波賀城蹟
十一世紀の初めの頃までに、私達のこの地域は、伯可荘として石清水八幡宮の荘園になっていました。
この地には有名な名馬の伝説があります。
「その昔、芳賀七郎という武士がおりました。
枯れ葉素晴らしい馬を飼っていましたが、ある時そのことが都にまで聞こえ、
その名馬を献上せよとの命令が届きました。
七郎は名馬を惜しんでそれに従わなかったので、合戦になりました。
彼は「馬隠しの穴」に馬を隠して戦いましたが、とうとう力尽きて戦死してしまいました……」
伝説の芳賀氏は、伯可荘の有力者であったと思われ、ここに初めて城を築いたのも、この一族であったものと推測されます。
十三世紀の中ごろ、地頭としてこの地に移って来たのが中村氏や大河原氏です。
彼らは鎌倉幕府の御家人で秩父(埼玉県秩父郡)を本拠地とした秩父丹党、丹治氏の一族です。
中村氏は初代の光時から戦国時代末期の吉宗まで二十代にわたって波賀城主であったといわれます。
波賀城を修理・拡張し、これを拠点にして赤松氏などの支配下で勢力を維持したものと思われます。
現在の波賀城蹟は、このような歴史を持つ城を戦国時代末期にさらに拡張・整備した時のものと考えられます。
羽柴秀吉が播磨を制圧した時に、北の守りの拠点にしたものである可能性も考えられます。
この城は山陽道と日本海側を結ぶ因幡街道や、それと千種を結ぶ街道、
三方に通じる街道を眼下にする戦略的な位置にあります。
ほとんど独立した山に築かれたために麓から本丸までの距離が短いので、
途中に多くの「郭」を作って縦深をとっています。
また、西側の小山(古城)にも砦を築き、一体となって敵軍を防ぐ工夫をしています。
復元された城の石垣は中世と近世の中間的な特徴を持ち、
全体の縄張りととものこの城が過渡期のものであることを示す貴重な遺構になっています。
平成2年3月、波賀町では、地方の時代をめざす、ふるさと創生事業の一環として、波賀城史蹟整備に取り組むことを決め、
城蹟整備専門委員会を設置して、文献、古文書など考古学的及び地理的環境からみた波賀城史の調査研究を行う一方、
城山の山頂部分を中心とする城郭遺構とその縄張りと、山麓部の製鉄遺構の発掘調査等を行いました。
このことから波賀城蹟は、それが波賀町の史蹟の中核であるだけでなく、裾野の広い歴史的遺産を含んでいることが確認され、
城蹟の整備はそれ等の歴史的、文官的遺産の更なる調査と保護をも含めて実施されるげきものと結論を得ました。
このたびその第一期の事業として整備した城山の城蹟公園が、波賀町史のシンボルとして、
町民が町史を学ぶ、心のよりどころの場となって、永く後世に活かされてゆくことを祈りつつ城蹟説明の一文といたします。
宍粟市