豊岡98m峰
概 要 豊岡市の下宮地区と庄境地区の境にある98.8m峰(点名:日撫)に登ります。 日撫地区にある大石りく遺髪塚を訪ねてから梶原地区にある八幡神社へ登り、 そこから北東へ続く尾根を山頂へ向かって歩いていきます。 98.8m峰から更に北東へ進んで鎌田地区へ降り、車道を歩いて日撫地区へ戻ります。
起 点 豊岡市 日撫地区
終 点 豊岡市 日撫地区
日撫地区…正福寺…大石りく遺髪塚…梶原会館…八幡神社…小峰…小峰…98.8m峰…小峰…降り口…鎌田地区…第61番札所…日撫地区
所要時間 1時間40分
歩いて... 八幡神社から北東へ続く尾根に明瞭な道はありませんが、 下草は生えておらず樹木も密生していないので、歩き難くはありませんでした。 息が切れるような急坂もなく、緩やかな起伏の尾根が続いていました。 山頂からの眺めは良くありませんが、正福寺や八幡神社の手前からは豊岡盆地を見渡すことができました。
関連メモ 今のところ、関連メモはありません。
コース紹介
日撫地区
県道3号の堀川橋西詰交差点から、円山川に架かる堀川橋を渡っていきます。 少し降って六方川に架かる橋を渡り、すぐ先の十字路を右折して南下していくと正福寺駐車場があるので、 ここに車を止めさせて頂きました。 傍には大石りく・長女・次男が並ぶがあって、脇には「大石りく顕彰碑」があります。 の案内板や「」と題したイラスト図もあります。
大石りく顕彰碑
大石倉之助良雄の妻『りく』は、豊岡藩主京極家の家老石束源五兵衛毎公の長女として豊岡で生まれました。 『りく』は、十八歳で赤穂藩家老の大石良雄のもとに嫁ぎましたが、元禄十四年、藩主浅野内匠頭の殿中刃傷事件が起こり、 赤穂浪士が吉良邸に討ち入りをする前の、元禄十五年四月に夫と離別し、子供を連れて但馬豊岡に帰りました。 その後、二男「吉千代」は出家させ、長女「くう」は十五歳で早逝し、三男「大三郎」が広島の浅野家の召し抱えられました。 『りく』は次女「ルリ」を連れて大三郎の元へ移り住み、元文元年、六十八歳で亡くなりました。 『りく』は、内蔵助の妻として、浪士が本懐を遂げるまでの間、残された浪士の家族の面倒を見ながら、 ひたすら困苦にたえ、良妻賢母の鑑として称えられています。 ここ、日撫の香林院(正福寺)には『りく』の遺髪塚があり、 長女「くう」と次男「吉千代」の墓と肩を寄せ合うようにして祀られています。
「二男」と「次男」の表記の不統一がみられますが、そのまま載せておきます。
近畿自然歩道
水郷楽々浦と玄武洞をめぐるみち(JR城崎駅〜赤石バス停) 7.9km
円山川水面に沿ってあるくみち(赤石バス停〜梶原バス停) 6.9km
正福寺
98.8m峰に登る前に、大石りく遺髪塚を訪ねていきます。 手前にあるトイレの脇から正福寺へ登っていくがあります。 入口には近畿自然歩道の標識が立っていて、 右の道は「梶原バス停0.9km」、左の道は「玄武洞公園5.3km」、正面の道は「大石りくの遺髪塚」となっています。 坂道へ入っていくと、右へ曲がり始める所の右側に「大石りくの墓・史跡」のが、 左側に「大乗妙典書冩一字一石供養塔」と「不許葷酒入山門」の石柱が立っています。 石仏が三体安置されたコンクリート製の祠を過ぎ、左上にある墓地への道を分けてを登っていきます。 傾斜が緩やかになると、左側のなだらかな所に「正福禅寺」の扁額が掲げられた正福寺があります。 お寺の謂れなどを記したものは見かけませんでした。 境内には「ここも亦 元禄美挙の 花の趾」のと、 大石りくがあります。 振り返ると、豊岡盆地を見渡せる眺めが広がります。
ここも亦 元禄美挙の 花の趾 杞陽
華やかにして 慎ましく たをやかにして 強く 凛と咲いた花影の花の人 大石りく この地に誕生す
大石りく遺髪塚
歌碑と石碑の間に続くを登っていきます。 入口には「大石りく子の遺髪塚 15m この先」の標識(*)が立っています。 石段はすぐに終わって、緩やかなになります。 墓地まで来ると、奥の囲まれた所に大石りく遺髪塚があります。 扉が開いていたので入っていくと、三つのが並んでいました。 解説板によると、中央が大石りく、向かって右側が長女、左側が次男の墓石のようです。
*標識では15mとなっていますが、その倍ほどの距離があるように思えました。
豊岡市市て史跡 大石良雄妻理玖の墓
元赤穂浅野家の浪士たちによる江戸吉良邸討ち入り事件は、平穏怠惰な世情に警鐘をならし、 泰平な世に慣れきった人々を震撼させるできごとだった。 元禄十五年(1702)十二月十四日のことである。 討ち入りを率いた中心人物は大石内蔵助良雄、その妻の生誕地がここ豊岡である。 理玖は、寛文九年(1669)代々豊岡京極家の家老を務める石束家で、宇右衛門の長女として生まれた。 現在の私立図書館あたりが豊岡版陣屋があった場所で、その東側から北側一帯には石束家など藩重職の屋敷があった。 理玖の父は、当時はまだ若かったが家老の一員として藩政にかかわり、 祖父源五郎毎術が国家老として政務全般を担当していた。 理玖生誕のころの父宅は現在の京町七番付近、豊田会館あたりにあったと推定されている。 やがて成長し、理玖は赤穂浅野家の大石良雄の元に嫁ぐ。 十数年の間は赤穂での平穏な暮らしが続き、二男二女に恵まれる。 だが、元禄十四年(1701)三月十四日に浅野長矩による江戸城での抜刀事件が勃発し、家族をはじめ、関係者の苦悩がはじまる。 理玖は討ち入りの年四月ころ豊岡に帰る。 大石は十月には正式に理玖を離縁し、罪が家族に及ばないように配慮している。 夫たちの討ち入り成功、さらに夫・長男主税をはじめとする人たちの切腹の報に接し、 公職を退いた父毎公とともに正福寺に移り、彼らの菩提をとむらった、と伝えられている。 二男吉之進と長女くうの早逝という不幸はあったものの、 やがて、関係者の尽力により豊岡で生まれた三男大三郎が広島の浅野家に仕官できることとなり、 次女ルリとともに広島に移り、元文元年(1736)に六十八歳で波乱の生涯を閉じている。 この塔は、理玖の遺髪塚である。 長女のくうの墓の傍らに、との理玖の遺言によるものと伝承されている。 明治の末、荒廃していたものを修復建立した。 向かって右に吉之進の供養塔、左にくうの墓碑も改修されて並んでいる。 なお、吉之進の墓は市内三坂大門山の旧興国寺墓地にある。
ここも亦 元禄美挙の 花の趾 京極杞陽(京極家第十四代目 俳人)
2005年3月 豊岡市教育委員会
梶原会館
往復12分ほどで駐車場まで引き返してきて、六方川沿いのを進んでいきます。 少し左へ曲がりながら進んでいくと、左にが広がってきます。 谷筋を過ぎていくと、コンクリートで保護されたが近づいてきます。 梶原会館まで来ると、すぐ傍に「八幡神社」の扁額が掲げられたがあります。 脇にはお地蔵さんが納められたコンクリート製の祠があります。 ここから八幡神社へ登っていきます。
鳥居をくぐって、コンクリートで保護された斜面に続くコンクリート敷のを登っていきます。 道なりに左・右と曲がりながら登っていくと、石製のがあります。 右側には豊岡盆地を見渡せる眺めが広がります。
左へ折れ曲がって更に登っていくとがあります。 ここにも石製のベンチがあります。 様子からすると右側の石段が元々の参道のようですが、少しは傾斜が緩やかに思える左側の階段道を登っていきます。 右へ曲がりながら登っていくとになります。 階段が終わって緩やかになると、右側から登ってくる石段と合流します。
八幡神社
石灯籠の先にがあります。 割拝殿の中を通っていくと、渡り廊下のような屋根の先にがあります。 扁額や由緒などを記したものは見かけませんが、ここが下の鳥居にあった八幡神社になるようです。 駐車場から13分ほどの所になります。 社殿の手前にはが控えています。 正面からだと建物の様子が分かり難いので、外に出て右斜め前から写しておきます。 境内には、右側に1つ、左側に2つの小振りのがありますが、名前などは分かりませんでした。 周囲には樹木が茂っていて展望は良くありませんが、周囲の様子を確認しながらひと息入れていきました。
落ち着いたところで、右側にあるを進んでいきます。 軽く降っていくとになります。 尾根に明瞭な道はありませんが、少し倒木や倒竹が見られるものの、下草は生えておらず樹木も密生していないので、歩き難くはありません。 軽い登り坂になると、尾根を横切るようにが張られています。 何だろうと思っていると、右側にがあります。 何のためのアンテナなのかは分かりませんが、あまり使われている様子ではありませんでした。 ロープの下を過ぎていくと、尾根が狭まって馬の背のようになった所を進んでいきます。
小峰
を軽く登っていきます。 次第に傾斜が緩んできてになります。 のような段差を登っていきます。 僅かに花を咲かせたの木が見られるようになる尾根を登っていきます。 傾斜が緩やかになると、標高90mほどの小峰に着きます。 八幡神社から9分ほどの所になります。
小峰
少し左へ曲がって、を進んでいきます。 咲き始めたも見られるので、もう少し季節が進むと綺麗な眺めになるかも知れません。 僅かなになった広い尾根を進んでいきます。 傾斜が緩やかになると、標高90mほどの小峰に着きます。 八幡神社から12分ほどの所になります。
少し右へ曲がっていくと、軽いになります。 尾根はで続いています。 尾根を軽く降っていくと、が巻かれた樹木を所々で見かけます。 緩やかな所を過ぎて軽い登り坂になると、尾根は左へ曲がっていきます。 その手前には小さながありました。
98.8m峰
道なりに左へ曲がって、を軽く登っていきます。 傾斜が緩やかになってくるとらきし所に着きます。 『三角点があるはずだが』と思って探しますが見当たらないので、を先へ進んでいきます。 常緑樹が茂る所を過ぎて降り坂になる手前まで来ると、「日撫」がありました。 ここが地形図に載っている98.8m峰になるようです。 八幡神社から18分ほどで到着しました。 周囲には樹木が茂っていて、残念ながら展望は良くありません。
三角点のへ続く尾根を降っていきます。 軽く降って緩やかな尾根になると、またが巻かれた樹木があります。 広くて快適な尾根を進んで軽い登り坂になると、がある標高80mほどの僅かな高みに着きます。 高みを越えての右端を軽く降っていきます。 すぐに雑木林になる尾根を降っていくと、再び石杭を過ぎていきます。
少しがある所を過ぎていきます。 僅かな登り坂になると、尾根の背や左右の斜面にが混じるようになります。 標高50mほどのを越えていきます。 軽く降って、緩やかになった尾根を進んでいきます。
小峰
僅かな起伏で続くを進んでいきます。 程なくして尾根が少し狭くなると、軽いになります。 すぐに広くなるを登っていきます。 次第に傾斜が緩やかになると、僅かなマウンドになった標高60mほどの小峰に着きます。 98.8m峰から12分ほどの所になります。 左右の冬枯れの樹間から、僅かにが見えます。
小峰を越えて降り始めると、が落ちていました。 太い竹が混じるの尾根を降っていきます。 次第にが増してきます。 切り倒された竹が目立つ所を降っていきます。
降り口
がかなり目立つようになる尾根を降っていきます。 次第に傾斜が緩やかになって、で続く尾根になります。 樹木が少し減ってを軽く降っていきます。 鉄製フレームのを過ぎていきます。 降り傾斜が増す所まで来ると、には樹木が茂って歩き難くなります。 98.8m峰から19分ほどの所になります。 ここは、歩き易そうな右前方の尾根を降っていきます。
細い木が混じるを降っていきます。 降り傾斜が更に増してくると、次第にが密生して歩き難くなります。 崖のような所まで来ると先へは降れそうになくなるので、歩けそうなへ降っていきます。 急斜面を降っていくと、程なくして左右に通る広めの道に降り立ちます。 98.8m峰から22分ほどの所になります。
に見える民家の方へ降っていくのですが、 右に見える白いの所が開けていそうなので、ちょいと立ち寄っていきます。 緩やかな道を進んでいくと、すぐに開けた小広い所に出ます。 周囲はパイプ柵で囲まれていて、道はここで行き止まりになっていますが、何のための場所なのかは分かりませんでした。 左下にはが見えます。
鎌田地区
眺めを確認したら、を引き返していきます。 降り立った所を過ぎると広めの道はなくなりますが、 笹などが茂るの所を右へ曲がりながら降っていきます。 真っ直ぐ降っていくと民家の裏手に出てしまうので、を辿って右へ曲がっていきます。 空き地に降り立って木塀に沿って進んでいくと、鎌田地区を通る国道312号に出ます。 98.8m峰から27分ほどで降りて来られました。 振り返って、を確認していきます。
第61番札所
を北へ向かって進んでいきます。 程なくして、京都丹後鉄道の鉄橋「」をくぐっていきます。 車道に沿って歩道を進んでいくと、すぐにが左へ分かれていきます。 先の方には国道178号の下宮地蔵東交差点が見えていますが、ここを左折していきます。 曲がり角には但馬六十六地蔵の第61番札所があります。 祠の中には風化してぼんやりとした姿のが安置されています。 交差点の名前にもなっている下宮地蔵のようです。
但馬六拾六地蔵 第六十一番札所
ご詠歌
あほげなを しものみやなる じざうさん しょうぐんぼだいを いのりたまへば
豊岡市下宮
但馬六十六地蔵尊
但馬地方を巡る総延長約175kmの道に祀られているお地蔵さんです。 新羅の王子の天日槍(あめのひぼこ)が但馬に渡来し、当時は泥海だった土地を開拓した際に、 泥が早く乾いて地面が固まるようにと祈願して祀られたようです。
1 香美町香住区七日市
2 新温泉町福富
3 新温泉町三谷
4 新温泉町井土
5 新温泉町金屋
6 新温泉町久斗山
7 香美町香住区大野
8 香美町香住区下岡
9 香美町香住区奥安木
10 香美町香住区相谷
11 豊岡市竹野町奥須井
12 豊岡市竹野町松本
13 豊岡市竹野町羽入
14 豊岡市竹野町林
15 豊岡市竹野町御又
16 豊岡市竹野町床瀬
17 豊岡市日高町太田
18 豊岡市日高町山宮
19 豊岡市日高町羽尻
20 豊岡市日高町田口
21 豊岡市日高町名色
22 豊岡市日高町稲葉
23 豊岡市日高町山田
24 香美町村岡区長瀬
25 香美町村岡区味取
26 香美町村岡区和田
27 香美町村岡区村岡
28 香美町村岡区福岡
29 養父市関宮町福定
30 養父市関宮町関宮
31 養父市八鹿町高柳
32 養父市八鹿町馬瀬
33 養父市八鹿町天子
34 養父市稲津
35 養父市伊豆
36 養父市大屋町山路
37 養父市内山
38 朝来市桑市
39 朝来市生野町円山
40 朝来市柴
41 朝来市和田山町筒江
42 朝来市和田山町殿
43 朝来市和田山町枚田
44 朝来市和田山町玉置
45 朝来市和田山町岡田
46 朝来市和田山町林垣
47 朝来市和田山町高田
48 養父市上薮崎
49 養父市八鹿町伊佐
50 養父市八鹿町浅間
51 豊岡市日高町浅倉
52 豊岡市日高町藤井
53 豊岡市佐野
54 豊岡市滝
55 豊岡市城崎町来日
56 豊岡市城崎町湯島
57 豊岡市津居山
58 豊岡市城崎町楽々浦
59 豊岡市城崎町結
60 豊岡市金剛寺
61 豊岡市下宮
62 豊岡市出石町奥小野
63 豊岡市但東町木村
64 豊岡市出石町寺坂
65 豊岡市出石町出石
66 豊岡市出石町奥山
県道239号を西へ進んでいくと、程なくして左側にが広がってきます。 田んぼの先には今回歩いたが連なっていますが、どの高みが98.8m峰なのかは分かりませんでした。 まで来ると、コウノトリの郷駅への道が分かれていきます。 角にはが立っていて、 正面の道は「大石りく遺髪塚0.9km」、左の道は「コウノトイの郷駅0.1km」、今来た道は「コウノトリの郷公園2.2km」となっています。 コウノトリの郷駅は以前にも立ち寄っているので省略して十字路を直進していくと、 京都丹後鉄道の鉄橋「久美浜街道」の下をくぐっていきます。
すぐに右へ分かれていく道を見送って、を真っ直ぐ進んでいきます。 少し右へ曲がっていく県道239号から分かれて、へ入っていきます。 左へ登っていく石段を分けていくと、すぐの所にがあります。 左へ戻るように登っていく楊岐院への坂道を分けていくと分岐があります。 手前には石仏が三体安置されたコンクリート製の祠があり、角には子供広場のような所があります。 どちらの道でも良いのですが、今回はを進んでいきます。
日撫地区
の脇を進んでいきます。 左へ曲がりながら進んで突き当りを右折すると、車が通れないになります。 左右に分かれていく路地を見送って真っすぐ進んでいくと、六方川沿いのに出ます。 左折して車道を進んでいくと、すぐの所に車を止めておいた駐車場があります。 国道312号に降り立った所から25分ほどで到着しました。