大向自然歩道
概 要 大向自然歩道は京丹後市久美浜町にある海岸線に沿った歩道です。 久美浜湾の入口から海面の数10m上を通って、大向地区から蒲井地区へ続いています。 今回は大向展望台のある小山に登って小天橋などを眺めてから、自然歩道を通って蒲井地区へ向かっていきます。
起 点 京丹後市久美浜町 湊宮地区
終 点 京丹後市久美浜町 湊宮地区
湊宮地区…湊小橋…広峰神社…大向展望台…鞍部…切通…宝篋印塔…谷筋…ツリーハウス…湊大橋…湊宮地区
所要時間 2時間10分
歩いて... 自然歩道の西半分ほどは登り降りの繰り返しで、横木の階段が続きます。 階段には落ち葉が積もり倒木や枯れ枝も散乱して、荒れ気味になっていました。 水田のある谷筋では道が一部崩落している所もありましたが、どうにか通過することが出来ました。 車道に出る手前にはツリーハウスがあって、子供時代の冒険心を思い出しました。
関連メモ 今のところ、関連メモはありません。
コース紹介
湊宮地区
久美浜湾の西岸に続く府道49号を北進して湊大橋を渡っていくと、 右へ曲がっていく角に海水浴場駐車場があるので、ここに車を止めさせてもらいました。 入口には「ようこそ小天橋海水浴場へ」と題した案内板があって、 「」が載っていました。 この図に載っている湊小橋を渡って大向展望台へ向かうべく、車道を引き返していきます。 「」と題した案内板もありますが、 今回歩くルートの詳細はよく分からない内容でした。
湊小橋
日本海久美浜湾を繋ぐ運河状の水路に沿って進んでいくと、すぐに青い色をした湊小橋があります。 下を漁船などが通過できるようにするためか、歩行者専用の橋にしてはかなり高い所に架かっています。 橋の際にはがあります。 橋を渡っていると、から船が戻ってきました。 久美浜湾側にはが見えていました。
久美浜湾は、小天橋によって日本海と隔てられた汽水性の潟湖です。 久美浜湾日本海の間は、「水戸口」と呼ばれる幅30mほどの運河状の水路で繋がっています。
湊小橋を渡り終えると、の集落になります。 突き当たりには「防災コミュニティ倉庫」がありました。 先ほどの「小天橋施設案内マップ」には集落の左側から大向展望台へ道が描かれていますが、 今回は集落の右側から登っていきます。 集落の中に続く道を進んで水路の傍に出ると、道が二手に分かれています。 の入口には「山陰海岸国立公園」と題した案内板があって、 が載っていました。 戻るようにして分かれていくには「大向展望台」の道標が立っていて、その先に続く石段を指しています。 このまま正面へ進んでも蒲井地区に行けますが、道標の指す石段の上にある大向展望台を経ていきます。
海で遊ぶ皆さんへ…
★サザエ・アワビ・ワカメ等の魚海藻類を捕ることは禁止されています。
★「潜水器・水中銃」を使用して炊爨動植物を捕ることは禁止されています。
★違反すると法令により罰せられます。
 (湊漁業協同組合・久美浜町)
石段を登って緩やかになると、 廣峯神社」と刻まれた標柱と「廣峯神社」の扁額が掲げられたが立っています。 左には小祠などがありました。 鳥居の先に続く石段を登り、道なりに左へ曲がって更に登っていきます。 一旦階段が終わってを進んでいきます。 再び現れる8段ほどの石段を登った所に道標「自然歩道入口」が立っていて、右へ続く道を指しています。
広峰神社
道なりに右へ曲がって、正面に見えるへ向かって緩やかになった道を進んでいきます。 すぐに左からが合流してきますが、大向地区の集落の中ほどから登ってくる道になります。 その道を合わせていくと、本殿と拝殿から成る広峰神社があります。 社殿の右にはコンクリート製の祠があって、中にはが二つ納められていました。 境内には椎の巨木が茂っていて、「椎の巨木群 廣峰神社 境内地一帯」のも立っていました。 神社の由緒などを記したものは見かけませんでした。
社殿の左にある「車両乗入禁止」のを過ぎていくと、 本殿の脇のガラス張りの中に三社丸の模型が展示されていました。 傍には「三社丸 江戸時代の千石船の模型」の標識が立っています。 解説板などは見かけませんでしたが、湊宮地区蛭児神社で見かけたものを参考までに載せておきます。
千石船の由来
正親町天皇の天正10年、湊宮が時の城主一色守護の領地であった頃、 同地に五軒家(木下、本小西、浜小西、下家、新家)という回漕業を営む豪商が住み、 土地の大半はこれらの家々が屋敷として所有し、住民とは親方子方の関係を結び、 子方は全て五軒家に衣食さし持船38隻に乗り組ませて旭の港を根拠地にして外国と貿易をなし盛威を振るっていた。 寛永13年、幕府の命令で(鎖国時代であった)船の型を千石船に制限された。 それ以来国内貿易に転じ、北はエゾ松前(北海道)から西は下関(萩)兵庫(神戸)難波(大阪)江戸(東京)までをその活動の範囲と成した。 これがため、家運は以前にも増して益々繁盛し、津々浦々にその威勢を知られるところとなった。 その後寛政11年、住民が豊漁祈願と併せて五軒家の全盛時代の遺跡を記念するため、 この船の模型を土地の氏神様に奉納したものである。
 (蛭児神社)
大向展望台 (標高66m)
社殿の裏側にあるを左から巻くようにして急坂を登っていきます。 建物のを眺めながら左・右と折れ曲がりながら登っていくと、 大向展望台のある山頂に着きます。 三角点などは見かけませんでしたが、地形図に載っている66m峰になるようです。 海水浴場駐車場から19分ほどで登って来られました。 周囲にはコンクリート製のテーブルやベンチが幾つかありました。 右側が少し開けていて、の砂州などを眺めることができました。 ここから見える景色を描いたも掲示されていましたが、手前の樹木が伸びていない頃のものなのか、 この絵ほどの展望は得られませんでした。 展望台の上に登ってみましたが、手前の樹木が邪魔をしていて、眺めは展望台の下よりも広がりませんでした。
「遊歩道」の道標が指すを進んでいきます。 コンクリート製のテーブルやベンチを過ぎていくと、幅の広いを降るようになります。 曲がりながら雑木林を降っていきます。 正面にを眺めながら降っていきます。 階段が途切れてなだらかになると、コンクリート製のベンチと円柱があります。 円柱には金属製の窪みがあるので、灰皿代わりでしょうか。 同様のベンチと円柱はこの先にかけても何度か見かけたので、自然歩道に沿って設置されているようでした。
鞍部
再び現れる幅の広いを曲がりながら降って鞍部に着くと、 左右に道が通るになっていました。 道標「展望台」が立っていて、今降ってきた階段を指していました。 傍には頭の取れたが佇んでいました。 左右の道を示す道標はありませんでしたが、蒲井地区を通る府道122号に出た所で見かけた案内板によると、 大向地区の集落へ降りていかれるようです。 ここは蒲井地区へ向かってを降っていきます。
疎なに続く横木の階段を降っていくと、 目の前が開けてきて、日本海の海岸線を眺めることができるようになります。 両側に茂る笹竹の間を降っていくと、左右に通る道に出ます。 大向展望台から7分半ほどで降りて来られました。 脇には道標「大向展望台」が立っていて、今降ってきた道を指しています。 左右に通る道を示す道標は見かけませんでしたが、 広峰神社へ登っていく手前の「大向自然歩道案内図」のある分岐から分かれてきた道になります。 正面に広がるを眺めてから、 短い草が生えるを進んでいきました。
両側に笹竹が茂る広めの道を進んでいきます。 僅かな水の流れに架かる小さな木橋を渡っていくと、 大向展望台から降って来る時にあったのと同様のと円柱があります。 次第に開けてくるを眺めながら緩やかな登り坂になった道を進んでいくと、 の傍を通過していきます。 崩れた土砂が覆っている所もあったので、慎重に進んでいきました。 少し降り坂になってきた所にもベンチと円柱がありました。
やがて少し登り坂になってきます。 道が少しを過ぎていくと、僅かに降り坂になってきます。 と円柱を過ぎて植林地の縁を進んでいくと、広めの道はになります。 広めの道に降り立った所から11分ほどの所で、地形図では破線の道が途切れている辺りになるようです。 右側を振り返ると、先ほどの大向展望台のある66m峰から続く海岸線がよく見えました。
切通
尾根に向かって、を登っていきます。 少しくたびれた階段には落ち葉がかなり積もっていました。 右・左と曲がりながら5分ほど登っていくと切通があります。 前後にはが立っていて、 この先の道は「蒲井まで1km」、今来た道は「大向まで1km」となっています。 「蒲井」と「大向」がどの地点を指しているのかは不明ですが、大向自然歩道の中間地点ということのようです。
宝篋印塔
切通を過ぎて、を進んでいきます。 道を塞ぐ倒木を避けながら進んでいくと、右側にが見えてきます。 切通から1分ほど進んていくと、ベンチと円柱があります。 山側にはが二つ並んでいました。 左の石碑には「寶篋印塔」「安永八巳亥年仲秋吉日建之」「寶壽院隠居寛壽」と刻まれていました。 右の石碑にも「界」「寛壽」「益」などの文字が刻まれていました。
宝篋印塔を過ぎていくと、横木の階段を降るようになります。 階段を降り始めたすぐの所にが茂っていますが、すぐになくなって歩き易くなります。 を斜めに横切るようにして降っていきます。 倒木や枯れ枝が散乱していて、荒れ気味の所が目立ちました。 緩やかになった所を過ぎて降り始める所にベンチと円柱がありました。 宝篋印塔から5分ほどの所になります。
谷筋
僅かにを過ぎて、緩やかになった道を進んでいきます。 やがて正面が明るくなってくると、のようなが見えてきます。 何だろうと思いながら進んでいくと、少し広くなった谷筋に降り立ちます。 宝篋印塔から10分ほどで降りて来られました。 池のように見えたのは水田でした。
左右の水田の間に続くを進んでいきます。 道なりに少し左へ曲がっていくと、道がしていました。 左右は水田なので迂回することはできないし、どうしたものかと思案していると、 具合の良さそうな丸太があったので、引き寄せてその上を慎重に渡っていきました。 そのすぐ先もしていました。 今度は丸太などは見当たらないので、下に降りて渡っていきました。 幸いにも下はあまりぬかるんでいなかったので、どうにか通過することができました。
難関をどうにかクリアしていくと、小川にが架かっています。 木橋を渡った所にもベンチと円柱がありました。 その先に再び現れるを登っていきます。 木橋を渡ってから4分ほど登っていくと、小さな峠に登り着きます。 ここにもベンチと円柱がありました。
峠を越えて少し右へ曲がり、を降っていきます。 道なりに左へ曲がって、を更に降っていきます。 白いガードレールの続くが正面に見えてきた階段を降っていくと、 右へ戻るようにして小径が分かれていきます。 道標類は見かけませんが、右の小径の先に見えているへ向かっていきます。
正面に続く横木の階段を降っていくとの傍に出ますが、道はそこで途切れています。 川向こうの崖の上には更に横木の階段が続いていました。 以前には小川を渡るための木橋木梯子のようなものが架けられていたのかも知れませんが、 この時にはそのようなものは見かけませんでした。
ツリーハウス
小径を進んで広場に出ると、大きな木にが設置されていました。 小さな峠から6分ほどで降りて来られました。 幹を回るようにして設けられた板敷きのを登っていきました。 高所恐怖症なので次第に腰が引けてきますが、気を強く持って登っていくと、 一番上にはステンドグラスの窓が付いた扉のあるがありました。 簡単な留め具を外して扉を開けてみると、中には長椅子や円形のなどが設置されていました。 子供時代に憧れた秘密基地を思い出して、何だか懐かしく感じました。 大きなガラス窓の外には、手前の小さな砂浜の先に蒲井地区が広がっていました。
ツリーハウスを利用される皆様へ
みんなのツリーハウスです。 次の注意事項を必ず守って大切に使用してください。
ツリーハウスの階段やデッキでは走らないでください。 また、ふざけたり、飛び降りたりしないでください。
一度にツリーハウスを利用できる人数は10人までです。 また、最上階のハウスに一度に入れるのは5人までです。
小学校3年生以下の児童、または幼児には必ず保護者のかたが付き添ってください。
雨のあとは滑りやすいので十分注意してください。
火は絶対に使わないでください。
利用できる時間は午前9時から午後4時までとし、夜間の使用は禁止します。
事故等の責任は一切負いません。
 (京丹後市企画総務部企画政策課)
ツリーハウスを後にして、左側に立つの先の横木の階段を降っていきます。 すぐに小川の上に出ると、仮設と思われる木橋が架かっていました。 傍には「ツリーハウス」と題したがありました。 掲示文によるとツリーハウスを利用するには申込みが必要なようでしたが、 長い間占有的に”利用”した訳ではなく、ちょいと覗いただけなので勘弁してもらうことにしました。 鉄パイプ製の手摺りに掴りながら橋を登っていくと、右側にはがあり、 手前の砂浜には漂着物が打ち上げられていました。 木橋を登り切った所から振り返ると、の全容がよく見えました。
ツリーハウス TreeHouse
ツリーハウスを利用される皆様へ
ツリーハウスの利用にあたっては、「風蘭の館」において利用申込みをしてください。
・利用時間 午前9時から午後4時まで
 (京丹後市企画総務部企画政策課)
風蘭の館は、以前に湊小学校の蒲井分校だった建物を改築した京丹後市の公共施設で、 宿泊施設とお食事処などを備えています。
右下に広がるを眺めてから、左へ続く横木の階段を登っていくと、左右に通る道に出ます。 角には「ツリーハウス」の標識が立っていて、今登ってきた階段を指しています。 左右の道を示す標識類は見かけませんでした。 左の道を進んでいくと、先ほどの広場の手前にあった分岐を直進して行止りになっていた階段の対岸に出るので、 ここはを登っていきます。
程なくして現れるを登っていくと、左上に道路が見えてきます。 左に曲がって更に登っていくと府道122号に出ました。 これで大向自然歩道は終わりになります。 ツリーハウスから4分ほど、 地形図に載っている破線の道が途切れて横木の階段が始まった所から43分ほどで到着しました。 脇には「山陰海岸国立公園」と題した案内板があって、 「」が載っていました。 「自然歩道入口」のも立っていて、今登ってきた階段を指していました。
右へ降っていくと蒲井地区の集落になりますが、 車を止めてきた海水浴場駐車場へ向かって、左へ続くをひたすら歩いていきます。 10分ほど進んでが正面に見えてくると、左が開けて眺めが広がってきました。 下の方には、崩落している所を通っていったも見えました。
曲がりながら坂道を降っていくとへの登山口があります。 入口には「じじら山展望台 山頂まで500m」の標柱が立っています。 登山口を見送って広いの傍を過ぎていくと、 府道122号に出た所から23分ほどで、府道49号のに出ます。 脇には菱形の標識が立っていて、右の道は「久美浜市街5km」「豪商稲葉本家4km」、 左の道は「夕日ヶ浦9km」「小天橋2km」、今来た道は「蒲井浜2km」「風蘭の館3km」となっています。 正面にはが広がっています。 久美浜湾に突き出す大明神岬の傍に浮かぶ筏のようなものは、カキを養殖するための棚のようです。 久美浜湾の南東にある兜山で見かけた解説板の内容を参考までに載せておきます。
京都府選定文化的景観
文化財の名称 京丹後市久美浜湾カキの養殖景観
選定年月日 平成二十年三月二十一日
所在地 京丹後市久美浜町
区域 京丹後市久美浜町河内、湊宮、久美浜一区の各一部
面積 約四七〇ヘクタール
久美浜湾は日本海の内湾にあたり、湾の周囲は約二十八キロメートルに及ぶ。 久美浜町を流れる多くの河川を受け入れ、水戸口と呼ばれる部分で日本海に注いでいる。 この湾口は幅三十メートル、深さ三メートル、長さ三百メートルと狭小であることから 湾内は日本海の荒波を受けにくく、一年中波は穏やかである。 日本海に面した潟湖は、原始・古代を通じて、 大陸からの文物や高度な技術の導入をはかる上で欠かせない天然の良港であったため海上交通の基点となった。 隣接している函石浜遺跡から中国「新」の時代の鋳造された「貨泉」が出土していることから当時の交流の様子がうかがえる。 その後、こうした潟湖は、河川による土砂堆積により姿を消したものが多いが、 久美浜湾は現在まで潟湖が残る数少ない事例であり、現代では新たな生業の場として活用されている。
湾内の波が穏やかなことに注目した地元有志は、昭和十二年に試験養殖に成功し、 昭和二十五年頃からカキ棚を作って養殖を開始した。 その後養殖拡大方法の研究がなされ、昭和三十四年には久美浜湾に適した養殖技術が完成した。 現在湾内四箇所でカキ棚が敷設され総数は合計三百基を超える。 特に河内湾は海底までの深さが数メートルと浅いこともあり、 海面から杭を打ち込み、それに棚を敷設する昔ながらの方法が残っており、 当地の文化的景観を特徴づける大きな構成要素となっている。 波穏やかな久美浜湾内にカキの養殖筏が列をなして浮かぶ風景は、 京都府北部を特徴づける良好な文化的景観となっている。
 (京丹後市教育委員会)
湊大橋
府道49号を北へ進んでが近づいてくると道が左右に分かれていますが、を登っていきます。 坂を登り切って軽く降っていくと、へ道が分かれています。 それらの道を見送っていくと湊大橋があります。
湊宮地区
湊大橋を渡っていくと、右にはが広がり、 その奥には眺めの良いが見えます。 最初に渡っていったを左に眺めながら車道を進んでいくと、 車を止めておいた海水浴場駐車場があります。 府道122号に出た所から40分ほどで着きました。
駐車場の先に広がる小天橋海水浴場に出てみました。 手前の砂山には「小天橋海水浴場 8kmに及ぶロングビーチ」のが立っています。 傍には「小天橋」や「山陰海岸国立公園」と題した解説板もありました。 波打ち際まで出て潮騒を聞いてから家路につきました。
小天橋
久美浜町湊宮から箱石にかけて久美浜湾と日本海を分ける砂州は、 日本三景の一つ「天橋立」を思わせることから「小天橋」と呼ばれています。 小天橋砂州は、葛野や湊宮地区に点在していた古砂丘を新規の砂州や砂丘がおおって一つながりの砂州になったものと考えられています。 この小天橋により閉じだれた周囲28kmの潟湖が久美浜湾です。 海水と淡水が混じったこの湾内では、カキの養殖が盛んに行われており、その景観は京都府の文化的景観に選定されています。
 (京丹後市観光協会)
山陰海岸国立公園
京丹後市八丁浜海岸から鳥取砂丘までの約75kmに及ぶ山陰海岸国立公園は、海岸景観が特徴で、 様々な海食地形や火成岩・堆積岩など岩石の種類の多さとその学術的価値などから、 国立公園を含む一帯が世界ジオパークの1つに認定されています。 一方、鳥取砂丘や小天橋に代表される海岸砂丘や砂州の地形も多く見られ、 国立公園内には6か所の海域公園地区があります。
 (環境省)