木積山城跡
概 要 木積山城跡は京丹後市大宮町にある城跡です。 木積山(269.5m峰)の南側にあって、かつては薬師堂も建っていた所です。 今回は大宮売神社を起終点として、薬師堂跡広場までのルートを往復します。
起 点 京丹後市大宮町 周枳地区
終 点 京丹後市大宮町 周枳地区
周枳地区…登山口…峠…地籍図根三角点…木積山分岐…薬師堂跡広場…木積山分岐…峠…登山口…周枳地区…(大宮売神社)
所要時間 1時間50分
歩いて... 谷筋の奥にある溜め池の手前に木積山への登り口があります。 薬師堂跡広場までは明瞭な山道が続いていましたが、笹などが少し茂る所もありました。 ススキが茂る広場からは、樹木に邪魔されながらも山並みを眺められました。 三等三角点がある木積山の山頂にも登る予定でしたが、道に笹や夏草が生い茂って藪漕ぎ状態だったので諦めました。
関連メモ 今のところ、関連メモはありません。
コース紹介
周枳地区
京丹後市峰山町から国道312号を南下していきます。 京丹後市大宮町に入って、とんがり屋根の中華料理店の先の信号を曲がり、周枳地区を東進していきます。 府道656号の少し曲がった四叉路に出て右前方へ進んでいくと、大宮売神社の道路向かいに駐車場があるので、ここに車を止めました。
脇には「周枳」と題した解説板があって、が載っています。 木積山までのコースも紹介されていて、大宮売神社から木積山の頂上まで「徒歩1時間」となっています。
ふるさと大宮を歩く12 周枳(すき)
周枳区はどんなところ?
この看板がある大宮売神社(おおみやめじんじゃ)は、平安時代の『延喜式』にすでに記載のある古い神社です。 この神社のある場所は、弥生時代前期から生活の痕跡が確認でき、古墳時代中期には祭祀を行ったと思われる遺物が出土しています。 古墳時代の祭祀を行った場所が大宮売神社へとつながるようです。 本殿前の石灯籠2基のうち1基は、徳治2年(1307)銘をもち、国重要文化財になっています。 また境内地が京都府指定史跡に指定されているほか、 神社の旧本殿は、江戸時代前期の建物であり、京丹後市指定建造物に指定されています。 「周枳」という地名は、平安時代に編纂された『和妙類従抄』(わみょうるいじゅうしょう)という書物に記載された「周枳郷」がもとになっています。 弥生時代には、多数のガラス玉や鉄製品を出土した左坂墳墓群(ささかふんぼぐん)が、 古墳時代には丹後地域有数の密集度をほこる左坂古墳群が造られます。 また、飛鳥・奈良時代には、横穴墓(おうけつぼ)が密集して造られます。 寺は、江戸時代後期の山門をもつ周徳寺(曹洞宗)のほか、 妙受寺(日蓮宗)・願成寺(浄土真宗)・薬師堂(浄名庵:曹洞宗)があります。 神社は、大宮売神社のほかに荒塩神社・名所賀稲荷神社などがあります。 また大宮売神社のお旅所となっている石明神は、もともとは古墳であったものです。
周枳区を歩いてみよう!
(モデルコース)
大宮売神社(現在地)→(徒歩1分)→ 薬師堂→(徒歩5分)→ 願成寺→(徒歩10分)→ 名所賀稲荷神社→(徒歩7分)→ 周徳寺→(徒歩7分)→ 石明神→(徒歩2分)→ 荒塩神社→(徒歩3分)→ 妙受寺→(徒歩7分)→ 周枳公民館、旧周枳小学校南教室・体育館→(徒歩3分)→ 大宮売神社
(少し足をのばして)
大宮売神社→(徒歩1時間)→ 木積山頂上→(徒歩1時間)→ 大宮売神社
京丹後市教育委員会
大宮売神社の前を横切った先にあるT字路を左折して、「摩利支天社跡」の石碑やの前を過ぎていきます。 「毘沙門天社跡」のがあるT字路に出て右折していきます。 少し先を左・右と曲がって集落を抜けていくと、田んぼが広がるに出ます。 左に分かれていく道を二つ見送って少し右へ曲がり始めると分岐があります。 正面には小屋が見えていますが、分かれていく道に入っていきます。 入口には三角コーンが置かれて低い電気柵が設置されていたので、跨いでいきました。
登山口
細い金属棒を組んだが続くようになった道を進んでいきます。 少し曲がりながら山際に続く道を進んでいくとがあります。 右の道は見送って、左へ曲がっていく道を進んでいきます。 次第に谷筋が狭くなってくると、これまで続いてきた舗装路は終わりになります。 駐車場から15分ほどの所になります。 道幅が広がっていて、車を数台止めて置けそうな所です。 この時は建設業者の軽ワゴンが止まっていました。 正面の土手の先にはがあります。 左側の山へ登っていくがあります。 ここが木積山城跡への登山口になります。 茂る笹や夏草を掻き分けながら登り始めると、 すぐの所に「木積山のぼり口」のが立っています。 袂には「薬師堂跡広場1,300m」の(*)もあります。
*登山口にある標識なのに「中間地点です」となっていて変な感じがしますが、 よく見ると周枳公民館から薬師堂跡広場までの道程の中間という意味のようです。
笹が茂る山道を登っていくと、が取り付けられています。 この先にかけて点々と取り付けられていて、ルートを示しているようでした。 傾斜が緩やかになってくると、笹などが減って歩き易い道になります。 山道には「地籍調査」のが点々と設置されています。 尾根の右斜面に続くしっかりとしたを登っていきます。 傾斜は急ではありませんが、まだまだ気温が高い季節なので、次第に汗が噴き出してきます。 傾斜が緩やかになった道を汗を拭き拭き進んでいくと、背丈の低い笹などが茂る尾根の背に出ます。
登り傾斜が増してきた道を登っていくと、を跨いでいきます。 尾根のに続く緩やかな道を登っていきます。 傾斜が少し増してきた道を曲がりながら登っていきます。 左へ曲がり始めると、のようになった尾根に着きます。 登山口から8分ほどの所になります。 左のすぐ先には「薬師堂跡広場850m」のが立っています。
尾根のに続く山道を登っていきます。 少し左へ曲がって緩やかな道になると、大きなが道を塞いでいます。 倒木の脇を過ぎていくと、少し曲がりながら登っていきます。 笹が茂る明るい所に出ると、右側にが見えました。 軽い登り基調のを少し曲がりながら登っていきます。 道には青テープが点々と取り付けられています。 次第に低くなってくる左の尾根に沿って進んでいくと、浅い鞍部になった尾根の背に出ます。 登山口から11分ほどの所になります。
幅が狭くなったを進んでいくと、 左の樹間からが少し見えます。 傾斜が急になったり緩やかになったりしながら続くを登っていきます。 大きな樹木を過ぎると笹が茂るに出ますが、 歩く部分には笹が少ないので助かりました。 少し右へ曲がりながら進んで再び樹木が茂る所まで来ると、 「薬師堂跡広場500m」のが立っています。 登山口から17分ほどの所になります。 袂には「山頂まで500m」の標識が倒れていました。
地籍図根三角点
標識を過ぎて、少し窪んだを登っていきます。 倒木を避けたりしながら登っていくと、左側に明るくなったが現れます。 入口には青テープが取り付けられていて、先の方から人の声が聞こえてきます。 気になるので、ちょいと登ってみることにしました。 尾根を登っていくと、すぐに樹木が切り払われた高みに着きます。 登山口から19分ほどの所になります。 地形図によると、木積山の西300m辺りにある標高200mほどの高みになるようです。 中ほどには真新しいがありました。 この時には2名が作業されていましたが、登山口に止めてあった軽ワゴンの方々でしょうか。 『木積山にも行かないと…』などの声も聞こえていたので、三角点の整備をされていたのでしょうか。 周囲には樹木が茂っていて眺めはあまり良くありませんが、 樹木越に僅かにが見えました。
地籍図根三角点
00012
京丹後市
地籍図根三角点
大切にしましょう
京丹後市地籍調査事業
平成28年度
往復3分ほどで山道まで引き返してきて、を登っていきます。 傾斜が増してきた所を登っていくとになります。 背丈の低い笹が生える所を過ぎると少し曲がって、 標高220mほどの高みをようにして進んでいきます。 高みを巻き終えて背丈の低い笹が生える尾根の背に出ると、軽い降り坂になります。
再び登り坂になったを登っていきます。 周囲が明るくなってくると、背の高いが何本も生えています。 その先へ進んでいくと、夏草が茂る所に出ます。 脇には「山頂まで270m」のが倒れていました。 登山口から26分ほどの所になります。 左側には樹木に邪魔されながらもが広がっていました。
木積山分岐
広めのを更に登っていきます。 短いトラロープが張られた所を過ぎていくと、を進んでいきます。 程なくして尾根の背に出て、背丈の低い笹が茂るを登っていきます。 少し右へ曲がりながら登っていくと分岐があります。 登山口から30分ほどの所になります。 中ほどにはが倒れていて、 左の切通を過ぎていく道は「山頂まで152m」、右の高みへ登っていく横木の階段は「薬師堂跡広場165m」となっています。 三角点がある269.5m峰木積山にも登る予定でしたが、には笹や夏草が生い茂って藪漕ぎ状態だったので諦めました。 ここは薬師堂跡広場へ向かって、正面に続くを登っていきます。
自然木で出来た階段をひと登りして僅かな高みを越えると、緩やかなが続いています。 程なくして、トラロープが張られたを降っていきます。 僅かな降り基調の尾根道を進んでいくと、尾根が窪んだのような所があります。 堀切を過ぎて、緩やかになった広い尾根を進んでいきます。
薬師堂跡広場
少し左へ曲がりながら、歩き易いを進んでいきます。 軽いになった尾根を進んでいきます。 正面がなって短い横木の階段を降ると、ススキが生い茂る広場に着きます。 登山口から36分ほどで到着しました。 距離的にはここが薬師堂跡広場だと思われますが、その旨の標識類は見かけませんでした。 情報によると「木積城跡」の標識があるようですが、生い茂るススキに隠れているのか、この時には見つけられませんでした。 ここは大宮売神社の隣にある薬師堂が元あった所とのことです。 辺り一帯は平坦で、人工的に削った礎石のような石も幾つか見られるので、以前には建物があったことを伺わせます。 西側が開けていて、を見渡せる眺めが広がります。 山並みを眺めたり標識を探したりしながら、ひと休みしていきました。
木積山分岐
落ち着いたところで、来た道を引き返していきます。 短いを登って、その先に続く尾根道を軽く登っていきます。 のように窪んだ所を過ぎていきます。 登り基調の尾根を進んでいくと、トラロープが張られたを登っていきます。 緩やかになった先の僅かな高みを越えて、自然木で出来た横木の階段を降っていくと、 「山頂まで152m」「薬師堂跡広場165m」の標識がある木積山への分岐に着きます。 薬師堂跡広場から4分ほどの所になります。
少し左へ曲がりながらを降っていきます。 に出ると、背丈の低い笹が茂るようになります。 を進んでいくと、短いトラロープが張られた所を過ぎていきます。 尾根の背を跨いで左肩を降って背の高いが見えてくると、 茂る夏草の中に「山頂まで270m」の標識が倒れている所に着きます。 薬師堂跡広場から9分ほどの所になります。 右側の山並みの見易い所を探して眺めていきました。
を軽く降っていくと、背丈の低い笹が生えるようになります。 軽く登って、標高220mほどのを右から巻くように降っていきます。 尾根の背に出て、少しを降っていきます。 尾根の左肩を降っていくと、地籍図根三角点へのを過ぎていきます。 倒木を避けたりしながら少し窪んだ道を降っていくと、笹が茂る明るい所に出ます。 薬師堂跡広場から15分ほどの所になります。 左脇には「薬師堂跡広場500m」「山頂まで500m」の標識があります。
樹間から僅かにを眺めながら、 笹が茂るを降っていきます。 笹が茂る所を過ぎると、降り基調のになります。 右の樹間からが少し見える所を過ぎていきます。 少し狭くなった尾根の背を進んでいくと、緩やかになった浅い鞍部に着きます。 薬師堂跡広場から20分ほどの所になります。
道は尾根の背を外れて、正面の高みを巻くようにに続くようになります。 少し曲がりながら降って笹が茂る明るい所に出ると、左側にが見えます。 少し左へ曲がりながら降ってが茂るようになると、倒木の脇を過ぎていきます。 笹がなくなって広くなった道を少し曲がりながら降っていきます。 次第に傾斜が緩やかになるを降っていきます。 右へ曲がるようになると、尾根を越えていくのような所に着きます。 薬師堂跡広場から23分ほどの所になります。 手前には「薬師堂跡広場850m」の標識が立っています。
右へ曲がりながらを過ぎて、尾根のに続く山道を降っていきます。 傾斜が緩やかになってくると、を跨いでいきます。 少し傾斜が増してきた道を降っていくと、背丈の低い笹などが茂るに出ます。 笹などが減ると、尾根の背を外れて左斜面を降るようになります。
登山口
左斜面に続くしっかりとしたを降っていきます。 少し傾斜が増してきた道を降っていくと、左下の樹間からが見えてきます。 まとまって設置されているを過ぎていきます。 次第にが茂るようになる道を降っていきます。 舗装路が見えてくると、「木積山のぼり口」「薬師堂跡広場1,300m」の標識がある登山口に降り立ちます。 薬師堂跡広場から31分ほどで降りて来られました。
細い金属棒を組んだ防護柵が続くを軽く降っていきます。 次第に広がってくる谷筋の右側に続く道を降っていくと、樹木が伐採されたが前方に見えてきます。 少し曲がりながらに続く道を降っていきます。 左へ曲がって次の右への曲がり角まで来ると分岐があります。 登山口から5分ほどの所になります。 元来た道は右へ曲がっていきますが、少しでも違う道を歩くべくを進んでいきます。
防護網に沿って進んでいくと、を過ぎていきます。 右・左と少し曲がりながら進んでいくと、道は曲がって山際に続くようになります。 三角コーンが置かれた低い電気柵を跨いでいくと、少しズレたがあります。 十字路を直進していくと、先ほどから見えている樹木が伐採されたの前に出ます。 道なりに左へ曲がっていくと、左右に通る道に出ます。
右折して、周枳地区を進んでいきます。 小祠や石仏が並ぶまで来ると左へ道が分かれていきますが、見送っていきます。 立派な白壁・土塀・石垣などがある民家を過ぎて真っ直ぐ進んでいくと十字路に出ます。 右側の石垣には木積山へのが寄りかかっていて、今来た道を指しています。
周枳地区
十字路を右折して沿いに進んでいきます。 大宮売神社の森が近づいてくると、最初に曲がっていったカーブミラーの立つがあります。 左折して、に進んでいきます。 石灯籠が並ぶを横切っていくと、車を止めておいた駐車場があります。 登山口から20分ほどで到着しました。
大宮売神社
家路につく前に、大宮売神社を訪ねていきました。 小川に架かる石橋と鯉が泳ぐ池に架かる石橋を渡って鳥居をくぐっていくと、正面にがあります。 手前の左右に立つ石灯籠は国指定重要文化財に指定されているようです。 境内には合祀されている社が幾つかありました。 社殿の右にある忠霊社がとのことです。 (所要時間に含めず)
延喜式内 名神大 大宮売神社
祭神 大宮売神 若宮売神
当宮の創立年代は詳らかではないが、境内から出土する多数の遺物により、古墳弥生時代の頃、既に人々の生活があり、 稲作民による祭祀、呪術的な力をもつ国の中心の地であったといわれる。 六世紀の頃、大和王朝に統一された大宮売神は、宮中八神の一柱で、 造酒司(みきつかさ)にも奉斎され、この神を祀るもっとも古い社で、 境内全域は、京都府の古代祭祀史跡に指定されている。 木彫の御神像(二体、平安初期)や重要文化財指定の春日型石燈籠(二基、鎌倉時代)がある。 宵宮、例祭には古くから笹ばやし、神楽、三番叟、太刀振り(京都府無形民俗文化財)が奉納される。 また、大宮町の名は、社名に由来する。
延喜式内 名神大 大宮賣神社二座
祭神 大宮賣神 あめのうずめの神 若宮賣神 とようけの神
当宮の創立年代は、詳らかではない。 境内から出土する多数の祭器、遺物により明らかな様に、神社としての矢代ができる以前に、 古代の政(まつりごと)がおこなわれていた地である。 遠き弥生時代の頃には、既に人々のくらしがあり、祭器、呪術的な力をもつ国の、祭政の中心地であった。 (境内全域京都府古代祭祀史跡指定) 六世紀の頃、大和朝廷に統一された大宮売神は、宮中八神の一柱として、 また造酒司(みきつかさ)の神の奉斉され、この神を祀る最も古い社である。 平城天皇、大同元年(806)に大宮売神に神領二千五百石、若宮売神に千五百石の神封が充てられ、 「三代実録」貞観元年正月(859)の條に、大宮売神に従五位上の神階を授位している。 現存の小野道風書と伝える古額に正一位大宮売大明神、従一位若宮売大明神とあり、 平安時代末頃には神階が昇叙されている。 御神像二体は、平安初期の木彫である。 「丹後国田数帳」によると三十町反十歩の神領があり、中世の頃祭儀は盛大を極め、 鎌倉時代(徳治二年刻銘)に建立された重要文化財指定の春日型石燈籠二基が献燈されている。 現在の忠霊社は旧本殿で元禄八年の建築、町指定文化財となっている。 宵宮、例祭には古くから京都府無形民俗文化財の、笹ばやし、神楽、三番叟、太刀振りが奉納され、 わざおぎの神、文化発展、子孫繁栄の守護神として崇敬も篤く神威誠に顕著なものがある。
京丹後市指定文化財 大宮売神社旧本殿
元禄八年(1695)頃の建立といわれる大宮売神社の旧本殿である。 丹後地方では珍しい一間社隅木入春日造で、屋根は切妻と軒唐破風を組み合わせて、変化のある外観をつくる。 全体として桃山調を受け継いだ江戸時代中期頃の様式をよく示している。
京丹後市教育委員会