波賀城蹟
概 要 波賀城蹟は宍粟市波賀町の城地区にあって、石垣や城郭が復元されて城蹟公園として整備されています。 近くまで車で行くことが出来るので、容易に訪ねることができます。 城郭の背後には、宍粟50名山の城山(標高458m)があります。
起 点 宍粟市波賀町 城地区
終 点 宍粟市波賀町 城地区
城地区…冠木門…波賀城蹟…城山…波賀城蹟…冠木門…城地区
所要時間 0時間50分
歩いて... 駐車場から300mほど進むと、城蹟公園の入口の冠木門に着きます。 幅の広い横木の階段を少し降って登り返し、最後に木製の階段を曲がりながら登っていくと、復元された石垣と城郭に着きます。 城郭は二階建てになっていて、中に入って見学することができます。 振り返ると、波賀の街並みや山並みを見渡せる眺めが広がります。
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コース紹介
城地区
養父市大屋町を通る県道48号で若杉峠を越えて国道29号に出て南下していきます。 音水湖を過ぎて更に南下し、斉木口交差点のすぐ先から分れていく1車線の道に入っていきます。 真っ直ぐ登った所にあるを、「波賀城」の標識に従って左前方へ進んでいきます。 少し先にあるを、「波賀城史蹟公園」などの標識に従って右へ曲がっていきます。 更にあるを左上へ登っていきます。 集落を過ぎて民家を見かけなくなるとがあります。 この時は開放されていましたが、夜間は閉鎖されているようです。 所々に車の交換場所がある狭い道を何度か曲がりながら登っていくと、緩やかになった所に広い駐車場があります。
駐車場の山際にはのような物があって、 背後には「馬隠し」「城山」の標識があります。 駐車場の先にはがあって、「車両進入禁止」の板が下がっています。 右側には「城山登山口 宍粟50名山」の標柱が立っていて、「災害に強い森づくり」の解説板もあります。 左側には「」があります。 車止めを過ぎて、緩やかなを進んでいきます。 程なくして分岐があります。 右側には「波賀城はこれより先150m下りその先登り200m」のが出ています。 大きな地図と門札製作の看板も並んでいますが、今回の散策に直接の関係はなさそうです。 正面のすぐ先に立つ「波賀城史蹟公園」のに従って、左前方へ続く道を進んでいきます。
災害に強い森づくり(緊急防災林整備)
〜県民緑税の活用〜
平成16年の台風災害を踏まえて、豊かな「緑」を次の世代に引き継いでいくため、 県民共通の財産である「緑」の保全・再生を社会全体で支え、 県民総参加で取り組む仕組みとして平成18年度から「県民緑税」を導入し、 防災面での機能強化を目的とした「災害に強い森づくり」を早期・確実に進めています。
整備内容と効果調査
急傾斜地などのスギ・ヒノキ林を対象に、表面土砂の流出を防ぎ、林内の植生を早期に回復させるため、 現場の間伐木を利用した土留工の設置などの森林整備を進めています。 また、植生の回復状況や林内に土砂受け箱を設置して表面土砂の移動量を定期的に調査しています。
宍粟市
史跡公園案内図
公園内の注意事項
一、施設・設備の汚損・毀損を禁ず。
一、喫煙と火気の使用を禁ず。
一、樹木を切ったり、堀り取、石等の持ち帰りを禁ず。
一、公園内に車の乗り入れを禁ず。
一、公園内の事故については、責任を負わない。
宍粟市教育委員会
波賀城史蹟公園 園内の遵守事項
一、 火気を使用してはならない。
一、 テントの設営をしてはならない。
一、 車の乗り入れをしてはならない。
一、 ゴミは、散乱せず持ち帰ること。
一、 公の秩序を害し、風俗を乱す行為をしてはならない。
一、 施設、設備、草木、石等を汚損し、棄損し、消滅したときは、これを現状に複しその損害を賠償しなければならない。
宍粟市教育委員会
冠木門
程なくして降り坂になると、石垣が見られるを過ぎていきます。 すぐ先にあるの脇を左へ回り込んでいきます。 傾斜が緩やかになると、が道を塞く所に着きます。 案内図には管理事務所とが描かれていますが、 トイレはあるものの管理事務所は見かけません。 飛び石を過ぎると、「波賀城蹟」と刻まれた石碑と木の門があります。 案内図に載っている冠木門のようです。 駐車場から6分ほどの所になります。 左側には「波賀城蹟」と題したがあります。
波賀城蹟
十一世紀の初めの頃までに、私達のこの地域は、伯可荘として石清水八幡宮の荘園になっていました。
この地には有名な名馬の伝説があります。 「その昔、芳賀七郎という武士がおりました。 枯れ葉素晴らしい馬を飼っていましたが、ある時そのことが都にまで聞こえ、 その名馬を献上せよとの命令が届きました。 七郎は名馬を惜しんでそれに従わなかったので、合戦になりました。 彼は「馬隠しの穴」に馬を隠して戦いましたが、とうとう力尽きて戦死してしまいました……」 伝説の芳賀氏は、伯可荘の有力者であったと思われ、ここに初めて城を築いたのも、この一族であったものと推測されます。
十三世紀の中ごろ、地頭としてこの地に移って来たのが中村氏や大河原氏です。 彼らは鎌倉幕府の御家人で秩父(埼玉県秩父郡)を本拠地とした秩父丹党、丹治氏の一族です。 中村氏は初代の光時から戦国時代末期の吉宗まで二十代にわたって波賀城主であったといわれます。 波賀城を修理・拡張し、これを拠点にして赤松氏などの支配下で勢力を維持したものと思われます。
現在の波賀城蹟は、このような歴史を持つ城を戦国時代末期にさらに拡張・整備した時のものと考えられます。 羽柴秀吉が播磨を制圧した時に、北の守りの拠点にしたものである可能性も考えられます。
この城は山陽道と日本海側を結ぶ因幡街道や、それと千種を結ぶ街道、 三方に通じる街道を眼下にする戦略的な位置にあります。 ほとんど独立した山に築かれたために麓から本丸までの距離が短いので、 途中に多くの「郭」を作って縦深をとっています。
また、西側の小山(古城)にも砦を築き、一体となって敵軍を防ぐ工夫をしています。 復元された城の石垣は中世と近世の中間的な特徴を持ち、 全体の縄張りととものこの城が過渡期のものであることを示す貴重な遺構になっています。
平成2年3月、波賀町では、地方の時代をめざす、ふるさと創生事業の一環として、波賀城史蹟整備に取り組むことを決め、 城蹟整備専門委員会を設置して、文献、古文書など考古学的及び地理的環境からみた波賀城史の調査研究を行う一方、 城山の山頂部分を中心とする城郭遺構とその縄張りと、山麓部の製鉄遺構の発掘調査等を行いました。 このことから波賀城蹟は、それが波賀町の史蹟の中核であるだけでなく、裾野の広い歴史的遺産を含んでいることが確認され、 城蹟の整備はそれ等の歴史的、文官的遺産の更なる調査と保護をも含めて実施されるげきものと結論を得ました。 このたびその第一期の事業として整備した城山の城蹟公園が、波賀町史のシンボルとして、 町民が町史を学ぶ、心のよりどころの場となって、永く後世に活かされてゆくことを祈りつつ城蹟説明の一文といたします。
宍粟市
をくぐって、幅の広い横木の階段を降っていきます。 軽く降って階段が終ると、緩やかなになります。 登り坂になって再び現れる横木の階段を登っていくと、左側にが建っています。 東屋を過ぎて横木の階段を登っていくと分岐があります。 は案内図に「順路」として載っている道のようですが、 道には木が積まれていて、入口を塞ぐトラロープには「立入禁止」の板が取り付けられています。 ここは横木の階段が続くを登っていきます。
波賀城蹟
土留めの板が続くを登っていきます。 左へ曲がっていくと、が現れます。 曲がりながら続く階段を登っていくと、が見えてきます。 階段が終って、石垣に沿って続くを登っていきます。 石段を登り切って左を振り返ると、波賀城蹟の城郭があります。 冠木門から6分ほどで到着しました。 登り着いた所には「眺望についての説明」と題した円盤がありますが、 絵は剥がれていて文字だけが残っています。 振り返ると、山並みや街並みを眺められます。
眺望についての説明
時代によって多少の変動はありますが、播磨と因幡を結んでいた昔の因幡街道は大体現在の国道29号に平行していました。 沿道の邇志神社は古くからの神社で、平安時代に編集された『延喜式』に記されている宍粟郡の七社の一つです。 波賀八幡神社には天文9年(1540)に丹治大河原之清が備前長船の刀匠に作らせた刀が奉納されています。
街道に近い小さな小山(古城)にも城蹟があり、これも波賀城の一部といえます。 因幡街道から西へ向うのが千種への街道です。 因幡街道の一部は西側の安賀と野尻を通っていて、峠の下で千種への道に続いていました。 現在の道路に沿うようにして千種から美作へと通じていた街道です。
因幡街道と分れて東へ向うのが三方への街道であり、ここからさらに富士野峠などを越えて但馬へと続きます。
今日では姫路や神戸など南に向う交通が大きな比重を持っています。 しかし歴史的には因幡・美作・但馬などへの交通がそれと同じように重要な意味を持っていました。 波賀城の戦略的な重要さは、ここから見下ろす街道が語っているといえるでしょう。
城郭の前には「」と題した解説板があります。 は施錠されていないので、ちょいと中を見学していきます。 中は板敷き間になっていて、靴を脱いで上がるようになっています。 壁には年表が張り出されていて、「日本のおもなできごと」と「波賀町のおもなできごと」が、 旧石器時代から平成まで書き出されています。 硝子張りのケースの中に史料が展示されていますが、薄暗くて読めません。 二階へ続くがあって登ってみますが、特別なものはないようです。
波賀城のみどころ(石垣)
波賀城の顔ともいえる当石垣は、全国でも最古式に属し、おそらく天正年間(1573〜1591)以前の成立が考えられる。 その特徴は、次にあげるようにコーナー部の積み方にある。
(V期)寛永年間(1624〜1643)
この期の特徴は、その稜線にノリ(傾斜角)をつけ、加えて反りがつく。 また直角をしたコーナー部となる角石や角脇石には、規格した切石を用いている。 それにより、角石の長辺を交互に組んだ算木積みが完成する。
(U期)天正、文禄年間(1573〜1595)
この石垣は、やや反りのある稜線をもつ。 その石材に大小、凸凹、長短のある自然石を用いるところから、算木積みはまだ十分完成していない。 また左右のノリ、反りを調整するために、角石どうしの間にハサミ石を入れる。
(T期)天正年間以前(〜1572)
波賀城の石垣には、まだ反りはなく、ノリだけの稜線である。 石材はレンガ状の節理にそって割れた横長石が多い。 コーナー部をつくる角石、角脇石といった用途別の意識はまだなく、算木積みは未発達である。
(シノギ角)
下方の通路上に残る上下二段の石垣は、山の地形に沿って、いくつかの鈍角状のコーナー部をつくる。 これを「シノギ角」という。 この技法は、天正年間には発達するが、波賀城の「シノギ角」石垣は、まだ算木積みが未発達である。 これは、波賀城の石垣が天正年間以前の古い様式を備えたことによるものであろう。
くつをぬいでお上がりください
雨や木の葉が入りますのでお城の入口は閉めて下さい。よろしくお願いいたします。
城の管理人
城山 (標高458m)
城郭から出て、左へ戻るように続く塀沿いのを登っていきます。 入口には「頭上に注意して下さい」の看板が出ていますが、文字はほとんど消えています。 右へ曲がりながら続く石段を登っていくと、右上にがあるので、道から外れて向っていきます。 中ほどには「宍粟50名山 城山(458m)No,48」や「宍粟市指定文化財(史跡)波賀城跡」の標柱が立っています。 城郭から1分ほどの所になります。 城山の周囲は樹木に囲まれていて、眺めは広がりません。 傍にはコンクリートブロック製のがあって、文字が刻まれた石碑が納められています。 「波賀町文化財指定」の標柱もあります。 祠の隣には、風通しの良い覆い屋の中にがあります。 扁額も掲げられていますが、達筆すぎて無学の私には読めず、神社の名前は分かりませんでした。
波賀城蹟
神社の右側から奥へ続く幅の広いを降っていきます。 途中で振り返って、を眺めていきます。 階段が終って左へ進んでいくと、「城山の植生」と題したがあります。 左へ回り込むように進んでいくと、先ほどのが見えてきます。 塀沿いに続く元来たを降っていきます。 石段が終ると、城郭の脇のなだらかな所に戻ってきます。
城山の植生
標高458mの城山は、第一層(頂上部)、第二層(中間部)、第三層(下層部)の三つの植生に分れています。
第一層の頂上部は約20株のイヌシデを中心に、イロハモミジ、クマシデ、アカマツ、シロダモ、モミなぢが高木層を作り、 低木層にはシロダモ、シキミ、イヌツゲ、コマユミ、ソヨゴ、ウラジロノキなどがあり、 中間温帯の二次林のひとつで、典型的なシデの樹林ですが、 その中に冷温帯針葉樹のアスナロが植生し、それは直径50cmを越える巨木でイヌシデの大木と共に群落を形成しており、 そのアスナロ、イヌシデの群落は県下にもその例を見ることの出来ない貴重な樹林です。
尚、この第一層の頂上部は兵庫県の「自然環境の保全と緑化の推進に関する条例」第十六条第一項の規定に基づく、 「環境緑地保全地域」に指定されています。 第二層の中間部は、「波賀城史蹟公園」として唐カエデ、コムラサキ、ヒサカキ、ヤマザクラ、ヤマハギ、ユズリハなどの低木樹を植栽し、 園地としての景観形成が図られています。
第三層の下層部は大部分がスギ、ヒノキなどの民有人工樹林で、 手入れも行き届き、一部縦帯状コナラ、アベマキ、ケヤキ、クリなどの落葉樹林も残されています。
教育委員会
なだらかな所の先にが続いているので、歩いてみることにします。 高みを回り込むように左へ曲がりながら進んでいくと、「」の標柱が立っています。 少し降り坂になる道を進んでいくと、「」の標柱が立っています。 緩やかな所を過ぎて軽く登っていくと、「」の標識を過ぎていきます。 程なくして、が右へ分れて降っています。 入口の樹木には「立入禁止」の板が取り付けられています。 案内図に「順路」として載っていた道で、東屋の先にあった分岐へ続いているようです。 少しになる道を進んでいきます。 軽く登っていくと、城郭に戻ってきます。
城郭と塀の間を抜けて右へ曲がり、元来たを降っていきます。 左に広がるを再度眺めながら降っていきます。 麓にあるでは野球の試合が行われているようで、賑やかな音や声が聞こえてきます。 石段が終った道を、に沿って進んでいきます。 程なくして、木製の階段が現れます。
曲がりながら続くを降っていきます。 階段が終って右へ曲がって横木の階段を降っていくと、が設置された所を過ぎていきます。 程なくして、「立入禁止」の板がある道とのに出ます。 道なりに左へ曲がって降っていくと東屋に着きます。 東屋の中に設置されている石製のテーブルには、方角を示すが取り付けられています。
冠木門
東屋を回り込むように横木の階段を降っていくと、緩やかなに着きます。 再び現れるを登っていきます。 少し曲がりながら登っていくと、が見えてきます。 階段を登り切ると、冠木門に着きます。 波賀城蹟から6分ほどの所になります。 来る時には気が付きませんでしたが、 「波賀城蹟」の石碑の裏側には「」と題した作品が貼り付けられています。
題名 つどい(川駑移)
制作意図 万葉がな(川駑移)の草書体を用い極端なまでに簡略化し、横長でリズミカルな構成をとり、 余白美、流動美を求めながら、波賀町の明るく愈々の発展を心に秘め、より厳しい線質で表現をこころみる。 又、この地により多くの人々が仲睦まじく集い来たれることを願いながら…
制作年 平成6年3月
執筆 藤原清洞
波賀町
道を塞ぐを過ぎていきます。 登り坂になると、の脇を過ぎていきます。 石垣が見られるを過ぎていきます。 になった道を進んでいきます。 「波賀城史蹟公園」の標識を過ぎていくと、大きな地図と門札製作の看板などが並ぶ分岐に出ます。
城地区
を少し曲がりながら進んでいきます。 地道から舗装路になるとがあります。 脇にある「」に注釈を書き込んだものを載せておきます。 車止めを過ぎると、車を止めておいた広い駐車場があります。 冠木門から6分ほどで到着しました。