弘浪山
概 要 弘浪山は丹波市氷上町にある標高519.9mの山です。 山頂の東北東200m辺りの緩やかな谷戸には、かつて高山寺や高山寺城がありました。 山頂や途中の展望地などからは山並みを眺めることができます。 今回は黒田地区から山頂に登り、柿柴地区へ降るルートを歩きます。
起 点 丹波市氷上町 上成松地区
終 点 丹波市氷上町 上成松地区
上成松地区…黒田登山口…五合目…展望所…展望地…盗人崩し…高山寺七堂伽藍跡…高山寺遺跡…弘浪山…小峰…峠…谷筋…墓地…柿柴登山口…上成松地区
所要時間 3時間30分
歩いて... 朝から立ち込めていた濃い霧が晴れるのを待って登り始めました。 道にはテープが点々と取り付けられ、要所には標識も設置されていて、分かり易くなっていました。 樹木に掴まりながら登る傾斜が急な所も少しありました。 山頂付近には僅かに残雪が見られましたが、歩くのに支障はありませんでした。 降りの谷筋は荒れて歩き難くなっていました。
関連メモ 今のところ、関連メモはありません。
コース紹介
上成松地区
北近畿豊岡自動車道を氷上ICで降りて、県道7号を北上していきます。 市辺南交差点を左折して橋を二つ渡り、県道109号に出て北上していきます。 葛野川に架かる成松橋の手前を左折し、 お地蔵さんが並ぶ曲がり角まで来ると車1台分の駐車スペースがあるので、ここに車を止めさせて頂きました。
黒田登山口
車で来た道を引き返したすぐの所にあるカーブミラーの立つを右折していきます。 竹林を抜けて民家の脇を過ぎ、桧林を抜けた先にあるカーブミラーの立つを右折していきます。 一宮神社の鳥居の前を過ぎて道なりに左へ曲がっていくとに出ます。 喫茶マルクの前を右折して県道109号を南下していくとがあります。 営業所を過ぎた10mほど先から右へ続く山道があります。 駐車スペースから23分ほどの所になります。 ここが黒田登山口になります。 入口には「黒田登山口」などのが立っていて、 電柱の袂には「南無阿弥陀佛」の石碑もあります。
(株)ヰセキ氷上営業所の手前から右へ戻るように続くがあります。 入口に防護扉が設置されていますが、情報によると、その道からも登ることができるようです。
弘浪山 520m 90分
真言宗名刹 高山寺 遺跡
市教委指定 天然記念物 大銀杏
黒田登山口(千日さん参道)
猪垣必ず閉める 来たときよりも美しく カンゴミ必ず持ちカエル
05.3建 氷上高年低山会
両側に笹竹が茂る道に入っていくと、すぐの所にがあります。 上下に設けられた小さな回転レバーを回して扉を開けて通過していきます。 植林地に入っていくとが茂っていますが、すぐになくなって歩き易くなります。 広い植林地の斜面に続く少しを登っていきます。 正面が明るくなってくると曲がって、緩やかな斜面を横切るように進んでいきます。 登り坂になってくると、左右に通る小尾根に出ます。 黒田登山口から6分ほどの所になります。 正面の樹木には「登山路」のが取り付けられています。 登ってくる道も見られますが、(株)ヰセキ氷上営業所の手前から登ってくる道でしょうか。
左へ続くを更に登っていきます。 少し左へ曲がって、尾根のを登っていきます。 道端の樹木には桃色や空色のテープが点々と取り付けられていて、ルートを示しています。 道なりに右・左と何度か曲がりながらを登っていきます。 左斜面を横切るようになるとになります。 道端にシダ類が茂る明るい所に出ると、左の樹間から僅かにが見えます。
少し進んでいくと、道がしています。 標識類は見かけませんが、正面の道は少し心細い状態なので、右へ戻るように登っていくしっかりとした道を進んでいきます。 シダ類が茂る所を過ぎて、道なりに曲がっていきます。 再びシダ類が茂るを進むようになると、左の樹間から僅かに山並みが見えます。 樹間から僅かに山並みなどを眺めがら、明瞭でを右・左と何度か曲がりながら登っていきます。 分岐は特にありませんが、テープが点々と取り付けられていて安心です。 曲がりながら更に登って右への曲がり角まで来ると、脇の樹木に裏面が青く塗られた「登山路」のが取り付けられています。 黒田登山口から18分ほどの所になります。
五合目
曲がりながら続くを更に登っていきます。 が道を塞いでいたりもしますが、乗り越えていきます。 単なる山道にしては広く、上面を平らに削ったの跡も所々に見られます。 かつてこの上にあった高山寺の参道だったのでしょうか。 中ほどがの下を過ぎていくと「五合目」などのが立っています。 黒田登山口から23分ほどの所になります。 標識の周りをコの字形に囲むように石垣が設置されていて、かつて休場があった所のようです。
五合目
昔の休場跡
曲がりながら続くを更に登っていきます。 何度か曲がりながら登っていくと、をしばらく進むようになります。 樹間からが見えるようになります。 道なりに鋭角に右へ曲がって登って枯れ木が立つ所まで来ると、右側の樹木が途切れてを見渡せます。
少し先を左へ曲がって、上面が平らに削られたの跡を登っていきます。 左の樹間からを眺めながら進んでいきます。 右への曲がり角まで来ると、樹木に「登山路」のが取り付けられています。 次第に見え易くなる山並みを樹間から眺めながら登っていくと、が目立つようになります。 岩が剥き出した右への曲がり角まで来ると、左の樹木越しにが広がります。
展望所
岩が剥き出したを登っていきます。 程なくして、が尾根に頭を出しています。 右から回り込むように登って大岩の上に出ると、山並みを見渡せる展望地になっています。 黒田登山口から39分ほどの所になります。
これから向かうの山頂も良く見えますが、 距離も高低差もまだまだありそうです。 手前の斜面には岩盤が剥き出していますが、その上に盗人崩しがあるようです。 少し先には「展望所」のが立っています。 景色を眺めながらひと息入れていきました。
展望地
落ち着いたところで、松の幼木が目立つを先へ進んでいきます。 松の幼木が見られなくなると、が増してきます。 次第にが剥き出すようになります。 右・左と何度か曲がりながらを登っていきます。 左への曲がり角まで来ると、正面が開けてきます。 道はその手前を左へ曲がっていきますが、ちょいと先まで出てみると、山並みを見渡せる展望地になっています。 展望所から6分ほどの所になります。
盗人崩し
手前のまで引き返して、左へ曲がっていく道を登っていきます。 軽く登っていくとになります。 程なくして、尾根に大岩が剥き出しています。 展望所から8分ほどの所になります。 脇には「盗人崩し」のが倒れていました。 先ほどの展望所から見えていたになるようですが、 手前の樹木が邪魔をしていて、岩盤や山並みは良く見えません。
盗人崩し(座頭崩し)
昔、高山寺に押しこんだ盗人を捕らえ谷底に投げこんだと言う。 子どものころ悪い事をすると盗人崩しへほかしに行くと言われた。 (西方誌)
大岩の先へ進んでいくと、尾根の背を外れてを進むようになります。 樹木の袂に立つ「登山道」のを過ぎていきます。 斜面を横切るように緩やかに進んでいくと、右の山側にはが剥き出しています。 程なくして、僅かなになります。 左の樹間から山並みを眺めながら、緩やかに降っていきます。
高山寺七堂伽藍跡
緩やかになる所もあるの道を進んでいきます。 軽いになると残雪が見られるようになりましたが、量はごく僅かで、歩くのに支障はありませんでした。 広い谷戸になった植林地を登っていくと、前方に標識が見えてきます。 に近づいていくと「高山寺七堂伽藍跡(大銀杏)」となっていて、 正面は「弘浪山登山口」となっています。 盗人崩しから9分ほどの所になります。 に道が続いているようですが、落ち葉などが積もっていてはっきりとはしません。
高山寺遺跡
左へ進み始めると、すぐの所に「仁王門跡」のが立っています。 広い谷戸になった植林地を進んでいくと、正面にが見えてきます。 の跡のような所を登っていきます。 一段高い所に出ると、テーブル状のベンチの先に「高山寺遺跡」のが立っています。 盗人崩しから13分ほどの所になります。 脇には「高山寺史跡」のがあって、「昭和32年10月1日 氷上町常楽に移築」と刻まれています。 右側には大きなの木があります。 周囲の様子を確認しながら、ひと息入れていきました。
真言宗 高山寺遺跡
高山寺は天平時代(761)法道仙人の開基(伝え)仁平3年源平の争いの兵火で焼失。 文治5年(1189)源頼朝の願により東大寺の俊乗坊が七堂伽藍再建。 寺付近に高山寺城築かれる(1213〜31)。 士族と足利尊氏軍の兵火で2度3度さらに元亀天正の乱(1570〜91)でも焼ける。 新郷赤井伊賀守が永正6年(1509)修復したが明智軍により焼かれる。 慶長5年(1600)宮崎の僧関長上人が田路村上田家の協力により再興する。 享保9年(1724)大火。 5年後に再興。 昭和9年(1934)室戸台風大損害。 昭和33年(1958)春常楽に移築され1200年の栄枯盛衰の幕を閉じる。
温故知新 内尾神社の別当で信仰の寺として栄えたが戦乱で武人に踏みにじられ災害に見舞われた寺でもあった。
05.3.21建 氷上高年低山会
山を愛する人
×来たときよりも美しく!!
×動植物を大切に!!
×ゴミカンは必ず持ちカエル!!
×火の用心!!
氷上高年低山会
常楽地区に移築されている高山寺で見かけた解説板の内容を参考までに載せておきます。
真言宗 大覚寺派 弘浪山 高山寺
御本尊…十一面観世音菩薩(脇士不動明王、毘沙門天)
高山寺の旧境内は、現在地から南東約3qにそびえる弘浪山(標高520m)の山中にありました。 天平宝字5年(761)、法道仙人が弘浪山において十一面観世音菩薩を感得し、堂宇を建立したのが開基と伝わります。 その後の仁平3年(1153)の兵火で消失しましたが、文治5年(1189)に源頼朝の命を受けた重源聖人によって中興されました。 当時は山麓に11の末寺を構え、後鳥羽天皇勅願所ともなりましたが、 南北朝時代以降は荻野氏などによって城塞とされ、相次ぐ戦乱によって寺門は再び荒廃しました。 慶長5年(1600)に日向国の僧 開長上人によって再興され、境内の基盤が整い、内尾神社別当職として隆盛を迎えます。 しかし明治の神仏分離、廃仏毀釈による末寺の荒廃や、台風災害などによって山上での護持が困難となり、 昭和33年(1958)に本堂、山門、庫裏を現在地へと移築しました。 当寺の十一面観世音菩薩は白龍に座したお姿で、33年ごとにご開帳されます。 (以下略)
落ち着いたところで、左に見えるへ向かって進んでいきます。 谷戸の植林地を横切るように進んでいくとが見えてきます。 に近づいていくと「弘浪山最短コース25分」「弘浪山最短路」となっています。 標識を過ぎて、が巻かれた樹木の先に続く道を進んでいきます。 程なくして倒木が道を塞いでいますが、難なく跨いでいきます。 道なりに右へ曲がっていくと尾根の背に出ます。
倒木も見られる尾根を右・左と曲がっていくと、広いを真っ直ぐに登るようになります。 登り傾斜が増してくると、少しになります。 窪んだ道が次第に歩き難くなってくるので、を登っていきました。 写真では良く分かりませんがになってくるので、脇の樹木に掴まりながら登っていきます。 息を弾ませながら登っていくと、少し左へ曲がって傾斜が緩やかになります。
緩やかになってホッとしながら進んでいくと、すぐにが増してきます。 引き続き取り付けられているを辿って、急な斜面を曲がりながら登っていきます。 谷戸の手前から見かけるはほとんど増えてこなくて助かりました。 右への曲がり角まで来ると、半壊した「登山路 頂上近し」のが立っていて、力が湧いてきます。 高山寺遺跡から16分ほどの所になります。
右へ曲がっていくとが少し増えてきましたが、まだまだ少なくて歩くのに支障はありません。 右側の樹木が途切れた所まで来ると、が広がってきます。 道なりに左へ曲がって、を登っていきます。 振り返ってを眺めたりしながら登っていきます。 程なくして上の方が明るくなって、山頂が近づいた雰囲気がしてきます。
弘浪山 (標高519.9m)
次第にが増してくるので、脇の樹木に掴まりながら登っていきます。 傾斜が樹木も減ってくると、山頂はすぐそこです。 生い茂るの中を軽く登っていくと標識が見えてきます。 アセビが少ないなだらかな所に着くと弘浪山の山頂になります。 高山寺遺跡から24分ほど、黒田登山口から1時間32分ほどで登って来られました。 中ほどには「四等三角点」のが立っていて、 その袂に「弘浪山520m」のが落ちていました。 標識の向こう側に出て振り返ると「高山寺」があるので、地形図に載っている519.9m峰になるようです。
四等三角点
来たときよりも美しく
動植物を大切に
ゴミ、カンは必ず持ちカエル
火の用心
山頂の南側が開けていて、山並みを眺められます。
西南西の方角には電波塔が幾つか立つ山が見えますが、方角からするとでしょうか。 ベンチは設置されていませんがが幾つかあるので、 具合が良さそうなのに腰かけて、遅めの昼食タイムにしました。
濃い霧が晴れるのを待って登り始めたので、当初の予定よりかなり遅い時刻になっての昼食となりました。 日の暮れるのが早い季節なので、下山が遅くならないよう急いで食べ終わりました。
山頂の先へ進み始めると、軽いになります。 緩やかになった尾根を進んでいくと、右へ曲がって降り始める所に「三六」と刻まれたが倒れています。 右へ降り始めると、左側にが続くようになります。 掴まって降るほどの急傾斜ではないし、道から少し離れている所もあるので何だろうと思いながら降っていきます。 植林地の尾根の背を降っていくと、標高500mほどの鞍部に着きます。 鞍部には「0598 17 M 地籍調査」のがあります。 同様の短杭はこの先にかけて幾つも見かけるようになります。
鞍部の先のを登っていきます。 こちらの尾根にもテープが点々と取り付けられていて助かります。 鎖柵に掴まったりしながら登っていくと、標高510mほどのに着きます。 になった植林地の尾根を進んでいきます。 少し雑木が混じるようになるを降っていきます。 次第に傾斜が緩やかになると、標高480mほどの浅い鞍部になります。
正面の明るくなった高みへ向かってを登っていきます。 僅かに残雪が見られる尾根を登っていくと、標高590mほどの緩やかなのような所に着きます。 脇に「弘浪山520m←登山路」のが立っています。 緩やかな尾根を進んで僅かな高みが近づいてくると、踏み跡が右へ分かれていきます。 標識類は見かけませんが単なる巻き道のように思えるので、鎖柵に沿って尾根の背を登っていきます。
小峰
岩が剥き出す正面の高みへ向かって、を登っていきます。 岩を過ぎていくとになります。 脇にの板が落ちていました。 これまで続いてきた鎖柵は、西側にある関西池田記念墓地公園との境界を示す柵のようです。 どこが頂上かはっきりしない標高590mほどの緩やかなに着きます。 弘浪山から13分ほどの所になります。 少し降り始めると、尾根が分岐しています。 鎖柵は左前方の尾根に続いていますが、テープが取り付けられているへ続く尾根を降っていきます。
これより関西池田記念墓地公園の敷地につき立ち入らないで下さい。
管理者
右へ曲がりながら続くを降っていきます。 道なりに曲がりながら降っていくと、少し窪んだになります。 次第にが深くなる道を降っていきます。 窪みが無くなると、のようになります。 歩き易くなった植林地を降っていくと、次第に傾斜が緩やかになってきます。
植林地を緩やかに進んでいくと、再びになります。 降り口には「登山路」のが倒れていました。 傾斜が増したを少し右から回り込むように降っていきます。 程なくして、標高400mほどの鞍部になったに降り立ちます。 弘浪山から26分ほどの所になります。 左には「頂上まで40分」のが立っていて、 左の道は「柿柴下山口」となっています。 その先には「登山道」の標識も立っています。 にはテープが取り付けられた道が二つ見られますが、 登り時に通った高山寺七堂伽藍跡高山寺遺跡へ続いているように思えます。
正面の尾根にもテープが取り付けられていて東にある標高450mほどの高みへ行けそうですが、 標識「柿柴下山口」が指すを降っていきます。 の斜面を何度も曲がりながら降っていきます。 枝や落ち葉などが積もって荒れ気味の所もありますが、荷車が十分通れる幅の明瞭な道が続いています。 こちらの道もかつてあった高山寺への参道だったのでしょうか。 展望の開けない植林地のを右・左と何度も曲がりながら淡々と降っていきます。 路肩が少し崩落気味の所を過ぎていきます。
切断されたを過ぎていきます。 曲がりながら続くを更に降っていきます。 かつては石段だったような形跡を所々で見かけます。 植林地を淡々と降っていくと、道を狭めるようにが生えている所があります。 アセビを過ぎていくと、右側に石垣があります。 から15分ほどの所になります。 それほど大規模なではありませんが、かつて何かが建っていた所でしょうか。
谷筋
石垣の先を道なりに曲がって降っていきます。 右・左と曲がりながら降っていくと、が近づいてきます。 自然石を積んだ石段を過ぎていくと谷筋に出ます。 から18分ほどの所になります。 右へ曲がって谷筋を進んでいくのですが、 これまで続きてきた広めで明瞭は道は突如としてなくなり、石がゴロゴロして荒れたを進むようになります。 引き続き取り付けられているテープを辿りながら降っていきます。
も見られる谷筋を降っていきます。 道は荒れていますが、水が流れていないので助かります。 時折が見られますが、歩くのに支障になる量ではありません。 形が次第にはっきりしてくるの左側を降っていきます。 程なくして、を横切っていきます。 引き続き取り付けられているテープを確認しながら谷筋を降っていくと、倒木が道を塞いでいます。 手前には赤プラ杭と黄プラ杭に挟まれたがあります。 谷筋に降り立った所から5分ほどの所になります。 石杭には文字らしきものが刻まれているようですが、判読出来ませんでした。
倒木を跨いで進んでいくとするようになります。 荒れた谷筋が続きますがになる所もあるので、 かつては歩き易くて広めの道が続いていた形跡が残っています。 少し歩き易くなった谷筋を進んでいくと、道がしているような所に出ます。 歩き易い道はへ続いていますが、 右前方にもテープが見えるので、ちょいと歩いてみることにしました。 涸れ沢を跨いで進んで支沢が合流する所に降りると、 先ほどと同様のがあります。 谷筋に降り立った所から12分ほどの所になります。 「右 成松」「左 氷上」と刻まれていて、かつては道標だったようです。
涸れ沢を横切って、手前の分岐から左前方に続いてきたに出ます。 『歩き易い道がこのまま続けばいいが』と思いながらを降っていきます。 少し降り傾斜が増してくると、が剥き出した道になります。 少しずつ水が流れるようになるを進んでいきます。 谷筋を右へ回り込む所まで来ると、に登っていく道が分かれていきます。 谷筋に降り立った所から18分ほどの所になります。 標識類は見かけず、どちらの道を進もうかと愚考しますが、 今さら登るのは嫌なので、右へ回り込むようにして続く道を進んでいきます。
次第にが目立つようになる谷筋を降っていきます。 僅かに水が流れるに降りて進んでいきます。 倒木を過ぎていくと、幅25pほどのが現れます。 谷筋に降り立った所から22分ほどの所になります。 情報によると、かつて水道の取水路だったようです。 コンクリート道が終わって石がゴロゴロする所を過ぎると、歩き易い道になります。
墓地
少し先を道なりに曲がりながら降っていきます。 程なくしてが見えてきます。 砂防ダムの際まで来ると、「南無大悲観世音菩薩」と刻まれたが立っています。 谷筋に降り立った所から27分ほどの所になります。 脇には石碑の解説文を記した柱が立っています。 石碑を過ぎていくと、二つ目のがあります。 正面が明るくなってくると墓地に出ます。 谷筋に降り立った所から29分ほどで降りて来られました。
この観世音は今から三百二十年前に建立されたものである。 観音菩薩は阿弥陀佛のはたらきを顕現する菩薩であるとされている。
平成二十二年四月
柿柴登山口
墓地の右側に続くを緩やかに降っていきます。 墓地の入口にある分岐まで来ると、が並んでいます。 左の道の先には鳥居が立っていて、石段を登った所に磐神神社がありますが、立ち寄るのは省略しました。 正面の植林地に入って舗装路になった道を真っすぐ進んでいくと防護扉がありますが、この時には開け放たれていました。 標識類は見かけませんが、ここが柿柴登山口になるようです。 谷筋に降り立った所から32分ほど、弘浪山からで1時間18分ほどで降りて来られました。 右側にはが安置された祠があります。 右側に架かるの先へ続く道は見送っていきます。 振り返って、の様子を確認していきます。
此の扉の開閉と施錠について
一、 何人足りとも扉の開締を確認し立去ること
一、 特に自動車による外来者の方は利用後一旦停止をなし錠が掛かっている事を確認し立去って下さい
区長、農会長
上成松地区
正面に続く道を進んで植林地から出て、右の小川に架かるを渡っていきます。 左から来る道を合わせての中を進んでいきます。 の間を進んでいきます。 「南無阿弥陀佛」のを過ぎていきます。 お地蔵さんが並ぶ左への曲がり角まで来ると、車を止めておいた駐車スペースがあります。 柿柴登山口から6分ほどの所になります。