八木城山
概 要 八木城山は養父市八鹿町にある標高330mの山です。 かつては八木城があった所で、国の文化財にも指定されています。 下八木地区から山頂まで登山道が設けられていて、登り易くなっています。 今回は下八木地区から八木城山へ登り、八木土城跡まで往復してから少し引き返して、上八木地区へ降っていきます。
起 点 養父市八鹿町 八木地区
終 点 養父市八鹿町 八木地区
八木地区…八木城跡登山口…防護柵…東屋…秋葉さん…三の丸跡…二の丸跡…八木城山…八木土城跡…二の丸跡…秋葉さん…上八木分岐…上八木登山口…永照寺…旧山陰道…八木地区
所要時間 2時間30分
歩いて... 八木土城跡へ向かう途中に急坂がありましたが、それ以外は比較的登り易くなっていました。 しかし季節柄、止め処もなく汗が噴き出してきて、何度も立ち止まって汗を拭き拭き、ゆっくりと登っていきました。 山頂は周囲に樹木が茂っていて展望は良くありませんが、途中には山並みを眺められる所がありました。 上八木地区へ降る道はあまり歩かれていないのか、落ち葉がかなり覆って分かり難くなっていました。
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コース紹介
八木地区
養父市の八鹿町から国道9号を西進していきます。 万々谷交差点を過ぎていくと、下八木バス停の先の古市場橋を渡った所に、信号機の設置された十字路があります。 そこを左折して狭い路地を降っていくと、すぐに旧山陰道の十字路に出ます。 十字路を右折して西へ進んでいくと、養父市消防団八鹿第6分団の消防車庫の隣に下八木公民館があります。 その前が駐車スペースになっているので、ここに車を止めさせてもらいました。
靴を履きかえたりして歩く準備をしていると、公民館の入口にある美容室を営む民家の勝手口から出て来られた方から、 「但馬・八鹿 八木城跡」及び「城下町 八木散策絵地図」と題したパフレットを頂きました。 それに加えて、『以前に熊が出たから』と云って、二つ組の鈴二個を手渡されました。 一応は熊避け鈴を持参してきてはいるのですが、好意を無碍に断るのも悪いと思って、黙って使わせてもらうことにしました。 シャン・シャン・シャンと軽やかな音のする鈴でした。
車で来た道を国道9号まで引き返して来て、を渡っていきます。 正面に続く道の入口の左側には「」と刻まれた石柱と、 「但馬材林産加工センター80m先」の看板があり、 右側には「」の標識が倒れていました。 それらを確認して正面へ30mほど進んでいくと、分岐の角や石垣沿いに 「」、 「」、 「」などの案内板や、 「但馬八木城址之碑」の石碑などが並んでいました。 案内図によると、下八木登山道・中八木登山道・上八木登山道の三つの道があるようです。 今回は下八木登山道から登って上八木登山道を降ることにしました。 案内板には「所定の駐車場をご利用下さい」として、先ほどのが図示されていました。
八木城歴史の森
この城山の頂上には室町から安土桃山時代にかけての城跡があり(八木城跡)、 昔から養父郡内における政治的な中心地として利用されてきました。 近代になってからは、燃料(アベマキ・コナラ)や木竹材(スギ・ヒノキ・モウソウチク)として利用するための造林・育林が続けられ、 現在見られるような森の姿となっています。 このほかにも、高級家具に使われるケヤキ、漢方薬の原料となるキハダ、紅葉の美しいイロハモミジなども見られ、 地域の人たちがいろいろな目的のために木を植えていたことが、よくわかります。
現在地〜あずまや 約0.4km  現在地〜八木城天主台 約1.0km
たき火、たばこの吸い殻やゴミの投げ捨てに注意し、植物や動物を大切にしましょう。
【"ひょうご豊かな森づくり構想"に基づく里山林整備事業】
この区域は、地域の皆さん方のご協力のもと、景観や多様な動植物を保全し、保健や森林学習の場に活用するため、 県内の林地を開発した方々の協力金により、森林の整備や歩道の開設などを行いました。
 (兵庫県、八鹿町、(社)兵庫県森と緑の公社)
但馬・八木城 八木城跡
八木町の背後にある西から東にのびる細い尾根上には、八木城と八木土城の2つの山城があり、 南北朝時代(1333〜1392)のはじまりという。 八木城は、標高330mの城山に作られた山城で、南北260m東西340mに広がる大規模なものである。 本丸には、山石を荒割りした石材で9.3mの高い石垣を積んで防御の要とし、 文禄年間(1592〜1596)の構築と推定される穴太流の城郭石垣を作っている。 さらに本丸には天守台や矢倉台、石塁を築いており、優れた技術をみることができる。 縄張りをみると、尾根を平たんにした曲輪を作り、東に6段、南に5段、北に3段というように山全体に城郭を配置している。 八木城は、戦国時代の八木氏の本城であり、また別所氏が改修した豊臣時代の城郭である。 八木城は、1万5千石の八木藩の貴重なシンボルであり、八木町は初期城下町として貴重な街並みを伝えている。
 (八鹿町観光協会)
城下町八木散策絵地図
【八木城跡】 八木城跡は、中世の但馬国を代表する有力国人である日下部姓八木氏の城館跡である。 麓には鎌倉期以来の居館跡、山頂部には室町期の遺構、中腹部には戦国期から豊臣期の石垣等(八木城)が残り、 中世の各時期の遺構が連続して遺存している。 室町期の八木氏は山名四天王の1人として但馬国に勢力を張り、越前の朝倉氏とは同族である。 豊臣期には山陰経営の拠点として豊臣大名の別所氏が入場し城郭を整備拡張した。 八木城跡は、「中世の山陰地方の政治史と城郭史を示す貴重な遺跡」として、平成9年6月に国の史跡に指定された。
【今滝寺 金剛力士像】 八木氏が去って後、別所氏が寄進した二体の寄木造の金剛力士像で、今滝寺の山門に安置されている。 体内の銘文から鎌倉中期の作であることが判明し、また仏師は阿形が澄玄、吽形が淡路公、願主が執行覚巌と分かっている。 1983(昭和58)年に県指定の文化財に指定された。
【薬師堂】 康平年間(1060年前後)に八木を治めていた閉伊氏の平癒の祈願所として建立されたと言われており、薬師瑠璃光如来を祀ってある。 どんな難病でも治して下さる仏さまとして崇められ、特に耳の病が得手で小石に穴をあけて奉納し、願をかけたとのことである。 また、八木城跡への登山道の入口となっている。
【八木の城下町】 古くから幹線道であった旧山陰道を取り込み、東西に貫く一本街路を中心に整備された城下町である。 道路は「折れ」「クランク」など見通しのきかないように工夫され、外部からの侵入者を防ぐ構造になっている。 北側に八木城、東側には今竜寺川、南側には八木川があり、城下町を守る外堀として利用した総構えという防御方法をとっていた。
【八木城交流館】 築80年の木造二階建てで、かつては旧山陰道を通る人達が利用していた旅館を、 八木城跡まちづくり会が中心となって改築し、平成23年5月にオープンした。 八木城跡を訪れる人の休憩や情報提供の場として、また地域の交流の拠点として利用されている。 トイレや台所も自由に使うことができ、昔ながらの雰囲気を感じながら過ごすことができる。
 (養父市、八木城跡まちづくり会)
但馬八木城址之碑
八木城は南北朝時代に始まる八木氏の山城で、標高三三〇米の城山にあり、 本丸には高さ九.三※の穴太流の石垣が残る。 八木氏は室町時代に但馬守護の山名氏に属して活躍し、四天王のひとりに数えられた。 八木氏第十五代の八木城主は八木但馬守豊信であったが、天正五年から八年にかけて、秀吉の弟羽柴秀長に攻められて落城する。 天正十三年(1585)豊臣秀吉から別所重棟が八木城主に任命され、別所吉治と続くが、慶長六年に丹波に写され廃城となる。  (八木城址保存会)
八木城跡駐車場案内
お願い  この先に駐車場はございません。所定の駐車場をご利用下さい。
八木城跡登山口
石垣の上に見えているを見送って、石垣沿いに続く坂道を1分ほど登っていくと、 左側の民家の間にあるの入口に「」の看板が立っています。 ここが八木城山への登山口になります。 その看板に隠れるようにもあって、杖が幾つか置かれていました。
城跡に登られるお方は、この杖をご自由にお使い下さい。使用後は元にお返し下さい。
防護柵
民家の間を過ぎて右へ曲がって石垣沿いを登っていくとの脇に出ます。 舗装路が終わって山際まで来ると、獣避けのがありました。 簡易な留め具を外して通過するとが立っていて、 左へ曲がっていく道は「八木城跡へあと900メートル」となっています。 その傍には杖が沢山置かれていて、古い郵便ポストを利用したもありました。 背丈は高くないものの、道には夏草がかなり茂っていて、この先の状態を心配しながら進んでいきました。
有害獣の防護柵を開けてお通りのあとは閉めておいて下さい。
草に覆われた横木の階段を右へ曲がりながら登っていきます。 笹や夏草が茂る道を左へ曲がりながら登っていくと、道端に「」の解説板がありました。 そこを過ぎていくと、次第に夏草が少なくなってきました。 植林地の前まできて横木の階段が始まると、道端に「」の解説板がありました。 道の傍に佇むを過ぎて左へ曲がり、尾根の左肩に続く道を登っていきます。
クズ草原(クズ群落)
クズは、ほかの木や草に巻きつくつる性の草で、道路や広場近くの土手など、 人の影響を受ける場所や山野のいたる所に見られます。 7〜9月には赤紫色の小さな花がサオのように並んで咲き、秋の七草のひとつの数えられます。 また、根は太く大きく、デンプンをたくさん含んでおり「葛粉(クズコ)」として使われるほか、風邪薬の原料にもなります。
 (里山林整備事業)
ネザサ草原(ネザサ群落)
ネザサ草原は、森林を人が伐った跡や大きな木が枯れた跡にできた半自然草原です。 ササ類は繁殖力が強いため、放っておくと幼い木やほかの植物が育ちません。 森林に戻すためには定期的に刈り、ササの丈を小さくする必要があります。 また、ササ類は数十年に一度、花を咲かせた後枯れてしまいmす。 その後は、ほかの新しい植物が育っていきます。
 (里山林整備事業)
に出るとベンチがひとつ設置されていました。 道なりに左へ曲がって尾根の背を進み始めると、ベンチのすぐ先に「」の解説板がありました。 尾根を1分半ほど登っていくと、道端にが立っていて、この先の道は「八木城跡へあと650メートル」となっていました。 傍の樹木には「是より650米」の標識も取り付けられていました。
スギ・ヒノキ林(スギ−ヒノキ群落)
スギ・ヒノキは日本の建築材としてとても重要な造林樹種で、北海道以外の日本全国でたくさん植えられていまう。 一般にスギは土の湿った場所が、ヒノキはやや乾いた場所が適しているため、スギは谷部に、 ヒノキは中腹部に植えられますが、ここでは両方を混ぜて植えています。 スギとヒノキはよく似ていますが、スギは葉の先がとがっていて、手でぎゅっっと握るとチクチクします。 ヒノキは葉が平でぺたんとしているので、握っても痛くありません。4月頃にはスギは淡い黄色の、 ヒノキは紫がかった茶色の花を咲かせます。
 (里山林整備事業)
東屋
僅かな石垣を抱いたを過ぎていくとが現れましたが、 八木城の曲輪のひとつだったのでしょうか。 石垣の左側を進んでを過ぎ、尾根の背を登っていくと、 「アベマキ・コナラ林」の解説板の先に東屋が建っていました。 八木城跡登山口から14分ほどで着きました。 周囲には樹木が茂っていて展望は得られませんが、 八角形をした内部の周囲にはベンチが設置されていて、ひと休みしていくのに良さそうでした。 東屋を過ぎて10mほどの所にがあります。 角にはが二つ立っていて、正面の道は「八木城跡0.5km」「八木城跡へあと500メートル」、 左の道は「中八木0.3km」、今来た道は「下八木0.4km」となっています。
アベマキ・コナラ林(コナラ−オクチョウジザクラ群落)
アベマキやコナラの林は、落葉広葉樹林のひとつで、兵庫県の「里山」の代表的な姿です。 ガスや石油が家庭に普及する昭和30年代までは、薪や炭をとるため人々によく利用されていまいた。 落葉広葉樹林はシイやカシなどの常緑広葉樹林に比べて木や葉の種類が多いので、 春の芽吹き、夏の緑、秋の紅葉など四季折々の山の姿を作り出しています。 また、エサとなる草や木の実も多いため、虫や鳥、動物も多く、ウサギやタヌキなどが見られます。
 (里山林整備事業)
中八木地区への分岐を見送ってになってくると、「竹林」の解説板が立っていました。 横木の階段混じりの尾根を登っていきます。 次第に竹が少なくなって雑木林へ移っていく尾根を登っていくと、道端にある岩の手前に分岐があります。 東屋から8分ほどの所になります。 角にはが立っていて、正面の道は「八木城跡0.3km」、 左の道は「上八木0.5km」、今来た道は「下山ルート」となっています。 今回はここから上八木地区へ降っていくのですが、その前に八木城山へ向かっていきます。
竹林(モウソウチク−マダケ群落
目の前に広がる竹はモウソウチクといい、日本の竹の代表ともいえます。 竹材は軽く、加工が簡単なため、物干し竿や釣り竿、ヒシャクやカゴ、竹串などいろいろな日用品として古くから利用されてきました。 4〜5月頃にはタケノコがとれ、タケノコを包んでいる皮はおにぎりなど物を包むのにも使えます。
 (里山林整備事業)
秋葉さん
上八木地区への分岐を見送って広い尾根の背を登っていくと、テーブル・ベンチが設置された所に着きました。 東屋から10分ほどの所になります。 脇には「これより八木城跡」の標柱が立っていました。 側面には簡単な解説文が書かれていましたが、所々破損していて読めない所もありました。 それによると、ここは秋葉さんというようです。 正面の岩壁には火焔を背負ったが安置されていますが、 パンフレットによると秋葉神社の祭神のようです。 左側が少し開けていて、八木地区を挟んだ向かい側のを眺めることが出来ました。 蒸し暑い日で汗が止め処もなく吹き出てくるので、景色を眺めたりしながらしばらく休憩していきました。
これより八木城跡
室町時代には八木氏の本拠地となった城郭。 城主の八木但馬守宗頼は山名宗全に仕えました。 ここは秋葉さん…火送りをしたので秋葉さんと呼びます。…
 (平成八年度 ふるさと青年協力隊)
秋葉さん
城を火災から守るための護符・魔除けと同時に、ここから城郭域に入るという結界でもあり、 秋葉神社の祭神を奉ることから名付けられています。
 (出典:パンフレット「城下町八木散策絵地図」より)
落ち着いたところで、その先へ進んでいきます。 標柱の傍にはが立っていて、 尾根の右肩に続く道は「八木城跡0.25km」、今来た道は「下山ルート」となっています。 右・左と曲がりながら尾根の背を登っていくと、右側の樹間からが見えました。 方角からすると、地形図に載っている548m峰のように思えました。 そこを過ぎていくとがありました。 秋葉さんから2分ちょっとの所になります。 左へ戻るようにして登っていく道が分かれていましたが、道標類は見かけませんでした。 八木城山へは正面の道を進んでいくのだろうとは思いながらも、左の道が気になったので寄り道をしていきました。 岩の上に続く道を登っていくとすぐに広い所に出ました。 曲輪の跡だと思われますが、標識類は見かけませんでした。
南側の樹木に赤テープが取り付けられていて、そこからが続いていました。 山頂へ通じているのかと思って試しに少し歩いてみましたが、等高線に沿うように緩やかに続いていて、 一向に登り坂になってきません。 それどころが降り気味になってくるので、諦めて引き返してきました。 八木城山から南へ延びる尾根への巻き道のように思えました。 (所要時間には含めず)
三の丸跡
曲輪跡から引き返して、右側に植林地が続くようになった尾根の右肩に続く道を進んでいきます。 3分ほど進んでいくと、再び左へのがあります。 角にはが立っていて、正面の道は「八木城跡へあと100メートル」となっています。 左の道は何も示されていませんが、ここでもちょいと立ち寄っていきました。 すぐに広い所に出ると、大きな樹木の傍に標柱が倒れていました。 それによると、ここは三の丸跡になるようです。 先ほどの標識と同様に一部破損していて読めない所があったのが残念でした。 端の方にはトタン張りのがありました。 奥の方へ進んでいくと、が二つ並んでいました。 右側の石仏には「大家蔵垣邑上垣氏一統」と刻まれていました。 左側の石仏は頭部が三つある姿をしていましたが、 パンフレットによると「」というようです。
三の丸跡
豊臣時代の城主は大名の別所重棟・吉治の父小で、養父郡内で一万五千石を治めました。 曲輪の東端に三…蔵さんがあり、…三…顔さんと呼びます。曲輪は長さ六十六m、幅十七m。
 (平成八年度 ふるさと青年協力隊)
二の丸跡
三の丸跡から引き返してその先へ進んでいきます。 尾根の背に出て広くなった尾根を進んでいくと、正面にこんもりとした高みが迫る広場に着きました。 三の丸跡から1分ほどの所になります。 中ほどに倒れている標柱によると、ここは二の丸跡になるようです。 先の方にはが二体並んでいました。 ここの標識も一部破損していて読めない所がありました。 ここで道が左右に分かれています。 道標類は見かけないのでどちらへ行こうか愚考の末、 は狭そうだったので、 石仏の後方へ続くを進んでいきました。
二の丸跡
八木城は標高三三〇mの…関ヶ原の…属して…。 本丸の南側の下を細長く取り囲む曲輪です。…本丸の高石垣の一段下…門跡があります。
 (平成八年度 ふるさと青年協力隊)
八木城山 (標高330m)
に近づいていくとがありました。 石垣沿いに正面に続く道と、右へ戻るようにして登っていく道に分かれていました。 道標類は見かけませんでしたが、右の石垣の上が本丸だろうと思って、右へ登っていきました。 振り返ってを確認しながら登っていくと八木城山の山頂に着きました。 秋葉さんから17分ほど、八木城跡登山口から43分ほどで登って来られました。 登り着いた所には、「本丸跡」の標柱と「八木城の概要」と題したがありましたが、 ここでも一部読めない部分がありました。
本丸跡
本丸の南側には高さ九.三mの高石垣があります。 穴大流石垣で一五九二年前後に積まれたものです。 長さ四十七m、幅二十三mの長方形の曲輪。一番高いところが天守跡、南側の張り出し部が隅…です。
 (平成八年度 ふるさと青年協力隊)
八木城の概要
鎌倉時代初期、八鹿町朝倉に住し豪勇、世に聞えた朝倉高清が、この西方の峯に築かれていた土城の城主閉伊十郎行光と闘い勝利した後、 三男重清を初代城主に置いたのが八木城の始まりといわれます。 以来豊信まで十五代およそ四〇〇年にわたり一大勢力を保持しました。 南北朝時代、関東から但馬に入り出石を本拠として全国にその名を覇せた山名氏の傘下に入り、代々山名四天王の一人として重きをなしました。 戦国時代、織田信長の命を受け、中国の毛利攻略に向った羽柴秀吉は、姫路城を拠点として先づ毛利勢の及ぶ播磨・但馬を平定しましたが、 八木城の武運つたなく落城しました。 時天正八年(1580)三月であったといわれます。 十五代豊信を最後に八木城はここで終りを告げました。 天正十三年(1585)秀吉の配下であった別所重棟が新に八木…の吉治と二代でわずか十五年の間在城しました。 慶長五年(1600)関ヶ原の戦いに西軍に属した吉治…戦で所領を没収されましたが、 徳川家に仕える…春日の局が伯母にあたりよしみをもって許され…の良城へ移封されました。 以後、八木城は廃城となり、四百年にわたる長い山城の歴史は幕を閉じました。 八木氏は廃城後徳川家に仕え、その直系は東京に在住現在に至っております。
 (八木城址保存会)
八木城山の山頂は小広くなっていて、 奥の方には三体のや、観音像とがありました。 その奥の一段高い所が、標柱に書かれている天守跡でしょうか。 周囲には樹木が茂っていて、展望は良くありませんが、 南西の方角の樹間から電波塔の立つが少し見えていました。 には木陰になった所がかなりありました。 築城に使ったと思われる大きな石も多く残っていました。 手頃な所に腰かけて水分補給などをしながら、暫く休憩していきました。
落ち着いたところで、八木城山の北西にある八木土城跡まで往復することにしました。 石垣の下の分岐まで戻って、沿いに進んでいきます。 石垣の端まで行くと、その先へとが続いていました。 入口の樹木にはが取り付けられていました。 文字は今にも消えてしまいそうな様子でしたが、「土城跡ここより500m」と書かれていました。
緩やかな尾根道を進んでいきます。 のような所もありましたが、歩き易い快適な道が続いていました。 尾根のから背に出て進んでいくと、やがて登り傾斜が増してきます。 傾斜が緩やかになると、松の木が生えるに出ました。 そこからは広めで緩やかな尾根が続いていました。 少し段差のある所を過ぎていきます。 尾根を削って緩やかにして、曲輪が置かれていたのでしょうか。
八木土城跡 (標高409m)
やがて正面にマウンドのようなが見えてきます。 道は不明瞭になりますが、それほど高くはないので何とかよじ登っていくと、平らになった高台に出ました。 標識類は見かけませんでしたが、ここが八木土城跡で、地形図に載っている409m峰になるようです。 八木城山から16分ほどで着きました。 「土城」と云うだけあって、築城に使ったと思われるような大きな石は見かけませんでした。 周囲は樹木に囲まれていて展望は得られませんでした。 この先にはが降っていました。 尾根は西にある緩やかな415m峰へと続いているようですが、ここで引き返すことにしました。
緩やかな尾根を過ぎて傾斜が増した坂を降っていくと、正面にが見えていましたが、 方角からすると大徳山でしょか。 馬の背のような尾根を進んでいくと、「土城跡ここより500m」の標識のある所に着きました。 往復29分ほどで戻って来られました。 来た時には八木城山の南側を歩いたので、今度は北側を歩いてみることにしました。
二の丸跡
の脇の小径を進んでいきます。 次第に草が茂るようになったを進んでいくと、 左側が開けてを見渡せる所がありました。 方角からすると、来る時にも見かけた548m峰になるようです。 そこを過ぎていくとが消えそうになってきました。 どうしたものかと辺りを見回していると、左下からその先へ延びる踏み跡がありました。 その踏み跡へ降りて進んでいくと二の丸跡に出ました。 佇む石仏に挨拶をしてから、元来た道を引き返していきました。
秋葉さん
への分岐を過ぎて、尾根の左肩に続く道を降っていくと、 二の丸跡から5分ほどで秋葉さんに戻ってきました。 を確認してから更に降っていきます。
上八木分岐
歩き易い尾根を1分ほど降っていくと、道端の岩の先にある分岐に戻ってきました。 角に立つ道標の板「上八木0.5km」が指す方角を窺っても道らしいものはありません。 辺りを探していると、右前方へ続くがありました。 他に道らしいものは見かけないので、この階段が上八木地区へ通じていると信じて降っていくことにしました。
植林地の斜面に続く横木の階段混じりの小径を曲がりながら降っていきます。 階段や道には落葉がかなり覆っていて、分かり難くなっていました。 何度か道から外れてしまうこともありましたが、はっきりしている所まで引き返して辺りを見回し、 何とか階段を見つけながら降っていきました。
僅かなを過ぎていくと、下の方が明るくなってきました。 もうすぐ集落に出られそうだと気を取り直して降っていくと、 笹や草などが茂って石がゴロゴロしている小さなに出ました。 そこで明瞭な道は見かけなくなりましたが、植林地の縁に続く、少し水も流れているゴロゴロした石の上を降っていきました。 樹間からを眺めながら降っていくと、左側にが立っていて、 今降ってきた石ゴロゴロの道は「八木城跡0.8km」となっていました。
上八木登山口
道標を過ぎていくと目の前が開け、の脇に出ました。 これで山道は終わりになります。 正面に広がる集落や山並みを眺めながら、コンクリート舗装された道を降っていきます。 左へに曲がって更に降っていくと、左へ曲がった先で舗装路に降り立ちました。 尾根の上八木分岐から26分ほどで降りて来られました。 脇には道標が倒れていて、「」となっていました。 舗装路に降りて振り返ると、「八鹿町史跡八木城址鎌倉時代」のが石垣に寄り掛かっていました。
永照寺
舗装路を降っていくと、左右に通るに出ます。 右側の手前には車庫があって、その下の国道沿いがのようになっていました。 左側のに沿って坂を登ると永照寺がありました。 お寺の謂れなどを記したものは見かけませんでした。
旧山陰道
永照寺から引き返して、国道9号に出た所の正面に続くを降っていきます。 ゴミ集積場所を過ぎていくと、左右に通る旧山陰道に出ます。 左折して民家が建ち並ぶ八木地区を進んでいきます。 道が少しクランクになった所にある小祠の建つを過ぎていきます。 この地区は、かつて八木城があった頃は城下町だったようで、どこかそのような趣も感じられました。
八木の特産品
【蛇紋岩米】 八木が一刷りは魏川右岸で作られるコメは旨いと、古くから定評がありましたが、 この一帯は蛇紋岩質の土壌で、稲の生育に欠かせない多くのミネラル成分が含まれています。 蛇紋岩質の土壌でつくられたコメは、通常の2倍以上含まれるマグネシウムやカリウムなどが影響し、 おいしいことが学術的にも定説となっています。 また食味を調べた結果、八木川右岸のコシヒカリは、日本一と称される新潟県魚沼産コシヒカリにひけをとらないことがわかりました。 優れたコメをつくるうえで欠かせない、優れた土壌と豊かな水に恵まれた八木では、 ツヤが良く適度が粘りがあり、おかずが無くてもいくらでも食べてしまえるほどの美味しさを持った蛇紋岩米を育てています。
【八木太郎】 八木川を遡上してくる天然の鮎は、荒い瀬や激しい落込みをのぼっているうちに、 頭が小さく肩から急に肉がせり上がり、幅の広い独特の体型になり、また良い珪藻を食べているので香りも良く、 尺鮎と呼ばれるぐらいに大きなものになります。 この鮎は「八木太郎」と呼ばれ、その名は広く知れ渡っていますが、 昔、八木城の殿様がこの川の鮎を食べたおり、あまりの美味しさに、さぞ特別な呼び名のある鮎なのであろうと問いただしたところ、 命名されていないことを知り、自ら名付けたという話が残されています。 八木では、美味しいコメだけでなく、美味しい鮎も捕れるところなのです。
【富有柿】 八木地区は戦前から柿栽培がおこなわれてきた伝統のある産地です。 土質からこの土地では、美味しい柿ができると分かり、村を上げて生産に取り組んできました。 「食べる人、作る人、自然にやさしい柿づくり」をスローガンに減農薬化を進め、 形の良い大きな高品質の柿が生産されており贈答用柿産地として名声があがってきています。
 (出典:パンフレット「城下町八木散策絵地図」より抜粋)
八木地区
郵便局やのある民家を過ぎていくと、最初の下八木公民館に戻ってきました。 上八木登山口から7分ほどで着きました。 借りていた熊避け鈴を美容室の方にお返しして、靴を履き替えたり汗を拭いたりして落ち着いてから家路につきました。
鈴を返そうと勝手口のチャイムを押すと中から出て来られて、『暑かったでしょう、水はありますか』とどこまでも親切なのでした。 幸いにもまだ水は残っていたので、頂くのは丁重にお断りしました。