概 要 |
白山は丹波市氷上町にある標高547mの山です。
かつて白山神社があった山頂からは、各方面の山並みを眺めることが出来ます。
今回は谷村地区から続く旧参道を通って山頂へ登るルートを往復します。
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起 点 |
丹波市氷上町 新郷地区
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終 点 |
丹波市氷上町 新郷地区
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新郷地区…白山登山口…稲荷社…東屋…休憩地…白山…休憩地…稲荷社…白山神社…新郷地区
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所要時間 |
3時間10分
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歩いて... |
麓から山頂まで広い参道が続いていますが、
往時は歩き易かったであろう石段は、かなり荒れて石がゴロゴロする道と化し、
枯れ枝などが散乱し倒木もあって歩き難くなっていました。
参道は主に谷筋に続いていて、山頂以外はほとんど展望の得られないルートです。
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関連メモ |
今のところ、関連メモはありません。
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新郷地区
北近畿豊岡自動車道を氷上ICで降りて、県道7号を北上していきます。
市辺南交差点を左折して橋を二つ渡り、県道109号に出て南下していきます。
新郷地区に入って「鷲住寺700m」「伊尼神社500m」のの先の十字路を右折していきます。
道なりに左へ曲がりながら進んでいくと、を渡った所に伊尼神社の駐車場があります。
そこを過ぎていくと、鷲住寺の手前に広い駐車場があるので、ここに車を止めさせて頂きました。
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白山登山口
駐車場の先にあるの入口を道なりに左へ曲がっていきます。
の駐車場の前を右へ曲がっていきます。
植林地に沿って進んでいくと、建物の所から分かれていく道があります。
ここが白山登山口になります。
防護扉の脇には「白山登山口」と題した解説板があります。
傍にはが佇み、「南無阿弥陀佛」の石碑などがあります。
防護扉を開けて植林地へ入っていきます。
防護扉は外側からはレバー状の棒を持ち上げれば簡単に開くのですが、
通り抜けてから閉めようとすると、格子の間隔が狭くて手が入らず、閉めるのに苦労しました。
上側の少し広い所から腕を肩まで入れて何とか閉めることが出来ましたが、内側からも開け閉めし易いようにしてほしいものです。
白山登山口
白山神社は天文2年(1533)当地の豪族赤井氏によって白山山麓に創建され、文禄元年(1592)山頂に奉斎したと伝えられる。
祭神は菊理媛神・伊耶那岐神・伊耶那美神であって、加賀の白山を神体山として鎮祭する白山比盗_社の御神霊を勧請したと伝えられる。
例祭日は6月14日から八朔(8月1日)に変わっているが、宵宮から当日にかけては参詣者が多く、
古くは、山南町や播州から山越えの尾根伝いに詣でたものである。
祭神はその御事績から結びの神・下の病の神としてあがめられ、
下の病すなわち「瘡」と同音相通する「笠」を供えて祈願する習俗がいまも残っている。
昭和28年、山麓に現在の社殿を造営し奉斎した。
赤井為家が増築した後谷城の砦はこの付近にあった。
また、神社を創建したと伝えられる赤井伊賀守忠家の墓は、社の東方、現在の谷村伊賀町にあるが、異見もある。
後谷城は天正7年(1579)6月明智光秀の軍によって落城している。
氷上町観光協会
注意
この扉は、猪害から農作物を守るためのものです。
開けた人は必ずその都度閉めて下さい。
谷村区
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植林地に続く広い地道を真っすぐ進んでいくと、程なくしてがあります。
その前が小広くなっていて、車数台を止めておける駐車スペースになっています。
白山神社への道が左へ分かれていきますが、石仏の先に続く正面のを進んでいきます。
少し登り坂になってくると、川を堰き止める土手の脇に出ます。
白山登山口から3分ほどの所になります。
脇には倒れかかった「一合目 カッパがいるかも?」の(*)があります。
左には広いがありますが、この時には水がまったく溜まっていませんでした。
これではカッパは居そうにありません。
*この先にかけて見られる標識には「NYCA」の文字が見られます。
標識を設置した団体名のように思えますが、どのような団体なのかは分かりませんでした。
あぶない
立入禁止
沼貫地区自治振興会、谷村自治会
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稲荷社
緩やかで広いを快適に進んでいきます。
樹木が減ってに出ると、溜め池へ降っていく地道が左へ戻るようにして分かれていきます。
正面の植林地へ続く広い地道を進んでいくと、右側にが幾つか並んでいます。
白山登山口から7分ほどの所になります。
白山へは正面の地道を進んでいくのですが、ちょいと立ち寄っていきます。
鳥居が続く石段を20mほど登っていくと、「正一位 稲荷大神」の扁額が掛かる祠があります。
祠の中には、白狐が控えるが納められています。
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に戻って、その先へ進んでいきます。
すぐの所にある石杭の袂に「二合目 いのしし注意」のが落ちていました。
この少し窪んだ広いは、かつて白山の山頂にあったという白山神社への参道だったようです。
始めのうちはまだ良いのですが、次第に石がゴロゴロしてきて歩き難くなります。
樹木の袂に寄りかかる「三合目 足元注意」のを過ぎていきます。
やがて涸れ沢に丸太橋が架かっています。
白山登山口から13分ほどの所になります。
上面が濡れていて滑って転びそうに思えたので、涸れ沢に降りて向こう岸へ渡っていきました。
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路傍に佇むを過ぎていきます。
登り傾斜が増してくると、手摺りが設置されたが架かっています。
白山登山口から16分ほどの所になります。
上面に横向きに取り付けられた鉄筋が滑り止めになっていて安心です。
かつて参道だった道の所々にはの跡が見られるようになります。
路傍に佇むを過ぎていきます。
次第に傾斜が増してくると、往時は歩き易かったであろう参道は、次第に荒れてきて石がゴロゴロする道と化し、
枯れ枝などが散乱し倒木もあって歩き難くなってきます。
足元に注意しながらゆっくりと登っていきました。
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右の尾根が次第に低くなってくると、細い涸れ沢にが架かっています。
白山登山口から30分ほどの所になります。
先ほどの丸太橋よりも短くて滑り難そうだったので、橋の上を渡っていきました。
橋を渡ったすぐ先で右へ曲がり、脇に佇むを過ぎていきます。
道なりに左へ曲がって登っていくと分岐があります。
白山登山口から33分ほどの所になります。
角には「五合目 ここらでひとやすみ」のが立っていて、右へ戻るよう登っていく道を指しています。
どうやら「四合目」の標識は見落としたようです。
白山へ続く正面の道を指す標識は見かけません。
標識の傍には「」と題した案内板があります。
白山からの展望
標高547m
晴れた日には瀬戸内海が見える
NYCA 1998.11
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東屋
の先に東屋が見えるので立ち寄っていきます。
広い地道を1分ほど登っていくと、六角形をした東屋に着きます。
中央部がになっているので、腰掛けてひと休みするのに具合が良くなっています。
手前の樹木が邪魔をしていて展望は良くありませんが、
を少し眺められます。
方角からすると弘浪山でしょうか。
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往復3分ほどでの分岐まで引き返してきます。
谷筋に続く道を登り始めるとすぐの所にが道を塞いでいますが、
木が切断されていて通るのに支障はありませんでした。
すぐ先で再びが道を塞いでいますが、
一部しか切断されていないので、脇を通っていきました。
谷筋を登っていくと、が佇んでいます。
岩の上に根を張ったの袂を過ぎていきます。
倒木が煩わしい道を登っていくと、方形をした大岩の脇を過ぎていきます。
東屋から10分ほどの所になります。
人工的に削ったようにも見えますが、何かに使われていたのでしょうか。
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休憩地
引き続き、石段の形跡が残るを登っていきます。
程なくして見えてくるを、左から回り込むように登っていきます。
石垣の脇の形が残っているを曲がりながら登っていくと、緩やかで小広い所に着きます。
東屋から13分ほどの所になります。
脇には古びた丸太のベンチも設置されていて、展望は開けないものの、ちょっとした休憩地になっています。
山際には壊れたが倒れていました。
情報によると、この辺りの岩壁に赤目の不動尊があるようですが、確認はもらしました。
これまで時折見かけた石仏は、その不動尊への道しるべのようです。
ちょっとひとやすみ
白山で観察できる野鳥
キジバト
ウブイス、アオゲラ、キビタキ(夏鳥)、シジュウカラ
オオルリ(夏鳥)、ホオジロ、カケス
コゲラ、エナガ、メジロ、ヒヨドリ、ヒガラ
NYCA 1998.11.29
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植林地に続く広めのを、右・左と曲がりながら登っていきます。
樹木には点々とテープが取り付けられていますが、ルートを示しているのでしょうか。
かなり傾斜があるですが、ジグザグに道が付けられているので助かります。
石がゴロゴロして枯れ枝などが散乱する道を、息を弾ませながら登っていきます。
何度か曲がりながら登っていくと、右への曲がり角に「六合目 ランランララ うたでも歌ってヨ」のが立っています。
休憩地から4分ほどの所になります。
かなり息が上がってきて、とても歌っている余裕はありませんでした。
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展望の開けないの急斜面を何度も曲がりながら登っていきます。
樹間からが見えるようになりますが、なかなか尾根に出ません。
往時にはこの辺りにもが続いていたようで、所々にその形跡が見られます。
呼吸を整えながらゆっくり登っていくと、左への曲がり角に標識が見えてきます。
近づいていくと「七合目 耳をすましてごらん なにがきこえるかな?」のでした。
休憩地から14分ほどの所になります。
タイミング良く、チリン・チリンと音が聞こえてきましたが、下山してくるハイカーの熊除け鈴の音でした。
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更に続く急なを何度も曲がりながら登っていきます。
が近づいてきたと思ったら、手前を左へ曲がっていき、なかなか稜線に着きません。
更に右・左と曲がって登っていくと、が少し剥き出しています。
滑らないよう足元に注意しながら登っていくと、やっとのことで左右に通る稜線に出ました。
休憩地から25分ほどの所になります。
脇には「九合目 ファイト!! もうひといき」のが立っています。
どうやら「八合目」の標識は見落としたようです。
ジグザグに続く道とはいえ、急斜面を登ってきてかなり疲れたので、ここでひと息入れていきました。
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落ち着いたところで、左へ続くを登っていきます。
すぐに尾根のを登るようになります。
少し右へ曲がりながら登って尾根の背に出ると、になります。
すぐに傾斜が増してくるを登っていきます。
尾根の左肩を登っていくと、左側が開けた明るい所に出ます。
左側にはが少し見えます。
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白山 (標高547m)
左へ曲がり始めると、壊れたがあります。
脇には石を丸く刳り貫いた手水鉢があります。
右にはまだ形をとどめているが現れます。
短い石段を登っていくと、小広くなった白山のに着きます。
九合目から5分ほど、麓の白山登山口から1時間22分ほどで登って来られました。
正面には一対の石灯籠がありますが、右の石灯籠は倒木に隠れて分かり難くなっていました。
左の石灯籠の脇から奥へ出ると、石が四角く積まれた一角があります。
この石積みにかつて白山神社が建っていたようです。
三角点は見かけませんが、ここが地形図に載っている547m峰になるようです。
「やったぜ 頂上だ!」のが立っています。
傍にはが置かれていましたが、
ガラス面にヒビが入っているので捨てられたのでしょうか。
情報によると山頂には解説板があるようですが、倒木に隠れていたのか、この時には気が付きませんでした。
インターネットで見かけた内容を参考までに載せておきます。
山の中腹には山で働く人の安全祈願として霊験あらたかな赤目の不動尊がお祭りしてあります。
その近くに城の水といわれる水場があります。
天正七年、明智光秀の兵により落城した後谷城(赤井家)のお宝が頂上に埋められているのではという伝説があります。
百人一首に
「つくばねの 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる」陽成院
という歌にもありますが、下流の佐治川に鯉がたくさんいますことから、白山にはつくばね草の群生があると思われます。
ツクバネソウ ゆり科
葉状を正月に遊ぶ羽根つきの羽根にたとえたもの。
多年草。
茎は高さ13〜40p、上端に無柄の葉を4輪生。
花は5月〜7月に咲く。
NYCA
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山頂の周りには樹木が茂っていますが、各方面が開けていて山並みを眺めることが出来ます。
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お昼には少し早い時刻でしたが、景色を眺めながら昼食タイムにしました。
五合目にあった「白山からの展望」の解説板に載っている絵は、東側の眺めのようです。
「晴れた日には瀬戸内海が見える」とのことです。
見えるとすれば南の方角だろうと思われますが、
この時は晴れていても遠くに雲がかかっていて、瀬戸内海はよく分かりませんでした。
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お腹が満ちたところで、来た道を引き返していきます。
石垣の間のを降っていきます。
道なりに左折して、尾根のを降っていきます。
尾根の背に出て降っていくと、になります。
すぐに尾根のを回り込むように降っていきます。
尾根の背に出て椿の木が見られる尾根を降っていくと、「九合目」の標識が立つ所に着きます。
白山から4分ほどの所になります。
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休憩地
道なりに右へ曲がって、剥き出すの上を降っていきます。
植林地のに続く道を右・左と何度も曲がりながら降っていきます。
右への曲がり角に立つ「七合目」のを過ぎていきます。
息を弾ませながら登ってきた道も、降る時は快調であります。
曲がりながら続く道を足元に注意しながら降っていくと、左への曲がり角に立つ「六合目」のを過ぎていきます。
曲がりながら更に降っていくと、緩やかで小広くなった休憩地に着きます。
白山から21分ほどの所になります。
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道なりに左へ曲がって、の脇に残る短い石段を降っていきます。
石段の形跡が残っている参道を降っていくと、方形をしたの脇を過ぎていきます。
参道を淡々と降っていくと、岩の上に根を張ったの袂を過ぎていきます。
路傍に佇む石仏を過ぎていくと、が道を塞いでいます。
来た時と同じように脇を通ったりしながら倒木を過ぎていくと、「五合目」の標識が立つ東屋との分岐に着きます。
白山から33分ほどの所になります。
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が佇む所を道なりに左へ曲がっていきます。
程なくして、細い涸れ沢に架かるを渡っていきます。
引き続き石がゴロゴロする道と化したを、足元に注意しながら降っていきます。
石仏を過ぎて、所々にの形跡が残る道を更に降っていきます。
緩やかになったり傾斜が増したりする道を降っていくと、手摺りが設置された鉄板橋が架かっています。
白山から48分ほどの所になります。
横向きに取り付けられた滑り止めの鉄筋に足を乗せながら渡っていきます。
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稲荷社
路傍に佇む石仏を過ぎていくと、また涸れ沢にが架かっています。
登ってきた時と同じように、涸れ沢に降りて向こう岸へ渡っていきます。
少し窪んだ道になると、樹木の袂に寄りかかる「三合目」のを過ぎていきます。
次第に緩やかで歩き易い道になると、少し明るくなった所に稲荷社が見えてきます。
白山から57分ほどの所になります。
手前にある石杭の袂には「二丁目」の標識が落ちています。
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稲荷社へ続くの前を過ぎていきます。
植林地を抜けて明るい所に出ると、になります。
水がまったくないに降りていく道を右に分けていきます。
樹木が茂る所を過ぎていくと、倒れかかった「一合目」の標識がある土手の脇に出ます。
白山から1時間3分ほどの所になります。
右の土手に出て振り返ると、今回登ったが見えました。
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土手を過ぎて、になる地道を進んでいきます。
傾斜が緩やかになるとの前に出ます。
来た道は正面へ続いていますが、右の植林地の中に見えるへ立ち寄っていきます。
細い水の流れに沿って続く地道から分かれて、すぐに左へ入っていきます。
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白山神社
植林地を抜けるとの脇に出ます。
白山から1時間6分ほどで降りて来られました。
本殿の屋根には3本の鰹木が乗り、外削ぎの千木が聳えています。
正面へ回っていくと、玉垣で囲まれて石灯籠や狛犬が控える厳かな姿をしています。
正面に続くを進んでいきます。
植林地の端まで来るとが立っています。
鳥居の先には白山登山口にあったのと同様の防護扉があります。
ここでも上側の少し広い所から手を肩まで入れて何とか開けて通過しました。
道路に出て振り返ると、には「白山神社」の扁額が掲げられていました。
左へ進み始めたすぐの所に「後谷城跡」と題したがあって、
白山神社に関する記述も見られます。
注意
この扉は、猪害から農作物を守るためのものです。
開けた人は必ずその都度閉めて下さい。
谷村区
後谷城跡
後谷城(後屋、後野とも書く)は、白山麓の後谷に赤井一族が本拠地として、
13世紀初期(鎌倉時代)から16世紀後期(安土桃山時代)まで300年以上にわたり、
戦国乱世の時代を生き抜いてきた地方豪族の城館である。
城跡は前方から曲輪跡が石積の段差を設けて奥に5〜6面延びているのが見られる。
現在の白山神社のあたりが中央部で本丸跡であろう。
最奥部には後谷谷川の堰堤を築き、増水時の堤防と外部からの防御壁とを兼ねる土塁と本丸跡敷地前に空堀が一部残っている。
中央の城館を囲む前後左右には、家臣団の屋敷跡とみられる石積の敷地もあり、
城館の左右にある小山の山頂部には砦跡や、白山登山道の脇にも居館跡が見られ、
更に白山の山頂には曲輪跡があり、その城域は数町歩に及ぶ極めて広大なものであったと考えられる。
城跡内にあった赤井氏建立の白山神社の祠が、その後白山山頂に移されたが、昭和28年に後谷城跡の現在地に社殿が造営された。
赤井氏は寛政重修諸家譜赤井系図等によれば、信濃の源満実の三男家光が丹波国氷上郡芦田庄に配され芦田姓を名乗ったとされ、
その5代後の為家が建保3年(1215)赤井野に移り、谷村後谷に城館を構えて赤井姓を名乗り初代後谷城主となった。
為家から10代目赤井伊賀守忠家(谷村公民館裏に供養塔)、時家、家清、五郎忠家が順次後谷城主となり、
徐々に領地を広げて氷上郡現在の丹波市全域を支配下に収め、16世紀半ばの信長時代には家清の弟、
丹波の赤鬼と恐れられた赤井直正が荻野氏の養子に入り黒井城主となり、赤井一族の頭領荻野悪右衛門直正として、
丹波周辺へも勢力を急拡大させ数度にわたる明智勢の丹波攻めも撃退したが、天正6年(1578)直正の病死後、
赤井一族は再度信長の命を受けた明智勢の猛攻で遂に天正7年(1579)後谷城を始め各地の山城が次々に落城し、
遂に黒井城の落城を最後に丹波における赤井一族の支配が終わった。
平成22年3月
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新郷地区
最初に通ったの前を過ぎていきます。
開けてきた所をに沿って進んでいきます。
突き当りにあるの駐車場の前を左折していきます。
の入口の前を道なりに右へ曲がっていくと、
車を止めておいた広い駐車場に着きます。
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