宮津164m峰
概 要 宮津市の宮村地区にある164.4m峰(八幡山)へ登ります。 西側から八幡宮を経て山頂へ登り、戻り道の途中から南側へ降るルートを歩きます。 山頂の手前には展望地があって、宮津湾や天橋立などを見渡すことができます。
起 点 宮津市 宮村地区
終 点 宮津市 宮村地区
宮村地区…小祠…八幡宮…四叉路…石祠…展望地…164.4m峰…四叉路…舗装路出合…正印寺…宮村地区
所要時間 1時間10分
歩いて... 八幡宮までは整備された参道が設けられています。 八幡宮から山頂までの道は明瞭で、息が切れるような急坂もありませんが、 季節柄とても蒸し暑く、噴き出す汗を拭きながらの登りとなりました。 山頂やその手前の展望地からは、宮津湾や天橋立などを見渡すことができました。
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コース紹介
宮村地区
山陰近畿自動車道を宮津天橋立ICで降りて、府道9号を北上していきます。 京都丹後鉄道の宮村駅への分岐を直進した先の信号機が設置された交差点を右折して進んでいきます。 京都丹後鉄道の鉄橋やその先の陸橋の下を過ぎていくと、鳥居が立つ四叉路があります。 鳥居の右側に車4〜5台分のがあるので、ここに車を止めさせて頂きました。
「猪岡八幡宮」の扁額が掲げられたの前には、 「八幡山城跡と細川氏」と題した解説板があって、「」が載っています。
八幡山城跡と細川氏
八幡山の中腹に鎮座する八幡神社は、長和5年(1016)、丹後国の守護であった藤原保昌(妻は歌人の和泉式部)が、 京都の石清水八幡宮を勧進したと伝えられる古社です。 中世に築かれた八幡山城跡は、八幡神社の裏からはじまり、 標高165メートルの頂上にある本丸まで曲輪が続きます。 また、北側に分岐した尾根の稜線にも曲輪がみられ、 その規模は南北約720メートル、東西約400メートルと、丹後でも最大級の山城です。 築城時の城主は不明ですが、天正7年(1580)、織田信長の命によって丹後を攻略した細川藤孝、忠興の親子が入城したとされています。 翌8年8月に宮津城の築城が許されており、短期間ではありますが、八幡山城跡は細川氏による丹後平定の拠点となりました。 山頂の本丸や本丸北側の曲輪からは、天橋立や上宮津方面を一望することができ、 八幡山城跡の軍事的な重要性を実感することができます。
宮津市教育委員会
鳥居をくぐって、その先のを登っていきます。 周囲に生える巨木を眺めながら石段の先へ続く参道を進んでいくと、両側に建つを過ぎていきます。 また現れる石段が終わると、曲がっていきます。 斜面を横切るように進んでいくと、右へ折れ曲がって広いを登っていきます。 土が剥き出した広い参道を登っていくと、小広い所に出ます。 左側にはが二つ並んでいますが、名前は確認できませんでした。
八幡宮
また現れるを登っていきます。 石段が終わると緩やかなに出ます。 左にある建物の前を過ぎてまで来ると社殿が近づいてきます。 両側に控える狛犬まで来ると、「八幡宮」の扁額が掲げられた社殿があります。 駐車場から10分ほどの所になります。
四叉路
社殿の右側に並ぶ小祠の脇から、山頂へ続くが始まります。 入口には「八幡山城跡500m」のが立っています。 斜面を横切るように続く軽いの道を進んでいきます。 小尾根を過ぎて降り始めると四叉路があります。 八幡宮から1分ほどの所になります。 周囲にはが立っていて、 左前方へ登っていく道は「八幡山城」「八幡山城跡450m」となっています。 左前方へ降っていく道から見える面にも「八幡山城」と書かれています。 右へ分かれていく道もありますが、標識には何も示されていません。 左にあるのうち、 右側は舗装路へ降る道なので下山時に歩くことにして、先ずは山頂へ向かって左側の道を登っていきます。
石祠
尾根のに続く道を登っていきます。 息が切れるような急坂ではありませんが、季節柄とても蒸し暑く、噴き出す汗を拭きながら登っていきます。 少し左へ曲がって、尾根の背を登るようになると、次第に傾斜がになります。 再び傾斜が増してくる尾根を登っていくと、「300m」「あと300m」のが並んでいます。 標識を過ぎていくと、左側のこんもりとした高みにが見えてきます。 登山道から少し外れますが、ちょいと立ち寄っていきます。 軽く登っていくと、帽子を被ったような石碑の先に、石を積んだ祠があります。 八幡宮から5分ほどの所になります。 左側から覗いてみると、中にはが納められています。
から降っていきます。 登山道に復帰して、が幾つか剥き出す所を登っていきます。 傾斜が緩んだ所を過ぎて再び登り傾斜が増してくると、「200m」のを過ぎていきます。 程なくして、正面に僅かな高みが現れます。 左側にはがありますが、 麓にあった縄張り図に載っている曲輪群のひとつのようです。
高みのに続く道を登っていきます。 広くて緩やかな尾根の背に出ると、「100m」のが立っています。 尾根の背の少し左側を進んでいくと、鉄製の手摺りが設置されたが現れます。 階段が終わった先にも続く鉄製の手摺りに沿って登っていくと分岐があります。 右側には「50m」の標識が立っていて、正面の道を指しています。
展望地
山頂へは正面の道を進んでいくのですが、 「天橋立展望」のが左の道を指しているので、ちょいと立ち寄っていきます。 軽く登っていくと、すぐにベンチも設置された小広い所に出ます。 八幡宮から16分ほどの所になります。 眺めが広がるになっています。
「宮村桜」「希望桜」「八幡山城もみじ」などの標識が添えられたや「宮津城南部地域会議」の幟旗を見掛けます。 などを眺めながら、ひと息入れていきます。
164.4m峰 (八幡山)
に戻って、「50m」の標識が指す道を進んでいきます。 緩やかな尾根を進んでいくと、の辺りから登り傾斜が増してきます。 程なくして、平らな石を積んだが現れます。 途中で右へ分かれていく小径(*)を見送って石段を登っていくと、 「八幡山城跡」の標識が立つ小広くなった山頂に着きます。 展望地から2分ほど、駐車場から32分ほどで登って来られました 情報によると八幡山というようです。 麓にあった縄張り図によると、山城の本丸があった所のようです。 手前には帽子を被ったような「宮村」があるので、地形図に載っている164.4m峰になるようです。
*右へ分かれていく小径は高みを巻くように続いていますが、巻き終えた辺りで不明瞭になります。
山頂は少し雑然とした様子です。 電灯の発電用と思われるソーラーパネルも見られますが、祭事などの時に点灯させるのでしょうか。 先ほどの展望地ほどの眺めは広がりませんが、 に山並みが見えます。 宮津湾の海岸線も少し見えます。 山頂の様子や景色を眺めながら休憩していきます。
落ち着いたところで、登ってきたを降っていきます。 左からの小径を合わせて降っていくと次第にになります。 「50m」の標識が立つ展望地へのを過ぎていきます。 すぐ先から始まるに沿って降っていきます。 程なくして現れるを降っていきます。 階段が終わって緩やかになった尾根を進んでいくと、「100m」の標識を過ぎていきます。 山頂から3分ほどの所になります。
少し右へ曲がって、尾根のを降っていきます。 曲輪跡のようななだらかな所を過ぎていくと、「200m」のが立っています。 緩やかな所を過ぎて傾斜が増してくると、が幾つか剥き出す所を降っていきます。 傾斜が緩やかになると、右の僅かな高みに石祠が見えてきます。 山頂から9分ほどの所になります。
四叉路
石祠のある高みの左側を降っていくと、「300m」「あと300m」のを過ぎていきます。 尾根の左斜面に続くになった道を進んでいきます。 傾斜が増してくる道を降っていくと、少し曲がっていきます。 尾根のを降っていきます。 傾斜が緩やかになると、「八幡山城」「八幡山城跡450m」の標識が立つ四叉路に戻ってきます。 山頂から14分ほどの所になります。
登ってきた道は右へ続いていますが、 戻るようにして続く道を降っていきます。 斜面に沿うように続くを進んでいきます。 程なくしてを降るようになります。 白い土嚢が続くようになると防護網が設置されています。 網を持ち上げると容易にくぐれるので、通過していきます。
舗装路出合
防護網を抜けた所から右へ踏み跡が分かれていきますが、 左の防護網沿いに続くV字形にを降っていきます。 左へ曲がっていく防護網を見送っていくと、左上にあるを過ぎていきます。 程なくして、が見えてきます。 右側に張られた電気柵に触れないよう降っていくと、地形図に実線で載っている舗装路に降り立ちます。 四叉路から5分ほど、山頂から21分ほどで降りて来られました。 脇には「八幡山城跡600m」のが立っていて、今降って来た道を指しています。
右へ続く舗装路を進み始めると、すぐの所にがあります。 どちらの道でも良いのですが、右の道を進んでいきます。 民家が並ぶ斜面を横切るように降っていくと、の下を過ぎていきます。 に出て、右折していきます。 右前方に登っていく坂道を見送って小さな電波塔まで来ると、正印寺の入口があります。 舗装路出合から6分ほどの所になります。 左側には正印寺があります。
正印寺
右側のの登り口には「正印寺」の解説板が立っています。 石段を登って、大きな「曹洞宗 東光山 正印寺」の石柱が立つ所を左へ曲がって石垣の間を登っていくと、 正面に正印寺の本堂があります。 右側にはがあります。 左側にはがあります。 傍にが並んでいます。 もあって圧倒されます。
正印寺
宮津市字宮村
東光山と号す。 曹洞宗、宇治興聖寺末。 本尊聖観世音菩薩。 寛政2年(1790)棟札によると、延宝年間、宮津藩主永井尚長(在任1674〜80)の家老中村某が、住僧本哲をたすけてこの寺を中興した。 この時本哲は自らは開山とならず、興聖寺梅峰を開山に請じた。 思うに、永井氏は父尚征が山城淀藩主の時より、興聖寺の有力檀那であった縁故で、梅峰を請じたのであろう。 梅峰は後年禅門の碩学卍山道白と江戸におもむいて宗門改革の大運動に投じた人である。 山号東光山は、東方瑠璃光如来薬師仏に縁あることを示し、 薬師如来の垂迹と信じられた午頭天王を祀る祇園社(八坂神社)は今も近くに鎮座。 宮村の奥には「どぶ」「薬師堂」の小名が残って、かつて薬師の祀られていた跡と伝える。 いわば宮村の地は、薬師・祇園・正印寺が薬師信仰に関わりをもった信仰地域であったといえる。 境内薬師堂に安置する薬師如来坐像は、像高85.5センチ、右手屈臂、左手薬壺をのせる普通の形で、カヤ一木造である。 各部に後補のあとが多いが、平安時代前期のおもかげを残し、 宮津市域では日置金剛心院木造如来形立像(重文)につぐ古仏である。 宮津市指定文化財。
宮津市教育委員会、宮津市文化財保護審議会
東光山 正印寺
ありがとう  すみません  ご苦労さま
この三つを多く言う人に行き詰まりはない
宮村地区
往復5分ほどでまで引き返してきます。 右へ続くを軽く降っていきます。 最初にくぐっていった鳥居が見えてくると、車を止めておいた駐車場があります。 舗装路出合から12分ほどで到着しました。