概 要 |
鳶ヶ城城址は朝来市和田山町にあります。
延長1200mに及ぶ尾根筋に、南北朝期〜戦国期の山城遺構が残存しています。
鳶ヶ城主郭のあった山頂や238.7m峰からは、山並みを見渡せる眺めが広がります。
今回は北側の糸井口バス停の傍から238.7m峰へ続く尾根を通って、東側の土田地区へ降るルートを歩きます。
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起 点 |
朝来市和田山町 糸井口バス停
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終 点 |
朝来市和田山町 下土田バス停
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糸井口バス停…登山口…小峰…鳶ヶ城主郭…鞍部…238.7m峰…谷筋…大歳神社…下土田バス停
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所要時間 |
2時間10分
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歩いて... |
標識やテープが適所にあってルートを示していましたが、
土田地区の谷筋に降り立つ手前では少なくなって不安になりながら歩くことになりました。
まだ整備の途中だったのかも知れません。
また、北の古城から土田地区へ降るルートがあるようですが、この時には「未整備」となっていました。
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関連メモ |
今のところ、関連メモはありません。
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糸井口バス停
朝来市和田山町を通る国道9号にある糸井口バス停から歩いていきます。
和田山トンネル方向へ進み始めると、道路向かいにがあります。
車で来る場合にはここに止めれば良さそうです。
入口の電柱にはが取り付けられていて、「鳶ヶ城登山口は、20m南の上野橋を谷川沿いに登る」となっています。
反対方向のまで来ると、手前に上野橋があります。
欄干に取り付けられた「鳶ヶ城登山口」のに従って、谷川沿いの小径へ入っていきます。
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登山口
正面に高みを眺めながら、谷川沿いに続くを進んでいきます。
少し左へ曲がりながら進んで小広くなった所に出ると、コンクリート舗装されたが始まります。
脇の樹木には「鳶ヶ城」の標識が取り付けられています。
前日の雨で濡れて滑りやすくなっていたので注意しながら登っていくとの前に出ます。
その右側を更に登っていくと、小広くなった所から木の階段が始まります。
脇には「鳶ヶ城城址」と題した解説板があります。
ここが鳶ヶ城城址への登山口になります。
今回はに赤い線で載っている尾根筋を歩きます。
(オヤシキからエコザワに続く赤い線の道は歩いていません)
鳶ヶ城(とびがしろ)城址
鳶ヶ城の城域は広大で、国道9号トンネルが通過する木見ヶ鼻(きのみがはな)から東見寺霊園の背後まで、
延々1200mに及ぶ尾根筋に、南北朝期〜戦国期の山城遺構が残存する。
全域にわたり、小曲輪が階段状に連続し浅い堀切を設けた南北朝期山城の様相をみせているが、
要所には比較的大きな堀切が配されている。
特に標高222mの山頂に構築された東西15m×南北37mの主郭は、ほぼ全周をめぐる帯曲輪、
高さ15mを越す大切岸に加えて10条の堅堀群を集中的に配置し、旧城址の主郭部分を、コンパクトで機能的な戦国期山城に改修している。
南北朝期の鳶ヶ城は「土田冨栖城(はんだとびすじょう)」と呼ばれ延元元年(1356)、
城主の土田太郎左衛門尉は南朝に味方して北朝の攻撃を受けている。
戦国期には、福富氏の高生田城とともに山名祐豊(すけとよ)の配下にあったらしいことが、
土田・枚田の山境に関する天文23年(1554)の裁定文書からうかがえるが、城の呼称や城主を明らかにした史料は知られていない。
廃城についても確実な史料はないが、近隣諸城と同じく天正5年(1577)または8年、羽柴秀吉の但馬進攻により落城したものと思われる。
大蔵地域自治協議会・平成27年度住民参画型里山林再生事業地
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を登り始めると、すぐの所に「鳶ヶ城」の標識が取り付けられています。
途切れながら続く階段を登っていきます。
次第に途切れる部分が長くなってくると、に続く踏み跡を登るようになります。
特に分岐などはありませんが、赤テープや白テープなどが取り付けられていてルートを示していました。
夏草などが茂っていないのは良いのですが、かなり傾斜があって、脹ら脛が痛くなってきました。
先の方に見えてくる高みに向かって尾根を登っていきます。
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高みが近づいてくると、道は高みを巻くようにして曲がっていきます。
曲がり角には「順路」の標識が取り付けられていました。
白テープが取り付けられた樹木の間を進んでいくと、左右に延びる尾根に登り着きました。
登山口から9分ほどの所になります。
樹木には標識やテープが取り付けられていて、左の尾根は「鳶ヶ城」、今登って来た道は「宮田へ下山」となっています。
は小広くなっていて、「曲輪」の解説板がありました。
ここは鳶ヶ城へ向かってを進んでいきます。
曲輪
曲輪は、山の尾根や斜面を削って造った陣地。
鳶ヶ城は、総延長1200mの尾根に、次々と曲輪が続いています。
大蔵地域自治協議会
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緩やかな尾根を1分ほど進んでに着くと、「堀切り」の解説板が立っていました。
窪んだ所を過ぎて、「順路」の標識が指すを更に登っていきます。
や黄テープを過ぎていくと、再び「順路」の標識が立っています。
正面に高みが近づいてくると、「切岸」の解説板が立っています。
ここで道は曲がっていきます。
大きな穴がありますが、解説板にある落とし穴でしょうか。
堀切り
尾根をたち切って、敵は攻めのぼりにくく、味方は守りやすくしてあります。
ここは浅い堀切りで、あまり明瞭ではありません。
落とし穴3個つき。
大蔵地域自治協議会
切岸
曲輪の周りの斜面を削って、急傾斜にしてあります。
切岸が急で高いほど、攻めにくく守りやすいですね。
大蔵地域自治協議会
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小峰
「順路」の標識を過ぎて、曲がりながらへ登っていきます。
を辿りながら登っていくと小峰に着きます。
地形図によると、標高170mほどの細長い高みの南西部になるようです。
登山口から15分ほどの所で着きました。
中ほどには「6293 E 国土調査」の青頭短杭があります。
登り着いた脇の樹木には「宮田へ下山」の標識が取り付けられていて、登って来た尾根を指していました。
正面の樹間からは、が少し見えました。
樹木に巻き付けられた白テープには、は「土田へ(未整備)」、
は「頂上へ」と書かれていました。
案内図では左の尾根に赤い線が描かれているので、様子を確かめに立ち寄っていくことにしました。
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尾根を1分ほど降ってに出ると、正面に僅かな高みが現れます。
その手前から右前方へと道が分かれていて、その先に「未整備 土田へは下山できません」の看板が見えています。
正面の高みへ登っていくと、小広くなった所に着きます。
少し奥へ進んでいくと「曲輪」の解説板がありました。
二段ほどの帯状になったへ降った所には、「帯曲輪」の解説板がありました。
登山口にあった案内図によると、この付近には北の古城があったようです。
「帯曲輪」の解説板の傍の大木から、植林地の尾根が降っています。
和田山トンネルの南側出入口の辺りへ降りて行けそうな気がしたので、少し歩いてみました。
傾斜はありますが夏草などは茂っておらず、歩き易い尾根が続いていました。
5分ほど降っていくと傾斜が更に急になってルートが分からなくなったので、引き返しました。
下山後に和田山トンネルの南側出入口の傍まで行ってみると「鳶が城300m」の標識が立っていて、
水路を渡った先の竹林へ続くを指していましたが、
「未整備 鳶ヶ城へはトンネルの北約200mからの新登山路を利用してください」の紙が貼られていました。
今回登ったルートは新登山路のようです。
以前にはトンネルの南側からの旧登山路があったようですが、
いつか再整備されて歩けるようになるのか、気になるところではあります。
(所要時間には含めず)
曲輪
鳶ヶ城の東北の隅を抑える大きな曲輪です。
帯曲輪をめぐらせ、小曲輪が2列、階段状に続いています。
大蔵地域自治協議会
帯曲輪
細長い曲輪が、帯のように上部の曲輪を取巻いています。
重要な曲輪を防御するために造られます。
大蔵地域自治協議会
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往復6分ほどで先ほどの小峰まで引き返してきて、南西に続くを降っていきます。
「鳶ヶ城主郭」のを過ぎていくとに着きます。
登り坂になってきたを進んでいきます。
尾根には「国土調査」の青頭短杭が点々と設置されていて、朝来市和田山町の宮田地区と土田地区の境界になっているようです。
傾斜が緩んだ尾根の肩に着くと、「6289 E 国土調査」のと黄頭短杭が並んでいました。
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緩やかになったを進んでいくと、
程なくしてが増してきます。
登山口付近から続いていたように思いますが、採番されたが樹木に取り付けられているのを見かけます。
連番なのかどうかは分かりませんでしたが、山頂へ向かって番号が増えていくようでした。
赤テープや黄テープが取り付けられた尾根を登っていくと、高みの手前で道が二股に分かれています。
標識類は見かけず、どちらの道を登れば良いのか迷う所です。
暫らく愚考しましたがよく分からないので、すぐ先で合流するのだろうと思って右側の道を登っていきました。
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折れ曲がって登っていくとに出ました。
左側に目を配りながら登ってきましたが、手前で分かれた道が合流したのかどうかは分かりませんでした。
正面の樹間から見えてくるへ向かって進んでいきます。
伐採地に出ると「堀切り」の解説板がありました。
正面には主郭の高みが聳えています。
急傾斜の斜面になっていて、とても直登は出来そうにもありません。
途中まで登っていくと、「切岸」のに加えて、
「主郭へは二の廊を経由していくように」とのが出ています。
小峰から8分ほどの所になります。
「二の廊から主郭へ」の標識に従って、斜面を横切るように右へ続くを進んでいきました。
案内図の赤い線は、ここから左の尾根に出て主郭へ続くように描かれていますが、往時のルートから道が付け替えられたようです。
堀切り
主郭部を区切る大きな堀切りです。
築城当時は、もっと鋭く深い空堀だったのしょう。
大蔵地域自治協議会
切岸
主郭を守る北側の大切岸。
帯曲輪まで高さ20mほどあります。
むやみに登って崩さないよう注意しましょう。
大蔵地域自治協議会
主郭の大切岸はたいへん急傾斜で、すべる、ころぶ、斜面が崩れるなどの危険があります。
事故を防止し、山城遺構を保存するため、登り下りとの二の廊へ迂回していただきますよう、ご協力をお願いします。
大蔵地域自治協議会
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伐採地の斜面を横切っていくとに入っていきます。
次第に低くなってくる左の尾根に沿って、に進んでいきます。
尾根の背に出ると、右への降り口に「切岸」の解説板があります。
左の樹木には「宮田(リョウケン)へ下山」の標識が取り付けられていて、今来た道を指しています。
南の古城へは右へ降っていくのですが、左の尾根の先にある主郭まで往復してきます。
切岸
主郭を守る南側の大切岸。
15mほどを一気に降ります。
石をくずさないよう、ロープを伝ってそっと降りましょう。
大蔵地域自治協議会
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鳶ヶ城主郭 (標高222m)
左の尾根に登ると、すぐに広くてがあります。
脇の樹木には「主郭へ(ここは二の廊)」の標識が取り付けられています。
この平らな所には二の廊があったようです。
正面へ進んでいくと、が次第に近づいてきます。
尾根の背の少し左側を回り込むようにして登っていくと、鳶ヶ城主郭があった山頂に着きます。
小峰から16分ほど、北の古城への立ち寄りも含めて登山口から40分ほどで登って来られました。
中ほどには「鳶ヶ城主郭」と題した解説板が設置されていて、往時のが載っています。
鳶ヶ城主郭(とびがしろ しゅかく)
鳶ヶ城の主郭は、標高222mの山頂に構築されている。
東西15m×南北37mをはかり、比較的大規模な主郭といえる。
主郭のほぼ全周に帯曲輪をめぐらし、帯曲輪から堀切A,Bまでは高さ15mを超す大切岸である。
さらに10条の堅堀を集中的に配置して防御力を強化し、特に堅堀アは、比高100mを山麓まで一気に落ちる大堅堀である。
主郭の東山麓一帯は「オヤシキ」と呼ばれている。
領主館があったものであろう。
「オヤシキ」から標高180mの最低鞍部へ直登するルートが、鳶ヶ城の大手登城路と推定される。
《用語集》
曲輪(くるわ) |
尾根や斜面を削って造成した平坦地。防御の陣地となる。
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主郭(しゅかく) |
城の中心となる曲輪。織豊期以降は本丸という。
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帯曲輪(おびくるわ) |
上部の曲輪を帯状に抱きこむように造られた曲輪。
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切岸(きりぎし) |
曲輪の周囲の斜面を削って造った急傾斜面。
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堀切(ほりきり) |
尾根筋に直角に掘り込んだ空堀(からぼり)。
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堅堀(たてぼり) |
斜面の縦方向に掘り込んだ空堀。
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虎口(こぐち) |
曲輪の出入り口。
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大蔵地域自治協議会、平成27年度 住民参画型里山林再生事業地
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山頂の西側から北側にかけて開けていて、山並みを見渡せる眺めが広がります。
は樹木が邪魔をしていて、僅かに稜線が見える程度です。
北側の一段低い所には「帯曲輪」の解説板が立っています。
目の前に広がる景色を眺めながらひと休みしていきました。
西側からの眺めです。
北側からの眺めです。
帯曲輪
主郭を守る帯曲輪です。
帯曲輪から主郭への入口を虎口(こぐち)といいますが、どこにあるのでしょう。
大蔵地域自治協議会
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落ち着いたところで、手前のまで引き返してきます。
「切岸」の解説板の所から、尾根の背とそのすぐ右側に踏み跡がありますが、
右側に張られたトラロープに掴まりながらを降っていきます。
少し折れ曲がったりしながら降って傾斜が緩んだに出ると、
向こう側を向いた「堀切り」の解説板が立っています。
歩き易くなった尾根を進んでいくと、「大堅堀」の解説板が立っています。
堀切り
主郭部を区切る大きな堀切り。
堀切りの底から見上げる切岸は威圧的です。
ロープを伝い、石を落とさないよう注意して登りましょう。
大蔵地域自治協議会
大堅堀
山麓の「オヤシキ」まで、高度差100mを堅堀で結んでいます。
鳶ヶ城の大手を守るかなめの大堅堀です。
大蔵地域自治協議会
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鞍部
緩やかになったを進んでいきます。
採番された黄テープを確認したりしながら、傾斜が増してきたを降っていくと、
馬の背のような鞍部に着きます。
主郭から9分ほどの所になります。
案内図に載っているオヤシロからエコザワへ続く道が尾根を越えていく峠になるようですが、
この時には峠越えの道には気が付きませんでした。
標識類も見かけないので、今では歩かれなくなって廃道になったのでしょうか。
鞍部を過ぎて登り坂になると、
すぐの所に「南の古城〜西土田へ下山(60分)」のが立っていて、この先の尾根を指しています。
(まだ60分もかかるのかと思いましたが、ここから41分ほどで谷筋の舗装路に降りられました)
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人工的に並べられたようなを過ぎていきます。
引き続き、尾根には「国土調査」のが点々と設置されています。
やがて現れる僅かなへ向かって、少し曲がりながら登っていきます。
傾斜が緩んだ尾根を進んで再びになってくるとがありました。
解説板にあった落とし穴のようです。
傍には赤テープが取り付けられた枝が立てられていました。
更に尾根を登っていくと、なだらかな高みに着きます。
主郭から18分ほどの所になります。
地形図によると、238.7m峰の北150m辺りにある標高240mほどの細長い高みで、
案内図に「上ノ山」と書かれている辺りになるようです。
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238.7m峰
軽いになった尾根を進んでいきます。
僅かなに着いて、その先へ登り返していきます。
正面に見えてくる明るいへ向かって登っていくと、
樹木が伐採された高みに着きます。
中ほどには「土田」があるので、地形図に載っている238.7m峰になるようです。
主郭から21分ほどで到着しました。
案内図によると、この付近には南の古城があったようです。
大切にしましょう三角点
国土地理院
四等三角点
基本
No.111074
この測量標はすべての測量の基準です。三角点を大切にしましょう。
国土地理院
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山頂の東側が開けていて、山並みを眺めることが出来ます。
南東の奥には電波塔が沢山立つ山が見えますが、方角からするとでしょうか。
眼下にはJR山陰本線のも見えます。
景色を眺めたり水分補給などをしながら、ひと休みしていきました。
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落ち着いたところで、238.7m峰の先へ続くを降っていきます。
傾斜が緩やかになってくると、「33」と書かれた黄テープが巻かれた樹木を過ぎた所に細いが道を塞いでいましたが、難なく通過できました。
軽く登るようになると僅かな高みに着きました。
中ほどには「6245 E 国土調査」の青頭短杭がありました。
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高みを過ぎて降り始めると、右側の樹間から山並みが少し見えましたが、
方角からするとでしょうか。
尾根の背を真っ直ぐ降っていくと分岐があります。
238.7m峰から4分ほどの所になります。
中ほどの樹木には「西土田へ下山」の標識が取り付けられていて、左へ戻るようにして降っていく道を指しています。
尾根は更にこの先へと続いていて、この標識がないと左の道を見逃すのは必至のように思えました。
このまま正面の尾根を進んでいくと、332m峰を経て大倉部トンネルの上を通る農免道路枚田長尾線に出られそうに思えましたが、
標識の指すを降っていきます。
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雑木林のを横切るように進んでいくと、
樹木に白テープが巻かれていて、「西土田←」と書き込まれていました。
に出て、所々に取り付けられているテープを確認しながら、それほど急ではない尾根を降っていきます。
尾根には夏草などは茂っておらず、樹木も密生していなくて、歩き易くなっていました。
「34」と書かれたが巻かれた樹木を過ぎて更に降っていきます。
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落とし穴のようなを過ぎていきます。
傾斜が緩やかになってくると、向こう側を向いた「曲輪」の解説板がありました。
238.7m峰から13分ほどの所になります。
ここで尾根が二手に分かれています。
も歩き易そうでしたが、
黄テープが巻かれているを降っていきます。
曲輪
曲輪は、山の尾根や斜面を削って造った陣地。
木実ヶ鼻(きのみがはな)まで総延長1200mの尾根に、次々と曲輪が続いています。
大蔵地域自治協議会
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尾根を1分ほど降っていくと窪んだ所があります。
向こう側を向いた「切岸」と「堀切り」の解説板が立っていました。
「堀切り」の解説板の前にはがありました。
切岸
曲輪の周りの斜面を削って、急傾斜にしてあります。
深い堀切との組み合せで、切岸はより高く急になります。
大蔵地域自治協議会
堀切り
尾根をたち切って、敵は攻めのぼりにくく、味方は守りやすくしてあります。
はっきりとわかる大きな堀切りです。
大蔵地域自治協議会
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谷筋
堀切の先へ続くを進んでいきます。
テープ類を見かけなくなって少し不安になりながらも降っていきました。
傾斜が増してきた尾根を降っていくと、下の方にが見えてきます。
左の谷筋へ降っていくが現れますが、谷筋は少し泥濘んでいるので、見送っていきます。
程なくして正面に現れる踏み跡を辿りながら降っていくと、道路脇にあるが見えてきます。
谷筋に降り立って小屋へ向かっていくと、田んぼが広がる谷筋に通る舗装路に出ました。
238.7m峰から25分ほどで降りて来られました。
少し手前からテープ類を見かけなくなったので正しいルートだったのかは定かではありませんが、
この時には小屋の付近に鳶ヶ城に関する標識類を見かけませんでした。
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田んぼが広がる谷筋に続くを北へ進んでいきます。
墓地の下まで来ると脇にがありますが、墓参用の車を止める場所でしょうか。
僅かに右へ曲がった所にある分岐まで来ると、左の石段の上にが立っていたので、
ちょいと立ち寄っていくことにしました。
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大歳神社
僅かな石段を登っての前に出ると、右側に「災害に強い森づくり」の解説板がありました。
鳥居をくぐった先に続く石段を登っていくと、社殿の一段低い所にあるに着きます。
右側には小屋が建っていて、手水鉢もありました。
更に石段を登っていくと、「大歳大明神」の扁額が掛かる社殿がありました。
由緒書きなどは見かけませんでしたが、祭神は大歳神とのことです。
社殿の右側に小社が2つ、左側に3つ並んでいました。
社殿のには石像が納められていましたが、中に掲げられた板書きによると行者石像というようです。
その他の社にも名前が書かれていると思われる木札が取り付けられていましたが、文字はほとんど消えていて判読できませんでした。
「」と刻まれた石柱も見かけました。
災害に強い森づくり(里山防災林整備)〜県民緑税の活用〜
平成16年の台風被害を踏まえて、豊かな「緑」を次の世代に引き継いでいくため、
県民共通の財産である「緑」の保全・再生を社会全体で支え、県民総参加で取り組み仕組みとして平成18年度から「県民緑税」を導入し、
防災面での機能強化を目的とした「災害に強い森づくり」を進めています。
整備内容
集落の浦山を対象に森林整備に併せて、簡易な防災施設(床固工や木柵工など)整備を行い、里山防災機能を高めます。
兵庫県、朝来市、(社)兵庫みどり公社
この行者石像は信者有志の寄進により明治36年7月18日このお堂の裏山に祭祀され信仰の聖域となっておりましたが
長年の間に山麓が崩れ転落の危険となりましたので講中の総意によりこの場所に遷座し御堂を建立し永遠に信仰の行者堂として保存する
念願で講基金と力役の奉仕並に資金を融資の寄進により昭和62年4月1日完成いたしました
今後皆様方のご信仰とご幸福の程お祈り申しあげます 合掌
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社殿の一段低い所にあるまで引き返して来ます。
左側の小屋と手水鉢の間から続くへ入っていくと、
すぐにされた道が現れます。
脇には「参詣路 竣工記念碑」と刻まれた石碑がありました。
右側にを眺めながら降っていくと、草地になった小広い所に出ます。
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小広い草地を進んでいくと、再びされた道になります。
道なりに右へ曲がって、正面になどを眺めながら降っていきます。
両側が開けてくると、左右に通る舗装路に出ます。
正面の果樹の中には「土田城趾」のが立っていて、今降って来た道を指していました。
情報によると、土田城とは今回登った鳶ヶ城のことのようです。
山頂にあった解説板によると、往時にはオヤシキから主郭の南にある鞍部へ直登する大手登城路があったようです。
この時には気が付きませんでしたが、神社からここまで来る途中に、今でもその道の入口があるのでしょうか。
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下土田バス停
赤いを過ぎていきます。
を合わせて降っていきます。
竹林の下を過ぎて再びを合わせて降っていくと、
押ボタン信号のあるに出ます。
正面にはJR山陰本線の下田踏切があります。
その左側すぐの所に下土田バス停があります。
谷筋の舗装路に降り立った所から22分ほどで到着しました。
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