権現山
概 要 権現山は京丹後市峰山町にある標高181mの山です。 古くは山祇山と呼ばれた山頂は、かつて吉原山城があった所で、現在では金峰神社奥宮が鎮座しています。 本丸跡・二の丸跡・三の丸跡からは日本海や山並みなどを見渡せる眺めが広がります。 今回は参道から山頂へ登り、大手道を降るルートを歩きます。
起 点 京丹後市峰山町 吉原バス停
終 点 京丹後市峰山町 吉原バス停
吉原バス停…京極家陣屋跡…参道入口…大手道入口…善明砦…二の丸跡…権現山…三の丸跡…大手道入口…参道入口…吉原バス停…(金峰神社)
所要時間 1時間20分
歩いて... 参道や大手道はしっかりとした道が続いていました。 所々には解説板が設置され、主な分岐には道標が設置されて分かり易くなっていました。 傾斜が急な所には横木の階段が設置されて歩き易くなっていました。
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コース紹介
吉原バス停
京丹後市峰山町を通る府道17号にある吉原バス停から歩いていきます。
車道を北へ進み始めたすぐの所から西へ分かれていくがあります。 入口には「峰山城跡0.1km」のが立っていて、その道を指しています。
「峰山城」とは「吉原山城」のことだと解釈しましたが、通称「峰山城」と呼ばれているのでしょうか。
京極家陣屋跡
水路沿いの路地を真っ直ぐに100mほど進んでいくと、小広くなった所にがあります。 左前方には第一区区民会館がありますが、右前方の石柱の先へ続く舗装路を登っていきます。 すぐの所に「吉原山城の由来」と題した解説板があります。 「林道権現山線」のも立っています。 そこからが右へ分かれていきます。 坂の上に出ると、平らな畑地になっていました。 「京極家陣屋跡」の標柱が立っていますが、陣屋の遺構と思われるようなものは見かけませんでした。
吉原山城の由来
吉原山城は、一色・細川・京極三氏の城地として約五百年の間、丹後の政治・軍略の中心であった。 しかし、城といっても天嶮を利用した山城であり、切崖や掘割の上に平坦地を作り、 柵をめぐらし木戸を構えて、敵襲の場合は逆茂木を埋め、陣屋を建てて寄手を防ぐというきわめて原始的なものであった。 嘉慶2年(1388)守護一色詮範は、吉原山祇山に始めて山城を築いて立てこもったが、 その後、山頂の人呼びの嶺を本丸と定め、西丸や、散弾の砦を設ける等、本格的な築城にかかり、守りを固めた。 織田信長の天下統一とともに、城主は細川氏にかわり、細川興元は天正10年(1582)本丸に御陣屋を建て、 二の丸・三の丸をおき、寺谷の東(今の上町)市街地を開いて、嶺山と名付けた。 徳川時代になってから、藩主は京極氏にかわり、 初代高通は、元和10年(1624)お国入りをして城下町をつくり峯山町と改称した。 この頃になると城砦の必要がなくなったので、山城を廃して藩主の居館(御陣屋)・御蔵・表門・侍屋敷・御粗長屋等をつくった。 吉原山は、京極氏が山頂に蔵王権現を祀っていたことから、権現山と呼ばれるようになり、現在にいたっている。
 (昭和57年10月 京丹後市教育委員会)
「京丹後市教育委員会」は後から上書きされた形跡がありました。 合併によって誕生した「京丹後市」は昭和57年にはまだ存在せず、当時は「峰山町教育委員会」と書かれていたものと思われます。 訂正するにしても、誤解が生じないように工夫してほしいものです。
京極家陣屋跡
峯山藩は、戦国大名の京極高知が関ヶ原の戦いの戦功により賜った丹後一国の領土を、後に遺領として子供三人に三分割し、 その一人「京極高通」を初代藩主として十二代藩主「京極高陳」の明治まで続く由緒ある藩です。 この京極家陣屋跡は、初代藩主高通が城砦の必要が無くなった吉原山城(権現山山頂付近、一色・細川・京極三氏の城地として約五百年間続いた山城)を廃し、 居館をかまえた場所(御陣屋)で、以来藩政の拠点として明治まで続きました。
 (羽衣ステーション、京丹後市観光協会)
林道権現山線
幅員4.0m 延長L=1,330m
坂道のすぐ先から、幅の広いが右へ分かれていきます。 脇に生える大きなエノキを過ぎて石段を登っていくと、平らな所に「吉村伊助君紀功碑」の大きな石碑がありました。 エノキの解説板によると、ここも京極家陣屋跡に含まれるようでした。 右側の畑地の奥にはが少し見えました。
峰山陣屋跡 エノキ
区 分天然記念物
分 類ニレ科エノキ属
胸高幹周4.43m
樹 高約15m
 (京丹後市教育委員会)
参道入口
林道に戻って登り始めると、左へ曲がっていきます。 曲がり角から幅の広いが分かれていきます。 脇には「権現山京都府歴史的自然環境保全地域」と題した案内板があって、今回歩くルートのが載っていました。 隣には「権現山パンフレット」と書かれたがあります。 中にパンフレットが入っていたので、一枚貰っていきました。 パンフレットには、解説や案内板と同様のイラスト図が載っていました。 林道は左へ曲がっていきますが、正面に続く階段を登っていきます。 登り始めたすぐの所に「」(*)があり、 「参道入口」のも立っていました。
*案内図からすると、入口の標識にあった「峰山城跡」は先ほどの畑地を指しているようです。
権現山京都府歴史的自然環境保全地域
権現山は、古くから山そのものが信仰対象であり、14世紀末頃には、吉原山城が築かれるとともに、蔵王権現が祭られてきました。 指定地域は、この権現山の山頂及びその東方部で、常緑広葉樹林、落葉広葉樹林等のすぐれた天然林が見られるなど古くから自然が保持されており、 市街地に接しているにもかかわらず、貴重な存在となっています。 また、これらの自然環境が吉原山城跡等の歴史的遺産と一体となって歴史的風土を保持しています。 このようなすぐれた歴史的自然環境を不眠の財産として守り、育てていきましょう。
 (平成元年3月24日指定 京都府)
権現山
権現山は古くは山祇山と呼ばれ農耕の神としてあがめられていました。 14世紀末頃には、吉原城が築かれ、信仰対象として蔵王権現が祭られました。 その後、焼失しましたが、蔵王権現は本丸跡に再興され、今は金峰神社奥宮に受け継がれています。 この山は、これらの歴史的背景の中で育まれ、自然が保持されてきました。 二の丸跡からは日本海が望め、町民の憩いの森として、また、手軽なハイキングコースとして親しまれています。
 (出典:パンフレットより抜粋)
大手道入口
横木の階段を登っていくと、左側の土手の上流にはがあります。 右側からはからの道が合流してきます。 雑木林を過ぎて植林地へ入っていきます。 緩やかな道を進んでいくと、すぐに僅かな谷筋にある分岐に着きます。 角にはが立っていて、 右の道は「大手道から二の丸広場」、左の道は「善明砦から二の丸広場」となっています。 傍には「権現山」の解説板もありました。 右の道には「大手道入口」の標柱が立っていますが、今回は左側のを登っていきます。
権現山
権現山周辺は、気象条件などから、暖温帯の植生分布域と考えられています。 地域内の植生は、渓流沿いに古くに植栽されたスギ、ヒノキの巨木が見られるほか、 権現山山頂部から南斜面にかけて分布するスダジイ林や、林道に沿った尾根筋の一部ではモミ林なども見ることができます。 また、地域中央の三の丸東側の尾根部には、アベマキ、コナラを主とする落葉広葉樹林が分布しています。
 (高ニ文化の基金、京都府)
尾根の左斜面に続く道を緩やかに進んでいきます。 隣の谷筋に出るとが架かっています。 右側にはがありました。 木橋を渡って、谷筋に続くを登っていきます。 再び現れる複数のの左側に続く階段を登っていきます。 階段が終わって、その先の坂道を登っていきます。 大きな杉が目立つようになると、「権現山」の解説板がありました。
権現山
渓流沿いに見られるスギ、ヒノキの大木は、大部分が古くに植栽されたものです。 なかには、幹周が2〜4mを超えるものもあり、年輪から、19世紀初頭の文化年間に京極氏によって植えられたものと考えられています。 周辺一帯の樹林は、現在は峰山財産区の所有地として管理され、権現山のシンボルとして大切に保全されています。
 (高ニ文化の基金、京都府)
道なりに少し右へ曲がりながら登っていくと、が現れる所で左へ曲がっていきます。 柵沿いに登っていくと、道が左右に分岐しています。 道標類はないかと辺りを見回してみますが見当たりません。 今回の散策で道を悩んだ唯一の所です。 右へ曲がっいくに沿って道が続いていますが、 取り敢えずを進んでみました。
尾根の左斜面を巻くようにして登っていくと、1分ちょっとで舗装された林道に出ました。 参道入口から分かれてきた林道権現山線になるようです。 出た所には「権現山京都府歴史的自然環境保全地域」のが立っていました。 樹間から僅かにが見えました。 参道入口にあったと睨めっこしてみるに、 手前の分岐からここまでの道は、参道林道権現山線との間に階段状に描かれている最初の道のようでした。
往復3分ほどで手前のまで引き返してきて、 沿いに続く道を登っていきます。 1分半ほど登っていくと分岐があります。 参道入口から13分ほどの所になります。 ここにはが立っていて、 正面の道は「二の丸広場・本丸跡」、左の階段は「善明砦・駐車場」、今来た道は「入口広場」となっています。 は、イラスト図で参道林道権現山線との間に階段状に描かれている2番目の道のようでした。
10段ほどの階段を登り切ると、小広い所に出ました。 正面すぐの所には、舗装された林道権現山線が通っています。 出た所には「権現山京都府歴史的自然環境保全地域」の標柱が立っていました。 林道の右側にはがありました。 脇には「ここから先への車の乗入れはご遠慮下さい!」の看板が倒れていました。 辺りは車を何台か置いておけるになっていましたが、 ここまでは車で登ってきても良いということでしょうか。
善明砦
左側にはこんもりとしたがあります。 そこへ続く石段があったのでちょいと登ってみると、平らな所になっていました。 脇にはが設置されていました。 標識類は見かけませんでしたが、ここが先ほどの道標にあった善明砦だと思われます。
合わせて4分ほどで手前のまで引き返して、 道標「二の丸広場・本丸跡」が指すを登っていきます。 間隔の広い石段を登っていくと、「権現山」の解説板がありました。
権現山
吉原山城は、14世紀末に一色氏によって本格的な築城が行われましたが、 天正10年(1582)一色氏の滅亡により細川興元が入城しました。 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、京極氏が丹後の領主となり、 京極高通が分封されて峰山藩一万石を治めましたが、城は再建されず、麓に陣屋を築きました。 今でも、吉原山城の本丸、二の丸、三の丸、善明砦、搦手口などの跡が良好に残っています。
 (高ニ文化の基金、京都府)
石段を更に登っていくと、正面にが見えてきます。 道なりに左へ曲がって登っていくと、は終わりになります。 尾根の左斜面を緩やかに登っていくと、正面にこんもりとしたが近づいていきます。 右側にある平らな所を見送っていくと、尾根に窪みが現れます。
窪みを登っていくと、五叉路になった鞍部に着きます。 林道へ出る寄り道や善明砦の立ち寄りの7分も含めて、参道入口から20分ほどで登って来られました。 中ほどにはが立っていて、 は「大手道から入口広場」、 は「本丸跡」、 は「駐車場・便所」、 今来た道は「善明砦から入口広場」となっています。 左の脇には向こう側を向いたが立っていて、 「右 吉原山城 二の丸跡」「左 吉原山城 本丸跡」となっています。 先ずは、標柱の脇から戻るようにして登っていく石段の上にある二の丸跡へ向かいました。
石段をひと登りして広くて平らな所に出ると、正面にが建っていました。 左側が少し開けていて、樹木に邪魔されながらもが見えました。 傍には「権現山」の解説板もありました。
権現山
地域内のシイ林は、ヤブコウジ−スダジイ群集にあたるものと考えられ、 近畿地方の日本海側で見られる典型的な常緑広葉樹林となっています。 林内には、優占種のスダジイに加え、一部にヒノキ、シラカシ、イヌシデ、アベマキなどが混生し、 樹高約20m、胸高直径約60cm前後のスダジイの巨木も数多く見られます。
 (高ニ文化の基金、京都府)
二の丸跡
右の方へ進んでいくと、中ほどにがあります。 その先へ進んでいくと、一段高い所に着きます。 手前には「権現山」の解説板と「京都の自然二百選」の標柱がありました。 ここが二の丸跡になるようです。 の先へ出てみると、を眺められる景色が広がっていました。 正面に見える街並みは、方角からするとでしょうか。 傍には、東・西・南・北を指すもありました。
権現山
この広場は、天正年間の細川氏の頃の吉原山城の二の丸跡にあたります。 当時、郭の外にはカエデ類が多く植えられていたことから、細川興元の妻が「紅葉が岡」と名付け、 日本海をながめて心のやすらぎとしたと伝えられています。 また、大正13年にこの広場周辺の整備が行われた際には、焼米などが出土しました。
 (高ニ文化の基金、京都府)
「京都の自然二百選」権現山
美しい自然 大切な自然を 永く子孫に伝えよう
平成7年3月27日選定
 (京都府)
権現山
五叉路になったまで引き返してきて、 道標「本丸跡」が指す道を登っていきます。 正面の高みを右から巻くように登っていくと、すぐにが見えてきます。 正面から登ってくる道もありますが、左にある石段をひと登りすると、鳥居の先に社殿が建っています。 これが金峰神社奥宮になるようです。 「権現山」の解説板もあって、ここが権現山の山頂である本丸跡になるようです。 「開墾本丸址 植 櫻 楓 樹」のもありました。 社殿の裏側へ出てみると、樹木に邪魔されながらも、北西から北東にかけての山並みが見えました。
権現山
権現山は、古くは山祇山と呼ばれ、和泉式部が参詣し、歌を詠んだと伝えられています。 14世紀末頃の一色氏の吉原山城築城にあたって、蔵王権現社のある頂上付近に本丸が置かれました。 吉原山城は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の後、京極氏の領有となりましたが、城は再建されませんでした。 また、本丸に祭られていた蔵王権現社は、明治2年に金峰神社と改称されましたが、 今もこの山は権現山と呼ばれ、親しまれています。
 (高ニ文化の基金、京都府)
三の丸跡
五叉路になったまで引き返して、 道標「大手道から入口広場」が指す右の道を進んでいきます。 すぐの所の樹木に、右の道を指す「三の丸跡・モジミの広場」が寄り掛かっていました。 本丸跡の左斜面に続く道を進んでいくと、すぐにこんもりとしたがあります。 高みを巻くようにして続く道もありますが、手前から高みへ登っていくと三の丸跡に着きます。 「三の丸跡」と題したと石仏がありました。 目の前には、二の丸跡本丸跡よりも開けた眺めが広がっていました。
高みを取り巻く道に降りて、そこからのも確認していきました。
五叉路になった鞍部に着いてから合わせて22分ほど居た山頂部を後にして、三の丸跡から南東へ延びるを降っていきます。 尾根の左斜面を横切るように降っていくと、2分ほどで緩やかになった所に出ました。 右側には、戻るようにして登っていくがありました。 試しに歩いてみると本丸跡の鳥居の所に続いていましたが、あまり歩き易い道ではありませんでした。 周囲には緩やかな所が何箇所かありましたが、曲輪などがあった所でしょうか。 往復7分ほどで寄り道を終えて、正面に続くを降っていきました。
程なくして現れる丸太の手摺りが設置されたを降っていきます。 階段を降り切るとのようになっていました。 正面に僅かに登って、緩やかになった広いを進んでいきます。 周囲の樹木の袂には、樹木の名前と簡単な解説文が書かれた小板を幾つも見かけました。 そんな小板を読んだりしながら進んでいくと、傾斜が増して横木の階段が始まる所に「権現山」の解説板がありました。 寄り道の7分も含めて、三の丸跡から12分ほどの所になります。
権現山
権現山に見られる落葉広葉樹林は、ナラ型二次林に位置づけられるコナラ・アベマキ林と考えられます。 この落葉広葉樹林では、常緑広葉樹林と林床に見られるスダジイ、シラカシ、ヤブコウジなどの植物と、 アカマツ林に見られるヒサカキ、コバノミツバツツジ、ネジキ、ヤマツツジなどが混在し、 低木層や草本層の出現種数が非常に多いことが特徴となっています。
 (高ニ文化の基金、京都府)
右へ曲がりながら続くを降っていきます。 階段を降り切って緩やかになった道を進んでいくと道標が立っていて、 この先の道は「入口広場」、今来た道は「大手道から二の丸広場」となっています。 先ほどの解説板から1分ほどの所になります。 道標のすぐ先にはが設置されていました。 ここで道は尾根の背を少し外れて、に続く横木の階段を降るようになります。
尾根の右斜面に続くを淡々と降っていきます。 階段が終わって、歩き易くなったを降っていきます。 植林地になって、再び現れるを曲がりながら降っていきます。 左へ曲がって降っていくと、青いシートが敷かれた谷筋に降り立ちます。
大手道入口
道なりに右へ曲がって、植林地になったを緩やかに降っていきます。 水切り溝を跨いだりしながら降っていくと、最初に登って行った参道との分岐になった大手道入口に着きます。 寄り道の7分も含めて、三の丸跡から19分ほどで降りて来られました。
参道入口
植林地の先の僅かな雑木林を抜けていくと、が見えてきます。 紀功碑への道を左に分けて横木の階段を降っていくと、最初の参道入口に着きます。 ここから山頂へ向かってから、寄り道などの14分も含めて63分ほどで戻って来られました。
吉原バス停
京極家陣屋跡への坂道を左に分けて、を過ぎていきます。 水路沿いのを真っ直ぐに進んでいきます。 左右に通るに出ると、 横断歩道を渡った右側すぐの所に吉原バス停があります。
金峰神社
家路につく前に、100mほど南にある金峰神社に立ち寄っていきました。 府道17号を軽く降っていくと、「献燈 金峰神社」の大きなと「桜尾公園」の解説板があります。 その間の道に入って石段を登っていくと、左側に「金峯神社」の扁額が掛かるがあります。 鳥居をくぐっていくと、本殿と拝殿から成る社殿がありました。 以前は権現山の山頂にあったものを、昭和5年にここへ遷宮したとのことです。 左側にはがありました。 鳥居を見送ってを登った先から、 余り歩かれていない様子の広めの道が背後の高みへと続いていました。 解説板にある「桜尾公園」へ続いているように思えましたが、訪ねるのは省略しました。
桜尾公園
明治44年(1911)金刀比羅神社勧請百年祭記念に、町内の有志が、この丘一帯を清掃して桜尾公園と名付けました。 この丘は、細川興元の武将正源寺大炊介の出張りの吉原城の砦跡で、 天正11年(1583)の春、大炊介が吉野から桜の苗木を多数とりよせてここに植えました。 花見に訪れた細川幽斎は、和泉式部が山祇の神に参詣し、男を恨みて ”悪しかれとおもはぬ山の峯にだに 多ふなる物を 人の心は” の歌をよんだ昔のことを思い出し、この峰に記念碑を建てたと言われていますが、 その後、元禄年間に峰山藩主四代京極高之公が多くの桜を植え、石塔婆を他の地から移築しました。 当時の桜は枯れて、おい繁った森の中に、石塔婆だけが和泉式部の歌塚として残っています。 山頂に、明治維新以降の戦死者の霊をまつる忠魂碑があり、 ふもとの金峰神社は、丹後震災直後の昭和5年5月吉原山(権現山)山頂から遷宮したものです。
 (京丹後市教育委員会)