布引の滝
概 要 布引の滝は伊根町にある滝です。 落差が96m、総延長が284mあり、丹後地方で最も大きな滝です。 京都の自然200選にも選定され、浦嶋太郎にまつわる伝承が残っています。 今回は、本庄上地区を通る国道178号の傍の公園を起終点とし、 布引の滝を訪ねてから、滝の上にある滝の平(滝山)へ登るルートを往復します。
起 点 伊根町 本庄上地区
終 点 伊根町 本庄上地区
本庄上地区…登山道入口…全景スポット…ミイヤ地蔵尊…耕地跡…布引の滝…耕地跡…登山道終点…滝の平(滝山)…登山道終点…ミイヤ地蔵尊…全景スポット…登山道入口…本庄上地区…(浦嶋神社)
所要時間 1時間50分
歩いて... 布引の滝は常に水が流れ落ちているという訳ではないようですが、 この時には雪解け水が豊富だったようで、勢い良く流れ落ちていました。 滝の平(滝山)からは山並みなどを見渡せる眺めが広がりました。 峠から西側にある林道に出て358.1m峰へ登る予定でしたが、残雪がかなりあったので諦めて引き返しました。
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コース紹介
本庄上地区
経ヶ岬から国道178号を南下していきます。 伊根町に入って蒲入トンネルを抜け、浦嶋神社への道を分けていくと、道端に小さな公園があります。 園内に車数台分の駐車スペースがあるので、ここに車を止めました。
東屋の傍には「伊根町の見どころ」と題したがあります。 地面には浦島太郎にまつわる絵が嵌め込まれています。 正面の山肌に見える滝が、今回目指すになります。 してみると、水が勢い良く流れ落ちているようでした。
伊根町の見どころ
浦嶋伝説(浦嶋神社)  浦島太郎の伝説で名高い浦嶋神社は、玉手箱や縁起絵巻(室町時代作)などの宝が残るファンタジックな神社。 宮司さまにお話を伺えばロマンの世界。
徐福伝説(新井崎神社)  その昔、秦の始皇帝に不老不死の薬草を求めることを命じられた徐福が漂着したところが新井崎といわれ、 この神社はその徐福を氏神として祀っています。(車で15分)
舟屋の里公園(道の駅)  舟屋の町並みが一望でき、レストハウス・花公園・魚のモニュメントがある。 レストハウス内にはレストラン土産物店があり、日本海の魚が観賞できる大型水槽もある。 また、道の駅として観光情報の発信、特産品の販売等も行っている。(車で15分)
伊根の舟屋  全国的にも珍しい建物。 1階は船のガレージ、2階は住居。 伊根湾内に約230軒が海に浮かぶように建ち並ぶ風景は壮観。(車で15分)
伊根湾めぐり  波静かな伊根湾。 観光船でのんびりと約30分舟屋を見て廻る。 一度は住んでみたくなるかも。(車で15分)
布引きの滝  山の頂上から流れ落ちる雄大な滝。 まるで天空から白布を引いたように見える。
海水浴  泊海水浴場・本庄浜海水浴場。 どの海水浴場も透明度はバツグン。 泳いだ後は民宿でトレトレの魚で満腹に!!(泊・車で10分)(本庄浜・車で5分)
京都府
国道178号を数10m引き返した所から西へ延びるに入っていきます。 十字路を直進して突き当たりのを左折すると、右へ戻るようにして林道が分かれていきます。 手前には「滝山登山道入口(布引きの滝)」のが立っていて、右の林道を指しています。 入口にはがありますが、上下のコの字レバーを回して落とし棒を引き上げると簡単に開けることができます。 防護柵を通過すると、すぐ左に「神社跡、布引滝」と題した解説板があります。 「空から直接流れ出ているようにも見える」とありますが、先ほどの公園からは正にそのような印象でした。
神社跡、布引滝
浦嶋子の亭跡が滝の下にあったと『丹後奮事記』『丹哥府志』に記されており、 曽布谷次郎と今田三郎の屋敷跡の位置からも、この周囲であったと考えられる。 またこの地は、最初に嶋子が筒川大明神として祀られた場所としても可能性が指摘されている。 標高357mの雲龍山(滝山)から流れ出る布引の滝は、浦嶋伝承に 「帰郷した嶋子が玉櫛笥を開け、立ち上る白雲が棚引き、この滝になった」 とある。 落差96mで全長131mと、丹後地方で最も大きな滝であり、京都の自然200選に選定されている。 2つの山頂に挟まれた谷間はすり鉢状の地形をしており、麓から見ると背後に山並みがなく、 空から直接流れ出ているようにも見えることから、神仙世界が具現化した理想郷をも想像させる。 この滝を左手に見ながら尾根伝いに登る古道が筒川上流域へ通じており、 浦嶋神社と由縁の深い河来見集落まで3.5kmと、古くはここからも往来があった。 また、この地を貫流する筒川は、かつてはこの脇まで蛇行していたとの伝承もある。 布引滝の左手、雲龍山中腹(秋葉山)の尾根には、戦国期には本庄城(水之江城ともいう)があり、 天正十年(1582)、細川忠興の軍勢が攻め寄せた際は、菅野城主である三冨左馬亮通輸が城主を兼ねており、 近隣の地侍が籠もり合戦に及んだが、頑固に抵抗し一昼夜の猛攻に屈しなかった。 細川勢は城攻めの不利を悟り、細川家と山内(三冨)家の旧縁を頼りに和議を進め、 城内地侍の安全を保障する条件で開城するに至った。 なお、室町末期には三野対馬守(?-1623)が城主であったが、元亀四年(1573)に退城、 民間に下り本庄浜の名家平松家の祖になったと伝わる。
※三野対馬守については、本庄浜若宮神社の説明を参照してください。
郷土の歴史と文化を守る会
登山道入口
林道を軽く登っていくと、すぐの所に彩色を施した石仏が納められた祠などが並んでいます。 その脇から左へ続くが始まります。 入口には「滝山登山道入口」のが立っていて、左の道を指しています。
滝山登山道入口
← 至:滝の直下総延長870m
← 至:滝山の頂上総延長1,140m
※この登山道は古道ですが、昭和24年4月から10年間ほど筒川の中学校生徒が通学に利用した道2.6kmの一部です。 登山される前にお地蔵さんに手を合わせ道中の安全を祈りましょう。
滝山保勝会
途切れながら続く擬木の階段を右へ曲がりながら登っていきます。 僅かなのような所を過ぎて緩やかな尾根の背に出ると、 右側にがありました。 墓地の左を過ぎて、再び始まるを登っていきます。 緩やかになると階段が終わり、深くU字形に窪んだ所に少し曲がりながら続く道を登っていきます。
全景スポット
少し傾斜が増した所にある階段を登って、になった道を進んでいきます。 道にが露出している所がありますが、階段状に切れ込みが入れてあって歩き易くなっていました。 岩盤を過ぎて緩やかになった道を進んでいくと、「布引の滝の全景スポット」のが立っています。 登山口入口から9分ほどの所になります。 標識の左へちょいと登ってみると、樹木に少し邪魔されながらも布引の滝が見えました。 「滝の全景がみえる」となってはいますが、下の方は隠れていて見えないようでした。
布引の滝の全景スポット
滝の全景がみえる唯一の場所です。
登山道に戻ってU字形に窪んだ道を登り始めると、またが現れます。 階段が終わった道を登っていくと分岐があります。 全景スポットから3分ほどの所で、地形図で破線の道が三方に分かれている所になるようです。 脇には「旧集落への古道・筒川牛の放牧場」のが立っていて、 右へ分かれていくを指していますが、細木が茂って歩き難い様子でした。 「滝の直下」と「滝山の頂上」を指す標識も立っていて、を指しています。 左にははっきりした道を見かけませんでした。
旧集落への古道・筒川牛の放牧場
本庄宇治村の曽布谷や長延村の下長延など枝村に通じていた古道です(通行不可)→
ここから上方の丘陵地は、昭和25年頃まで今だ集落専用の放牧場でした。
← 滝の直下:350m
← 滝山の頂上:620m
ミイヤ地蔵尊
標識に従って、正面の登山道を進んでいきます。 深くU字形に窪んだ所に途切れながら続く間隔の広いを登っていきます。 道の両側にが茂るようになりますが、歩く部分には茂っていないので助かります。 次第に道端にが見られるようになります。 この先を心配しながら登っていくと、なだらかで小広い所に着きます。 先ほどの分岐から3分半ほどの所になります。 右側にはがあって、中に石仏が安置されていました。 脇にある解説板によると、この小祠は滝山地蔵堂で、安置されているのはミイヤ地蔵尊というようです。
ミイヤ地蔵尊
このお地蔵さん(薬師如来)は、雑木林の中に埋もれていましたが、平成23年の山道整備の休憩中に偶然発見したものです。 ここ滝山地蔵堂では、護聖寺の住職により施餓鬼供養が行われていました。
〜健康と道中の安全を祈りましょう。〜
ミイヤ地蔵尊の先に続くを進んでいきます。 緩やかになった道を進んでいくと、1分もしない所に分岐があります。 登山道入口から19分ほどの所になります。 角にはが立っていて、正面の道は「滝山の頂上460m」、左の道は「滝の直下190m」となっています。 登山道はになりますが、 布引の滝の直下へ向かってを進んでいきます。
耕地跡
植林地の中に続く道を進んでいくと、すぐの所に「滝の直下」のが立っています。 植林地を抜けてを降っていきます。 開けた所に出るとがあります。 右の階段を登ったすぐの所にはコンクリート製のがあって、道はそこで行き止まりになっています。 傍には「簡易水道の取水枡」の標識が立っています。 左の道の先は小広くなっていて、木橋の脇に「ミイヤの耕地跡」の標識が立っています。 かつてこの辺りでは稲作が行われていたようです。
簡易水道の取水枡
元本庄上簡易水道の補助水源として長く利用されていました。
ミイヤの耕地跡
この附近は、昭和20年頃まで稲作が行われていた場所です。
木橋を渡って少し泥濘んだ所を過ぎていくとになります。 自然石を積んだ石垣まで来ると広い道は終わって、その先には狭いが続くようになります。 短いを降って緩やかになった小径を進んでいくと、 木橋のような所にが2本横切っていて、そのうちの1本からは水が流れ出ていました。 先ほどの取水枡から引いてきた水でしょうか。 パイプを跨いで斜面を横切るように続く狭い小径を進んでいくと、太いロープが張られた崖のような所に出ます。 念のためにロープに掴まりながら通過していきました。
布引の滝
ロープ場を過ぎていくとが近づいてきます。 少し右へ曲がりながら傾斜が増した小径を降っていくとが現れます。 「布引きの滝」のを過ぎていくと、布引の滝の直下に出ます。 登山道から7分ほどで着きました。 右上には別の「布引きの滝」の看板がありました。 麓にあった解説板によると、丹後地方で最も大きな滝で、京都の自然200選に選定されているようです。 情報によると、この滝は常に水が流れ落ちているという訳ではないようですが、 雪解け水が豊富だったようで、この時には急な岩壁を水が勢い良く流れ落ちていました。
滝のは少し曲がって更に上へと続いているようで、滝口はよく見えません。 ここから見える範囲は定かではありませんが、公園から遠望した滝の中ほどから下の部分でしょうか。
布引きの滝
標高170m
北緯35度43分40秒
東経135度14分36秒
丹後スペースクラブ山岳研究部
布引きの滝
滝の規模 落差96m、総延長284m
別 名 雲引滝、浦島滝、熊野滝
由 来 昔、浦島子が乙姫様からもらった玉手箱を開けたところ、白雲が立ち昇り、この山に棚引いて滝になったという伝説がある。
来た小径を引き返していきます。 急な坂を登って、その先のを過ぎていきます。 道を横切るパイプを跨いで、短い木の階段を登っていきます。 自然石を積んだ石垣の所まで来るとになります。 にある木橋を渡って、その先のを登っていきます。 植林地に入って「滝の直下」の標識を過ぎていくと、左右に通る登山道に出ます。 往復16分ほどで戻って来られました。 角に立つ「滝山の頂上460m」の標識に従って、を進んでいきます。
少しU字形に窪んだ広いを登っていきます。 何度か曲がりながら登っていくと、が見られるようになりました。 この先どうなるのか心配しながら登っていくと、冬枯れの樹間からが少し見えました。 東の方角にはの入り江が見えました。 沖に浮かぶ小島は鯛釣島でしょうか。 そこを過ぎていくと、登山道は左へ曲がっていきます。 曲がり角には「滝山の頂上(滝の平・滝の落ち口)」のが立っていて、 左へ曲がっていく道を指しています。 布引の滝への分岐から6分ほどの所になります。
道なりに左へ曲がって登っていくと、またがありました。 雪のない所を選んで登っていくと、道は右へ曲がっていきます。 少し先を曲がっていくと、次第にが増えてきました。 雪の上を少し歩いたりしながら登っていくと、再び樹間から本庄浜地区の入り江が見えてきました。
少し進んだ先を、道なりに曲がって登っていきます。 左への曲がり角まで来ると、が右側から登ってきます。 何処から登ってくる道なのか気になるところではあります。 標識類は見かけませんが、ここは曲がって、残雪がある道を登っていきます。
登山道終点
次第に左側が開けてくる道を登っていくと、稜線にあるに着きます。 布引の滝への分岐から17分ほどで登って来られました。 中ほどには「滝山の頂上(滝山登山道終点)」のが立っていて、左を指しています。 植林地になったも歩けそうな様子でしたが、 左側のすぐ先にある滝の平(滝山)へ向かって、を登っていきます。
滝山の頂上(滝山登山道終点)
← 滝の平(写真スポット):40m
← 滝の落ち口:120m
※滝の落ち口は、大変危険です。 充分注意してください。
滝山保勝会
滝の平(滝山)
尾根をひと登りすると、すぐになだらかな高みに着きます。 標識類は見かけませんが、ここが滝の平(滝山)になるようです。 地形図によると、標高は270mほどあって、布引の滝の滝口のすぐ北側に位置しているようです。 左側には山並みなどを一望できる眺めが広がっていました。
の標識にあった「滝の落ち口」まで降りていけないかと思って、 緩やかなを正面へ進んでいきました。 降り傾斜が増してくると「進入禁止」のが立っていたので、諦めて引き返してきました。
進入禁止
ここから先は大変危険です。 進入しないで下さい。
登山道終点
往復9分ほどでにある登山道終点まで引き返してきます。 から左へ降っていく(*)がありますが、地形図に破線で載っている道のようです。 当初はその道から西側を通る林道に出て358.1m峰へ登る予定でしたが、残雪が多そうだったので諦めました。 右に続く元来たを降っていきます。
*後日に左の道を歩きました。 今では歩かれていない様子ながら、が谷筋に続いていました。 小沢を二つ跨いだりしながら8分ほど進んでいくと、左上にが見えてきます。 道は更に谷筋へ続いているようですが、段差の低い所から林道に出て東から西へ曲がりながら進んでいくと、 ここから18分ほどで稜線にある林道のに出ました。 そこから舗装された所もある右前方の林道を45分ほど降っていくと、国道178号の旧ルートに出られます。 (ルート図に緑色で表示)
残雪のある道を1分半ほど降っていくとに着きます。 戻るように曲がって、残雪が目立つ道を降っていきます。 道なりに曲がって更に降っていきます。 少し降った先を右・左と曲がって降っていくと、「滝山の頂上」を指す標識が立つ右への曲がり角に着きます。
道なりに曲がって更に降っていきます。 石がゴロゴロする所もあるを曲がりながら降っていきます。 少しU字形に窪んだ広いを降って植林地になると、布引の滝への分岐に着きます。 登山道終点から13分ほどで降りて来られました。
ミイヤ地蔵尊
布引の滝への道を見送って、正面のを降っていきます。 程なくして、ミイヤ地蔵尊があるなだらかで小広い所に出ます。 正面に続くを降っていきます。
全景スポット
深くU字形に窪んだ道を降っていくと、道の両側にが茂るようになります。 途切れながら続く間隔の広い階段を降っていくと、旧集落への古道とのに着きます。 古道を見送って、擬木の階段混じりの窪んだを更に降っていきます。 少し岩盤が剥き出した所を過ぎていくと、「布引の滝の全景スポット」の標識が立つ所に着きます。 布引の滝への分岐から7分ほどで着きました。 登り時と変わらないとは思いながらも、右へちょいと登ってを再度眺めていきました。
登山道入口
に戻って、更に降っていきます。 階段状に切れ込みが入れてある剥き出したの上を過ぎていきます。 深くU字形に窪んだ所に少し曲がりながら続く擬木の階段混じりのを降っていきます。 の脇に出て、更に降っていきます。 広がるが見えてきた道を左へ曲がりながら降っていくと登山道入口に着きます。 布引の滝への分岐から17分ほどで降りて来られました。
本庄上地区
舗装されたに出て右へ曲がり、石仏が納められた祠などの前を過ぎていきます。 の扉を開けて、左へ進んでいきます。 小屋の手前にあるを右折していきます。 田んぼが広がる中に続く舗装路を真っ直ぐ進んで、を直進していきます。 国道178号に出ると、右側の数10m先に車を止めておいた小さな公園があります。 登山道入口から6分ほどで到着しました。
浦嶋神社
家路につく前に、すぐの所にある浦嶋館浦嶋神社に立ち寄っていきました。 ドーナッツ状の中空円形をしたにはItalian BarのPIENO(ピエーノ)があって、お昼の時間帯だけ営業しているようでした。 浦嶋神社の屋根には7本の鰹木が乗り外削の千木が聳えていました。 神社の由緒書きやの解説板には、 浦嶋太郎にまつわる伝承が記されていました。 (所要時間に含めず)
浦嶋神社
鎮座地 伊根町字本庄浜191番地
祭神 浦嶋子(浦嶋太郎)
相殿神 月讀命、祓戸大神
祭儀 例大祭 宵宮8月6日、本祭7日
延年祭 宵宮3月16日、本祭17日
創建 天長2年(825)7月22日
神徳 結縁、長寿、豊漁、航海安全、豊作、養蚕守護、牛馬守護
旧社格 郷社
宝物 紙本著色浦嶋明神縁起[国重要文化財]
紙本著色浦嶋明神縁起(掛幅)[府指定有形文化財]
白練緯地桐桜土筆肩裾文様繍小袖[国重要文化財]
玉櫛笥(玉手箱・室町期) 他
浦嶋神社は宇良神社ともよばれ、醍醐天皇の延喜5年(905)撰上の「延喜式神名帳」所載によると『宇良神社』と記されている式内社。 創祀年代は淳和天皇の天長2年(825)、浦嶋子を筒川大明神として祀る。 その大祖は月讀命の子孫で当地の領主、日下部首等の先祖であると伝わる。 伝承によると、浦嶋子は雄略天皇22年(478)7月7日美婦に誘われ常世の国へ行き、その後300有余年を経て淳和天皇の天長2年(825)に帰ってきた。 常世の国に住んでいた年数は347年間で、淳和天皇はこの話を聞き浦嶋子を筒川大明神と名付け、 小野篁(802-853、公卿・文人)を勅旨として派遣し社殿が造営された。 遷宮の際には神事能が催され、そのつど領主の格別の保護が見られた。 暦応2年(1339)には征夷大将軍 足利尊氏が来社し弊帛、神馬、神避けを奉納するなど、 古代より当地域一帯に留まらず広域に渡り崇敬を集めている。 なお、社殿が北極星を向いて造営されており、道教の影響から北極星信仰がある。
見すはまた 悔しからまし 水乃江の 浦嶋かすむ 春の曙 太上天皇
長き夜も 明けて恨めし 水乃江の 浦嶋かけて すめる月かげ 平 高宗
浦嶋伝承  当地に伝わる浦嶋伝承は、我が国に伝わる最古の歴史書「日本書紀」(和銅2年、720)に記され、 全国各地に伝わる浦嶋伝承よりも起源が最も古い。 雄略天皇22年(478)秋7月の条に「丹波国余社郡の管川の人」として「端江の浦の嶋子」が常世の国へ行く物語が簡素な文章で記されており、 末尾に「詳細は別巻に在り」と書かれている。 その書物が何であったかは現在では特定できていないが、同時期に編纂された「丹後国風土記」が有力である。 また、他にも「万葉集」巻九にある高橋虫麻呂が詠んだ旋頭歌「詠水江浦嶋子一首」で浦嶋物語が歌われている。 これらの物語で登場する「浦嶋子」がいわゆる日本昔話でいう「浦嶋太郎」であるが、物語は中国道教の神饌思想の影響を受けている。 古代には竜宮城へ行かず神女に誘われ蓬山(常世の国)へ至るという物語であった。 浦嶋子は当地を納めた地方豪族の領主であったことから、民間伝承ではなく貴族、公卿などの支配層を中心に伝わっていった。 室町期より江戸初期にかけて綴られた御伽草紙に初めて「乙姫」「竜宮城」「玉手箱」の名称とともに亀の恩返しの要素が加わり、 また、領主であった嶋子が「両親を養う猟師の青年」という民衆の身近な存在として描かれたことにより、 大衆に広く受け入れられ全国に伝わっていった。 このことが「浦嶋太郎」伝承が全国各地に数多く伝わる要因であると思われる。 江戸中期の正徳2年(1712)に、大阪竹田からくり出し物で、初めて亀に乗った浦嶋子が登場し、海中にある竜宮城へ行くようになる。 明治29年(1896)に巌谷小波が子ども向けに書いた日本昔話に、現在の浦嶋太郎のお話しに書き替えられ、 明治43年(1910)には尋常小学校2年国語教科書にその省略版が掲載、翌44年(1911)には唱歌「浦嶋太郎」が作られた。 このことにより、当時の日本全国の子ども達が読み学び、また、唱歌は現在までも子ども達にお馴染みの歌として歌われ続け、 日本人なら誰もが知っている代表的な昔話として大いに親しまれている。
郷土の歴史と文化を守る会
蓬山の庭  嶋子が神女に誘われて水乃江里より海の彼方の蓬山に渡る物語を、丹後国風土記逸文は次のように記している。 「その地は玉を敷けるが如く、闕臺奄映しく樓堂玲瓏けり、目にも見ざりし所、耳にも聞かざりし所なり」云々。 これは「とこよ」の有様を記したものだが、その他に「蓬山」「神仙」「仙都」と書いて「とこよ」と読ませ、 日本書紀、浦嶋口伝記では「蓬莱山」を「とこよ」、万葉集では「常世」を「とこよ」としている。 これは、古代日本の神仙思想の影響を強く受けたものであり、この庭はこれら文献及び浦嶋明神巻(重文)にもとづいてつくられた。
浦嶋神社 社務所