概 要 |
おおやぶ歴史の森は、養父市大藪地区に広がる古墳群のある森で、「ひょうごの森百選」にも選ばれています。
森には広めの散策路が設置され、道標も立っています。
かつて大藪城が築かれていた191m峰もあります。
今回は大藪城跡である191m峰へ登ってから、麓に広がる古墳群などを巡っていきます。
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起 点 |
養父市 大藪地区
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終 点 |
養父市 大藪地区
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大藪地区…四叉路…191m峰(大藪城跡)…四叉路…北谷池…十字路…展望休憩所…野塚3号墳…車止めゲート…禁裡塚古墳…八柱神社…こうもり塚古墳…塚山古墳…泉光寺…大藪地区
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所要時間 |
2時間10分
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歩いて... |
大藪城跡である191m峰への道標類は見かけませんでしたが、
登山口から山頂まで赤テープが取り付けられていてルートを示しているようでした。
案内図には北側から塚山古墳へ続く道が描かれていますが、
現地ではしっかりと閉ざされた金網柵が設置されていて通過できませんでした。
案内図に載っていない展望休憩所もありました。
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関連メモ |
今のところ、関連メモはありません。
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大藪地区
豊岡の市街地から国道312号を南下し、上小田北交差点から県道2号に入って、円山川の右岸を更に南下していきます。
千石橋交差点を左折して、左右に広がる田んぼの中に続く道を真っ直ぐ進んでいきます。
大藪川沿いのに突き当たると、
脇に「大藪古墳群案内図」と題したがあります。
そこから案内図に載っている右上の「トイレ」へ向かっていきます。
民家の前に架かる小橋を渡って、道なりに曲がりながら登っていきます。
八柱神社やこうもり塚古墳の横を過ぎていくと、カーブミラーの立つがあります。
電柱の袂には小さな道標「案内板・トイレ0.2km」が立っていて、左へ登っていくを指しています。
道標に従って狭い道を真っ直ぐ登っていくと、右側に広い駐車スペースがあったので、ここに車を止めさせてもらいました。
大藪古墳群案内図
大藪古墳群は、およそ1400年前の6世紀後半から7世紀前半にかけて築造された古墳群です。
東西2km、南北1kmの範囲に約150基の古墳が群集しています。
養父市大藪付近に但馬最大の豪族がいた証拠として、北近畿でも有数の大型の横穴式石室が残っています。
大型の石室をもつ禁裡塚古墳・塚山古墳・西ノ丘古墳・こうもり塚古墳の4基は兵庫県指定文化財で、
野塚古墳群19基、道林古墳群28基は養父市指定文化財です。
(平成17年3月10日 養父市教育委員会)
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駐車スペースのすぐ先にはトイレがありますが、この時には入口が封鎖されていました。
先ほどの案内板によると、1月から3月の期間は閉鎖のようです。
トイレのすぐ先に「おおやぶ歴史の森案内」と題した案内板があって、
「」が載っています。
案内図に載っている大藪城跡を訪ねてから、麓にある古墳群を巡ることにしました。
案内板の左にあるの扉を開け、
を渡って植林地へ入っていきます。
おおやぶ歴史の森案内
大藪には大藪古墳群だけでなく、戦国時代に改修整備された大藪城跡、江戸時代に出石藩から独立した大藪陣屋跡、
旗本小出家の菩提寺の泉光寺などがあり、様々な歴史を伝えています。
平成7年に里山林整備事業で大藪集落の北西部に広がる森林や遊歩道を整備しました。
●大藪古墳群(6世紀後半から7世紀中頃)
大藪集落を中心とする東西2kmの範囲に約150基の古墳が造られています。
その中で大型古墳といわれる4基が兵庫県指定文化財です。
禁裡塚古墳・塚山古墳・西ノ岡古墳・こうもり塚古墳の順番に造られました。
この他にみ、野塚古墳群19基や道林古墳群28基があります。
大藪古墳群の価値は、但馬最大の横穴式石室をもつ禁裡塚古墳があることに加え、
大型の石室が4基も継続して造られていることです。
この時期、大藪・養父市場・藪崎付近に但馬最大の政治権力があったとする説があります。
●大藪城跡(天正5年・1557)
集落の北西、塚山古墳の北約500mの尾根上にあります。
標高は191m、城域は東西・南北ともに170m。
主郭から2方向に6段から7段の曲輪を配置し、堀切・堅堀を要所に設置して守りを固めています。
天正5年(1557)羽柴秀長の第1次但馬攻めによって廃城になりました。
●大藪陣屋(元禄15年・1702)
寛文9年(1666)出石藩主小出吉重が弟の小出英信に2千石を分け与えて旗本大藪小出家が始まりました。
陣屋は元禄15年に大塚から大藪に移転しました。
集落内の北東部に位置し、東西80m・南北150mの敷地がありました。
●泉光寺の句碑(弘化3年・1846)
泉光寺は臨済宗妙心寺派で、旗本大藪小出家第2代英輝が建立しました。
再建された本堂のほか、江戸時代に建てられた観音堂・山門・庭園があります。
境内にはコウノトリを浮き彫りで刻んだ「相なれて、三日千寿の別れか那」という句碑があります。
大藪小出家の代官を務めた大島貞利が弘化3年(1846)に作りました。
(平成21年11月 大藪古墳群保存会)
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植林地を1分ほど進んでいくと、勢いよく水が流れる小さな沢にが架かっています。
木橋を渡った数m先から左へ続くを登っていきます。
1分半ほど登った所から道なりにV字形に右へ折れ曲がって更に登っていくと、
緩やかになったに出ます。
右下からの沢の音を聞きながら尾根を進んでいくと、同程度の広さの道が左側からしてきます。
道標類は見かけませんが、北谷池から東へ続く道(ルート図には緑色で表示)になります。
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四叉路
左からの道を合わせて、正面に現れるへ入っていきます。
緩やかに降っていくと、広めの道が三方向に分かれる四叉路に出ます。
ここにも道標類がなくて迷うところですが、に登っていく道を進んでいきます。
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植林地と雑木林の境界に続く広めの道を1分ほど登って露出した岩の所まで来ると、
左の雑木林の尾根に登っていくがあります。
広めの道は更にこの先へ続いていますが、ここが191m峰への登山口になります。
駐車スペースから10分ほどで着きました。
道標類が欲しいところですが、ここでも見かけませんでした。
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10段ほどの階段を登って、右へ続くを登っていきます。
尾根には僅かな踏み跡が続いていました。
落ち葉が積もったり倒木などもあって道が分かり難い所もありましたが、
ルートを示すかのように所々にが取り付けられていたので、それらを確認しながら進んでいきました。
尾根の背から少し外れたり尾根の背に出たりしながら、雑木林の尾根を登っていきます。
見晴らしは得られませんが、下草などは生えていないので、苦労することもなく登っていけました。
7分ほど登っていくと、正面に高みが迫ってきます。
かなり傾斜のあるこの尾根を登るのかと思っていると、尾根の左肩へと踏み跡が続いていました。
曲がり角の樹木にはが巻かれていました。
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尾根の左肩を2分ほど進んでいくとが現れます。
崩れそうな所もある階段を登って稜線が迫ってくると、道は曲がっていきます。
左側の樹間からはなどが見えました。
に登って左・右と曲がっていくと、
を過ぎた先で尾根の背に出ました。
左側には山頂へ続く横木の階段がありました。
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191m峰(大藪城跡)
階段を登り始めると、赤テープが巻かれた樹木の先にはが張られていましたが、
それほど必要な様子ではありませんでした。
一旦途切れてから右側に続くに沿って登っていくと、
真ん中に露出した大きな岩がある小広くなった所に着きました。
ここが地形図に載っている191m峰になるようです。
登山口から13分ほどで登って来られました。
ここにはかつて大藪城があったようですが、石垣などの遺構は見かけませんでした。
周囲には樹木が茂っていて展望は良くありませんが、ひと休みしていきました。
正面にはの立つ山が見えていましたが、
方角からすると、381.1m峰の南東にある標高410mほどの高み(舞狂山)でしょうか。
後日に舞狂山に登りました。
ここから見える電波塔は、NTT DoCoMoの舞狂無線中継所になります。
山頂よりも少し下の標高400m辺りに立っていました。
それ以外にも、山頂周辺には電波塔が幾つか立っていました。
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四叉路
落ち着いたところで、大藪城跡から元来た道を降っていきます。
途中で道が分からなくなったので、左右を探したりしながら降っていきました。
登り時よりも3分ほど多い時間をかけて登山口まで降りられました。
広めの道を右へ降っていくと、すぐに四叉路に出ます。
元来た左前方の道は見送って、正面の谷筋に続く広めの道を降っていきました。
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北谷池
谷筋のに続く広めの道を降っていきます。
3分ほど降って植林地が終わるとが見えてきます。
かなり大きなを眺めながら進んでいくと分岐があります。
角にはが立っていて、右の道は「展望休憩所0.8km」、
左の道は「案内板・トイレ0.3km」となっていて、正面の道や今来た道には何も示されてはいません。
道標の傍に立つ看板によると、このため池は北谷池というようです。
ここは展望休憩所へ向かって、右へ続くを進んでいきました。
ため池クリーンキャンペーン記念
あー生きカエル
養父市大藪「北谷池」
平成18年10月21日
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北谷池の放水路に架かるを渡って、再び植林地へ入っていきます。
階段状に設けられたを眺めながら、植林地に続くを進んでいきます。
北谷池にあった分岐から5分ほど進んでいくと、小さな沢に架かる木橋を渡っていきます。
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十字路
木橋を渡ってすぐに曲がっていきます。
30秒ほど登って折れ曲がり、尾根の右肩を登っていきます。
木橋を渡ってから3分ほど進んでいくと、木が伐採されたに出ました。
周囲には丸い古墳状のものが沢山ありました。
左へ曲がりながら進んでいくと、広めの道が通る十字路に出ました。
正面にが立っていて、正面の植林地へ続く道は「展望休憩所0.5km」となっています。
左右の広めの道には何も示されてはいませんでしたが、案内図によると、右側の道沿いには野塚古墳群があるようです。
ここは、展望休憩所へ向かって、正面の植林地に続く道を進んでいきました。
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植林地を進んでいくと、小さな沢に架かるを渡っていきます。
植林地を抜けて、明るいを進んでいきます。
再び植林地になってくると、何段にも設置されたに沿って進んでいきます。
植林地が終わると、樹木が伐採されたに出ます。
前方に山並みを眺めながら、緩やかに降っていきます。
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展望休憩所
次第に広がってくるなどを眺めながら、明るい斜面を道なりに降っていきます。
下の方に見えてくる東屋のようなものへ向かって降っていくと、
先ほどの十字路から9分ほどでに着きました。
標高は低いものの、正面には山並みや田んぼなどを見渡せるが広がっていました。
これまでに見かけた案内図にはこの休憩所は載っていないし、この辺りで道が不明瞭になったので、
眺めを確認しただけで引き返すことにしました。
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西ノ岡古墳
後日に確認してみると、展望休憩所から麓まで降りていく小径がありました。
左に生える桜の木の脇にあるの方向へ進んでいくと、右へ降っていく畦道があります。
その道を降って竹林の傍に着き、少し明瞭になった道を降っていきます。
金網柵沿いを降って、左にある建物への道を見送っていくと、作業小屋の手前にがあります。
角には道標が立っていて、右の道は「西ノ岡古墳0.2km」、今降ってきた道は「展望休憩所0.3km」となっています。
道標に従って右の道を進んで植林地になってくると、「西ノ岡古墳」のが立っています。
そこから石垣沿いに左へ進んでいくと西ノ岡古墳があります。
に入れるようになっていますが、入口から様子を覗うだけにしておきました。
分岐に戻ってその先へ降っていくと、すぐにに架かるコンクリート橋があります。
橋を渡って金網柵を開けて道路に出ると、正面に「西ノ岡古墳」の標柱があり、
左側に「展望休憩所0.3km」の道標が立っています。
ルート図には緑色の線で示しておきます。(所要時間には含めず)
県指定文化財 西ノ岡古墳
指定年月日 昭和63年3月22日
所有者・管理者 坂本宏
北から南に下がるゆるやかな斜面に造られた古墳である。
外形は円墳で、規模はかなり損なわれているためはっきりしないが、径約32メートルとも、あるいは径22メートルとも考えられている。
横穴式石室は両袖式で東に開口し、全長13.6メートル、玄室の長さ5.0メートル、幅2.6メートル、高さ3.0メートルである。
奥壁は巨石を2段に積んでいる。
羨道は、入口部がこわされていて、石もわずかしかないが、羨道の長さが玄室よりも長いのが特徴である。
古墳が築かれたのは、古墳時代後期の7世紀初頭と考えられている。
(平成7年2月 兵庫県教育委員会)
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野塚3号墳
展望休憩所から手前のまで引き返してきます。
右へ続く広めの道を降っていくと、1分もしない所にが立っていて、
正面の道は「禁裡塚古墳0.3km」、右の道は「展望休憩所0.5km」、左の道は「案内板・トイレ0.7km」となっています。
左右に道らしきものは見かけませんでしたが、僅かな踏み跡があるのかも知れません。
道標を過ぎていくと、すぐの所に古墳があります。
標識類は見かけませんでしたが、これまでに見かけた案内図によると野塚3号墳というようです。
向こう側に回ってみるとの入口がありました。
中に入れるようになっていましたが、入口から様子を覗うだけにしておきました。
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車止めゲート
古墳を後にしてその先へ降っていくと、「野塚支群」のが立っていました。
大きなを過ぎていくと車止めゲートがあります。
金属製の太いパイプを横にずらし回転式レバーを回して通過していきました。
金網柵沿いに降っていくと、すぐの所にがあります。
角には道標が立っていて、右の道は「禁裡塚古墳0.1km」、今来た道は「野塚古墳群0.2km」となっています。
広めの道は正面へ続いていますが、禁裡塚古墳へ立ち寄っていくことにしました。
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禁裡塚古墳
小さなを過ぎていくと、僅かな沢にが架かっています。
木橋を渡った先を左折していくとがあります。
その手前を右折して、すぐにある木橋の手前を左折していくと、右前方にこんもりとしたが見えてきます。
どこが道だか分からなくなった畑地を進んでいくと禁裡塚古墳がありました。
野塚3号墳から9分ほどで着きました。
少し上側にがあって入れるようになっていましたが、ここでも入口から様子を覗うだけにしておきました。
古墳の上に石碑のようなものが見えたので、笹を掻き分けて登ってみると、
ひこばえが伸びたなのでした。
県指定文化財 禁裡塚古墳
指定年月日 昭和61年3月25日
所有者・管理者 吉井誠一
南に伸びる小尾根の先端に造られた古墳で、東西約32メートル、南北約34メートルのやや楕円形をした大型の円墳である。
横穴式石室は両裾式で東に開口し、全長12.5メートル、玄室の長さ5.9メートル、幅3.0メートル、高さ3.5メートルあり、
但馬最大規模を誇る。
玄室壁面には、赤色顔料(ベンガラ)が塗られたおり、装飾付須恵器の破片も出土している。
古墳時代後期の6世紀後半に築かれた但馬を代表する古墳である。
大藪には大型の古墳が集中しているところから、付近に但馬最大級の政治権力(首長)の存在が考えられている。
(平成5年11月 兵庫県教育委員会)
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道標の立つ分岐まで引き返して、広めの道を降っていきます。
を過ぎてに出ると、梅の花が仄かな香りを漂わせていました。
「道林支群」のを過ぎていくと、車で駐車スペースへ向かっていった道路に出ます。
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道路を左へ進んでいくと、すぐの所にがあります。
左へ分かれていく道は北谷池へ続いているようなので、
池の東側から塚山古墳へ向おうと思って、を進んでいきました。
山際まで進んでいくと、右へクランク型に曲がっていきます。
植林地を軽く登っていくと、先ほどと同様のがあります。
金属製の太いパイプを横にずらし回転式レバーを回して通過していくと北谷池に戻ってきました。
ここから右前方へ続く道を登っていきます。
右へ折れ曲がっていくと金網柵が続くようになります。
四叉路へ向かっていった道の途中に出るを見送って金網柵沿いに進んでみても、
一向に右下に見えている古墳への道がありません。
はありましたが、かなりしっかり閉じられていたので、
通過するのはあきらめて引き返すことにしました。
ルート図には緑色の線で示しておきます。(所要時間には含めず)
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八柱神社
北谷池への道を見送って、最初に車で通った道を辿っていくと、曲がり角の右側にがあります。
大藪子ども会集会所の脇を過ぎていくと広場になっていました。
そこから右へ回り込んでいくと社殿がありました。
社殿にも鳥居にも扁額が掲げられておらず、由緒を記したものは見かけませんでしたが、
これまでに見かけた案内図によると八柱神社というようです。
塚山古墳への道の探索時間は除いて、禁裡塚古墳から9分ほどで着きました。
社殿の左側には大小のが3つほどありました。
名前を記していると思われる木札もありましたが、文字は判読できませんでした。
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こうもり塚古墳
八柱神社を後にして道路を更に1分ほど進んでいくと、左側にこうもり塚古墳があります。
正面に石室があって中に入れるようになっていましたが、ここでも様子を覗うだけにしておきました。
古墳の上にはが二つ建てられていましたが、名前などは分かりませんでした。
県指定文化財 こうもり塚古墳
指定年月日 昭和63年3月22日
所有者・管理者 久保田智恵他7名
こうもり塚古墳は、山麓の平坦部に造られた古墳で、外形はかなり損なわれているが、
長辺約28メートル、短辺約23メートルを測る大型の方墳と考えられている。
横穴式石室は右片裾式で南東に開口し、全長12.4メートル、玄室の長さ7.1メートル、幅1.8メートル、高さ1.8メートルある。
奥壁は巨石を2段に積んでいる。
古墳が築かれたのは、古墳時代後期の7世紀前半と考えられている。
なお、背後の山には塚山古墳があり、大型の古墳が隣接して造られていることから、
2つの古墳の被葬者には非常に密接な関係が推測される。
(平成5年11月 兵庫県教育委員会)
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塚山古墳
こうもり塚古墳の右側から奥へ進んで右へ曲がり、畑地の脇を進んでいくと、
左側に「養父町指定文化財 史跡 大藪古墳群 塚山古墳」のが立っています。
その上の方には解説板も見えていました。
左へ戻るようにして続く山道を登っていくと解説板の前に出ます。
その少し上に古墳があります。
右から回り込むようにして登っていくとの入口がありましたが、
ここでも中の様子を覗うだけにしておきました。
県指定文化財 塚山古墳
指定年月日 昭和63年3月22日
所有者・管理者 久保田日出男
南に伸びる尾根の先端に造られた古墳で、墳丘は、南北約30メートル、東西約24メートル、高さ8メートルの円墳と考えられているが、
南北約46メートルの大型方墳とみることも可能である。
横穴式石室は両袖式で南東に開口し、全長11.2メートル、玄室の長さ4.8メートル、幅2.5メートル、高さ3.6メートルある。
奥壁は3段の石積みで、玄室の天井には巨石1枚が使われている。
石室壁面には、赤色顔料(ベンガラ)が塗られている。
古墳が築かれたのは、古墳時代後期の6世紀後半と考えられている。
(平成7年2月 兵庫県教育委員会)
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道路まで引き返して、その先へ進んでいきます。
駐車スペースに向かっていった分岐を見送っていくと、大藪の集落から来る道がしてきます。
その道を合わせて大藪川沿いに進んでいくと、すぐの所に左へ分かれていく石段混じりの道があります。
脇には「泉光寺案内」と題した解説板があります。
すぐ先には道端が広がってのようになった所がありますが、
ここから泉光寺へ向かっていきます。
泉光寺案内
この寺は臨済宗妙心寺派の清滝山泉光寺といい、大藪代官大島氏の菩提寺として建立されたが、
本堂は今はなく、ただ山門と観音堂が、当時のままの姿で現在に至っている。
本堂は再建され、平成十年四月落慶した。
○観音堂
本尊は馬頭観世音菩薩
但馬三十三霊場第九札所
三十三体の観音像を安置
○水天宮社
水害を防ぎ豊穣祈願のため天保三年建立。
又、水難除けの神としても信仰が厚く、全国にも稀な社である。
毎年四月五日が祭日である。
○水子地蔵
折角天から授った尊い生命を、この世に生かすことのできなかった幼い霊をここにまつる。
○こうの鳥の碑
弘化三年丙午三月建立
(昭和57年7月)
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泉光寺
石段混じりの道を登っていくとが現れます。
石垣が現れて幅の広い石段を登るようになると、綺麗な前掛けをした六地蔵が納められたがありました。
お堂の中には「大乗妙典一字一石」と刻まれた石碑や丸い石もありました。
前には「いろいろに さくとも黒し 桜の実」の歌を記した板もありました。
へ続く石段の手前まで来ると、
左側に「右 代官 大島家の墓」「左 代官 森島家の墓」と書かれたがありましたが、
墓を詮索するのは止めておきました。
「清滝山」の扁額が掲げられた山門をくぐっていくと、まだ新しさの残る泉光寺の本堂がありました。
塚山古墳から10分ほどで着きました。
本堂の左側にはがあり、右側には庫裡と思われる建物がありました。
観音堂の右側には、コウノトリを浮き彫りで刻んだ
「あいなれて みっかちとせの わかれかな」
のなどが並んでいました。
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大藪地区
本堂の左側から境内を出て降っていくと、
「清瀧山泉光寺」「但馬西国第九番霊場」と刻まれたが立っています。
石柱を過ぎていくと左右に通る広めの道に出ます。
右側のすぐ先には、これまでと同様の車止めゲートがありました。
左へ道なりに降っていくと、最初の案内板やのある所に戻ってきました。
トイレを過ぎていくと、車を止めておいた駐車スペースに着きます。
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