吉富397m峰
概 要 神河町の杉地区と吉冨地区の境にある397.1m峰(点名:吉富)へ登ります。 大年神社を起終点として、大山城南小城跡を経て山頂へ登り、 少し引き返して南西に延びる尾根を降って車道に出るルートを半周回します。
起 点 神河町 杉地区
終 点 神河町 杉地区
杉地区…登山口…大山城南小城跡…尾根の肩…397.1m峰…尾根の肩…下山地…銀の馬車道…杉地区…(大年神社)
所要時間 2時間10分
歩いて... 大山城南小城跡から山頂までの尾根には、境界杭とその場所を示す桃テープが点々と続きます。 途中に樹木に掴まりながら登る急坂がありますが、それ以外は歩き易くなっています。 下山する尾根には細い樹木が茂り気味の所やシダ類が茂る所もありますが、行く手を阻むほどではありません。 最後の防護柵の手前から下山地までの間はプチ藪漕ぎになります。
関連メモ 神河486m峰
コース紹介
杉地区
生野峠を越えて、神河町を通る国道312号を南下していきます。 播但連絡道路の神崎北ランプを過ぎて、 「道の駅 銀の馬車道・神河1km」の道路標識や「夫婦杉の里」の標識が立つまで来て、左の道に入っていきます。 杉地区の集落の中を進んでいくと、程なくして大年神社があります。 その前が広くなっているので、ここに車を停めさせて頂きます。
脇には「日本遺産「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」」の解説板があります。 道路向かいの杉営農センター側には「」があって、 大山城跡の登山コースが載っています。 今回経由していく大山城南小城跡も載っていますが、397.1m峰は載っていません。
日本遺産「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」
〜資源大国日本の記憶をたどる73kmの轍〜
兵庫県中央部の播但地域。
そこに姫路・飾磨港から生野鉱山へと南北一直線に貫く道があります。 "銀の馬車道"です。 さらに柚子畑鉱山、明延鉱山、中瀬鉱山へと"鉱石の道"が続きます。 わが国屈指の鉱山群をめざす全長73kmのこの道は、明治の面影を残す宿場町を経て鉱山まちへ、 さらに歩を進めると各鉱山の静謐とした坑道にたどり着きます。 近代化の始発点として、この道の終着点となる鉱山群へと向かう旅は、 鉱山まちが放ついぶし銀の景観と生活の今昔に触れることができ、鉱物資源大国日本の記憶へといざないます。
"銀の馬車道"(正式名:生野鉱山寮馬車道)は、明治初頭の1876年(明治9年)、 明治政府により行くの鉱山と飾磨津(姫路港)を結約49kmにわたり、 冬至の最先端技術であるカマダム式工法を採用し整備された「日本初の高速産業道路」です。 "銀の馬車道"は、生野から(神河町・市川町・福崎町を経て、姫路城の東を通り飾磨に通じる道です。 生野鉱山で産出された銀鉱石の製錬に必要な石炭や物資、そこで働く人たちの日用品などを運び上げるとともに、 精錬された銀などを運ぶ南北物流の基盤として、我が国の黎明期を支えました。
銀の馬車道ネットワーク協議会
大山城跡と大山城南小城跡案内図
大山城址(東方城山山頂)
大山城は貞治元年(1362)ころ赤松直頼によって構築されたと伝えられている。 播磨赤松氏が但馬山名氏の侵攻に備えた最前線の砦で 当時、この大山城を中心に粟賀から真弓峠にかけて幾たびか戦いが繰返されたと記録にある。 山頂には階段状の砦の跡が残っている。
神河町文化協会
登山口
の先へ続く道を進んでいきます。 消防団の車庫や火の見櫓を過ぎていくと、猪篠川にが架かっています。 手前には標識が立っていて、この先の道は「大山城」、今来た道は「大年神社」となっています。 橋の途中には、「大山城」は左の道である旨のがあります。 大山橋を渡った所にあるゴミステーションにも「大山(丈山)城跡」のがあって、左の道を指しています。 左の道を軽く登って集落を過ぎて山際まで来ると、分岐の手前に「大山城南小城跡」の解説板があります。 ここが今回の登山口になります。 駐車地から7分ほどの所になります。 「」も載っていますが、小振りな城跡のようです。 傍にはが立っていて、 正面の道(*)は「大山城」、右へ戻るように続く小径は「大山城南小城」「歩・約10分」、「こちら 南小城跡」となっています。
大山城跡は「神河486m峰」を参照。
大山城南小城跡
令和2年(2020年)12月に中世城郭研究家 木内内則氏の調査により大山城跡南の小高い尾根筋に小規模な城郭跡が発見されました。 「大山城南小城跡」です。 その城跡は小規模ながら主郭跡のほか曲輪や二本の堀切や切岸も残っています。 堀切といえば、一般には城郭の下方に設けられているのが常ですが、この城郭の堀切は尾根の上部に設けられています。 これから推測すると、この城郭跡は大山城を守るための出城として設けられたものではなく、大山城と対峙した城と考えられます。 大山城より南の各城は赤松勢に属しており、南から攻撃を受けることは考えられず、 過去の史歴から考えられるのは天正5年(1577年)に羽柴秀長、天正8年(1580年)には羽柴秀吉が但馬攻めを行っており、 城郭研究家 本岡勇一氏によると 「その時に大山城攻めの拠点となったとも考えられ、そのように想像を膨らませると小さい城ではあるがとても興味深い城跡でもある。」 と話されています。
2025年11月 大山ブロック地域自治協議会
小屋の右脇を過ぎて、農地の中に続くを進んでいきます。 またあるの左側を進んでいきます。 小屋を過ぎるとが左右に続いています。 右前方に扉があって、「大山城南小城入口」の標識が取り付けられています。 は曲がったフックを上下に掛ける構造のようですが、外されていたので容易に開ける事ができます。 防護扉を過ぎて、すぐに架かる木橋を渡っていきます。
大山城南小城跡
少し右へ曲がって、を斜めに登っていくと、 文字が書かれていない標識が点々と続いています。 しばらく登ってに出て、道なりに左へ曲がっていきます。 曲がりながら続く僅かなを辿りながら尾根を登っていきます。 尾根には「地籍細部」の黄頭短杭や「地籍調査」の赤頭短杭などの境界杭が点々と続き、 その場所を示していると思われる桃テープも見られます。 傾斜が緩やかになると左右にがあって、「曲輪跡」の標識が立っています。 切岸のような急な所を登っていくと、広い平坦地に出ます。 中ほどには「主郭跡」の標識が立っています。 この辺りに大山城南小城主郭があったようです。 登山口から8分ほどの所になります。
先に見える「堀切」のへ向かっていきます。 土塁を越えて降っていくと、「堀切」の標識が立つがあります。 アセビなどが茂るようになる尾根を少し登って降っていくと、また「堀切」の標識が立つがあります。 「」によると、この辺りまでが大山城南小城の縄張りだったようです。 堀切を過ぎて、「地籍調査」の赤頭短杭などの境界杭を確認しながらを登っていきます。 アセビなどが茂る尾根を、少し右へ曲がりながら登っていきます。
尾根の肩
次第にが増してきます。 は道のようになっていて、傾斜はあるものの歩き易くなっています。 「」と刻まれた大きな「地籍調査」のを過ぎていきます。 少し傾斜が緩んでくるを登っていきます。 また傾斜が増してくる尾根を左へ曲がりながら登っていくと、尾根の肩のような標高320mほどの高みに着きます。 登山口から25分ほどの所になります。 中ほどには、先ほどと同様の「」と刻まれた大きな「地籍調査」の赤頭短杭があります。
ひと息入れてから、東北東へ続くを軽く降っていきます。 程なくして浅いを過ぎていきます。 この尾根にも「地籍調査」の赤頭短杭や桃テープが続いています。 になる尾根を進んでいくと、少し傾斜が緩んできます。 程なくしてが増してきます。 小岩も剥き出す急坂になるので、脇の樹木や岩などに掴まりながら慎重に登っていきます。
頑張って登っていくと、次第に曲がっていきます。 傾斜がきて、樹木や岩などに掴まらなくても登れるようになります。 程なくして、小岩が見られるが近づいてきます。 高みの直前まで来ると、左側にのようなものが現れますが見送っていきます。 真っ直ぐ登っていくと、標高370mほどの高みに着きます。 尾根の肩から16分ほどの所になります。
左へ曲がって軽く降ってになると、左側から巻き道が合流してきます。 程なくしてになります。 「」のも見られる尾根を登っていきます。 左の樹間にが立つ山が見える所を過ぎていきます。 緩やかになった尾根を進んでいきます。
397.1m峰
軽いになる尾根を進んでいきます。 次第に傾斜がになります。 小岩が剥き出すへ向かっていきます。 程なくして、小岩が剥き出す山頂に着きます。 尾根の肩から21分ほど、登山口から48分ほどで登って来られました。 中ほどには「吉富」があるので、地形図に載っている397.1m峰になるようです。 周囲は樹木に囲まれていて、残念ながら眺めは広がりません。 「」と刻まれた大きな「地籍調査」の赤頭短杭や「」の赤プラ杭の先には歩き易そうなが降っていきます。 もう少し先まで歩こうかとも思いましたが、今回はここで引き返すことにします。
山頂の様子を確認したら、登ってきたを引き返していきます。 少し降っていくとになります。 並んだ「」のと「地籍調査」の赤頭短杭を過ぎていきます。 軽い登り坂になると、が右へ分かれていきますが、 正面の高みへ向かっていきます。 程なくして、標高370mほどの高みに着きます。 397.1m峰から4分ほどの所になります。
登ってきた時には気が付きませんでしたが、にも尾根が降っていて、うっかりしていると間違えそうになります。 ここは登ってきたの尾根を降っていきます。 少しが見られる尾根を降っていきます。 次第に岩が目立つようになると、登ってきた時には気が付かなかった分岐があります。 397.1m峰から7分ほどの所になります。 の尾根にも桃テープが巻かれていて間違えそうになります。 ここは登ってきたの尾根を降っていきます。
尾根の肩
少し左へ曲がりながらを降っていきます。 登ってきた時には小岩が幾つも剥き出していたのですが、 少し違う所を歩いているのか、小岩群には気が付きませんでした。 それでもなのは変わりがないので、脇の樹木に掴まりながら降っていきます。 慎重に降っていくと次第に傾斜がきて、樹木に掴まらなくても降れるようになります。 しばらく降っていくと、浅いを過ぎていきます。 軽く登り返していくと、尾根の肩のような標高320mほどの高みに着きます。 397.1m峰から18分ほどの所になります。 中ほどには、「」と刻まれた大きな「地籍調査」の赤頭短杭があります。
登ってきたのは北西へ延びるの尾根になります。 ここは銀の馬車道へ向かうべく、南西へ延びるの尾根を降っていきます。 思いのほかなので、脇の樹木に手を掛けながら降っていきます。 次第に傾斜がきて、樹木に手を掛けなくても降れるようになります。 やがて、標高300mほどの緩やかな尾根になります。
僅かな降り坂のがしばらく続きます。 少し降り傾斜が増してくると、また「」と刻まれた大きな「地籍調査」のがあります。 浅くのようになる尾根を軽く降っていきます。 次第に緩やかになって正面に僅かな高みが見えてくると、標高250mほどの浅いに着きます。 少し登り返していくとになります。 左へ曲がって軽く登って緩やかになると、細い樹木が茂り気味でシダ類も少し見られる標高260mほどの小峰Aに着きます。 尾根の肩から14分ほどの所になります。
ピーク感のないを進んでいきます。 程なくして、少し曲がって降るようになります。 細い樹木が茂り気味のを過ぎていきます。 鞍部を過ぎて登り坂になると、が茂るようになります。 次第にシダ類が多くなってくると、標高260mほどの小峰Bに着きます。 尾根の肩から17分ほどの所になります。
になる尾根を進んでいきます。 シダ類が減ってくるとになります。 軽く登るようになると、標高250mほどの僅かなを過ぎていきます。 になる尾根を進んでいきます。 少し降っていくと、標高240mほどの緩やかな尾根になります。
程なくしてになると、シダ類を見かけなくなります。 しばらく降って傾斜が増してくると、次第にアオキなどのが茂るようになります。 次第に樹木の密度が高くなってになりますが、行く手を阻まれるほどではありません。 やがて左側から来て正面へ続く防護柵に出ます。 尾根の肩から26分ほどの所になります。 上下に設けられた小レバーを回してを開けて通過していきます。
下山地
正面に続くに沿って降っていきます。 樹木の密度が高くなってが続きますが、我慢して降っていきます。 傾斜が増してくるので樹木などに掴まりながら降っていくと、正面にが近づいてきます。 車道の脇まで降りて来ると、先ほどと同様のがあります。 上下に設けられた小レバーを回して防護扉を開けていくと、左右に通る国道312号に出ます。 尾根の肩から33分ほど、397.1m峰から52分ほどで降りて来られました。 左側のすぐ先にはがあります。
右へ続くの端を進んでいきます。 右へ分かれていく道の手前まで来るとが立っていて、 この先の道は「現存する馬車道200m」、今来た道は「屋形町8km」となっています。 右へ分かれていくに入っていきます。 敷地内のような雰囲気もして気が引けますが、を進んでいきます。 建物を過ぎていくと、「畑川原池」の標識が立っています。
銀の馬車道
池沿いに進んでいくと「「生野鉱山寮馬車道」跡」のがあって、 「」が載っています。 右に広がるのがのようです。 池を回り込むように右へ曲がりながら続くを進んでいきます。 舗装路が見えてくると、「現存する『銀の馬車道』」のがあります。 すぐ先には荷物を引く馬車のモニュメントがあります。 馬の大きさに比べて荷台が少し小さいような気もしますが、重い鉱石を運ぶのでこの大きさなのでしょうか。
「生野鉱山寮馬車道」跡
所在地:神河町吉冨
生野鉱山寮馬車道は、生野鉱山(朝来市生野町)と飾磨津(姫路市姫路港)までの間の輸送経路を最短49kmで結ぶ目的で造られた馬車専用道路です。 フランス人技師レオン・シスレーが技師長となり、明治9年(1876)に完成しました。 その工法は、砕石と土砂によって路体と舗装を構築する「マカダム式舗装」で、日本初の高速作業道路であったといわれています。 当時の道路の一部は現在での地下に残っていると考えられ、神河町では、猪篠とこの場所で発掘調査が行われました。 その結果、猪篠の発掘調査地からは、マカダム式舗装を確認することができませんでしたが、 この場所からは、石の少ない土を小石混じりの土で挟んだ3層構造や道路端と考えられる場所には縁石が積まれたマカダム式舗装の道路であることが確認できました。 馬車道は、すべてが同じマカダム式舗装の工法ではなく、その土地の地形などに応じた土木工事をしたと考えられます。
神河町教育委員会 平成29年3月
現存する『銀の馬車道』
神河町には、全町約49kmに渡る「銀の馬車道」の約10kmが通っています。 中でも吉冨畑川原には、マカダム式舗装が確認され、馬車道が現存し、往時の様子を想い起こすことができます。 馬車道は、古くからの播磨と但馬を結ぶ主要ルートにあたり、 近世の但馬街道とは一部重なりながら造られたため、馬車道沿道やその周辺には、 古代の遺跡や中世の城跡、近世から近代の町並みや旧家、道標などが残り、歴史の重なりを感じることができます。 また、沿道の各地区に残るさまざまな歴史文化遺産からは、多くのもの・ひとの従来から影響を受けながらも、 地区ごとの地勢や風土に応じた個性豊かな歴史文化を育んできたことがうかがえます。
日本遺産「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」
〜資源大国日本の記憶をたどる73kmの轍〜
「銀の馬車道」(正式名:生野鉱山寮馬車道)は、明治6年(1873)から明治9年(1876)の約3年間をかけて、 フランス人技師のレオン・シスレーの指導のもとに建設された「日本初の高速産業道路」です。 鉱山都市として栄えた生野(朝来市)から粟賀町(神河町)・屋形(市川町)・辻川(福崎町)を経て、 鉱山物を各地へ運び出した飾磨港(姫路市)に至る全長約49kmの「銀の馬車道」はm 大正9年(1920)に馬車道としての役割を終えるまでの約45年間にわたり、 産出された銀などの鉱物や、生野鉱山の採掘・精錬に必要な機械、日常用品などの物資を輸送するルートとして大きな役割を果してきました。 この「銀の馬車道」と、生野から神子畑(朝来市)・明延(養父市)・中瀬(養父市)の各鉱山群が点在する地域へといざなう「鉱石の道」、 そして、この2つの「道」沿いに点在する馬車遺跡や鉱山の遺構、往時の面影を残す町並みや旧家などが、日本遺産を構成する主な文化財です。
平成29年度文化庁芸術振興費補助金(観光拠点形成重点支援事業)
先へ続くを進んでいきます。 真っ直ぐ進んでいくと、斜めに通るに出ます。 右側には「現存する銀の馬車道」の標識があって、今来た道を指しています。 左側には「」の標識があって、 今来た道は「生野銀山から12km・姫路港まで41km」となっています。 右へ曲がって、の集落の中を進んで行きます。 道なりに進んでいくと、最初に渡った大山橋が架かっています。
杉地区
大山橋を渡って、消防団のを過ぎていきます。 集落の中を進んでいくと、大年神社にある大きなが見えてきます。 大年神社まで来ると、車を止めておいた駐車地があります。 下山地から20分ほどで到着しました。
大年神社
家路につく前に、に立ち寄っていきます。 左側には「夫婦杉」のがあります。 鳥居をくぐった所にある二本の杉の大木がになるようです。 しめ縄の下をくぐって参道を進んでいくと、すぐに大年神社の社殿があります。 正面には「ようこそ!大山城跡へ」のがあります。 「ご自由に」となっているので、ひとつ頂いていきます。 (所要時間に含めず)
夫婦杉
本殿を前に仁王のように並び立ち出迎えてくれるこの2本の巨杉を「夫婦(めおと)杉(すぎ)」と呼び、 境内内の空気を神聖なものに感じさせてくれます。 長寿と繁栄を映し、この間をくぐり廻ると縁結び夫婦仲むつまじく家内安全を願します。 感謝の気持ちがあると願い事がきっとかないますよ。
大年神社 〜「夫婦杉の里」・杉区〜
妻杉(左)
高さ 約31m
幹回り(目通り) 4.1m
夫杉(右)
高さ 約33m
幹回り(目通り) 4.9m
樹齢 約300年(2018)