石仏があります。
民家の壁には「本坂道入口」の解説板があります。
本坂道入口
府中地区から成相寺へ登る参詣道のうち、最も古くから主要な道として利用されたと考えられるのが、本坂道である。
江戸時代初期の寛永18年(1641)には、計十六ヶ所に一定間隔で丁石(町石)が設けられ、参詣者の登山を助けた。
ここにあるのは一丁目の丁石で、地蔵が浮き彫りにされている。
両脇には、
「寛永十八年辛巳九月十日 十六躰立之」(右側)
「従是成相寺/十六町 一町」(左側)
との銘文が見える。
成相本坂道を守り伝える実行委員会
府中をよくする地域会議
一般社団法人 宮津青年会議所
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十字路を右折して、水路沿いにを登っていきます。
すぐの所に近畿自然歩道のが立っていて、
正面の道は「成相寺1.6km・傘松公園1.9km」、今来た道は「丹後国分寺址1.3km」となっています。
少し登った所の右側にはなどがあります。
真っ直ぐ登っていくと、右側に古民家 和があります。
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山へ向かって真っ直ぐ続くを登っていきます。
左への曲がり角まで来るとが見えてきます。
祠の中にはお地蔵さんのような形の「」と呼ばれる石造物が五基並んでいます。
傍には「本坂の板碑」と「微妙橋」のがあります。
道の左側には「二丁」のがあります。
左から右へ曲がりながら登っていくと防護扉があります。
駐車場から9分ほどの所になります。
上下に設けられた小レバーを回し、下にある落とし棒を持ち上げると開けられます。
宮津市指定有形民俗文化財 本坂の板碑(南北朝〜室町時代)宮津市字中野
西国二十八番札所成相寺へあがる参詣道は、東谷から西谷にわたりいくつかあったが、
ここ本坂道はわけても賑わった道であった。
現在ここを少し下がった市道脇の灯籠のそばに、なりあいじまで十六町の町石が残っている。
ここに祀られている五基の石造物は、もとは本坂道の傍らにあったものを、ここにおろしてきたものと伝える。
学術的にはこのような石造仏を板碑とよぶが、丹後では一般的には地蔵とよばれることが多い。
丹後の板碑の最も古いものは鎌倉末期といわれるが、多くは室町戦国期から近世初期にかけたもので、
一部に南北朝期のものが認められる。
現在、宮津市域では約3千基の板碑が確認されているが、府中・文殊地区には優品が多く遺存する。
因みにここに並ぶ板碑の年代等は次のとおりである。(向かって右より)
○題目板碑 | 応永18年(1411) |
○金剛界大日種子一尊板碑 | 明徳3年(1392) |
○地蔵菩薩一尊板碑 | 延文3年(1358) |
○地蔵菩薩一尊板碑 | 応永10年(1403) |
○如法経奉納板碑 | 貞和4年(1348) |
宮津市教育委員会
微妙橋
阿蘇海に面した「ススケ(煤毛)ノ浜」からの道には、かつて休息などのための茶屋が並び、参拝者の疲れを癒やした。
江戸時代の地誌「丹哥府志」によれば、この付近には「微妙橋」という橋があったとされ、
境内との境界を視覚的に示していたと考えられる。
また、周辺には小字名として「板橋」や「湯呑堂」という地名が残るほか、室町時代の板碑もあり、
多くの人々が成相寺を目指して登山していた歴史を今に伝える。
成相本坂道を守り伝える実行委員会
府中をよくする地域会議
一般社団法人 宮津青年会議所
この柵は動物よけの柵です。
成相本坂登山の際は開けていただきて結構ですが、通行後は必ず閉めてカンヌキをかけてください。
成相本坂道を守り伝える実行委員会
府中をよくする地域会議
一般社団法人 宮津青年会議所
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防護扉を過ぎるとになります。
真っ直ぐ登って砂防ダムまで来ると分岐があります。
右脇には近畿自然歩道のが立っていて、
左の道は「成相寺1.4km・傘松公園1.7km」、今来た道は「ケーブル下バス停0.6km」となっています。
左側にはが幾つもあって、矢印の標識もあります。
道は正面にも続いていますが、標識が指す戻るように続く道を登っていきます。
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小松道合流
朽ちてほとんど用を成さない横木の階段が見られるを登っていきます。
曲がりながら続く道を登っていくと、次第にになります。
所々に石仏が見られる窪んだを曲がりながら登っていきます。
次第に窪みが減ってくると、傾斜もになってきます。
少し右へ曲がりながら進んでいくと尾根の背に出ます。
駐車場から27分ほどの所になります。
脇には「一の地蔵」の解説板があります。
が広くなっていて、脇には壊れた石仏などが散乱しています。
南西からが登ってきています。
解説板によると、妙立寺の裏手から続いている小松道(*)というようです。
*後日に小松道を歩きました。
妙立寺の西側にある墓地の奥から広い道が続いています。
本坂道とは違って、石仏などは見かけません。
道は明瞭ですが窪んだ所が多く、落ち葉や倒木が目立ちます。
蜘蛛の巣が張っている所も結構あって、あまり歩かれていない様子です。
墓地から20分ほどでここまで登って来られますが、
歩いて成相寺へ登るなら本坂道の方をお勧めします。(ルート図に緑色で表示)
一の地蔵
府中地区から成相寺への参詣道のうち、妙立寺の裏手を登り、途中で本坂道と合流する道は、
地名から小松道と呼ばれ、ここはその合流地点に当たる。
戦国時代の様子を描いた「成相寺参詣曼荼羅」には、この付近に「千手堂」という建物が描かれるほか、
「丹哥府志」では五丁付近に「辻堂」があるとされる。
なお、ここに残る地蔵は、江戸時代の絵図に見える「一の地蔵」と考えられる。
成相本坂道を守り伝える実行委員会
府中をよくする地域会議
一般社団法人 宮津青年会議所
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益軒観
を進んでいきます。
「この先、道幅が狭いため歩行注意」の標識を過ぎると、
両側にロープが張られて崩落気味のがあります。
壊れたのもある石仏を眺めたりしながら、少しを登っていきます。
曲がりながら窪んだ道を登っていくと、先の方が明るくなってきます。
程なくして、ススキが茂るに出ます。
駐車場から36分ほどの所になります。
右側には「成相本坂道 整備記念碑」の看板と「益軒観(展望所)」の解説板があります。
設置されているロープ柵の先には、天橋立などの眺めが広がる展望地になっています。
水分補給しながらひと休みしていきます。
成相本坂道 整備記念碑
平成29年11月5日
成相本坂道を守り伝える実行委員会
府中をよくする地域会議
一般社団法人 宮津青年会議所
益軒観(展望所)
本坂道の中でも、最も景色が良いとされる場所である。
「日本三景」という言葉が最初に使われたとされる、
元禄2年(1689)成立の貝原益軒「西行紀行」にある「此坂中より天の橋立、切戸の文殊、与謝の海、阿蘇の海、
目下に在って其景目を驚かす、日本三景の一とするも宣也」との記述は、ここからの眺めを述べたものであろう。
参詣道の整備にあたり、この場所を益軒にちなんで「益軒観」と名付けた。
成相本坂道を守り伝える実行委員会
府中をよくする地域会議
一般社団法人 宮津青年会議所
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眺めを確認したところで、先に続くを進んでいきます。
真っ直ぐ進んでいくと、「阿弥陀ヶ峰城跡」のがあります。
傾斜が増してくるを曲がりながら登っていきます。
傾斜が緩やかになると、が設置されて夏草が茂る所を進んでいきます。
少し左へ曲がって傾斜が増してくる道を登っていくと、脇に近畿自然歩道のが立っていて、
この先の道は「成相寺0.6km・傘松公園0.9km」、今来た道は「ケーブル下バス停1.4km」となっています。
標識を過ぎていくと、右へ戻るように登っていく道が分れていきます。
益軒観から9分ほどの所になります。
標識類は見かけませんが、右の道は見送って正面に続く広い道を進んでいきます。
阿弥陀ヶ峰城跡
永正4年(1507)、若狭武田氏が丹後府中を攻めた時、守護代の延永春信が立てこもったと伝わるのが、
本坂道の脇に位置する阿弥陀ヶ峰城跡で、現在も、曲輪や土塁、竪堀などの遺構が残る。
城の南東側には丹後守護一色氏の今熊野城跡があり、戦国時代終わりの頃の土器や鋲具などが見つかっている。
「成相寺参詣曼荼羅」には、参詣道の脇に、矢を射るための矢狭間を持つ堀や櫓を備えた山城が描かれている。
成相本坂道を守り伝える実行委員会
府中をよくする地域会議
一般社団法人 宮津青年会議所
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車道出合
緩やかになった道を少し右へまがっていくと、路肩が少ししています。
左側にはが見えます。
251m峰を回り込むように曲がりながら、夏草が茂る道を進んでいきます。
が設置された所を軽く登っていきます。
程なくして、尾根の背に通る車道(*)に出ます。
益軒観から15分ほどの所になります。
思いのほか汗を掻いて疲れたので、振り返って広がるを眺めながら休憩していきます。
*この車道には傘松駅と成相寺を結ぶバスが運行していますが、一般車は通行禁止になっています。
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落ち着いたところで、左へ続くを登っていきます。
すぐにあるの所から地道が右前方へ分れていきますが、見送っていきます。
真っ直ぐ登ってが設置されている辺りまで来ると、右側に眺めが広がってきます。
大きく左へ曲がって右への曲がり角まで来ると、「六百メートル」のが立っています。
傾斜が緩やかになって路肩が広がる所まで来ると、向こう側を向いた標識が左右に立っています。
ここまで歩いてきた車道は、一般車の通行は禁止のようです。
お願い
登山バスが運行しています。
関係者の方は確認の上 通行して下さい。
Uターン
傘松公園にはいけません。
カーナビゲーションの案内にかかわらず引き返して下さい。
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成相寺山門
すぐの所にがあります。
バス停を過ぎると、成相寺の山門があります。
車道出合から12分ほどの所になります。
車道は山門を右側から迂回していきます。
の手前にある石段の右側には「西国二十八番霊場 成相山成相寺」の石碑があり、
左側には「世屋山 成相寺」と題した解説板があります。
には「成相寺」の扁額が掲げられ、
「真應上人開基 西国二十八番 橋立観音」と「文武天皇勅願 大本山 成相寺」の札が掛けられています。
両側には阿吽の姿のが安置されていて、
仁王像に関するもあります。
世屋山 成相寺
ここ世屋山成相寺は、西国二十八番の霊場として、古くから有名であり、年中参詣人の絶えぬ山である。
寺伝には文武天皇 慶雲元年(704)とあり、開基真応上人が何人であるか詳らかでない。
しかし、その一千年に余る歴史は、対岸文殊堂および特別名勝「天橋立」と併せて、実に三位一体的存在であるといってよい。
当山縁起に、無遠禅師鹿肉のことがあり、その他怪異の説話もあり、いずれも霊場にふさわしいが、
殊にかの大江山鬼退治の源頼光が納めた願文を有し、
それに「此の度当国大江山夷賊追討の為勅令を蒙る」云々とあって、赤青の鬼賊を想像させる何ものもない。
下って足利期には一色対武田の戦いがくりかえされ、
それはこの霊山の大きい悲しみであり、また償いえぬ損失であった。
なお当寺に数々の寺宝があって、なかでも「丹後国諸荘郷保総田数帳目録」および兆殿司筆と伝える「阿弥陀像」一幅は、
ともに国の重要文化財に指定されている。
なにはともあれ信仰と景観を併せえた当山はまことに日本一の霊場である。
波の音 松のひびきも 成相の 風ふきわたす 天の橋立 (御詠歌)
宮津市文化財保護委員会
記
成相寺山門に守護法神として安置されている仁王像は、
法量2m80cm(9尺3寸)の隆々たる筋肉、骨格の立姿でありながら顔面を斜めに捻って、
山門中央の通路に厳しい視線をなげつけている。
参拝者の視線と仁王像の視線が合致する一瞬、何らかの緊張感を与える、誠に守護法神にふさわしい出来である。
…(以下略)
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山門をくぐって、迂回してきた車道に出ると、左の森に「もみじ谷」のが立っています。
車道を真っ直ぐ進んでいくと成相寺に着くようですが、ここから左のもみじ谷へ入っていきます。
曲がりながら続くを登っていきます。
石段が終ると、なだらかな斜面に出ます。
この辺りがでしょうか。
が幾つかあって、
何処を歩けば良いのか分かりませんが、標識が指す「五重塔」に向かっていきます。
正面に見える一段高い所へ向かって、竹の柵が続く散策路を進んでいきます。
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五重塔
曲がりながら続くを登っていきます。
右・左と曲がっていくと、混じりになります。
石段を登り切るとに出ます。
脇には「もみじ谷・山門」の標識があって、今来た道を指しています。
広場の左側の石段を登っていくと五重塔が建っています。
山門から5分ほどの所になります。
五重塔の左へ進んでいくと、大きながあります。
タブノキの右側にはもみじ谷から登ってくるがあるので、こちらからも来られるようです。
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五重塔の左奥からが続いています。
「弁天山展望台」の標識も立っていて、ここから弁天山へ登ろうと思いますが、
この時には「立入禁止」の貼り紙がされたロープで閉ざされていました。
ハチの巣があるとのことなので、別の所から登ることにします。
五重塔のにある「五重塔奉賛者御芳名」が書き出された所を過ぎていきます。
軽く降っていくと道路のに出ます。
「車両通行禁止」の看板はありますが歩くのは良さそうなので、ここから弁天山へ登ることにします。
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弁天山
真っ直ぐ登っていくと、前方から来る道がしてきます。
先ほどの五重塔の左側から来る道になります。
こちら側も「立入禁止」の貼り紙がされたロープで閉ざされているので、その間にハチの巣があるようです。
右へ曲がって登っていくとがあります。
右の道は道路へ降りていくので、左側の道を登っていきます。
すぐに左へ曲がって登っていくと、広くなったに出ます。
脇には「天橋立」「五重塔」の標識があります。
中ほどには「スマホスタンド」があります。
左側には、先ほどのやその奥の海などが見えます。
道なりに右から左へ曲がりながら登っていくと、展望台がある弁天山の山頂に着きます。
五重塔から8分ほどの所になります。
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景色を眺めに展望台へ向かいます。
には無人の「かわらけ販売所」があります。
傍にあるによると、この山の名前は弁天山というようです。
一階からも眺めが広がりますが、に上がっていきます。
二階には「」があって、ここから見える山などの名前が書かれています。
目の前に広がる天橋立などの景色を眺めながら休憩していきます。
展望台から降りた東側からは、先ほどのが見えます。
弁天山とかわらけ投げ 3枚200円
この小高い山は弁天山といい、その昔は弁財天様をお祀りしていたことからそう呼ばれております。
山頂にあります展望台から、お願い事を書いた「かわらけ」を投げていただき、
遠くまで飛べば飛ぶほどその願いがより良く叶うと言われております。
この山の地形上、投げたかわらけは風に乗りやすく、その樣は大変に美しいものでございます。
弁財天様の御利益 |
金運・財運開運 縁結び・恋愛成就(縁切り)
技芸上達(芸能・音楽等の芸事のご利益) 立身出世
学業成就(弁才) 勝運・武運長久 国家鎮護
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この弁天山で「かわらけ」を投げ、願をかけた後は、是非池の中央におられます弁財天様に願いが叶いますようにとお参り下さい。
成相寺
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落ち着いたところで、から下山していきます。
少し右へ曲がりながら広い道を降っていくと、広くなったに出ます。
道なりに左・右と曲がりながら降っていくとがあります。
登ってきたのは正面の道になりますが、左へ戻るように続く横木の階段を降っていきます。
広いを右へ曲がりながら降っていきます。
しばらく降っていくと道路に降り立ちます。
弁天山から5分ほどの所になります。
振り返ると、が幾つか設置されています。
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右へ続く道を進んで五重塔が見えてくると、弁天山へ登っていったに出ます。
左の道を降っていくと、池の中の小島にがあります。
弁天山の展望台にあった解説板に書かれていた弁財天のようです。
真っ直ぐ進んで左右に通る車道に出ると、正面にがあります。
時刻表によると、平日は30分には1本、土・日・祝日には20分に1本の割合でバスが運行されているようです。
左側にはのような建物があって、壁に「成相寺」と題した解説文が掲示されています。
「」もあって、今回はこの図に載っている「遊歩道」を降ることにします。
左の道を少し進んでいくと、正面に石段が現れます。
脇にある「」によると、石段を登った所に本堂があるようですが、今回は訪ねるのを省略します。
成相寺
慶雲元年(704)真応上人の開基とされる西国二十八番札所。
山号は成相山(雪舟の時代は世野山)。
朱を施された本堂と五重の塔、数多くの堂舎が居並ぶ壮観は、『成相寺参詣曼荼羅』にも詳しく描かれている。
『成相寺古記』によれば、応永7年(1398)「龍が山を出た」と比喩される大規模な山崩れで堂舎が崩壊。
「天橋立図」に描かれた成相寺は、円庵(一色家臣・成吉氏の一族)によって29年の歳月をかけ再建されたものである。
丹後守護が一色義有になった頃、守護代の延永春信と石川直経との間で内乱が勃発。
その混乱に乗じて永正4年(1507)5月11日に管領・細川政元と養子・澄之、若狭守護武田元信の軍勢が丹後に侵攻。
武田方は府中城と成相寺に布陣、一色方は今熊野城に義有、阿弥陀ヶ峰城には延永春信が籠城した。
5月28日、細川澄之と加悦城の石川直経が和睦、陣を払って都へ帰る。
帰京の後の6月23日、幕府の実権をにぎっていた細川政元を澄之の内衆が暗殺。
これを期に武田方は総崩れとなり、武田元信は若狭へ逃げ帰った。
府中をよくする地域会議
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成相寺山門
まで引き返してきます。
右側には広場があって、その先にが見えます。
を真っ直ぐ降っていくと、左へ分れていく道があります。
左を振り返るとのようになっていて、先の方には仏像が見えます。
車道を更に降っていくと成相寺山門があります。
弁天山から15分ほどの所になります。
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車道出合
山門をくぐって、すぐ先にあるを過ぎていきます。
左へ曲がっていくと、「六百メートル」のを過ぎていきます。
大きく右へ曲がっていくとが広がってきます。
左から来るを合わせていきます。
右側が開けてくると、本坂道から車道に出た所に戻ってきます。
弁天山から24分ほどの所になります。
本坂道を引き返しても良いのですが、今回は車道を降ることにします。
山並みなどの写真を撮っていると、少し小振りのが降っていきました。
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少し降っていくとが広がってきます。
路肩が広がったのような所が何ヶ所かあります。
大きく右へ曲がっていくと、少し違った角度のが広がってきます。
しばらく降っていくと、先ほどとは様子の異なるが登ってきました。
左へ曲がっていく所の道端には「行者道」の石標があります。
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左へ分れていくを見送っていきます。
左へ曲がりながら降っていくとがあります。
弁天山から36分ほどの所になります。
角には近畿自然歩道の標識が立っていて、
右前方の道は「傘松公園0.1km」、今来た道は「成相寺1.0km」となっています。
左前方の車道は傘松駅へ続いているようなので右前方へ進んでいくと、
すぐにがあります。
手前には「」の解説板があって、
今回登ってきた本坂道も描かれています。
標識も立っていて、右前方へ降っていく広い石段は「ケーブル下バス停0.7km」、
左前方の道は「傘松公園」、今来た道は「成相寺1.1km」となっています。
今回はここから石段を降っていくのですが、その前に左前方の道の先に眺めが広がる所があるので立ち寄っていきます。
近畿自然歩道 天橋立をゆくみち(傘松公園エリア)
(1)傘松(かさまつ)
江戸時代、宮津城主松平伯耆守一行が、突然の雨を避けるために、この松の下で雨宿りをされたと伝えられています。
また、古来より日照りの日ひは日傘として、訪れる人がこの松の下で涼を求めていたといわれ、
「傘松」の名の由来となっています。
(2)成相寺(なりあいじ)
西国二十八番の札所。
慶雲元年(704)文武天皇の勅願所として開山したと伝えられ、「美人観音」、左甚五郎作の「真向きの龍」などがあります。
(3)元伊勢籠神社(もといせこのじんじゃ)
伊勢の外宮の元宮の地と伝えられ、国宝「海部氏系図」や多くの文化財を所蔵し、
奈良時代以前に遡る丹後随一の古社といわれています。
国の重要文化財である石造狛犬があります。
環境省・京都府
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傘松小倉屋
手前にある休憩所を過ぎて開けた所に出ると傘松小倉屋があります。
建物の前は有名な「」発祥の場所になっていて、
「石段天橋立股のぞき観」の解説板があります。
右側にはなどを見渡せる眺めが広がります。
前方にはを見下ろせ、駅から登ってくる道もあります。
天橋立股のぞき観
天橋立は、どの方角から眺めるかにより全く違った顔をみせてくれます。
特にこの場所は「股のぞき発祥の地」といわれています。
股のぞき観とは、股の下から逆さまに天橋立をのぞくと、
まるで天空に一本の橋が架かっているかのような素晴らしい景色が望めることからその名がつけられています。
環境省・京都府
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眺めを確認したら、手前の分岐まで引き返して、広いを降っていきます。
石段の途中の傾斜が弛んだ所はになっています。
坂道の部分にはが生えているので、雨後には滑らないよう注意が必要です。
しばらく淡々と降っていくと竹林になります。
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大谷寺
右へ曲がって、両側に防護柵が続くを降っていきます。
右側には「」の看板があって、今歩いている道が載っています。
すぐ先でに出ると、右側に防護扉があります。
左角には近畿自然歩道の標識が立っていて、
左の道は「ケーブル下バス停0.3km」、今来た道は「成相寺1.6km・傘松公園0.5km」となっています。
左へ曲がっていくと、程なくして大谷寺の本堂があります。
傘松小倉屋から16分ほどで降りて来られました。
手前には「大谷寺・今熊野」と題した解説板があります。
境内には地蔵堂やなどがあります。
風致・土砂流出防備 保安林
この森林は、天橋立を望む美しい景観と豊かな自然を保全し、
また、土砂災害などから私たちのくらしを守るため、特に指定された保安林です。
たばこの吸い殻やゴミを投げ捨てたりせず、自然とふれあう憩いの場として、みんなで樹木を大切にし、緑の森を守り育てましょう。
京都府丹後広域振興局 農林商工部
大谷寺・今熊野
真言宗の古刹。
山号は天蓋山。
籠神社の神宮寺として広大な寺域を誇り、かつては多くの子院を擁した。
図中には「不動」(不動明王を祀る祠?)の墨書や宝塔が描かれている。
山中の「今熊野」は熊野権現と考えられ、一色氏はここに今熊野城を築いた。
一色氏は室町幕府の四職家の一つとして権勢を奮っていたが、
一色義直が応仁の乱で正軍に味方して丹後守護職を解かれて以降、劣勢が続くこととなる。
文明6年(1474)足利義政の赦免により丹後守護は嫡男の義春に還付されたが若くして病死。
禁裏御料所小浜代官職も若狭武田氏に奪われ、義直は屈辱を胸に丹後に下国。
本格的な守護所の整備を始める。
天橋立図の風景は、都人であった義直が丹後に作り上げて"小京都"の姿といえるようだ。
義直は和歌・絵画にも通じ、智恩寺の『九世戸縁起』を書いた歌僧正徹の弟子・正広と親交があった。
歌集『松下集』には、正広が府中に「招月庵」を営み、義直の館などで歌会を開いた様子が記されている。
府中をよくする地域会議
宮津市指定文化財(歴史資料) 智海の板碑(室町時代)
宮津市字大垣 大谷寺
大谷寺は、建武2年(1335)の「大谷寺衆徒等申状写」(『成相寺旧記』所載))において、
大谷寺衆徒並びに一の宮供僧等が本寺を「大円上人三密修練之霊場」と称しているように、真言密教の修行道場であったが、
一報で平安時代中期の丹後先徳「寛印供奉」の極楽荘厳の儀を顕わす迎講以来浄土教の影響も色濃く受けていた。
この板碑は、正面上部左右に金剛界大日如来種字 《バーンク》と胎蔵界大日如来種字 《アーンク》を、
中央下方に阿弥陀如来種字 《キリーク》を刻む。
「権少僧都智海」「文正二年丁亥三月廿一日」の銘が刻まれていることから、
丹後國一の宮の別当寺である大谷寺本坊大聖印の不動明王信仰の持主である智海という供僧の作であることがわかる。
同寺の木造府道明坐像(市指定文化財)とともに室町時代後期の丹後地域における智海の初期の活動を物語る遺品であり、
「東寺流大阿(大阿闍梨の略称)」と称する真言僧であった智海の密教信仰のなかに、
大谷寺の伝統的な天台浄土教思想があったことが垣間見える資料として価値が高い。
※文正二年は三月五日に応仁に改元されている。
宮津市教育委員会
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正面に続く坂道を降っていくと、右側の階段の上にがあります。
脇には「」と題した案内板があります。
休憩舎を出て降っていくと、の本坊があります。
更に降っていくと、左側に府中駅があります。
週末とあって、多くの観光客の行列が出来ていました。
入口付近には「」と題したイラスト図があります。
−日本三景− 天橋立
松の本数 |
約5,000本(日本の松百選に選ばれている)
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延長 |
約2,500m
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巾 |
40〜170m(日本の道百選に選ばれている)
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徒歩 約40分(一の宮〜文殊)
自転車 約15分(一の宮〜文殊)
磯清水は、日本の水百選に選ばれている。
大谷寺と黒不動さん
大谷寺は、天蓋山と号す真言宗の寺で、
寺伝ではもと山城国下醍醐にあったが、養老2年(718)にこの地に移されたとする。
中世には丹後一宮籠神社の別当寺として栄え、金剛薩た居ん・尊勝院・往生院・大乗院・来迎院など多くの塔頭を有し、
雪舟の「天橋立図」にも多くの堂宇が描かれる古刹である。
15世紀後期には、当時の丹後守護や守護代と密接な関係を持つ僧智海も住し、
その住坊を大聖院と称し、「天橋立図」にもその名が記される。
智海は知恩院の多宝塔(重要文化財、150mm年造営)の再建に惣奉行として活躍した人物で、
生涯で10万体余の不動明王を描いたといい、丹後一円にこの作品が数多く残される。
本堂内の木造不動明王坐像は、文正2年(1467)丹後守護一色義直が大檀那として、智海が願主となり自ら刻んだものである。
「黒不動さん」と呼ばれて親しまれ、宮津市指定文化財に指定されている。
また本堂には阿弥陀三尊像が安置され、このうち観音・勢至の両脇侍像は、平安後期の優品で正統的な都風を伝える遺品であり、
宮津市指定文化財となっている。
宮津市教育委員会
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中野地区
府中駅を後して坂道を真っ直ぐ降っていくとに出ます。
右折して、府中小学校を囲む擁壁に沿って進んでいくと、を過ぎていきます。
の入口まで来ると、右脇に「慈光寺・辨才天」と題した解説板があります。
更に進んで理容店と府中駐在所が見えてくるとがあります。
角には各所への距離を示すが立っています。
右折して坂道を少し登っていくと、車を止めておいた府中地区公民館が左への曲がり角にあります。
大谷寺の本堂から13分ほどで到着しました。
慈光寺・辨才天
慈光寺はかつての丹後守護・一色満範の法号「慈光寺殿」を寺号とする一色氏の氏寺。
『天橋立図』には5つの堂舎、土塀などが描かれている。
「辨才天」は府中小学校付近に小字があり、『丹後国天橋立之図』には「慈光寺の鎮守也」と記載されている。
雪舟のころは京都・南禅寺の塔頭瑞雲庵の末寺であったらしく、住持としては芳仲周騰の名が確認できる。
芳仲は、文明13年(1483)南禅寺で「季岳」と名づけられた丹後守護一色義直の子息を教育しており、
一色義直の招聘によって慈光寺住持に迎えられたものと考えられる。
慈光寺では永安院という塔頭を創始して門下の教化に尽した。
慈光寺を雪舟の図にみるような大伽藍に整えたのは芳仲ではなかったかとも考えられている。
後に永正の兵乱で焼失したと思われ、現在の江尻に移転した。
なお、平成15年より『天橋立図』を地域のデザインに取り入れたまちづくりを推進しており、
府中小学校擁壁も慈光寺付近に描かれた大きな土塀をモチーフにしている。
府中をよくする地域会議
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