概 要 |
御林展望台は、養父市の中瀬地区の斜面にあります。
「展望台」と言っても櫓台などはありませんが、
かつて幕府直轄林だった所の樹木が伐採されて山並みや街並みを見渡せます。
今回は中瀬金山関所を起終点として、稲荷祠を経て御林展望台へ登り、
北北西の谷筋まで進んで三柱神社へ降るルートを歩きます。
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起 点 |
養父市 中瀬地区
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終 点 |
養父市 中瀬地区
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中瀬金山関所…常運寺…稲荷祠…平坦地…御林展望台…平坦地…十字路…石橋…砂防ダム…小橋…三柱神社…中瀬金山関所
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所要時間 |
2時間30分
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歩いて... |
稲荷大明神から御林展望台までは、標識が点々と設置されてルートを示しています。
石橋から三柱神社までの谷筋は、途中まで荒れていて道が不明瞭で歩き難くなっているので、
歩けそうな所を探しながら降ることになりました。
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関連メモ |
今のところ、関連メモはありません。
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中瀬金山関所
養父市を通る国道9号の関神社前交差点から県道87号に入って西進していきます。
中瀬地区まで来ると中瀬金山関所があります。
横に砂利敷きの駐車場があるので、ここに車を止めさせて頂きました。
駐車場の入口には「」があって、この付近の地図(*)が載っています。
駐車場の奥には「明延鉱山 中瀬鉱山」の横断幕が張られてが展示されています。
傍には「トロッコ」と題した解説板があります。
*散策マップには今回登る御林展望台が「展望台」として載っています。
木組みの櫓台が描かれていますが、現地には櫓台はなく「御林展望台」の標識が立つばかりです。
日本遺産「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」 中瀬鉱山町 探策マップ
安土・桃山時代、江戸時代には金山として、昭和には金・銀・アンチモン鉱山として栄えた中瀬鉱山。
かつての全盛期の面影を今に残す町並を探索してみよう!
宝引山麓の台地に残る「陣屋(金山役所)跡」の古い石垣、
金昌寺、金光寺、宝泉寺など、金山ならではの寺号を持つ古い寺々。
昔のままの町割と水路。
陣屋跡裏の”御林”に上がれば、眼下に”総構え”の旧「中瀬金山町」と、今も稼働中の精錬所が一望できる!
<中瀬鉱山町>
中瀬鉱山は、金とアンチモンを産出した日本を代表する鉱山です。
八木豊信・豊臣秀吉・徳川家康が支配し、江戸時代には生野奉行所が治めました。
明治時代には官営鉱山となり、後に民間経営となって昭和44年まで採掘しました。
現在もアンチモンの精錬所が稼働しています。
江戸時代に中瀬金山町が整備されました。
高台に金昌寺と陣屋が置かれ、平地には長方形の街区にそって道路が並びました。
東に八木口門、西に足坂口門、南に大屋口門が作られました。
また大日寺、宝泉寺、金光寺、常運寺などの寺院があります。
<日本遺産>
日本遺産「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」には「資源大国日本の記憶をたどる73kmの轍」という副題があり、
姫路市・福崎町・市川町・神河町・朝来市・養父市の6市町が推進しています。
飾磨港(現姫路港)から中瀬鉱山に至るこの道は、鉱産物、採掘・製錬に必要な資材、生活物資を届ける馬車や機関車が盛んに行き交いました。
但馬の生野・神子畑・明延・中瀬の鉱山は日本を代表する近代鉱山であり、産業遺産です。
地中深く掘られた坑道から金・銀・銅の鉱石を採掘しました。
中瀬鉱山で採掘・選鉱した金や銅の粗鉱は香川県の直島精錬所に運ばれてインゴット(地金)になりました。
平成30年3月 中瀬金山会・中瀬区・養父市
トロッコ
中瀬鉱山の白岩抗で使われていたバッテリーロコ(蓄電池機関車)とトロッコです。
長年屋外に置かれていたため錆と破損が進んでいます。
バッテリーロコは、昭和3年に日本輸送機株式会社がはじめて国産開発しました。
当時、各地の鉱山や炭鉱では資源需要の増加に伴い、搬出手段の向上が課題でしたが、
坑内の空気を清浄に保つため、ディーゼルエンジン等は使えませんでした。
そこで開発されたのが蓄電池式の機関車で、大いに威力を発揮しました。
中瀬鉱山でも昭和10年代に入ると有望な金鉱脈が次々と発見されましたが、
搬出手段が課題となり、昭和15年11月に初めて導入されたものです。
戦後2両が追加され主に鉱石を搬出するトロッコを牽引しましたが、
1両は坑内夫の入出抗のために、小さな人車3台(1台当たり8人乗車)の牽引にも利用されました。
トロッコは底が鍋型のため、”ナベトロ”と呼ばれましたが、
現在兵庫県内で残っているのはこれだけと言われている貴重なものです。
中瀬ではズリ捨てに使われました。
バッテリロコと共に昭和44年の抗口閉鎖まで活躍しました。
平成30年3月 中瀬金山会・中瀬区・養父市
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常運寺
駐車場の道路向かいにあるへ入っていきます。
路地はすぐに左へ曲がっていきますが、正面にあるを登っていきます。
「東向観音さま縁起」の解説板を眺めながら登っていくと、常運寺の境内に出ます。
この時は草刈りや掃除などの作業をされていたので、
邪魔にならないよう写真はあまり撮らずに、急ぎ足でを通過しました。
東向観音さま縁起
「古歌」 ありがたや 金の里なる 無量院 十一面に まいる身なれば
当山境内に安置せる東向の十一面観世音菩薩は、白岩城主 伊豆守臣 御城代服部貞右衛門武盛の守本尊として奉祀したのがはじまりで、
時代の変遷を経て、その間堂宇の改築も再三に及び、今日に至った。
中瀬金山の発展時代より東向観音として民衆の信仰が篤く、学徳成就、諸病平癒の霊顕あらたかな佛さまとあがめ、
地方住民に親しまれ、観音講を組織して祀られている。
毎月十七日は大勢の参詣があります。
平成元年(1989)正月 信仰山 無量院 常運寺
信仰山 常運寺
宗 派 |
浄土宗 京都市 総本山知恩院末
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創 建 |
開基 寛永元年(1624)、欣誉直道比丘
開山 厭蓮社欣誉上人
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本 尊 |
阿弥陀如来立像
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経 緯 |
太田垣軍慶(吉井・白岩家の祖)の子で、京都嵯峨二尊院で剃髪した直道比丘が当寺を建立。
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無量院 |
境内の観音堂は無量院と呼ばれており、東向観音と呼ばれる十一面観音菩薩像が祀られています。
観音菩薩像は東にある吉井・白岩家の方角を向いているとい言われています。
古歌「ありがたや 金の里なる 無量院 十一面に まいる身なれば」
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寺 宝 |
阿弥陀如来立像 観世音菩薩像 勢至菩薩像
阿弥陀如来坐像 曼荼羅図 涅槃図 法然上人坐像 善導大師坐像
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沢岸寺 |
沢岸寺は八木川の右岸に創建されました。
貞享年間(1684〜1688)に洪水で流出しましたが、江戸時代末に岡本善四郎が仏像を発見し、
現在の常運寺東側に再建しました。
現在建物はなく常運寺で併祀されています。
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平成30年3月 中瀬金山会・中瀬区・養父市
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すぐに左右に通るに出て、右へ進んでいきます。
傾斜が増してくる道を登ってまで来ると、左へ折れ曲がっていきます。
少し登った所を道なりに右へ折れ曲がって赤い鳥居まで登っていくと、舗装路は行き止まりになります。
左側には大きな岩がありますが、袂の「稲荷祠・たいの岩」と題した解説板に載っているでしょうか。
解説板の傍には「たいの岩・稲荷」「御林展望台」の標識があって、
の先へ続く木の階段混じりの道を指しています。
稲荷祠・たいの岩
中瀬と吉井の村境に”たいの岩”と称される大岩があり、その岩上に稲荷が祀られています。
由来や縁起は不明ですが、昔から吉井と中瀬の住民が参詣してきました。
今は中瀬区が初午に祀っています。
祠前にある狐像の台座には明治42年”鉱山志”として寄進者の名が刻まれ、
鉱夫の信仰も篤かったことがわかります。
また『中瀬金山記』には、慶長11年(1606)、中瀬が洪水に見舞われ、
人々が”たいの岩”に上がって、家や人が流されてゆくのを見ながら恐ろしい一夜を過ごしたと書かれています。
たいの岩”は”鯛の岩”とも”台の岩”とも書かれます。
昔、ここに地侍・上田氏の館があったとも言われ、街道を見下ろす格好の地にあります。
稲荷祠の裏手から尾根伝いに1kmほど登ると、山腹の平坦地に着きます。
この辺りは「城山」とか「代官山」と呼ばれていたところで、
代官所が支配する直轄の松林(御林)があったと言われています。
金山役所の材木や坑道の資材となったのでしょうか。
平坦地の一角には、石積みの囲いが残っており、中世の城跡との説もあります。
平坦地を少し南へ下ると、中瀬を一望できる見晴らしの良い場所に着きます。
また、この平坦地からさらに北方向に山を登って行くと標高803mの「宝引山」にたどり着きます。
平成30年3月 中瀬金山会・中瀬区・養父市
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稲荷祠
赤い鳥居をくぐって、を曲がりながら登っていきます。
の手前まで来ると、木の階段は途切れます。
岩の前を左へ曲がっていくとが立っています。
鳥居をくぐって右へ曲がると、上の方にが見えてきます。
急な斜面を登っていくと、なだらかな所に稲荷祠が建っています。
駐車場から9分ほどの所になります。
祠には「正一位 稲荷大明神」の扁額が掲げられています。
ここは先ほどのの上になるようです。
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を進んでいきます。
すぐの所に「御林展望台」のが立っていて右前方を指しています。
思いのほか傾斜が急な植林地を登っていくと、程なくして「御林展望台」のが立っています。
「地籍図根」の黄短杭や「国土調査」の青短杭が続く尾根を曲がりながら登っていくと、
また「御林展望台」のが立っています。
汗を拭き拭き更に登っていくと、また「御林展望台」のがあります。
踏み跡を辿りながら登って左への曲がり角まで来ると、正面に踏み跡が分かれていきます。
稲荷祠から8分ほどの所になります。
ここには標識類はありませんが、左へ曲がって登っていきます。
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少し登って尾根の背に出ると、「御林展望台」「たいの岩・稲荷」のを過ぎていきます。
傾斜が少し緩んでくる尾根を登っていくと、「御林・宝引山」のが立っています。
倒木を過ぎて登って少し明るい所に出ると、樹皮が剥がれたがあります。
枯れ木を過ぎていくと石垣が現れます。
稲荷祠から15分ほどの所になります。
石垣の傍には「御林展望台」の標識が立っています。
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石垣に沿って登っていくと、があります。
しばらく続く石垣が終わると、「御林展望台」「たいの岩・稲荷」のを過ぎていきます。
右へ曲がって次第に傾斜が緩やかになると、また「御林展望台」のがあります。
右側には人工的なが見られます。
緩やかな所に出て左へ曲がると、「御林展望台」「たいの岩・稲荷」の標識が立っています。
稲荷祠から22分ほどの所になります。
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平坦地
前方に見える高みへ向かって登り始めると、「御林展望台」のが前方を指しています。
松の木が目立つようになると、が幾つか剥き出しています。
少し右へ曲がりながら登っていくと平坦地に出ます。
稲荷祠から23分ほどの所になります。
標識はないかと探していると、松の木の間に標識が見えます。
近づいていくと「宝引山」のなので、
ここは宝引山への分岐になっているようです。
「御林展望台」の標識は見掛けませんが、
ここを左へ曲がって、南西に続くを進んでいきます。
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軽く降っていくと、「御林展望台」のが立っています。
傾斜が緩やかになると、50cmほどの高さの石積みで囲まれた平坦地に出ます。
左側には石で囲まれたがあります。
稲荷祠の下にあった解説板によると、中世の城跡との説がある所のようです。
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御林展望台
左前方へ進んでいくと、「御林展望台」のが立っています。
降り傾斜が増し始めると、50cmほどの高さの石積みの手前に「御林展望台」「宝引山」のが立っています。
石積みを降りて先へ進んでいくと、また「御林展望台」のがあります。
更にある「御林展望台」のを過ぎていきます。
正面が明るくなって伐採地に出ると、「御林展望台」の標識が立っています。
ここが御林展望台になるようです。
宝引山への分岐になっている平坦地から6分ほど、駐車場から40分ほどで到着しました。
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目の前には山並みを見渡せる眺めが広がります。
眼下には中瀬地区のを見下ろせます。
車を止めてきた中瀬金山関所のも良く見えます。
お昼にはまだ早い時刻なので、水分補給などをしながら休憩していきます。
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平坦地
落ち着いたところで、を引き返していきます。
が見られる尾根を登っていきます。
標識を3つ過ぎていくと、50cmほどの高さの石積みで囲まれたに出ます。
石積みを登って、「御林展望台」「宝引山」の標識を過ぎていきます。
更に「御林展望台」の標識を過ぎていくと、稲荷祠から登り着いた平坦地に戻ってきます。
御林展望台から7分ほどの所になります。
元来た右の道を降っても良いのですが、
宝引山への登山道になっているというを進んでいくことにします。
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広い尾根を進み始めると、すぐの所に立つ「宝引山」のを過ぎていきます。
登り坂になると、右側にが建っています。
が剥き出す尾根を登っていきます。
明瞭な道は見掛けませんが、下草は生えておらず、歩き難くはありません。
右側にはが続きます。
傾斜が緩やかになると僅かな高みに着きます。
平坦地から6分ほどの所になります。
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十字路
左へ曲がって、を軽く降っていきます。
すぐにに着いて、倒木が散乱する尾根を登り返していきます。
倒木を避けながら登っていくと、低いがあります。
石積みを過ぎるとに着きます。
高みを過ぎて軽く降っていくと、浅い鞍部に着きます。
平坦地から11分ほどの所になります。
左右に通る道と正面に登っていく道との十字路になっています。
中ほどの切り株に桃テープがあるばかりで標識類は見掛けませんが、
地形図に破線で載っている道に向かって、緩やかなを進んでいきます。
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斜面を横切るように続く小径を進んで少し右へ曲がる所まで来ると、樹木にが巻かれています。
少し降って倒木まで来るとがあります。
左の窪んだ道は降っていくので、緩やかな右の道を進んでいきます。
倒木を避けながら進んでいくと、次第にになります。
軽く降っていくと谷筋に出ます。
十字路から7分ほどの所になります。
上流側にはが何段も見られます。
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石橋
谷筋を横切っていくと、が茂るようになります。
少し右へ曲がって、生い茂るを膝で掻き分けながら進んでいきます。
シダ類が無くなった小径を軽く降っていくと、石橋がある谷筋に出ます。
十字路から10分ほどの所になります。
地形図にはここから南へ降る破線の道が描かれていますが、それらしい明瞭な道は見当たりません。
は石橋を渡ってその先へと続いています。
このまま小径を進んでいくと宝引山へ登れるようです。
どうしたものかと愚考の末、植林地になっているを降っていきます。
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小岩が散乱し倒木が目立つ谷筋を降っていくとがあります。
その先のを過ぎて降っていきます。
歩けそうな所を探しながらを降っていきます。
たまに桃テープを見掛けたりもするので、かつては明瞭な道が続いていたようです。
谷筋を流れる細い沢には石積みのが施されていますが、この谷筋はかつて農地として使われていたのでしょうか。
少し右へ曲がって降っていくと、石垣が何段も見られる谷底に出ます。
石橋から14分ほどの所になります。
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谷筋の右側に出て、が少し茂る所を軽く登っていきます。
すぐに降り坂になると、左側にがあります。
を渡ったりしながら谷筋を降っていきます。
谷筋の左側を降っていくと分岐があります。
石橋から31分ほどの所になります。
左の道は登り坂になっているので、右の道を降っていきます。
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程なくしてが茂るようになります。
シダ類を掻き分けながら進んでいくと、正面にが見えてきます。
シダ類が茂る所を抜けると、が幾つもゴロゴロしています。
少し先を右へ曲がって、へ降りていきます。
谷底の涸れ沢の脇を降って段差のある所まで来ると、次第に道が明瞭になってきます。
石橋から38分ほどの所になります。
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谷筋の左側に続く道を軽く降っていくとの脇を過ぎていきます。
右へ曲がって、一段低いに降りていきます。
沢の左側が歩き難そうになるので、を渡って右側を進んでいきます。
少し降った所で、沢を渡り返していきます。
沢には水利のが設置されていて、その先にはパイプが続いています。
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砂防ダム
谷筋のの斜面を進んでいきます。
程なくして砂防ダムの脇に出ます。
石橋から51分ほどの所になります。
砂防ダムの脇から、右下に見えるに向かって降っていきます。
正面にはが続いていて、
少し進んでいくと金昌寺のに出られます。
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植林地のに続く道を進んでいきます。
程なくして、墓地から降ってくる道がしてきます。
右へ戻るように曲がって、砂防ダムの下に降りていきます。
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小橋
左へ曲がって、石積みで護岸されたを降っていきます。
倒木を過ぎていくと、沢にが架かっています。
その先には踏み跡が続いていますが、このまま沢沿いに降っていきます。
沢向かいにはの社殿が見えてきます。
社殿の一段低い所にあるを眺めながら、沢沿いに降っていきます。
程なくして、沢に架かる小橋の際に出ます。
石橋から1時間ほどで降りて来られました。
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三柱神社
国道429号へは左へ降っていくのですが、右側にあるに立ち寄っていきます。
「三柱神社」の扁額が掲げられた鳥居をくぐると、社殿の一段低い所にあるに出ます。
右側の舟形の手水鉢の傍には、「三柱神社」と題したがあります。
石段を登って一段高い所に出ると、拝殿と本殿からなる三柱神社の社殿があります。
奥には「三柱大明神」の扁額が掲げられた本殿が見えます。
社殿の右側には、「山神社」「愛宕神社」「稲荷神社」の扁額が掲げられたが並んでいます。
三柱神社
祭 神 |
保食神 稚産霊神 埴安媛命
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創 建 |
不詳
江戸時代は山神社と呼ばれ、通称は山ノ神でしたが、明治6年に三柱神社となり、村社となりました。
現在は境内に摂社として山神社があります。
境内脇を流れる谷川は、大正時代までは山神谷川と呼ばれていましたが、現在は中瀬川となっています。
境内には山神社(金山彦命他2神)、愛宕山、稲荷社が併祀されています。
拝殿(昭和6年築)には当地方で有名な丹波出身の彫刻師、第9代中井権次の彫刻があります。
秋祭りは10月の第1日曜日に行われ、子どもらによる”練り込み”が奉納されます。
なお、山神社は他に足坂地区西側と石間歩抗口の南側にもあり、鉱山の神様として崇められてきました。
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平成30年3月 中瀬金山会・中瀬区・養父市
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中瀬金山関所
合わせて5分ほど居た三柱神社を後にして、を渡って降っていきます。
中ほどが階段状になった坂道を降っていくと、金昌寺から降ってくるに出ます。
右へ曲がって降っていくとに出ます。
左へ曲がって国道429号を進んでいくと、があります。
中瀬金山関所まで来ると、車を止めておいた駐車場があります。
三柱神社から7分ほどで到着しました。
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