日本遺産「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」 中瀬鉱山町 探策マップ
安土・桃山時代、江戸時代には金山として、昭和には金・銀・アンチモン鉱山として栄えた中瀬鉱山。
かつての全盛期の面影を今に残す町並を探索してみよう!
宝引山麓の台地に残る「陣屋(金山役所)跡」の古い石垣、
金昌寺、金光寺、宝泉寺など、金山ならではの寺号を持つ古い寺々。
昔のままの町割と水路。
陣屋跡裏の”御林”に上がれば、眼下に”総構え”の旧「中瀬金山町」と、今も稼働中の精錬所が一望できる!
<中瀬鉱山町>
中瀬鉱山は、金とアンチモンを産出した日本を代表する鉱山です。
八木豊信・豊臣秀吉・徳川家康が支配し、江戸時代には生野奉行所が治めました。
明治時代には官営鉱山となり、後に民間経営となって昭和44年まで採掘しました。
現在もアンチモンの精錬所が稼働しています。
江戸時代に中瀬金山町が整備されました。
高台に金昌寺と陣屋が置かれ、平地には長方形の街区にそって道路が並びました。
東に八木口門、西に足坂口門、南に大屋口門が作られました。
また大日寺、宝泉寺、金光寺、常運寺などの寺院があります。
<日本遺産>
日本遺産「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」には「資源大国日本の記憶をたどる73kmの轍」という副題があり、
姫路市・福崎町・市川町・神河町・朝来市・養父市の6市町が推進しています。
飾磨港(現姫路港)から中瀬鉱山に至るこの道は、鉱産物、採掘・製錬に必要な資材、生活物資を届ける馬車や機関車が盛んに行き交いました。
但馬の生野・神子畑・明延・中瀬の鉱山は日本を代表する近代鉱山であり、産業遺産です。
地中深く掘られた坑道から金・銀・銅の鉱石を採掘しました。
中瀬鉱山で採掘・選鉱した金や銅の粗鉱は香川県の直島精錬所に運ばれてインゴット(地金)になりました。
平成30年3月 中瀬金山会・中瀬区・養父市
トロッコ
中瀬鉱山の白岩抗で使われていたバッテリーロコ(蓄電池機関車)とトロッコです。
長年屋外に置かれていたため錆と破損が進んでいます。
バッテリーロコは、昭和3年に日本輸送機株式会社がはじめて国産開発しました。
当時、各地の鉱山や炭鉱では資源需要の増加に伴い、搬出手段の向上が課題でしたが、
坑内の空気を清浄に保つため、ディーゼルエンジン等は使えませんでした。
そこで開発されたのが蓄電池式の機関車で、大いに威力を発揮しました。
中瀬鉱山でも昭和10年代に入ると有望な金鉱脈が次々と発見されましたが、
搬出手段が課題となり、昭和15年11月に初めて導入されたものです。
戦後2両が追加され主に鉱石を搬出するトロッコを牽引しましたが、
1両は坑内夫の入出抗のために、小さな人車3台(1台当たり8人乗車)の牽引にも利用されました。
トロッコは底が鍋型のため、”ナベトロ”と呼ばれましたが、
現在兵庫県内で残っているのはこれだけと言われている貴重なものです。
中瀬ではズリ捨てに使われました。
バッテリロコと共に昭和44年の抗口閉鎖まで活躍しました。
平成30年3月 中瀬金山会・中瀬区・養父市