石戸山
概 要 石戸山は丹波市の山南町・氷上町・柏原町の境にある標高548.5m(点名:石戸山)の山です。 今回は南側にある石龕寺の駐車場を起終点とし、奥の院を経て頭光嶽(439m峰)に登り、稜線に出て石戸山へ向かいます。 石戸山から引き返して岩屋山を経て石龕寺へ降るルートを歩きます。
起 点 丹波市山南町 岩屋地区
終 点 丹波市山南町 岩屋地区
岩屋地区…登山口…奥の院…頭光嶽(439m峰)…小峰…金屋砿山跡…稜線…石戸山…稜線…岩屋山…56番鉄塔…下山地…石龕寺…岩屋地区
所要時間 3時間30分
歩いて... 石戸山は樹木に囲まれていて眺めは広がりませんが、手前には山並みを眺められる所があります。 石戸山までのルートには、目標地までの距離を書いた標識が点々と設置され、桃テープも巻かれていて分かり易くなっています。 藪漕ぎするような所はありません。 56番鉄塔へ降る尾根は岩が剥き出す急坂になっていて、硬質プラスチック製の階段が続いています。
関連メモ 石龕寺
コース紹介
岩屋地区
北近畿豊岡自動車道を氷上ICで降りて、南にある稲継交差点から国道175号を南下していきます。 野坂交差点を過ぎた先の「Wako Pallet」の標識があるを左折していきます。 銀橋や銅橋を渡って進んでいくと、右から来るに出ます。 左へ進んでいくと、「石龕寺」と「岩屋山」のを過ぎていきます。 砂防ダムを過ぎて石龕寺の仁王門の前まで来ると駐車場があるので、ここに車を止めさせて頂きます。
脇には「」と「」があります。 道路向かいには「足利氏ゆかりの岩屋山 石龕寺」のがあって、境内のが載っています。
山南ひびきの森 案内図
この森は、古くから人々が薪や炭の原料を得るために手入れをしてきた里山で、 人と自然がともに暮らしてきた恵みの森ともいえます。 それを背景としたアカマツやコナラ、スギ・ヒノキの森では、 春から夏にかけて多くの野生ツツジが花を咲かせ、秋には見事な紅葉が谷間を彩ります。 さらに、ニホンリスやヒダサンショウウオといった珍しい動物たちが棲んでいることも特徴です。 また、その昔、足利尊氏がこの地を訪れた頃は寺が栄え、その名残である石組み跡を所々に見ることができます。
兵庫県・山南町・(社)兵庫県森と緑の公社
足利氏ゆかりの岩屋山 石龕寺
石龕寺は、用明天皇の丁羊の年(587)、聖徳太子の開基と伝えられ、 太子が深く帰依された毘沙門天王を本尊として古くから栄えた寺であります。 鎌倉時代から室町時代にかけて隆盛をきわめ、 山門の仁王像(金剛力士像)は、仁治3年(1242)、大仏師定慶の作で、 日本で屈指の名作として現在国の重要文化財に指定されています。 南北朝時代、足利尊氏が弟直義の争い(観応の擾乱)に破れ一時京都から播磨に逃れるとき、 嫡子義詮(第二代将軍)に仁木頼章、義長兄弟を添え、二千騎を当山に留めました。 (その時、院主雲暁僧都は勝軍毘沙門の法を修して祈祷、足利氏は深く帰依しました。 このことは「太平記」29巻に記されています。) この時、当山の僧が足利氏に名物の丹波栗を献上、義詮公はその一つの栗に爪跡をつけ、 都おは出て落ち栗の芽もあらば世に勝ち栗とならむものかは と歌を添え、もしこの栗が芽を出せば、都に出て天下をとったものと思ってくれ、といって植えて去っていったといいます。 首尾良くその通りとなり、今もその栗を「爪あと栗」、「ててうち栗」として伝えています。 その後、中世末期には織田信長の丹波攻略を受け、天正7年(1579)一山ことごとく焼失、仁王門を残すのみとなりました。 江戸時代以降、徐々に復興。 奥の院、毘沙門堂(本堂)、持仏堂、庫裡、客殿等境内の整備を見るに至っています。 また、もみじの名所としても今日脚光を浴び、毎年11月には”足利氏ゆかりの石龕寺もみじ祭”が行われます。 なお、当山は高野山真言宗に属しています。 参照 (太平記巻29)
山南町 山南町観光協会
登山口
へ向かっていきます。 手前には「岩屋山 石龕寺」のがあります。 「奥の院」の解説板もあって、までの参道が載っています。 先ずは奥の院参道を通って奥の院の鐘楼へ向かっていきます。 左右にある仁王像を眺めてから仁王門をくぐり、正面に続く石畳のを進んでいきます。 仁王門を迂回してきた道と合流して更に進み、本堂へ向かう石段の右側にあるを登っていきます。 奥の院橋を渡って登っていくと、「奥の院参道入口」の石柱が立つがあります。 駐車場から6分ほどの所になります。 ここが今回の登山口になります。
岩屋山 石龕寺
このお寺は、用明天皇の丁未の年(587)聖徳太子によって開かれた毘沙門天信仰の聖地であります。 「石龕」とは石窟・岩屋のことで石窟内に仏さまをまつることを意味しています。 今の本堂より山の上800mに「奥の院」がありますが、そこが石窟で石龕寺の発祥であります。 仁王門は鎌倉時代のもので仁王像は仁治3年(1242)仏師定慶の作で国の重要文化財です。 室町時代、足利尊氏の帰依を受け、二代将軍になった義詮公が一時逗留した寺(太平記29巻)でもあります。 天正7年(1579)織田信長の丹波攻めに遭い一山ことごとく焼失、仁王門のみ残すことになりました。 江戸時代以降、衰微の中で法燈を護り、昭和時代の晩年から、もみじの寺、足利氏の寺、仁王像の寺として脚光を浴び、 平成6年奥の院(石窟)を復興、鐘楼堂を建立して山野に名鐘がこだまする寺となりました。
山南町 山南町観光協会
奥の院
奥の院は、聖徳太子の開基と伝えられる石龕寺の発祥の地で、自然の『石窟』があり、毘沙門天をお祀りしています。 ここから見えます梵鐘は、平成6年の開帳法要の記念事業で再建されたものです。 その近くには足利二代将軍になった義詮公が、一時逗留したと伝える将軍屋敷跡もあります。
(ご注意) 足もとが悪いのでお気を付けてお登りください。 なお、さらに鉄塔へ登りますと、周遊して帰るコースや、柏原町の『悠々の森』に出るコースもあります。
石龕寺奉賛会
奥の院参道入口 奥の院まで800m
奥の院参拝の皆様へ
参道は細い山道です。 すべりやすいですから気を付けてお登り下さい。
石龕寺
少し登った所を左へ曲がっていくとがあります。 角には標識が立っていて、右へ戻るように続く道は「奥ノ院」「奥の院へ600m」となっています。 少し先を左へ曲がって登っていくとがありますが、 上下に設けられた小レバーを回せば開けられます。 防護扉を過ぎて右・左と曲がりながら登っていくと、右への曲がり角に「奥の院へ500m」のが立っています。 の手前を左へ曲がっていきます。 硬質プラスチック製のも見られる道を曲がりながら登っていきます。 更に曲がりながら続く道を登っていくと「火の用心」の標識が立っています。 今歩いている道は奥の院の参道とのことですが、送電線の巡視路としても使われているようです。
奥の院 参道
ようこそ!ここは、奥の院への参道です。
・この扉を開けて、お参りください。 (この網は、鹿などの出没防止の網です。開けたら、閉めてください)
・奥の院までは約580mです。
○小石や落ち葉等で、足元が滑りやすいので、気を付けてください。
◎下山時は、特にお気を付けください。
斜面を横切るように進んでトラロープを見かけるようになると、「奥の院へ400m」のが立っています。 右の谷筋の奥にはが少し見えます。 岩壁の脇を進むようになると、トラロープに加えて鉄パイプ製のが見られます。 岩壁を過ぎて岩が剥き出す斜面を曲がりながら登っていくと、 「奥の院へ300m」のを過ぎていきます。 途切れながら続くトラロープに沿って、植林地の斜面を登っていきます。
植林地の斜面を曲がりながら登っていくと、「奥の院へ200m」のが立っています。 トラロープが続く植林地を曲がりながら更に登っていくと、「奥の院へ100m」のを過ぎていきます。 自然石を積んだを登っていきます。 石段が終わって右へ曲がると地蔵堂に着きます。 登山口から24分ほどの所になります。 右手前にはが立っていて、 左の道は「奥の院拝殿へ0.1km」「頭光嶽へ0.3km」、今来た道は「石龕寺へ0.7km」となっています。 の中を覗ってみると、テーブルや椅子が設置された奥にお地蔵さんが安置されています。 左手前には「奥の院地蔵堂(休憩所)」のがあります。
奥の院地蔵堂(休憩所)
中世の石龕寺の僧房の一つ増福寺和田坂地蔵堂に因んで平成6年に建てられた。
寺坂道(旧裏参道) 東向地蔵、四丁石、六丁石、十三塚等あり、金屋に通ずる。
奥の院
左へ続くを登っていきます。 すぐにが広がってきます。 右へ曲がると、すぐに奥の院鐘楼があります。 登山口から27分ほどの所になります。 手前には「頭光嶽へ300m」の標識があります。 振り返って山並みを眺めたり周囲の様子を確認しながらひと休みしていきます。 梵鐘の傍にはの石像があります。 また「」も設置されています。 梵鐘の背後には(*)が続いていて、 すぐ先に奥の院拝殿足利将軍屋敷跡などがありますが、今回は訪ねるのを省略します。
*背後に続く参道は「石龕寺」を参照。
その昔、聖徳太子が物部守屋を征伐したときに、自ら毘沙門天の尊像を刻んでかぶとに携えていた話は有名ですが、 その後不思議にもこの尊像が空中に飛散してしまったといいます。 太子がこの尊像の行方を国中探し求めてこの地に来たとき、 山の中の石窟に毘沙門天の尊像が安置されているのを見つけたといわれています。 この石窟は今も「奥の院」としてまつられており、石龕寺の発祥ともなりました。
お願い
●連打を禁止  一撞きされますと、約50秒ほど間を置いてから次をお撞き下さい。 余韻が残っている間に連打しないで下さい。
●自動に注意  ジーという音がしている時は、電動装置が作動しています。 撞き終わるまでお待ち下さい。
気を取り直して、鐘楼の右側から続くを登っていきます。 入口には「頭光嶽 登山道」や「火の用心」の標識があります。 少し登っていくと、左の平坦地にがあります。 眺めは広がりませんが、奥の院を訪ねた時の休憩用でしょうか。 が剥き出す尾根を小さく曲がりながら登っていきます。 思いのほか傾斜が急な尾根を登っていくと、「頭光嶽へ200m」のがあります。 程なくして道が分岐している所に出ます。 奥の院から5分ほどの所になります。 標識類は見かけませんが、ここは右へ曲がっていきます。
頭光嶽(標高439m)
硬質プラスチック製のがしばらく続くようになる山道を曲がりながら登っていきます。 階段が終わった植林地を左から右へ曲がりながら登っていくと、「頭光嶽へ100m」のが立っています。 標識を過ぎて、見えてくるへ向かって登っていきます。 やがて、送電線の鉄塔「奥多々良木線五七」が立つ高みに着きます。 この場所を示す標識類は見かけませんが、 ここがこれまでの標識にあった頭光嶽で、地形図に載っている439m峰だと思われます。 奥の院から21分ほどの所になります。 鉄塔の袂にはが立っていて、 この先の道は「金屋鉱山跡へ0.7km」、今来た道は「奥の院へ0.3km」となっています。 鉄塔に邪魔されながらも周囲にはが見えます。 北側にはこれから登るが見えます。 周囲の様子を確認しながら休憩していきます。
落ち着いたところで、鉄塔の袂に立つ標識の所から硬質プラスチック製のを降っていきます。 右へ曲がりながら降って階段が終わると、鉄塔の一段低い所にあるに出ます。 手前には「石がん寺−石戸山」の標識、先には「石戸山へ」の標識があります。 「高見城山方面・石龕寺」の標識もあります。 左へ曲がって尾根の背を降って緩やかになると、「石戸山へ1100m」のが立っています。 緩やかな尾根を少し進んでいくとが、「石戸山へ1000m」のが立っていますが、 先ほどの標識からあまり距離は離れていません。 程なくして、僅かな高みを過ぎて軽く降っていきます。
適度な間隔で続く桃テープを確認しながら降っていくとになります。 登り坂になり始めると、「石戸山へ900m」のを過ぎていきます。 少し曲がりながら登っていくとになります。 尾根の左斜面を進むようになると、「石戸山へ800m」のがあります。 右へ曲がりながら登っていくとに出ます。 尾根の背を跨いでいくと道が分岐していますが、左側の道を登っていきます。 頭光嶽から11分ほどの所になります。
小峰
少し登っていくとになります。 程なくしてが剥き出す尾根を登るようになります。 「石戸山へ700m」のを過ぎると緩やかな尾根になります。 少し登っていくと、標高470mほどの小峰に着きます。 頭光嶽から15分ほどの所になります。
金屋砿山跡
降り始めると、曲がっていきます。 曲がり角には標識が立っていて、この先の道は「丹波悠遊の森へ5.0km」、今来た道は「頭光嶽へ0.4km」となっています。 硬質プラスチック製の階段も見られる道を右から左へ曲がりながら降っていくと、 「石戸山へ600m」のがあります。 右へ曲がって降っていくと、壊れたの横を左へ曲がっていきます。 更に右・左と曲がりながら降っていくと、「石戸山へ500m」のが立っています。 道はここで右へ曲がっていきますが、正面のすぐの所にある深い鞍部になった金屋砿山跡へ出ていきます。 頭光嶽から23分ほどの所になります。 右側には急峻ながそそり立っています。 鞍部の中ほどにはが放置されていますが、ここまでどうやって運んできたのでしょう。
鞍部を北東へ進み始めると、程なくして、手前の分岐から分れてきた道がしてきます。 脇には「トレッキングルート」の標識が立っていて、 この先の道は「柏原町丹波悠遊の森」、右から合流してくる道は「山南町 石龕寺」となっています。 道なりに左へ曲がり始めると「金屋砿山跡」のがあります。 桃テープが巻かれた所から荒れ気味の道を進んでいくと、程なくして壊れたの横を過ぎていきます。 石ゴロ道を軽く降っていくと「登山道」のが立っています。 少し左へ曲がって、斜面を横切るように進んでいきます。
金屋砿山跡
大正時代より採掘、昭和50年代廃山
【輝緑岩の岩脈】 断層面の割れ目にマグマが入り冷えてかたまったもの。サヌカイトの一種で、大昔の石器の原石。
【カオリナイト】 タイルや陶磁器の原料にされた。輸入におされ廃山。
岩石が崩落します。柵内に入らないこと。
稜線
しばらく進んでいくと、小岩の手前に「石戸山へ400m」のが立っています。 を過ぎたりしながら登っていきます。 傾斜が増して硬質プラスチック製の階段を登るようになると、が垂らされています。 トラロープに沿って曲がりながら続くを登っていきます。 ロープと階段が終わると、左右に延びる稜線にある鞍部に着きます。 金屋砿山跡から11分ほどの所になります。 中ほどには「岩屋城堀切跡」のがあって、 ここは岩屋城堀切とのことです。 標識も立っていて、右の道は「石戸山」、左の道は「石がん寺」となっています。 手前にも標識があって、左の道は「石龕寺直通」、今来た道は「奥の院経由石龕寺」となっています。
岩屋城堀切跡
岩屋山頂と石戸山を結ぶ尾根に三つの堀切がある。 北からの敵を防御した。
ひと息入れてから右へ延びる尾根を軽く登り始めると、すぐの所に「石戸山へ300m」のが立っています。 緩やかになる尾根を進んでいくと、僅かにを過ぎていきます。 緩やかな所もある登り基調の尾根を進んでいくと、 剥き出すを過ぎていきます。 軽いの尾根を快調に進んでいきます。 登り坂が続くようになると、「石戸山へ200m」の標識を過ぎていきます。
石戸山(標高548.5m)
緩やかな所を過ぎて、の尾根を登っていきます。 傾斜が増してくると硬質プラスチック製のが現れます。 しばらく登っていくと「石戸山へ70m」のがあります。 石杭と「氷上町」「界」の赤プラ杭を過ぎていくとが見えてきます。 次第に傾斜が緩やかになる尾根を登っていくと、のようなものを過ぎていきます。 程なくして、樹木が伐採された石戸山の山頂に着きます。 稜線に出た所から13分ほどで到着しました。 中ほどには「石戸山」があるので、地形図に載っている548.5m峰になるようです。 三角点の傍には「石戸山山頂548.8米」の標柱や「石戸山三角点」の解説板があります。 三角点の近くに無線中継所があるとのことですが、それらしいものは見かけません。 手前にあったコンクリートの基礎のようなものがその名残でしょうか。 標識も立っていて、この場所は「石戸山頂上548.8m」、この先の道は「丹波悠遊の森」、登ってきた道は「石龕寺」となっています。 周囲には樹木が茂っていて残念ながら眺めは広がりませんが、水分補給などをしながら休憩していきます。
解説板によると、この先に360度の展望地があるようなので200mほど歩いて見ますが、それらしい所は見かけませんでした。 「これより少し北」とはどの辺りなのか気になります。(所要時間に含めず)
三角点
基本測量 大切にしましょう三角点 建設省国土地理院
石戸山三角点
標高 548.8m
国土地理院一等三角点であるこの地点は山南町氷上町柏原町の境界点である。 三角点の近くに加古川流域の災害に備えて建設省石戸山無線中継所がある。 これより少し北に鉄平石の採石場跡がある。 その付近は360度の展望がたのしめます。
コンクリートの基礎のような所の脇からを引き返していきます。 少し降っていくと、「石戸山へ70m」のを過ぎていきます。 傾斜が増してくると、落ち葉に隠れて分り難い硬質プラスチック製のを降っていきます。 傾斜が緩やかな所が見えてくると、「石戸山へ200m」の標識を過ぎていきます。
稜線
緩やかな所を過ぎて降り坂になると、剥き出すを過ぎていきます。 僅かに撓んだ所を過ぎていくと、「石戸山へ300m」のがあります。 標識を過ぎると、稜線に登り着いた所にある堀切になった鞍部に戻ってきます。 石戸山から10分ほどの所になります。 を眺めていきます。 「岩屋城堀切跡」のを再度眺めていきますが、 岩屋山の山頂は大部分が削りとられているようです。 明瞭な道は見かけませんが、岩屋山へ向かってを登り返していきます。
急な尾根をひと登りするとになります。 程なくして尾根にがありますが、先ほどの解説板に載っていた堀切のようです。 正面の尾根は急で登れないので、右肩にあるを登っていきます。 左へ曲がりながら登って尾根の背に出ると、少し先へ降った所にまた堀切のような窪んだ所があります。 脇には「石戸山へ420m」の標識が立っていて、「岩屋山へ40m」となっています。
岩屋山
少し左側からを登り返していきます。 程なくして、曲輪跡のような緩やかなに出ます。 正面の高みのに続く道を登っていきます。 少し左へ曲がりながら登って緩やかになるとに出ます。 脇には標識が立っていて、正面の道は「展望広場へ0.3km」、今来た道は「丹波悠遊の森へ5.0km」となっています。 左の道へ入っていくと、すぐの所にがあります。 石祠の先に「岩屋山頂(岩屋古城趾)」の解説板があって、傍には東側を向いた石祠もあります。 ここが岩屋山の山頂のようです。 稜線に出た所の鞍部から6分ほど、石戸山から16分ほどの所になります。 南側は切り立ったになっていて、 来る時に立ち寄った金屋砿山跡が真下にあるようですが、 鎖が張られて「この先あぶない」の標識も出ているので、覗き込むのは止めておきます。
解説板によると「標高506m」となっていますが、地形図によるとこの場所は標高490mほどしかありません。 随分と差がありますが、採石で削り取られる前の標高でしょうか。
岩屋山頂 標高506メートル(岩屋古城趾)
往時の山頂の平地(約5.5アール)の大部分は陶石(カオリナイト)採掘で削りとられている。 北の高見城に通じ、南は小川・久下・和田、西は氷上町、北東は柏原町を見下ろす要害の地であって、 戦国時代、広沢綱忠がこゝに拠ったと伝える。 中世は丹波の修験の根拠地として、熊野・白山両権現を祀っていた。 よく張れた日は瀬戸内海をも望める。
手前のまで引き返してます。 「石龕寺直通」や「展望広場へ0.3km」の標識が指すを降っていきます。 所々に咲くを愛でながら降っていきます。 少し降っていくとになります。 軽い登り坂になると、僅かな高みを過ぎていきます。
曲がりながら降っていきます。 緩やかな所を過ぎるとになります。 少し登っていくと僅かなに着きます。 高みを過ぎて降っていくと分岐があります。 岩屋山から5分ほどの所になります。 角にはが立っていて、 右の道は「重ね岩へ0.3km」、左の道は「展望広場へ0.2km」、今来た道は「岩屋山へ0.1km」となっています。 傍には「石がん寺・石戸山」の標識もあります。 重ね岩も気になりますが、降ってから登り返してくる必要がありそうなので、 今回は見送ってを降っていきます。
白ロープが張られた道を降っていくと、程なくしてになります。 すぐに降り坂になる尾根を進んでいくと、またになります。 降り坂になったり緩やかになったりしながら続くを進んでいきます。 緩やかになった道を少し右へ曲がりながら進んでいくと、「アカマツ林」の解説板があります。 岩屋山から11分ほどの所になります。 解説板を過ぎるとが始まります。 降り口には「岩場」の標識が立っています。
アカマツ林
(アカマツ−モチツツジ群集ヒノキ下位単位)
尾根筋から斜面の乾いた部分では、アカマツ林が多くを占めていて、 昔から薪や炭の原料を得るために定期的に手入れをしてきた里山の代表ともいえます。 中でもこのあたりに林文は、ヒノキが多くみられることが特徴で、 モチツツジ・コバノミツバツツジ・ベニドウタン・バイカツヅジ・ネジキ・サカキといった植物も生育しています。 また、この付近にはニホンリスが生息しており、 かれらはマツの実を好んで食べるので林床にかじられたマツボックリが落ちていることがよくあります。
を曲がりながら降っていきます。 硬質プラスチックのが見られる急坂を降っていきます。 曲がりながら降っていくと、左側にが広がってきます。 しばらく降っての袂まで来ると、「転落注意」の標識があります。 標識の先は岩が剥き出す急坂になっていて、ロープが垂らされています。 岩屋山から21分ほどの所になります。 写真では良く分かりませんが、かなり傾斜が急なので、ロープと鎖に掴まりながら慎重に降っていきます。
56番鉄塔
何とか岩場をクリアすると、正面の樹上に送電線のが見えてきます。 右側に広がるを眺めていきます。 落ち葉に埋もれ気味の硬質プラスチックのを何度も曲がりながら降っていきます。 右へ曲がって、軽いになる道を進んでいきます。 開けた所に出ると、送電線の鉄塔「奥多々良木線五六」が立っています。 岩屋山から30分ほどの所になります。 正面に広がるを眺めながらひと休みしていきます。
「火の用心」のが立つ所から鉄塔の袂を横切るように進んでいきます。 のようになっている脇を降っていきます。 また現れる硬質プラスチックのを降り始めると、 「火の用心」の標識が立っています。 左側の尾根には頭光嶽に立つが見えます。 トラロープや鎖が設置された岩が剥き出す所を降っていきます。
曲がりながら更に降っていくと、軽いになります。 緩やかになった所を過ぎて降り始めるとに出ます。 左側に広がるを眺めていきます。 曲がりながら続くを淡々と降っていきます。 程なくして分岐があります。 56番鉄塔から15分ほどの所になります。 角にはが立っていて、 右前方の道は「石龕寺へ0.2km」、左へ戻るように続く道は「北谷へ0.15km」、今来た道は「展望広場へ0.5km」となっています。 「展望広場」を過ぎてしまったようですが、56番鉄塔の立つ所だったのでしょうか。
下山地
次第にが茂るようになる道を降っていきます。 右側の谷向かいの尾根に立つを眺めたりしながら降っていきます。 所々に硬質プラスチックのが見られる道を曲がりながら降っていきます。 右へ曲がっていくとが続くようになります。 防護柵に沿ってへ向かって降っていきます。 谷筋に出ると、左側に防護扉があります。 56番鉄塔から26分ほどで降りて来られました。 ここでも上下に設けられた小レバーを回せば扉を開けられます。
鍵を開けたら必ず閉めて下さい。
石龕寺
防護扉を過ぎるとすぐの所にが立っていて、 この先の道は「石龕寺へ」、谷筋の奥へ続く道は「なめらの谷広場へ0.4km」、降ってきた道は「展望広場へ0.7km」となっています。 標識を過ぎていくと、右の沢に架かるから焼尾神社へ道が続いていますが、見送っていきます。 すぐ先で道が二手に分かれていますが、左の道からの境内へ入っていきます。 すぐの所にがあります。 薬師堂の先にはがあります。 佛足石の先に、石龕寺の本堂である毘沙門堂があります。
佛足石
お釈迦さん(釈尊)が入滅された後、弟子たちが釈尊の徳を慕い、教えを敬うあまり、 説法された霊地を訪ねその足跡を拝んだのが佛足石のはじまりです。 佛足石の意趣は、お釈迦さんの足跡・佛教の教えを頂礼して佛徳を受け、健康を祈願するところにあります。 お釈迦さんを礼拝するには「帰依佛両足尊」とお唱えします。 健康の基は足を鍛えることにあり、五臓六腑のツボも足の裏にあるといわれています。 足を守ることは、身体健全・交通安全を祈願することにも通じます。 この釈尊の足跡を礼拝して、心身ともに健康で長寿が保てるよう祈念いたしましょう。
石龕寺奉賛会
岩屋地区
正面にあるを降っていきます。 なだらかな所を過ぎて更に石段を降っていくと、最初に登山口へ向かっていったが左へ分かれていきます。 角には水子地蔵尊があります。 庫裡や客殿の下を過ぎていくと、仁王門を迂回する道とのがあります。 どちらの道でも良いのですが、元来た参道を進んでいきます。 石畳の参道を進んでいくとがあります。 仁王門を過ぎて迂回してきた道と合流すると、車を止めておいた駐車場がすぐ先にあります。 下山地から10分ほどで到着しました。