概 要 |
京丹後市の久美浜町にある洗心苑霊場巡りを歩きます。
宗雲寺の駐車場を起終点とし、採番された石仏が点々と続く道を時計回りに巡ります。
眺めが広がる所はほとんどありませんが、僅かに山並みが見える所はあります。
冬枯れの季節には、もう少し眺めが広がるように思えます。
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起 点 |
京丹後市 久美浜町
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終 点 |
京丹後市 久美浜町
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久美浜町…延命福寿観音…六角堂…131m峰…小峰…歌碑…松井家塔所…鎮守堂…宗雲寺…久美浜町
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所要時間 |
1時間30分
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歩いて... |
標識類は見かけず、石仏を辿りながら歩きましたが、結構アップダウンがあって汗を掻きました。
苔が生えていて番号を判読出来ない石仏もありますが、前後から補間して類推すると、1番から88番までの石仏をすべて辿れたように思います。
入口にある案内図に載っている見はらし台や閑雲居・金鉱跡などはよく分かりませんでした。
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関連メモ |
今のところ、関連メモはありません。
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久美浜町
京丹後市を通る京都丹後鉄道の久美浜駅の西側の車道からへ分れていく道に入っていきます。
入口には「磨崖佛延壽観音 常喜山 宗雲寺」や「新・久美浜八景めぐり 宗雲寺」の標識が出ています。
軽く登っていくと、二段になった広い駐車場が左側にあるので、ここに車を止めさせて頂きます。
入口にはが安置された祠があります。
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駐車場の先へ続く道を軽く登っていくと、すぐに「宗雲寺」と題したがあります。
正面には宗雲寺の山門がありますが、左へ曲がっていく道を登っていきます。
右にあるを眺めながら進んでいきます。
傾斜が緩やかになって右へ曲がるとになります。
すぐの所に「」と題したがあります。
少し風化して分り難くなっていますが、この図に載っている道を時計回りに巡ります。
案内図の傍から石段が続いています。
ここが洗心苑霊場巡りの起点になります。
駐車地から3分ほどの所になります。
脇には「大師山八十八ヶ所 洗心苑霊場」と刻まれたがあります。
自由に使っても良いと思われる杖が幾つか立て掛けられていますが、使うのは止めておきます。
宗雲寺
開山千畝周竹和尚は、もと久美浜町小字多茂ノ木にあった常喜庵を永享4年(1423)京都近衛家の庇護により、
現在の宮谷の地に移し宮谷山常喜寺を建立したと伝える。
以後丹波尾の天寧寺、安芸の仏通寺と共に禅宗愚中派の三本寺として栄えた。
天正10年(1582)松井康之が松倉城主となり、
父正之、「清月宗雲禅定門」菩提のために叔父の南禅寺住持玄圃霊三和尚を中興開山として招き、天正15年に再興された。
尚、文禄元年(1592)の豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては、松井康之、与八郎父子と共に玄圃和尚も外交僧として従軍している。
当寺は、以上の由緒により開山当時や玄圃霊三に関係する資料など多くの歴史資料が保存されている。
また庭園には蓬莱石を中心に多数の石組と心字池を配し、小規模ながら枯淡な造りとなっている。
そのほかに長禄2年(1458)の銘の残る宝篋印塔や松井康之の父正之、母法壽をまつる肥後の墓などの文化財が伝えられている。
宗雲寺庭園 | 京都府指定文化財 | 昭和59年指定 |
絹本著色松井康之像 | 京都府指定文化財 | 昭和63年指定 |
玄圃霊三関係資料 | 京都府指定文化財 | 平成11年指定 |
宝篋印塔 | 京丹後市指定文化財 | 平成3年指定 |
肥後の墓 | 京丹後市指定文化財 | 平成3年指定 |
京丹後市教育委員会
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短い石段を登ると「延命福壽観音」のが立っていて、脇に石仏が幾つか並んでいます。
これらの中に「一番」があると思われますが、苔生していて確認出来ません。
曲がりながら続くを登っていくと、双体の石仏が点々と佇んでいます。
「八番」の石仏が佇むに沿って登っていきます。
正面が明るくなってくると分岐があります。
右へ戻るように続く道の先には「九番」のがあります。
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延命福寿観音
正面の横木の階段を登っていくと、石垣の上に「南無観世音菩薩」のが並んでいます。
階段が終ると、なだらかでに出ます。
右側を振り返ると、一段高い所の先の岩壁に観世音菩薩が彫られています。
起点から5分ほどの所になります。
岩壁の近くまで行ってを眺めていきます。
脇には「延命福寿観音」を解説したがあります。
判読出来ない文字もかなりありますが、碑文の一部を載せておきます。
手前には「讃歌」と題したもありますが、達筆過ぎて無学の私には読めません。
延命福寿観音
三世十方の諸佛諸菩薩、殊には本尊菩薩如来像を勧請して御宝前に申さく、
この度…って当山々主弘道宗憲禅師大石壁に延命福寿観音を刻み、
今日の佳辰を卜して願主信者相集い開眼供養を厳修す。
それ観音造立の聖業は山主悟後の道心長養に止まらず永く世人をしてその尊容を仰がしめんとするにあり。
そもそも観世音は無辺の慈悲を以って衆生の苦患を哀れみ欣求を…の知恵を以って人…を消除し解脱の妙境に導き給う。
衆生一心に宝号を称念すれば感応道交霊験不可思議也。
経に広く観音妙智力能…良慶和尚上観音の賛に広く(…以下略)
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六角堂
小広い所から左へ進み始めると、すぐに左側からが登ってきます。
は今回の起点の傍から続く横木の階段混じりの道で、案内図にも載っています。
軽く登って「十番」の石仏を過ぎると、右への曲がり角に六角堂があります。
中には「」が置かれていて、訪れた方々の氏名が沢山書かれています。
傍には何故だか木魚があります。
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右へ曲がって、を登っていきます。
「十二番」の石仏が佇む所を曲がっていきます。
軽く登っていくと、緩やかなに出ます。
左側に僅かながあるので立ち寄っていきます。
「十三番」の石仏を過ぎて高みに着くと、中ほどに大きな穴が開いています。
起点から10分ほどの所になります。
案内図に載っている「見はらし台」のようにも思えますが、周囲には樹木が茂っていて眺めは広がりません。
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に登り着いた所まで引き返して、正面に続く横木の階段を登っていきます。
三体並んだ「十六番」の石仏まで来ると、尾根のを登るようになります。
が剥き出す斜面を回り込むように登っていきます。
岩が剥き出すを跨いでいきます。
左斜面を進み始めると、右側の岩の上に「廿番」の石仏があります。
起点から16分ほどの所になります。
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131m峰
緩やかになった尾根を進んでいくと、程なくしてになります。
思いのほかが急で汗が噴き出してくるので、何度も立ち止まって拭きながら登っていきます。
頑張って登っていくと、先の方にが見えてきます。
傾斜が緩やかになると、風通しの良い小屋が建つ高みに着きます。
延命福寿観音から18分ほどの所になります。
場所を示す標識類は見かけませんが、ここが地形図に載っている131m峰になるようです。
小屋には「小屋改築芳名」と題した板が貼り付けられて、住職・閑栖・総代などの氏名が書かれています。
案内図に載っている「閑雲居」のようにも思えますが、よく分かりません。
小屋の手前には「二十八番」、奥には「二十九番」と「三十番」の石仏が並んでいます。
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山頂の様子を確認したら、先へ続くを進んでいきます。
軽い降りを進んでいきます。
程なくしてが増してくると、先の方が明るくなってきます。
傾斜が緩やかになると、右にも道が見られる鞍部に着きます。
131m峰から5分ほどの所になります。
中ほどには「三十八番」の石標があって、右を指しています。
石標が指す数m先には「三十八番」のがあります。
石仏の先にはが続いていて、何処かに降りられるようですが、探るのは省略します。
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小峰
横木の階段が続く尾根を登っていくと、「四十番」のを過ぎていきます。
近づいてくるへ向かって登っていきます。
「四十四番」の石仏を過ぎると、標高130mほどの小峰に着きます。
131m峰から10分ほどの所になります。
には緩やかな尾根が続いています。
少し歩いてみますが、石仏を見かけないので引き返します。
には桃テープが巻かれた樹木があって、
その先に石仏が見えるので、右の尾根を降っていきます。
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をした石仏を見かけるようになる尾根を降っていきます。
少し降っていくとになります。
程なくして軽いになります。
「五十番」の石仏を過ぎていくと、標高110mほどの高みに着きます。
小峰から4分ほどの所になります。
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軽いになる尾根を進んでいきます。
点々と佇む石仏を確認しながらを軽く降っていきます。
樹木が減ったまで来ると、「五十六番」の石仏があります。
右へ曲がって降り始めると、左側に少し山並みが見えます。
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軽いの尾根を進んでいきます。
少し降っていくとになります。
すぐに軽いになります。
傾斜が緩やかになると、「六十番」の石仏が佇む標高90mほどの高みに着きます。
小峰から9分ほどの所になります。
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軽いになる尾根を進んでいきます。
少し降っていくとになります。
すぐにになる尾根を進んでいきます。
傾斜が緩やかになって「六十三番」の石仏まで来ると、標高90mほどの高みに着きます。
小峰から11分ほどの所になります。
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歌碑
曲がって降っていきます。
を通りながら降っていくと緩やかになります。
軽いになる尾根を進んでいきます。
傾斜が緩やかになると、標高90mほどの高みに着きます。
小峰から15分ほどの所になります。
高みには「六十七番」の石仏があります。
降り始めたすぐの所には、向こう側を向いたがあります。
文字が刻まれていますが、達筆過ぎて無学の私には読めません。
「洗心」と読めそうな文字を見かけるので、案内図に載っている「洗心亭」の跡なのでしょうか。
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少し先を曲がって降っていきます。
尾根のを降っていくと、「七十番」の石仏を過ぎていきます。
に復帰して、傾斜が増してくる尾根を降っていきます。
尾根のに続く道を進んでいきます。
尾根の背に復帰すると、左の樹間に山並みが見えます。
歌碑から5分ほどの所になります。
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松井家塔所
「七十六番」の石仏が佇む広くなった所を曲がっていきます。
程なくして、左・右と小刻みに曲がりながらを降るようになります。
「八十番」の石仏が佇む所を曲がっていきます。
更に曲がりながら降っていくと、鉄パイプのが設置されています。
右へ曲がっていくと小広い所に出ます。
歌碑から13分ほどの所になります。
手前には「八十六番」の石仏が佇み、
中ほどには大きなが並んでいます。
少し先へ降り始めた所に「肥後の墓」の解説板があるので、案内図に載っている「松井家塔所」のようです。
傍には小振りのも並んでいます。
左下にはが見えます。
京丹後市指定文化財 肥後の墓
区分 史跡 時代 江戸時代
久美浜の松倉城主であった松井佐渡守康之は、父の山城守正之と母の法寿の墓を山城国から宗雲寺に移し、ここを菩提寺とした。
天正15年(1587)、康之はここに五輪塔を建て両親の供養を行いました。
関ヶ原の合戦後、康之は細川氏に従い豊後国へ移り、その後、肥後国へ移りました。
このため「肥後の墓」という名が残っています。
現在の墓は、天明3年(1783)に、宝和泉寺の松井与八郎の墓とともに建て直されたものです。
京丹後市教育委員会
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小振りの五輪塔の脇から続くを降っていきます。
少し右へ曲がりながら横木の階段を降るようになると、「肥後の墓」のを過ぎていきます。
谷筋に出ると、左への曲がり角に「八十七番」のが佇んでいます。
踏み跡(*)が前方の斜面へ登っていきますが、左へ曲がっていく横木の階段を降っていきます。
左にある宗雲寺を眺めながら降っていくと、「宗雲寺肥後の墓」の白い標柱を過ぎていきます。
*後で確認したところ、踏み跡はこの先の鎮守堂へ続いています。
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鎮守堂
宗雲寺の裏側にあるを眺めながら降っていきます。
傾斜が緩やかになると、右へ登っていくがあります。
右上にが見えるので、ちょいと立ち寄っていきます。
石段が終った先を右へ曲がって登っていくと、小振りの祠に着きます。
扁額は掲げられていなくてよく分かりませんが、これが案内図に載っている「鎮守堂」でしょうか。
松井家塔所から5分ほどの所になります。
傍には「八十八番」のが佇んでいるので、
ここが洗心苑霊場巡りの終点のようです。
八十八ヶ所巡りでは、一番・十番毎・八十八番の石仏は他よりも大きめになっていることが多いですが、
ここの洗心苑霊場巡りでは同じ大きさの石仏になっています。
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に戻ってきます。
宗雲寺のを進んでいきます。
程なくして、洗心苑霊場巡りの起点に戻ってきます。
鎮守堂から2分ほどの所になります。
元来た道は正面へ続いていますが、左にあるに立ち寄っていきます。
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宗雲寺
境内に入っていくと、すぐ右側に子安観音を祀るがあります。
傍には「十六羅漢の庭」の解説板があります。
左側に「北丹禅密」の扁額が掛かる本堂があります。
本堂の左側には「軒足也」の扁額が掛かるがあります。
本堂の右側にも「軒足也」の扁額が掛かるがあります。
隣にはと思われる建物もあります。
十六羅漢の庭
阿羅漢(ARAHAN)、応供の訳で、尊敬・施しを受けるに値する人の意味で、
原始仏教では修行の階位に四段階を設けて、もはや学ぶことのなくなった人の称号です。
十六羅漢とは、仏法を護持することを誓った十六人の弟子をいいます。
禅宗では、釈尊の正法を直伝することから直弟子の厳しい修行の姿を羅漢で表現しています。
平成元年六月 鹿野勇氏が奥様の追善のために発願され、京都庭園研究所々長 村岡正先生の作庭により、
峰山庭園によって造られました。
作庭の心 十五人の羅漢あり 吾れも羅漢の一人なり
平成元年11月10日 住持弘道誌
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久美浜町
風情のあるから境内を出ていきます。
白壁の塀に沿ってを降っていきます。
石段が終ってなだらかになると、右側にがあります。
振り返ると、白壁の傍になどが並んでいます。
「常喜山」の扁額が掛かるから宗雲寺を出ていきます。
車道に出て真っ直ぐ降っていくと、車を止めておいた駐車場があります。
洗心苑霊場巡りの起点から9分ほどで到着しました。
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